そして俺はカレーを望んだ
――《ふらぐめんと・おぶ・あーじぇんとめもりーず》
他の人達と比べて、私は恵まれていると思う。
仰向けになり、冷たいものを背中に感じながら、私はそんなことを考え始めた。
まず、私には大好きなお兄ちゃんがいる。世の中には家族すら居ない子がたくさん生きていると、父様は言っていた。だから、その多数なり少数なりの人よりかは、恵まれている。
見えるもの全てが上から降り注ぐ強烈な光に奪われている中、私は周りを見ようとしたが、全身が上手く動かせないことに気付いた。
次に、私には大好きな友達がいる。あらた、それに、さや。友達が居ない子がたくさんいると、父様は言っていた。だから、その子達よりも、私は恵まれている。
と、ここで考えることを止める。いえ、途切れたような感覚と言ったほうがいいかもしれない。私の意識が、急速に覚醒し始めたと共に、今さっきまで頭の中をぐるぐると回っていた考えが、靄のように消え失せる。
そして、新たに生まれたのは疑問。私は、なんでこんな所で寝ているんだろう。そうだ、この強烈な光。背中の冷たい感覚。動かない体。その全ては、今までの日常で感じたことのないもの。
「……あ、あ」
声を出そうとして出たのは、まるで死にかけの人間が出すような呻き声。……おかしい。絶対におかしい。
そんな疑念が僅かな恐怖を生み出し始めた時、ようやく目に映るものに変化が起こった。唐突に、光が消えたのだ。
どれくらい長いこと、あの光は私の前に居座っていたのだろう。光が消えたのはいいものの、私の目は未だに何も見えずにいた。慣れるのに時間がかかりそうだわ、なんて。状況がわからないことも相まってうんざりとしてきた。ついでにちょっと怒りも沸いてきたわね。
いい加減、力を振り絞って暴れてやろうかしら。そんなことを考えていると、少し離れた場所から、扉を開いたような音が聞こえていた。続いて、誰かが近付いて来るような足音。
「おや、目が覚めていたのか。これはこれは、予定外だ」
「……あ、ぐ」
「ん、ああ、まだ麻酔が効いているだろうからね。体が上手く動かせないだろうけど、じきに直るから、まあ、心配しないで欲しいかな」
聞いたことのある男の声。瞬時に、私は父様と話している所をよく見る、そう、足立を思い出した。優男のような、どことなく頼り概の無い空気を持っていたような気がする。あまり話したことが無いからその程度の認識。
……そう、そのはずなのに、なんで私はそんな男から親しげに話しかけられているのだろう。……ああ、そうだ、そもそも、なんで私は、こんなことになっているのか。
「今はまだ意識が混乱していると思う。だからもう少し落ち着いてから、説明するよ。僕はちょっと忙しくてね、また向こうの様子も見に行かなければならない」
足立はそう言い残すと、足早に部屋を出て行ってしまった。なんて薄情な男なのかしら。乙女が寝たまま起き上がれないと来たら、キスとは行かなくとも、せめて起こすくらいのことはして欲しいものだけれど。
ぐちぐちと。足立に対しての文句を一通り頭の中に生み出して、しばらく。足立の言っていた通り、段々と頭の中がハッキリしていくにつれ、私はこうなる直前の会話を断片的に思い出していた。
確か私は、父様と話していた。そう、そうだ、だって今日は私の誕生日。一年の中で最良の日だ。だから、父様は私にプレゼントをくれると言う話になって、それで。
「お、おもいだせぬい……」
意識せずに口から漏れた私の言葉は、呂律が回っていないものの、十分言葉として認識できる程に回復していた。
これならば、と。私は試しに右手を持ち上げようと力を入れる。多少変な感覚が残るけど、すんなりと持ち上がったことを確認して、上半身を起こす。嫌な気持ち悪さが襲ってきたけど、乱暴に頭を左右に振り、深呼吸。で、目を開いた。
「ぬんですかこりは」
やっとのことで慣れた目が捉えた光景は、全く知らない場所だった。そう、例えるなら、テレビでやっていたような、病院。そう、病院だ。病院は病院でも、手術室のような、銀色の物がやけに目立つ部屋。
混乱。目が見えなかったことで混乱していた私は、見えたところで、やっぱり混乱するしかなかった。
私は病気にでもなっていたんだろうか。じゃなきゃ、誕生日だというのに、こんな寒いところで寝かされている理由がわからない。そもそも、そんな理不尽なこと、父様が許すはずが無い。
「ぬう」
ああ、うん。寒い。私は今になって、顔が熱くなるのを感じていた。私はすっぽんぽんだった。それはもう、一糸纏わぬ姿。寒いことよりも、ついさっき足立に全裸を見られたであろう事実が無性に許せなくなってきた。
私は焦り気味に周りを見渡して、見つけた。浴衣とはまたちょっと違う、どこか無機質な感じがする服がすぐ傍にある台の上に置かれていた。そういえば、これもテレビで見たような気がする。確か入院している人が着ていたような。
私はふらつく体に鞭打ち、なんとかしてこの冷たい台の上から降りると、すぐさま服を着る。股の辺りがすーすーするけど、まあ、無いよりはマシだと自分に言い聞かせる。
