そして俺はカレーを望んだ
第五話『ナンバー011』
果たして、これが現実の光景なのだろうか。
円形のフロア。その中央には、今も尚冷気を放つ氷の壁が人一人を包み込み、上を見れば、宙に浮く男。さらにその男の周囲に、幾つもの植木鉢が取り巻いている。
ああ、だが、この場に居る者達は誰一人として、疑問を持つことなど無かった。それこそが、この世界が狂った所以。そう思うのは、気怠そうな目で上を見る黒衣の男、面真であった。
「しかしまあ、なんでまた、メテオ・チルドレンって奴ぁこうも宙に浮くのが好きなのかね」
人が人である事と、空を飛ぶことは相反する事象だ。確かに、機械を使えば飛ぶことは出来るだろう。だが、それは人の力ではない。なら、この宙に浮く男は、果たして人と呼べるのだろうか。
「人は、飛んじゃあいけないだろう。常識的に考えるならな」
「えええ!? 僕は飛びたいよ。すっごくうらやましい」
「うるせえ。お前はまずその胸をどうにかしろ」
「胸は関係ないでしょ胸は! なんでそういつも僕の胸に繋げるのさ!」
真や伝子にとってはいつも通りの光景。だが、それを傍から見る二人の男にとっては、その光景は異様に見えた。
浅井は困惑する。面真がこうもとんでもおかしな会話をしている事もそうだが、何よりも、自分を助けたという事実に対して。
そして、宙に浮く男は、只々、激昂していた。
「なに自分達の世界作っちゃってんの? ねえ、お前等、死ぬんだよ? 少しは反応したらどうなの? 殺すよ? 今殺すよ?」
「――うるせえ。お前はまずその癇癪持ちのガキみたいな言動をどうにかしろ。心まで凍えてしまいそうだろうが」
「殺す」
言うが早く、男は右手を前に出す。遅れて、周りに浮いていた植木鉢の幾つか――浅井が数えるに五つ――が消えた。
消えたのではない。氷の盾から顔を出して覗いていた浅井が、そう真に叫ぶ前に、複数の破裂音が真の周囲で響いた。そう、周囲。直撃してはいない。
「なんで当たらないんだよ。……なんだ、お前、メテオ・チルドレンかよッ!」
「今更だな」
「今更だね」
真は一緒に反応した伝子を睨む。
「おい、いつまでここに居る気だ。危ないだろう」
「心配?」
「お前の胸の発育具合の方が心配だ」
「そうじゃないでしょ!」
「違うのか?」
「違わないけど、ああ、もう! わかったよ! 隠れるよ!」
<めん君の馬鹿! アホ! スカポンタン塩!>
(タン塩って、なあ……)
頭の中に罵詈雑言を残しながら柱の陰に駆けていった伝子を傍目に、真は溜め息をつく。
そして、改めて宙に浮く男へと視線を戻した。
「すまないな。どうにも緊張感が無いとは思うんだが、こればかりはどうにもならん」
「……殺す。殺す殺す殺す。お前、馬鹿にしすぎだろ? なあッ!」
今度は、真にも消えた植木鉢を数えることが出来た。
全部だ。
宙に浮く男の周囲には、もう何も取り巻いていない。突き出された右手は、真を捉えている。
だが、当たらない。今度は、浅井にも、宙に浮く男にも、“それ”が目視出来た。真に当たる、ほんの一メートル前の辺りで、植木鉢が弾かれたのだ。
「ワンパターンって言うのか、これは。一度当たらないものが、なんで二度目で当たると思うんだか。少しは頭を使え、だから馬鹿と煙は宙に浮くのが好きとか言われるんだ、馬鹿が」
<高い所が好きなんだよ!>
(お前も馬鹿だろ)
真が望んだのは、只単に、“当てられたくない”という願い。事実植木鉢は当たらず、見当違いの場所で砕け散った。もちろん種も仕掛けもある。真は植木鉢の軌道がずれる程度の厚さを持つ氷を、軌道上に生成しただけなのだ。
浅井は瞬時にそれを思い付くと、心の奥で湧き上がる感情を認める。この気持ちは、安心だ。絶対的な安心感が、面真にはあるのだ。
噂には聞いていた。アンチメテオに入ってから二日と経たずにメテオ・チルドレンを殺し、その後も、驚異的なペースで殺し続けている話を。それは、単純に能力が殺傷力に長けていた事もあるだろうが、何よりも、面真がその能力を使いこなしている事に起因していると、浅井は結論付けた。
宙に浮く男は、確かに弱い部類ではないのだろう。だが、対する男が悪すぎた。
(で、だ。伝子、アイツは何だ?)
