夢の崩壊
『夢の崩壊』
朝目が覚めた時、まるでまったく別の世界に無理矢理押し込められたような気持ちになった。夢の中で、目を醒ます準備がまだ出来ていなかったのだ。眠りに入り込むのは最近うまくなってき た。でも目の醒まし方が、まだまだうまくない。まぁしかたない、目覚まし時計なんかに起こされていては。僕は夢の中で誰かととても大切な話をしていたのに、目覚まし時計の大きな音に無理矢理その世界から引き剥がされて今この世界で目を醒ましている。こんな朝はいつも寝覚めが悪い。いつか思うままにたっぷりと眠り、自然と目を覚ますことができる日々がやって来るのだろうか。
片目だけをなんとか開いたような状態で目覚まし時計をたたく。でも今日は音が鳴り止まない。今度は枕もとのケータイ電話に出てみた。
「もしもし」
相手は何も言わない。ケータイ電話はあの懐かしいツーツーツーという電子音をすら聞かせてくれない。何かがおかしい、ビー、ビー、という音は鳴り続けている。ドアベルが鳴っているのだ。この部屋でドアベルが鳴ったのは初めてのことだ。僕はこの時までこの部屋にドアベルが付いている事すら知らなかった。
手に持ったままの目覚まし時計を見ると7時半を指している。7時半?午前の?午前7時半に僕の部屋を訪れる人間を、僕は思いつけなかった。でももちろん午前の7時半なのだろう。まだ目覚まし時計が鳴る前なのだ。学校の1時間目が始まるのが午前9時で、目覚まし時計は8時にセットしてある。ビー、ビー。
いったい誰なのだろう?
僕は考えるのをやめた。突拍子のない状況に陥った時、僕はいつも何も考えずに状況に身を任せてしまう。後から思い出すと自分を含めたその状況を後ろから眺めているような映像で、記憶に残っている事がある。例えば非通知で電話がかかってきた時、例えば本屋でカツアゲされそうになった時。無視はし ない。非通知の電話にもとりあえず出るし、本屋でカツアゲされそうになった時も相手の話はとにかく聞いた。朝目覚ましに起こされて、しょーもない授業を聞くばかりの毎日の生活はもう退屈でう んざりなのだ。何かおもしろい事件でも起きないかといつも願っている。この時の事もドアの方を振り向いたあたりから僕の頭の後ろからの映像で記憶に残っている。
僕は左手に目覚まし時計を持ち、右手に携帯電話を持ち、上体を起こし、ドアのほうに顔を向けている。
目覚まし時計とケータイ電話を床に置いてのっそりと立ち上がる。
ドアのほうに向かって歩き出す。
もう一度ベルが鳴る。
相手がびっくりするようなタイミングで急にドアを開けて、こんな朝からなんなんだ?お前は一体誰なんだ?という顔をしてやろう。
と思ってドアに手を伸ばしたタイミングで、ドアが開いた。
「あなたの夢が、壊されかけてます」 と、その男は行った。
あん?夢?夢って、漫画家?
「違います。」
え、今俺声に出して「わかるんです。声に出さなくても。」
そういえば、彼も口を動かさずに僕に音声を伝えていた。年齢は20台後半といった所だろう。端正な顔立ちをしている。小奇麗な時のオダギリジョーといった感じだ。パリッとし たシャツを着て、ボタンは一番上だけを開けていた。目と髪は共に真っ黒で、少しも気取った雰囲気がない。初めて会った相手に自分の話を信用させる説得力のようなものが、彼には備わっていた。時々そういう人が居る。きっと就職活動には困らないだろう。僕はきっと寝起きでしょーもない顔をしている筈だ。もともとがテンパである上に寝癖も付いているはずだし、鬚も三日くらい剃ってない。鼻毛だって出ているかもしれない。何故だか分からないけど、僕はよく鼻毛が伸びる。別に気にしないけど。
とりあえずまぁ、入んなよ。僕は上目遣いで睨みつけるのをやめて体を起こし、自分の中で一番素敵であるはずの微笑を浮かべ、そう心の中で言ってみた。
「失礼します」
と彼は言った。もちろん口は動かさずに。僕は体を引いて彼を招き入れた。寝ていた布団をたたみ、二人が座れるだけのスペースを作る。勉強用の机ならあるが、向かい合って座るテーブルなんてもちろんない し、座布団もない。僕が一人で暮らしやすいように、この部屋は出来ているのだ。実家から持ってきた小さなテーブルを出してカーペットの上に置く。それを置 けば、六畳の床もそこに座るのが自然な気がするのだ。彼は礼儀正しく僕の動作を見守り、テーブルが用意されるとその奥に座った。彼が座ると、この部屋もどこかの企業の応接室のように見えた。
「ちょっと待ってて、コーヒーでも入れるよ。コーヒーでいいかい?」