「どうすようか。ぬう」
着替えたのはいいんだけど、これからどうすればいいんだろう。とりあえず、この部屋からは出たかった。あまり好きにはなれない場所。消毒液の臭いが強すぎることに今更気付いて、尚更出たい衝動に駆られる。
……まあ、別に待ってろとは言われてないものね。
私は足元に視線を降ろして、すぐ傍にスリッパを見つけると、それを履いて、この部屋では一つしかない扉へ向かう。……なにやら、扉の向こう側が慌しい。なんだろう。
そのまま、私は扉を開いた。
――《ふらぐめんと・おぶ・あーじぇんとめもりーず》
「おい、こんなところで何をしている! 速く逃げろ、ここはもう終わりだ!」
――なんなんだろうか。
私は周りの騒音がぼんやりとしたものに変わるのを感じながら、目の前に立ち塞がる男の向こう側に広がる光景に目を奪われていた。
初めて、血というものを見た気がする。真っ赤な血が、真っ白な壁にべっとりと飛び散っていた。それは一箇所だけではなく、血の付いていない壁を捜すほうが難しいくらい、延々と、廊下の曲がり角までそれらは広がっていた。
何が、あったんだろう。私は不意に不条理な光景に対して涙を流しそうになり、堪える。頭の中では、“なんで”という言葉だけがぐるぐる回っていて。
そこで、私は肩に痛みを感じ、目の前を見た。そこには、私の肩を強く握る、強面の男が立っていた。
「い、痛いんですけど」
「意識が戻ったか? 話は後だ、早くこの場所から逃げるぞ」
「え?」
どごん。唐突に、それは目の前に現れた。
ピンク色で、ぬめぬめとした、太いそれ。触手とでも言うんだろうか。それが、すぐ近くの壁を突き破り、現れた。
「クソッ、感付かれたか。お嬢ちゃん、走れるよな? 死にたくなかったら、一先ずこの場を離れるぞ!」
「え、あの、私走れ――」
ぬい。
呂律の回らない語尾が私の口から飛び出る前に、男は私の手を取ると、強引に走り始めた。――ああ、わからない。ここはどこで、私はどうして、なんでこうなっているんだろう。
脱げそうになるスリッパが気になるも、私はなんとか足を動かす。とにかくこの場から離れたかったのもあった。後ろから不穏な音が近付いているのもあるけど、何よりも周りに飛び散っているおびただしい量の血が私を急かす。純粋な恐怖を感じていた。
「エレベーターは止まっているから、非常階段での移動になるか。となると、一番下まで降りるのは骨だな」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
男が階段を見ながら呟いている時、私はやっとのことで呼吸を落ち着かせ、語りかける。
「何が起こってるの? 私、気付いたらここに居て、何がどうなってるのか全然わかんないんですけど」
「……どう説明したらいいものか。ああ、その前に、俺の名前は荒谷浩介だ。このビルにおける警備のような役職に着いている」
「別に自己紹介はいいから、説明してよ」
「可愛げのない嬢ちゃんだなおい」
男はそう言って周りを警戒しながら、階段に腰掛ける。私もそれに続くように座り込んだところで、今更気付いた。
「うひゃう!」
何も履いてなかったことに。……なんて散々な誕生日。私はまたも無性に泣きたくなる衝動に駆られる。
そんな私の様子を見てかはわからないけど、目の前の男……荒谷が喋り始める。
「今、このビルは未曾有の危機に陥っている。俺も原因はわからないが、数分前――いや、今から数えればもっと前か。君も見ただろう? あんな化け物がこのビルのそこら中で発生し、人を襲っている」
「人を……」
「ああ。食われている、と言ったほうがいいのか。血痕があるのに死体が無いのはその所為だ。俺の同僚もみんな食われちまって、なんとかして逃げようと思っていた矢先に君を見つけたわけなんだが……君、名前は?」
「私……? 私は、ハインリーケ・ガーラック。不幸なことに今日が誕生日な十四歳です。ハインって呼んでください」
[え、銀髪女なの? 嘘だろ……俺の知ってる銀髪女は丁寧語なんて使わないぞオイ。うわあ気持ち悪い]
「ガーラック……む、むむ、どこかで聞いたような……まあいいか。で、そのハインちゃんはこれからどうしたいんだ?」
「え?」
これからどうしたいか。私は唐突に投げかけられたその問いに対し、頭を捻る。そう、私は帰る場所への行き方を知らないことに気付いてしまった。思えば生粋の箱入り娘だった私が、どうやってもとの“部屋”に帰れると言うのか。
荒谷はここがビルだと言っていた。もしかしたら、そう、もしかしたら私が住んでいた部屋は、このビルの中にあるのかもしれない。仮に父様や足立が私をどうこうしたとしても、わざわざビルに連れてくるなんてことはしないと思う。……ああ、こんなことなら“外”のことにも興味を持っておけば良かった。
「おい、どうしたんだ?」
ふっ、と顔に影が差す。見れば、目の前には荒谷が居て、私の顔を覗き込んでいた。……こわっ! 顔恐っ!