<なんだ、って言われても。……うーん、名前は、鑑田晃人だって。うん、それくらい。あの人、怒りすぎ。めん君とか、色々なことに対しての怒りしか無いよ>
(鑑田、亮人か。名前だけわかっても仕方が無いな。殺すか)
<恐いめん君はあんまり好きくない>
「“鑑田晃人”、中々かっこいい名前じゃないか。俺はこう見えても、自分の名前にコンプレックスを持っている。……ああ、お前を殺すには十分な理由だと思わないか?」
真はそう言って、両手を真横に突き出す。それを合図に、真を中心とした冷気が辺りに漂い始める。
名前を呼ばれた宙に浮く男――鑑田晃人は、聞き流したのか、それとも自身の名前が知られている事を想定していたのか、どちらにしろ名前について反応することなく、気持ちを吐露する。
「殺す、僕を殺す? ハハ、何言ってんの、そんな事、無理に決まってんじゃん。僕がお前を殺すんだからさァッ!」
「殺してみろ、馬鹿が」
鑑田晃人には、武器が無いように見える。能力はテレキネシス、それは真、それに浅井も確信している。なので、この状況で何をするのか、二人には見当もつかなかった。
「僕は、二度目の“アレ”で、強くなったんだ。ああ、ファーストだって超えた。もう、僕に、動かせないものなんて無いんだよ!」
そう言うと、亮人は右腕を眼下に向けた。真はその先を目で追い、まさか、と思う。
晃人が右手を向けていた先は、真っ白な柱しかなかった。伝子が隠れている柱を含め、計六本の柱が、このエントランスに座している。……まさか、と。真は再度思った。
<めん君! まさかだよ! くるよ!>
伝子の言葉が無ければ、真は死んでいただろう。
“まさか”が起きた。
晃人はかざした右手を握るような動作を見せると、そのまま薙ぐように真へ向けた。遅れて、柱が“飛んできた”。
「馬鹿がッ! 自分とこのビルだろうに!」
先程までの植木鉢は、いくら速いとはいえ、どうとでも対処が出来た。だが、今度のモノは、どうにもできない。いや、正しくは、真がどうにも出来ないと判断してしまった。
真は破滅的な音を立てながらもぎ取られた柱がこちらに向かってくるのを見ると、即座に自分の前に幾重もの氷の壁を生成した。続いて、その氷の壁が破砕される音を聞きながら、全速力で柱の軌道から逃れるように走る。
壁は時間稼ぎだった。あのままの速度で来られていたら、今頃は真として認識出来ない何かとして、柱に付着していた事だろう。
(助かった、伝子)
<馬鹿に助けられるめん君は、一体どの辺に位置するんだろうね!>
(少なくとも貧乳よりは上だろうな)
<うううう!>
柱は真の後方で壁に激突し、当初あった長さの半分にまで砕かれた。それを確認した真は、亮人に目を向ける。
「中々驚いたが、それだけか? なら、次は俺の番だな」
エントランスに、優雅とも取れる音色が響く。鳴らされた回数は五。その音と同じ数の氷槍が真の背後に生成されていた。当然のように氷槍を飛ばす。標的はもちろん、徒手で宙に浮く鑑田晃人だ。……飛来する氷槍に対する亮人は、焦りの欠片すら見せず、右手を氷槍の軌道上に掲げ、“止めた”。遅れて、氷槍が砕け散る。
「で、これだけ?」
「それだけだ」
<え!? それだけなの!?>
真は伝子の言葉を意図的に無視すると、目を瞑る。同時に、先程と同じような音が再度鳴り響く。今度の数は、ああ、数えきれない。傍観する浅井は数えることを諦めた。
数にして三十。単純に考えて六倍もの氷槍が、真の背後に生成された。だが、それでどうなるのか。先程の行為と、何ら変わらないのではないのか。浅井は口を挟みたくなったが、只の人間である自分が、そもそもこの場で生き残れている事こそが奇跡だという事を思い出し、慌てて言葉を飲み込む。
当の真は不敵な笑みを浮かべながら、再び氷槍を晃人へと飛ばした。
「これはあれじゃないの、ああ、“馬鹿の一つ覚え”って言うんじゃない?」
晃人は呆れたように言うと、面倒くさそうに右手を掲げ、事も無さげに止めてみせる。氷槍は、またも全てが砕け散った。
その光景を見ていた真は、ぼそりと一言漏らす。
「上手い切り返しだな」
<確かに! 上手い!>
緊張感の無い感想を述べた二人――一方的な会話とも言える――だが、状況は変わったようには見えない。依然として鑑田晃人は宙に存在し、真が行ったこれまでの攻めは、全て防がれている。
しかし、真の笑みは崩れない。
今まで黙っていた浅井も、そろそろ我慢の限界だった。“何を遊んでいるんだ”、と。言ってやろう、そう思った所で、またもその決意を折る形で真が口を開いた。
「ところで、お前、寒くないのか?」
「え?」
唐突に問われた晃人は、一瞬、意味が分からないといった様子で真を見るも、すぐさま人を見下すような――事実見下す立場に位置しているが――表情を浮かべ、応える。
「確かに寒いけど、生憎と僕は寒い方が好きなんだよ。お前のお粗末な能力のおかげで、この空調の効きすぎたビルじゃあ僕にとっては快適な温度になっただけだね」
「そうか、そりゃあ、よかったな。攻撃した甲斐があったよ。……それじゃあ、良かったついでに、もう一度食らっとけ」