と、僕は言った。声に出して言った。別に声に出しても出さなくてもいいのなら、声に出したって構わない。
「ええ」
と彼は答えた。残念なことに、彼がそれを声に出して言ったかどうかは分からなかった。
「さて」二人分のコーヒーを用意して二人で形だけ口をつけたあとで、僕は言った。「夢が?」
「最近、夢に異常はありませんか?」と彼は言った。
「夢ってのは、基本的に異常な気がするんだけど。」
「…」彼は黙って僕を見つめている。考えろってことだろう。考えるまでもない。
「リアリティがありすぎる。」と僕は簡単に答えた。リアリティがありすぎるし、目が覚めてからも記憶の海に沈んでいかない。時には日がな一日波の上に浮かんでいてチャンスがあれば現実に侵食してこようとする。何かをはっと思い出したときに、それが現実で起きた事なのか夢で見たことなのか分からないのだ。 その頻度はこのところ増えてきている。
「夢が力を持ち始めています。このままではあなたは近いうちに夢の世界から帰ってこられなくなります。」
☆
「名前を聞いていなかったね?そういえば」そういえば名前を聞いていない。
「名前?僕には、名前はありません」
「ふぅん」
彼は自分が名前を持っていない事に関して考えている様子だ。何故僕には名前がないのだろう?
「もしよかったら、僕が勝手に付けてもいいかい?」
「ええ、構いませんよ」一瞬の間が空いて、彼はそれを受け入れた。
「赤坂シナモン。」
「赤坂シナモン。」
「うん、僕が好きな物語の登場人物でね、君は彼に似ている気がするな。ちょっと違うけど」
「赤坂シナモン。」
「そう、君の名は、赤坂シナモンだ。それでいいかい?」
「結構です」結構ですと構いませんの間にはどのような感情の揺れがあるのだろう。わからないいな。彼はあまり表情を変えない。そもそも口さえ開かずにしゃべるのだ。
「ところで」と彼は言った。「夢の話ですが」
「うん、僕は一体どうすればいいんだろう?」
「何かが起こります。何かが起こるのを待ってください。」ビー、ビー!目覚まし時計が鳴り出した。8時だ。
「わかったよ。」目覚まし時計をなだめてから、僕は言った。一日が始まる。
☆
「また、君に会えるかな?」
「それは僕にもわかりません。あなた次第だと思います。とにかく、がんばってください。」
我々は玄関で別れた。彼は最後に親しみを込めた微笑をくれた。彼は一体どこに帰っていくのだろう。また彼に会えるだろうか。わからない。
☆
何がなんだかわからない。でもとにかく、普通に学校に行くことにした。シャワーを浴びて、鬚を剃った。鼻毛は出ていなかった。パンを焼いてチョコを塗った。薄いコーヒーを作った。うまい。雨の降らない6月は気持ちよくて好きだなぁと思っていたけど、さすがにそろそろ暑くなってきた。今日はどうやら雨は降っていないが、そんなに綺麗に晴れてもいないようだ。今日一日ぐずついた天気になるでしょう。ぐずついた天気、という表現はとても好きだ。
学校まではほんの数分の距離。いつもできる限りゆっくり歩いて登校する。
空気はしっとりとしている。道のりの中ほどに、疎水が流れている。疎水に沿って桜が並んでいて、春にはちょっとした見ものになる。ここは同時に、道が六本ぐらい重なる交差点になっているが、信号は一つも立っていない。信号が無いのがとても自然だ。なぜだろう?誰もここに信号が無いことにすら気づかない様子だ。不在の存在。ゼロの概念。「何か」が起こるなら、それはこの場所であるような気がした。
ちょっと立ち止まって何かが起こらないか待ってみる。橋とも呼べぬ橋に寄りかかり、疎水を眺めてみる。川とはとても呼ぶことのできない小さな水の流れ。それでも水が流れる所には何かしら特別な力が流れるものだ。試しに家の配管の上に布団を引いて寝てみるといい。すぐに体調が悪くなる。逆に体調が悪いなら、ベッドの下に配管があるのかもしれない。ほんのちょっとベッドの位置を変えてみる。それだけで、人生は大きく変わる可能性があるのだ。
何も起きないので学校に向かうことにした。それにしても、何かが起きるかもしれない一日というのは、悪くないものだ。
☆
シャっ、シャっ。
僕はスケッチされている。大学のラウンジで、大学生にはとても見えない女の子に。でもきっと大学生なのだろう。大学に紛れ込んだ女の子ではなく、大学生に見えない大学生。背が低く、黒のワンピースにアクセサリーをつけていた。僕は一時間目が終わって、何気なく寄ったラウンジに座って本を読んでいた。シャっ、シャっ。僕は二時間目に行く気はもう全く無い。