「こわっ!」
「失礼だな。……っと、静かに。足音が聞こえる」
そう言うと、荒谷は私の口を押さえ、廊下から死角になる位置に私を抱えて移動する。普通に言ってくれれば動いたわよ! なんて、私はちょっとした怒りを感じながら、耳を済ませる。確かに新谷の言った通り、ぺたぺたと裸足で歩く音が近付いていた。
見れば斜めに延びた人影が床を滑っている。影だけ、姿は見えない。ただ足音だけが聞こえていて。足音は私達の居る階段、そのすぐ傍の廊下を通り過ぎて……止まった。ちょうど影が途切れるか途切れないかの位置。
なんで止まるんだろう。私は影と足音が止まったことが無性に恐くなり、早く動いてと念じる。と、私の祈りが通じたのか、影が動き出した。動き出した方向は……なんで、こっちに戻ってくるんだろう。
「ハインちゃん、君はここでじっとしていてくれ」
「え?」
小さな声が頭の上から降ってきて、私は思わず素っ頓狂な声で応えてしまう。それを荒谷が慌てて制してくる。
「し、静かに。今から俺が廊下を確認してくるから、もし俺に何かあったと思ったら、すぐ階段を降りるんだ。いいかい?」
荒谷に背を向け、抱き抱えられているような状態の私は、首を縦に振ることしか出来なかった。
私が頷いたことを確認して、荒谷は音を立てないようにその場に立つと、黒スーツの内に手を入れる。そのまま流れるようにスーツの中から取り出された物は、無機質な黒色だった。
銃。知識では知ってるけど、実物を見るのは初めてだった。……うん、実物を見るっていうことは、今の状況はそういうものが出てきちゃうくらいひどい状況なんだと。私はこの時初めて、それを思い知らされた。
こちらに引き返してくる影に向かって、荒谷がゆっくりと廊下との死角を利用しながら近付く。私はそれを見ながら、ふと、異常に気が付いた。荒谷には見えていないんだろうか。
床に映る影から、一本、何かが生えた。
「そこのお前、そのまま手を挙げるんだ!」
止めようとした時には遅く、荒谷は廊下に飛び出していた。――直後、荒谷がこちらに戻ってくる。自分の足ではなく、何か強い力によって吹き飛ばされるように。
一瞬。荒谷は私のすぐ傍の壁に当たり、そのまま力なく倒れてしまった。
「あ、あ」
何が起こったんだろう。今日はこんなことばかりで嫌になる。私が何もしなくても、周りが勝手に何かをしてる、そんな感じ。
もう、涙を止めるのは無理だった。私は着実に距離を縮めてくる影を見ながら、涙を床に落とす。
嫌だ。たぶん、これは悪い夢なんだ。もしくは、父様の悪ふざけ。あの影が実は父様、もしくはお兄ちゃん、あらたでもさやでもいい。誰かがひょっこりと現れて、全部誕生日のドッキリでした、なんて言ってくるに違いないんだ。じゃなきゃ、こんなの。
「ハイン?」
廊下から姿を現したのは、お兄ちゃんだった。
[あ、終わっちまった。ふぁっく、暇潰しになるのはいいけど、ブツ切れなのがもどかしいな。続きが見れるのはいつになることやら]