言うが早く、真は今まで攻撃してきた中、一番の速さで氷槍を一本生成すると、瞬く間にそれを晃人へと飛ばした。晃人も、浅井すらも、その行為に対してある種の失望を抱いた。
先程と同じように、亮人は右腕を前に掲げる。そう、亮人は右腕に命令したつもりだった。
応えたのは、先程氷槍が砕けた時と同じような音。
「――え?」
これまた、今まで見せてきた動作の中でも一番機敏な動きで、亮人は自身の右腕を見た。自分は、確かに“前へ掲げる”つもりで、右腕を動かしたつもりだった。だというのに。
そこに、右腕は存在していなかった。
「は、おい、嘘だろ……あ」
晃人は最後まで見ていたのだ。自身の右腕が吸い込まれるように床へ近付いてゆき、接地した瞬間、一万ピースのジグソーパズルが可愛く思えるくらいに砕け散る様を。……それら一連の動作は、何事も無ければ極々普通の動きだっただろう。さらに言えば、いつも以上に速かったと言える。だが、この状況では、致命的過ぎた。
晃人の体が一際高く浮かび上がった。原因となったのは、真が飛ばした氷槍。目測五十センチはあろう氷槍は、極々普通に晃人の左肩に直径十センチ程の穴をあけ、そこを定位置とした。
晃人自身、何が起こったのか理解していない。今、自分が緩やかに、徐々に速度を増して、床に落ちつつあるのは、些細な事に過ぎない。今重要なのは、自身の腕が、“全て無くなったという事実”のみだったのだ。
鑑田晃人が、速度を増すと言うも、物理を無視した緩やかさで床に落ちてきた。それを見た真は別段表情を変えるわけでもなく、鑑田晃人が落ちてきた速度と同じような速さで、落下点に向かう。
真は鑑田晃人の右腕を腐らせた。元々、人間の体と言うものは血液の循環によって初めて機能する。右腕を二の腕付近から凍らされたという事実は、即ち腐ったという事に他ならない。これが全身に及んでいたのならば、サイエンス・フィクションのように若さを保ったまま現状を維持出来たのかもしれないが、これは現実だ。凍結によって引き起こされる水素結合、伴う体積膨張は免れない。結果、鑑田晃人の右腕は宿主とは別個の存在と成らざるを得なかった。
「無様だな。黙っていれば、今すぐにでも殺してやる」
鑑田晃人の傍に辿り着いた真は、ただ一言、しかし痛烈な一言を浴びせた。
対する鑑田晃人は応えず、ただ茫然と上を見ていた。……二年前、左腕を失くした時の記憶から始まり、ランダマイズドアルゴリズムに則られたかのように、時系列が滅茶苦茶な記憶が頭に浮かぶ。
走馬灯なのか。幼い頃の自分まで鮮明に思い出した鑑田晃人は、その言葉を不意に思ったが、続いて灯籠という言葉が思い浮かぶ辺り、自分は思っていた以上にリアリストなのだと突き付けられた気分になる。それが無性に腹立たしかったので、鑑田晃人は、視界の端で佇む黒衣の男に向かい、口を開く。
「最後まで馬鹿にするんだよね、お前は。正直僕に似てるとも思うよ、ああ、頭にくる。今すぐにでも潰したい」
「そいつは光栄だな。しかしながら、頭にくるのは俺も同じだ。……さっきの言葉は言った通りの意味、お前は苦しんで死ね。俺としては業なんて信じてはいないがな、精々苦しむ間に懺悔すりゃあいいだろう」
言われた鑑田晃人は、初めて、自身の下半身が反応してくれないことに気付いた。
第五話『ナンバー011』
緩やかに曲線を描く階段を、面真、御浜伝子、さらに浅井が昇っていた。
側面に扉は見られず、延々と白い段違いの床が続いているのみの光景。鑑田晃人との邂逅から、三人は黙々と昇っていた。伝子にしては珍しく、テレパスで真に話しかけることはしない。真自身は無口が平常運転であるし、浅井については、そもそも他の二人との面識が無いし、さらに言えば伝子に限っては、名前すら知らない。
結果として三人は言葉を交わす事無く、かれこれ十数分、沈黙が支配する中で足を動かし続けていた。
(……ああ、どうしたものか)
どうにもならない思考を、真は続けていた。
真は今回の計画について、何も知らされていない。獄吏道元の言う“相羽光史”なる計画の中枢を担う人物が一体何なのか、その知識は“神”という一言しか得られていない。
神。神とは全能だ、不可能を可能にする。そういった意味ではメテオ・チルドレンは神に準じた存在なのかもしれないが、そのメテオ・チルドレン――開道寺改、最強の能力者が神と称した人物なのだ。字面通り全能なのか、それとも常軌を逸した能力を持っているのか、真には判断出来る程の材料すら与えられていない。
当の獄吏道元は、今どこで、何をしているのか。
計画が知られていた事と言い、どうにもきな臭い。
<きなこくさい?>
(いきなり素っ頓狂なことを聞くな。一瞬考えが吹っ飛んだろう)
<ごめんごめんご>
今の今まで黙っていた伝子が、急に真へ語りかけた。もちろん真が考えていた計画云々の話は、きなこという名詞と、“ごめんごめんご”なる珍妙な言葉によって霧散してしまう。
なるほどなるほど、思考している頭に直接語りかけるのだから、これは話の腰を折ると同義なのかもしれない。何しろ伝子には真の頭が聞こえているのだから、尚更だ。