暫くすると、彼女は黙ってスケッチを見せてくれた。うまいなんてものじゃない。うまい絵なら誰だって描ける。この絵は特別な人間が描いた特別な絵なんだということが、見た瞬間に理解できた。うらやましい才能だ。
「おお、ありがとう。すっげーうまいじゃん。」
彼女は何も言ってくれない。何も言わない事が当然のようにそこに立って僕を見上げている。不在の存在。ゼロの概念。彼女は沈黙を話した。それから彼女は黙ってその絵を僕に渡してくれた。
「えー、くれるの?ありがとう。」
彼女はもう僕に興味を無くしたようで、向こうに行ってしまう。少し淋しかったが、僕としても特に引き止める理由は無い。
いやー、それにしても、これうまいなぁ。関心して歩いていたら、後ろから声を掛けられた。
「あの子はねぇ、いつもあんな感じなんだよ。凄く才能があるんだけどね。」
振り向くと、大学生らしい大学生が微笑みかけている。僕はファッションについては全くといっていいくらい興味が無いので何系といっていいのかわからないが、オシャレな子だ。ハデな柄のシャツを着て、ロングスカートを履いている。ロングスカートがよく似合っている。髪は短めでウェーブがかかり、化粧は濃い目。きっと三年生か四年生だろう。大学生である、というのが板に付いている。
彼女はひとしきり、先ほどの女の子について語った。この人は、あの女の子の事がとても好きなのだろう。でも、あの女の子はきっとこの人に対してもさして興味を持たないのだ。その鬱屈を僕に吐き出すように、彼女はまともに僕の目を見る事すらしないで話し続ける。相手は別に誰でもよかったのだと思う。
僕はあまり何も話さずに彼女の話を聞きながら歩いた。あの女の子の話には興味があったし、やるべき事も特にない。
「面白い子でしょう?」我々は話をしながら歩き、外に出て別の奥まった建物へと続く階段に、並んで腰掛けていた。あの女の子に関する話は一段落したようだ。確かに面白い子だ。ところで。
「ところで、君の名前は?」僕は話題を目の前の女の子に移したかった。ハッキリ言って、好みなのだ。
「あたし?あたしの名前は、ミズキ」
「よかった」
「よかった?」
「君にはちゃんと名前がある。ミズキさん。」
「当たり前じゃない」彼女は不思議そうに微笑む。
「似合うね、名前が」よく似合う。ミズキという名前と一緒に生まれてきたみたいだ。
「そうかしら、」ふふっと彼女は笑う。「あなたの名前はなんていうの?」
「僕には名前はありません」と僕は答えた。もちろん、僕にだってちゃんと名前ぐらいある。それは当たり前のことなのだ。
「あら、名前無いの?不思議な人ね」くすくす。
「よかったら、勝手に付けてくれて構わないよ」にっこり。
「タカシ。なんてどうかしら?」
「タカシ?」
「そう、タカシ君。」
「悪くない。」
「じゃあ、あたしそろそろ行くわね。また会いましょう、タカシ君。」彼女は楽しそうに微笑んで、手を振って歩いて行った。しっかりとした量感のあるお尻がぷりぷりと左右に揺れている。
タカシ。それはまさに親が与えてくれた僕の名前だった。僕は暫くの間背中を白い指で撫でられたような気持ちになり、その場から動く事ができなかった。二時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った。12時10分前。手には現実のものとは思えない見事なスケッチがある。
☆
10分ほどして、僕はとにかくとりあえず、本を読む事にした。鞄を開けてスケッチをファイルに挟み込み、代わりに本を取り出した。スコットフィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」。
目の前の建物を上っていけば学生食堂があるのだが、タイミングが悪い。並んで順番を待つなんて馬鹿げてる。彼らは何を考えているのだろう?30分も待てば混雑は避けられるのに。きっと彼らは、2限目の授業中からどうしようもなく腹が減っていて、30分待つなんてとても耐えられないのだろう。どうしても、並んででもいいから今、この瞬間にも食べ物を口に入れたいのだ。そんな人間がおおよそ50人もいればもちろん行列ができる。ありそうな数だ。僕は納得して「グレート・ギャツビー」を読み始めた。なぜなら僕の腹具合は30分ぐらいならまだなんとかなりそうだったからだ。「グレート・ギャツビー」の一ページ目にはこんな台詞があった。
「もし君が誰かの事を非難したくなったら君は思い出さなくてはならない、誰しもが君のように恵まれた環境を与えられているわけではないということを。」