真は散らばったビーズを集めるように思考を再開するも、細かい情報は見つからずじまいとなってしまった。些か面倒ながらも、最初から考え直す必要がある。
……そう、最初から。初めから。
初め、計画について語ったのは誰だったか。それはもちろん獄吏道元である。以前に話した可能性もあるが、計画についての全容――と言う程詳細ではないが――が認知されたのは、真が居た、あの場が初めてだったに違いない。
仮に、そう、仮に内通者が居たとして、誰が適任だっただろうか。
真は考える。社交性とは無縁な行動をしている事は自覚しているし、そもそもあの場、アンチメテオの本拠地に行くと言う行為自体が両手で数える程しかないのだが、その乏しい情報の中でも、一人、強烈に記憶が刻み込まれている人物がいたことを思い出す。
山田。当たり障りのない名前だが、その行動は当たるも障るもお構いなしだったのは記憶に新しい。
真は自分以外にあそこまでメテオ・チルドレンを憎んでいる者を初めて見た。だから、そう、今だから思える。真は、少なからず山田の行動を理解していた。
元を辿れば同じなのだ。偶然、自身の価値観の根底に居座っていたものが壊されただけ。真は隕石……メテオがその原因だった。山田はメテオ・チルドレンが原因だった。ただそれだけの違い。だから、真にはわかってしまう。敵や味方などと言う価値観など、既に捨て去った観点だという事を。
真はメテオが許せない。山田はメテオ・チルドレンが許せない。
……価値観などではない。
真が周囲にとって概ね無害に見えているのは、その対象が広すぎるからに他ならないからだ。自分は対象に成り得ないと言う安心がある。
しかし、山田はどうだろうか。真は山田についての話を思い出そうと頭を捻る。出て来たのは、人間という言葉だけ。……人間、唯一、人間の身でメテオ・チルドレンを殺した男。
それは能力の強弱という問題ではない。メテオ・チルドレンは容易く死ぬという事を意味しているのだ。それを証明したのは山田であり、だからこそ、山田は自分以上に恐れられているに違いないと、真は結論付けた。
物事に指針を立てることは重要かつ必要な事である。仮説とは言え指針を立てた先に、真は、非常に厄介な道を見つけた。それは確かに、仮説の先に有る仮設の話。架設しようにも、立てる点や流す論理すら見当たらない。しかし、それしかない。
内通者は、山田だ。
延々続くかと思われた思考は仮初めの終点を見出し、永遠の螺旋と思われた階段は、曲線の先にある死角から現れた一つの扉により有限となった。
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その扉は、単純に扉だった。銀色の回転式ドアノブに、白い塗装が為された金属製の扉板。平均的な公共施設の内、非常口の境に設けられている扉が近いだろう。扉の上に、あの緑で彩色された非常口を示すものがあったとしても、違和感は限りなく無い。
この扉のある場所が、階段を二十分程昇った先に有るのではなければ、の話だが。
「ところで、あんたは何者なんだ?」
<わー! 扉のこと考えてたと思ったのにまさかの質問だよ! げえー!>
(おい。げえ、なんて言うんじゃない。胸以外は女なんだから、少しは淑やかにしてみろ)
<今さりげなく胸のこと言ったよね、絶対言ったよね、言った!>
「あ、ああ、すまん、成り行き上、名乗るのを忘れていた。俺は浅井、ビル突入の指揮をしていたものだ」
ちなみに俺は君を知っているから、と。浅井は最後に付け加える。
見たところ、浅井と名乗った男は、真よりもずっと年配に見えた。とは言っても、せいぜい三十台前後がいいところなのだが。
短く切られた髪に、筋張った顔、軍人が着るような分厚い黒のジャケット、その上からでもわかる筋肉質な体躯。さらに、目を凝らせば大小様々な古傷が、露出している体のいたる所に存在している。見る限り、酷な肉体労働を主としているのだろう。
信用は出来ない。……と、真は考えたが、そもそも人を信用したことなど殆ど無い事に気付いた。
「ついてくるのは構わないが、あんた、見るに只の人間だろう? 率直に言うが、死ぬぞ」
「ああ、それはよくわかっているつもりだ」
つい先程、鑑田晃人と対峙した時、自分は死んでいてもおかしくなかった。浅井は過ぎ去った場面を思い起こし、身を震わせる。
対する真は心の底から心配して出た言葉ではないことを自覚する。
人間というのは二つ以上に増えることで、可能性と言うものが爆発的に増える。それは意図され、無意識に、偶然、不意な状況で引き起こされる。命が皿に乗せられている天秤、果たして重さがコロコロと変わる錘を向こう側に乗せていいのか? 聞かれれば、真はもちろん他の人間も快い返事はしないだろう。
「……俺にも引けない理由がある。元々アンチメテオに居る奴は、そういう奴ばかりなのは知っているだろう。ついさっきも、後輩が殺された。例えメテオ・チルドレンでも、良い奴に変わりは無かったんだ。……危なくなったら俺を見捨ててくれてもいい、だから」
(話が長いな。無視して進んでもいいか?)
<ひど! めん君ひど! ちゃんと聞いてあげてよ! お涙頂戴するところだよ!>
(いくら涙とは言っても、無償でくれてやりたくはないな)
<血も涙も無いとは正に! このこと!>
「俺もついて行かせてくれ。居ないものとして扱ってもらって構わない」
「わかった、そうさせてもらう」
大方予想通りだったのだろう、即答した真の言葉に嫌な顔一つすることなく、浅井は頷いた。伝子はその光景を見て、人知れず涙を拭く。無常だと。
扉には鍵が付いていないのか、案外にあっさりと開いた。防犯、保全意識が低いのか。それとも鍵を補う何かが有るのか。何も無いのか。真には見当もつかないが、どちらにせよ扉は開いたのだ。入らなくてどうする。
真が入っていくのを見ると、続いて伝子、浅井の順で扉の向こう側へ進む。
しばらく真っ暗な通路を歩いた先、まず皆の目に飛び込んだのは、先程の螺旋階段とあまり変わり映えしない光景だった。変わった部分と言えば、階段がスロープになったことくらいだ。……当初、鑑田晃人と一悶着あったエントランスが円錐の中心部分だとすると、先程の螺旋階段はその外側、このスロープが続く空間は、さらに外側という事になる。
省スペースなのか無駄遣いなのかよく分からない建物だ、と。真は周囲を見渡しながら呆れ半分に思う。
「上がるか」
窓が無ければ扉も無い。分かっているのは上下のみ。下に降りれば来た道を戻る事となる。
ひとまずそれしかない、真はそう付け加えると、緩やかな勾配となっているスロープを昇り始めた。
「ちょ、ちょっと待ってよめん君。さっきので僕疲れちゃったからさ、休憩しようよ」
オーバーな動きで疲れたという意思表示をしながら、伝子は真に声をかける。その隣に立つ浅井が、“めん……君……?”と呟きながら、やはり立ち止まっている。
揃いも揃ってお荷物か。真は心底一人で来なかったことを後悔しつつも、仕方なしに歩みを止め、振り返る。その時、ちょうど伝子が壁に手を付こうとしていた。別におかしなことではない、自重を少しでも分散させるに効率的な行為だ。だが、結果がどうにも求めていた解とは異なっていた。
「ひえええええ」
伝子が壁に手を付いた瞬間、その部分が薄く緑に発光し、遅れて、皆が壁だと思っていた部分が“横に開いた”。
スライド式だったのか。真は素直に、この未来的なビルの構造に感心した。しかし、当の伝子は目の前の光景を見て腰を抜かしていた。
「す、すっげえフューチャー……」
「おい、すっげえとか言うんじゃない。さすがの俺もその言葉使いは見逃せんぞ」
「うるさいなあ、めん君は。それだから友達が居ないんだよ」
「お前にもいないだろう」
「僕にはスターアニスがいるもんね」
「スター……なんだって?」
「猫ちゃん」
「ああ……」
そういえば、確かに猫と喋っていたという話を聞いた気がする。
満足そうに無い胸を張る伝子を、真は憐憫の篭る眼差しで見つめながら口を開いた。
「よかったな、その友達を大事にしろよ」
ささやかな笑みを加えて真がそう言うと、一瞬伝子はいっそう満足そうな表情を浮かべるも、すぐさま口元を歪める。
「それ、ぜったい可哀想な子だと思ってるでしょ」
「そんなことはない」(気の毒に。胸も無ければおつむも弱いとは)
「ちくしょー!」
「おい、ちくしょうなんて言うものではないぞ。さすがの俺もその言葉使いは見逃せん」
ぼかぼか。
割と本気で殴られながら、割と本気で言葉使いを正そうとする真。
それらの光景を見て、浅井は、随分と真に対する評価が変わっている事に気付いた。巷では氷の悪魔などと呼ばれている彼だが、こんな一面もある。……ふと、先程亡くなった命、稲留祐樹の事を思い出し、胸が抓られたように痛む。
そんな浅井を傍目に、真は意識を伝子から開いた扉へと向けた。
死角が多いが、真の立つ位置から見る限り、その部屋には機械類が多く置かれているらしい。部屋の隅まで、黒い被覆のコードが好き勝手に伸びているのが確認出来る。
真の視線に気付いたのか、物思いに耽っていた浅井は扉の向こうに興味をひかれ、開かれた入口に歩み寄る。
「あ、だ、だめ――」
つられるように言葉を放ったのは伝子だった。真を叩いていた手は止まっており、表情に焦りを見せながら浅井の方へ手を伸ばす。
伝子の方へ浅井が振り返る。それが、彼が自発的にとった最後の行動となった。
真の耳に乾いた音が鋭く突き刺さる。同時に傍で立ち尽くしていた伝子を自身の背後へと追いやり、目の前で倒れ行く浅井を見届けた。
銃声。頭に銃痕。恐らく即死。十分な情報だ。
真は、部屋の死角に潜んでいるのだろう銃の持ち主に思いを馳せる。問題は撃った事でも、撃たれた事でもない。何故“今”撃ったのか、それが問題だ。扉が開いてから数分、それまでずっと死角に潜み、不特定多数の人間が目の前に現れるのを待っていた。それは“そう”しなければならなかったのだろう。殺傷する能力が有ればそれを使う、無ければ隠れる、もしくは他の誰かを呼ぶ等すればいいだけのこと。わざわざ、伝子に感付かれるほどの殺意を以って引き金を引く必要は無いのだ。
<めん君、僕、なんか悲しい>
(そうか。だが、ついてくると言ったのはあの男だ。完全な自己責任で歩き、撃たれ、死んだに過ぎないさ。伝子が気に病むことじゃあない)
<うん……でも、やっぱり、目の前で人が死ぬのは悲しいよね……>
そうだ、確かに、浅井と言う男は只の人間だった。……メテオ・チルドレンは人ではない、真はそう思い、殺してきた。メテオ・チルドレンならば、例え臓物が飛び散ろうとも、四肢が千切れようとも、特別な感情など何も湧き上がらなかった。
はて、何時から自分は、普通の人間が死んでも何も思わなくなったのだろうか。少なくとも、今、自分は死んだ浅井よりも、それを為した者に対して興味を持っている。
そもそもの天秤が壊れてしまったんだ。そう、真は結論付け、一先ずの平静を保つことにした。
「伝子、お前はここで待っていろ。俺が合図をしたらついてこい」
「……めん君は死なないよね?」
それは当然の質問と言えるが、同時に、解答が一つしかないものだった。
人は死ぬ。それに例外は無い。
だが、それを直接言うのは憚られた。真に唯一残された心情は、伝子にのみ注がれていると言ってもいい。……例え逃れられようの無い死があったとしても、それを回避して見せると言うことで伝子が安心するのなら。
「ああ、俺が死ぬなんてこと、お前が巨乳になるくらい有り得ないな」
「むかつくけど許した」
「許されてしまったか」
そろそろ貧乳以外の話の種を見つけなければ。そう思った所で、真はゆっくりと件の扉へ向かう。
銃への対抗手段は、あると言えばある。高密度の氷壁を扉の代わりとして生成する。その後、相手を目で認識してから、相手が持つ銃を凍らせるか、その者自体を凍らせるか選べばいい。いくら出来ないことが無いとまで言われるメテオ・チルドレンと言えども、認識していないものに対して何かを起こすという事は出来ないからだ。
<気を付けてね、向こうの人、だいぶ怒ってるみたい>
(そりゃあ、出会い頭の相手を撃ち抜く程だからな。相当だろう)
思って、真は入り口に氷壁を生成した。瞬時に現れたそれは、銃弾の十や二十発など難なく防いでくれるだろう。少なくとも、先程の銃声を放った物は、そこまで口径の大きいものではない。違う武器を出されたらそこまでだが、その時はその時。真は機敏に氷壁の正面へ身を乗り出す。
部屋の全容を見るのは今が初めてだった。予想通り、部屋の中は鮮やかな電球が点滅しているような機械類がいくつか置かれている。予想していたよりも狭いが、それよりも、先程真達が立っていた所から丁度死角となる位置にベッドが置かれている事に意識を向ける。
その上には、人が寝ていた。至極普通だ、ベッドなのだから。その寝ている人間が流れる銀色を頭部から振り撒きながら、色白の手の内に銃を握っていなければの話だが。
「それで、そこからどうするつもり? 私を殺すわけ?」
真は見つめていた人物に話しかけられた事により、初めて自分が呆けていた事に気付く。不覚も不覚、初めて間近で見た外国人が備えていた要素が、余りにも多すぎたのだ。
冷静を装いつつも、真はどうするかを考えながら応える。
「それはお前の行動次第だ。無駄な殺しはしない」
「私への当て付けってことでいいのかしら、それ。言っておくけど、不可抗力よ。理由なら、侵入者がこのビルにいるという話を聞いていて、そこで、来るはずの無い来客が見知らぬ強面のオジサマだった、ということね」
「それは理屈だ。人を殺す理由に成り得ない。それどころか、倫理観の欠如をひけらかしたようなものじゃあないのか」
どこかずれている目の前の女に対し、真は判断を決めかねていた。それというのも、確かに、女の言い分は理解出来る、という点にある。これが五体満足の健康な女であり、且つ、自由に動ける状態で公共施設に居たのならば、真は容赦することなく女を殺していただろう。しかしながら、その条件は全て正しくない。女は五体満足ではない――女の左足、その膝下から先が存在していない――し、その所為でベッドから自由に降りることも一苦労だろう。さらに言えば、ここは、楠木ビルだ。武装している男共、不可思議を駆る能力者達が犇めいている。……ああ、自分でもこの女と同じ行動をとったに違いない。真は認めたくない気持ちと向き合いながらも、それを納得する事とした。
浅井には悪いが、別に、死んでどうこうするほど知り合っていたわけでもない。良くある境遇の良くある死に方を目の前で見せられただけに過ぎないのだから。
「メテオ・チルドレンにそこまで言われたら終わりね。ええ、どうぞ、好きに殺せばいいじゃない。私はアンタの仲間を殺した。それは事実だもの」
「……事実だ。が、仲間ではない。お前が俺“達”に危害を加えないのならば、俺もお前を傷つけるような真似はしないでおこう」
「そ、随分と冷たいのね。まあいいけど。……じゃあ、お互い武装解除と行きましょうか、侵入者さん?」
現状に不釣り合いな笑みを、銀髪の女が浮かべた。真はそれを見て、目の前に有る氷壁を崩す。残ったのものは後ろで倒れる死体と、大量の水溜りのみだった。
<めん君、なんか、僕、すごく不愉快なんだけど>
(なんだ急に)
<じゃらしいな気がする>
(じゃらしい? なんだそれ。日本語を話せ)
<じぇらーどだった気もする>
(味無しのかき氷ならいつでも作ってやるが、ジェラードは無理だな)
<それただの氷じゃん! めん君の役立たず! ジェラシーだよ! ばか!>
じぇらしい。じぇらしー。ジェラシー。成程。
真は納得した。
<ちょっと! 納得するだけなの? ねえ!>
(まあ待て、とりあえずの危険は無くなったから、お前も来い。情報収集だ)
<あ、うん>
脳内のうるさいものを取り除いたところで、真は部屋に入る。同時に、銀髪の女が語りかけてきた。
「ねえ、さっき“俺達”って言ってたけど、他にも誰か居るわけ?」
「ああ。うるさいのが一匹いる」
「ペット?」
銀髪の女がそう聞いた瞬間、真の背後で水溜りを踏み抜く音が聞こえた。思わず振り返ると、目の前にブーツの底が迫っていた。
めこり。と、それなりに分厚い靴底は真の顔にこれでもかと減り込んだ。悲劇的な音と共に。
「匹ってなんなの匹って! おかしいでしょ! しれっと初対面の人に変な事吹き込まないでよ!」
「ふぉうがふうがな」
真は仰向けの形で床に叩き付けられた。依然として靴底は真の顔を蹂躙している最中である。
懸命に会話を試みようと思うも、真はそれが困難と判断した。
(とりあえず足を上げろ。話はそれからだ)
<謝りなさい>
(すまん)
<誠意のせの字も無いよ!>
(お前の胸よりかは有るかと思ったが)
めこり。と、それなりに分厚い靴底は真の顔をさらに侵食する。真の言葉は、頭の中でも放たれることは無かった。
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「で、アンタ達は漫才をするために侵入してきたわけではなく、相羽光史を奪還するために来たと、そういうことでいいのね?」
「ああ」
顔を腫らしながら、真が神妙に相槌を打つ。伝子は笑いを堪えることで精一杯だった。
「そういうことなら、協力してあげるわよ。多分、今日以外にチャンスは無いだろうし」
「どういうことだ?」
「詳しく説明するのは面倒だから省くけど、率直に言えば、アイツ――相羽の目が覚めそうなのよ」
「目が覚める? 待て、いや、すまない。そもそも、俺は相羽光史なる人物がどんな立ち位置に居るのかすら知らない。まずそこから教えてくれないか」
「そんなことも知らずにここまで乗り込んできたってわけ? 随分とずさんな計画だこと。考えた奴の顔が見てみたいわ」
銀髪の女は呆れたと言わんばかりに大きな溜め息を一つ吐き出し、頭を振る。
その通りだと、真も思う。何故獄吏道元は今日を指定し、且つ、詳細を教えないまま行動に移したのか。残念ながら、それを知るには獄吏道元に聞くしかないのだろう。
「アイツは、メテオ・チルドレン。それも北海道旭川で生じたファースト。基本的に、ファーストは能力の規模が大きかったり、強かったりするわけ。アイツの能力は、規模が大き過ぎたの。だから、楠木に狙われた。……ちなみに、ファーストって言うのは自然に生まれたメテオ・チルドレンを指すわ。統計的に見て、グラウンド・ゼロに近付く程、能力の位が上がるの。対するセカンド、これは人工的なメテオ・チルドレンのことよ。こいつらはしょうもない能力が殆どね。相手の視界を奪うだけとか、眠らせるだけとか、その程度」
真は頭の中に無遠慮で入り込んでくる情報を必死に整理する。
「相羽光史がここに居る理由は分かった。しかし、肝心の相羽光史自体のことが分からない。何が楠木をこうまで動かすんだ」
「アイツは、自分が望んだ未来を引き寄せるの」
「……ほう」
なるほど、端的な説明だが、もっと端的な“神”という開道寺の言う言葉もあながち間違いではないらしい。と、真は一人納得すると、さらなる質問を銀髪の女にぶつける。
「それで、目を覚ますというのはどういうことだ? 相羽光史は自発的に楠木へ協力しているわけではないと、そういうことなのか?」
「話が早くて結構、その通り。アイツは、精神操作系の能力によって、“二つ”のメテオに繋がれているわ。それが原因で、意識を失っている状態にあるの」
「二つ……旭川と、“ここ”の物か。それで、繋がれている?」
「ええ。メテオ・チルドレンの能力というのは、基本的に自身の周囲に限り発現するわ。けど、楠木はその範囲を広めることに成功している。メテオから放出され続けている粒子とアイツの能力を同期させることによって」
正直、真は粒子だのメテオだのと言われても、理解出来ない部分がある。それもそうだろう、真は元を辿ればただの一般人である。それも学生、旭川に落ちた隕石など、災害の一つとしか受け止めていなかった一般人だ。
しかし言いたいことは分かる。メテオ……隕石がメテオ・チルドレンを生み出した根源だという事はそれとなくわかっていたことだし、ならば、その隕石が粒子等の原因を放出していたとしてもおかしくはない。
同期させる云々の箇所は見当もつかないが、企業ぐるみで研究していたのだろう楠木が、その方法を見出していたとしても何ら不思議ではない。
「でもね、アイツは元々、変人なのよ」
ふと、銀髪の女は懐かしむように微笑む。
「メテオ・チルドレンだとか、能力だとか、そんなものでずっと縛られているとは思えない。アイツは只、カレーが好きなだけの変人。だから、かしら。アイツは二年と言う時間をかけて、目を覚まそうとしている」
「随分と、親しい関係だったんだな」
「そう思う?」
複雑なのだろう。真は、目の前で苦笑を浮かべながら疑問を投げかけた銀髪の女に対し、答えを選ぶ。
「お前の言い方は、信じている、好意を寄せる者にしか出ない言葉だろう。そう思われても仕方がない」
「……そう。実を言えば、精々私が下心を含んだキスをしたくらいの間なんだけどね、そうか、でも、“長かった”ものね」
そう言ったきり、銀髪の女は黙ってしまう。……付き合ってきたが、これは女の自分語りに過ぎなかったのだろう。真は最後に一番重要な事を、銀髪の女に問う。
「質問はこれで最後だ。相羽光史は、どこにいる」
若干、考えるような素振りを見せた後、銀髪の女は口を開き。
「アイツは、このビルの――」
<タスケテ……>
唐突だった。真はそれが伝子から発せられたテレパスだと認識するよりも前に、おそらくビル全体を揺るがせているのだろう振動を全身に感じ取る。
銀髪の女の周囲に置かれている機械が金属質の音を微かに鳴らし続け、静かに鳴りやむ。
誰も喋ることは無かった。どこかで分かっていたのかもしれない、これで終わりではないと。
期待に添うように、再度、轟音と共に先程よりも激しい揺れが三人を襲った。
「くっ、なんだ!?」
「わからない、けど、このビルでこれ程の規模を起こすと言ったら」
――相羽光史、それは無い。目が覚めると言っても、世界を滅ぼそうとでもしない限り、このような自然現象は起こさないだろう。……そう、そもそもが、自然現象ではないとしたら。
銀髪の女は、瞬時に思考を巡らす。
このビルに身を置くメテオ・チルドレン、誰しもが強力な能力を持っているわけではない。最も強いとされる開道寺も、揺れを起こすような類ではない。ならば、それならば、答えは一つしかないのではないのか。
「まさか」
自然と言葉を漏らしながら、この階の見取り図が、銀髪の女の脳内に展開される。自身が居る居室を含め、何もいないだろう部屋は除外。……除外する必要も無いのか。そう、そもそも、この階、八階には実験室が有るではないか。未だ存命し続ける“あれ”が残る部屋が。
「兄さん……!」
「なに?」
真の問いは応えられることが無く、代わりに、“縦の”揺れがこの部屋全体を襲った。遅れて、ベッドから落ちそうになる銀髪の女が口を開く。
「貴方達、今すぐここから逃げなさい! いえ、“ここ”じゃあ済まないわ。このビルから、一刻も早く出るのよ!」
――コンクリートを粉砕する音が、三人の耳に届いた。その、破滅的な音がした方を見れば、部屋の奥。隅の方にピンク色を放つ何かが顔を覗かせていた。
真っ先に、真は自身の頭にミミズを思い浮かべた。だが、それは極端に可愛らしい比喩表現だったことを思い知る。
何かの触手らしき物体は、その先端を三人の方へ向けると、その先端に“×”の軌跡を生じさせる。続いて、それが切り取り線だったと言わんばかりに、先端が四分割された。生物的な動きによって開かれた触手の先端、その中身は、大小の牙が無数に生えていた。
「冗談だろ……」
真は自然と漏れた自分の言葉に納得する。これが冗談ではなくて、なんだと言うのか。
「ナンバー011……そう、兄さんも、目が覚めたのね」
一人納得するように呟く銀髪の女。真は何かを呟き続ける伝子を背に留めながら、“現実”と対峙した。
次回:第六話『成された憎悪、生まれる憎悪』