さて、そろそろ学食も空いただろう。
何を食べようか。カレーそばがいい。カレーうどんのそばバージョン。いや、今日は一人だから左手に本を持って、読みながらでも食べやすいものがいい。理想は、例えばイカリングなんかだ。カレーそばは本を読みながら食べるメニューには適さない。カレーそばを食べるのにはそれなりの集中力が要る。カレーが本に飛ぶではないか。だいいち僕は、今日は真っ白なシャツを着ているのだ。
それでも結局、僕はカレーそばを注文した。カレーそばが食べたかったからだ。何かをするか・しないかで悩んだ時はいつもこう考えるようにしている。
「しない理由なんて、いくらでも思いつけるのだ。」
そして、いつも自分の気持ちを一番に優先する。いかなる理由があるにしろ、僕はカレーそばを食べる。なぜならカレーそばが食べたいからだ。それに、学食には残念な事にイカリングは置いていない。
「グレート・ギャツビー」を読みながらカレーそばを食べていると、突然、先ほどのミズキという女性の事が気になり始めた。いつもワンクッションを置いて何かが気になり始める。ワンクッション置いてそのまま忘れ去られるような事なら、それは大したことではないのだ。あるいは僕の頭の回転が鈍いだけなのかもしれない。物事を体で感じてから、それが脳みそに行くまでに時間がかかるのだ。
僕は「グレート・ギャツビー」とカレーそばに意識を集中させようとした。正直、彼女の事はあまり考えたくない。怖いからだと思う。僕はカレーがシャツと「ギャツビー」にはねないように気を遣いながらそばをすすり、噛みながら「ギャツビー」を読み進めた。噛みながら、とは言ってもそばはあまり噛む必要も無い。噛む時間が無ければ本を読む時間も無い。 やはりカレーそばは本を読みながら食べるメニューとしてはふさわしくなかった。そんなわけで本は一向に読み進まないし、ギャツビー氏がどういう人間なのか一向に掴めないし、物語もどんな風に流れていくのか訳が分からない。
「タカシ君」
とミズキは言った。ふと隣の家を眺めてみると、ギャツビー氏が川に向かって手を伸ばしていた。
まるで何かを求めるように。川の向こうに何があるのだろう?そこには家があり、緑の光が見えた。
「じゃあね、タカシ君」
隣の家に目を戻すと、そこにはもう誰もいない。「グレート・ギャツビー」はそこで一段落した。オーケーわかった。ミズキという女性について考えよう。僕は「グレート・ギャツビー」を脇に置いた。やれやれ。
☆
彼女はなぜ僕の名前がわかったのだろう?わかったのか、あるいは知っていたのだろうか。共通の友人でもいるのかもしれない。いや、きっと違う。そういうことじゃない。まぁ、名前の事は、もういい。それよりも、そういえば、似ている。
高校生の頃、当たり前の事だけど、僕は恋をしていた。そして当然のように僕は失恋をした。背が高く、髪が短い女の子に。それからしばらくは、背が高く、髪の短い女の子を見るだけで心が軋んだ。でもそんな事、最近はすっかり忘れていた。
話し方や、笑い方まで、よく似ている。やれやれ、気になるはずだ。ゾクっとしたのは名前を当てられたからというよりもその笑顔がよく似ていたからであり、考えたくなかったのは情けない過去を思い出すのが怖かったからか。
「ごめん、私、たかしのことは、やっぱり友達としてしか見れない」
今思うとベタ過ぎて笑えるけど、それでもあの頃は、真剣に傷ついたものだ。
☆
三時間目と四時間目が終わった。三時間目の初めに少しだけ眠った。珍しく、一切夢を見なかった。
☆
「こんにちは」と僕は声をかけた。そこにはミズキさんがいた。1人で、大学のカフェで、本を読んでいた。
「こんにちは」彼女は顔を上げて微笑んだ。ウィリアム・テルが手元を狂わせて、僕の心臓を貫いた。
「ここ、座ってもいいかな。」
「どうぞ」
「何読んでるの?」
彼女は黙って本をさしだした。彼女はなんだか昼に会った時と雰囲気が違った。落ち着いていて、全てを受け入れているようだった。彼女が読んでいた本はドストエフスキーの「罪と罰」だった。
「金貸しババァは、別に死んだって構わないけど、それにしてもラスコーリコフはわざわざ罪を犯すべきではなかったね。」と僕は言った。
「物語には‘べきだった’は存在しないのよ。彼はそうするしかなかったの。彼はそうする事でしか、前に進めなかったのよ。」
「何故僕の名前がわかったんだ?」
「あなたの事なら何だってわかるわよ。当たり前じゃない。」
当たり前?彼女がそう言うと、それは当たり前のことであるような気がした。オーケー。彼女は僕の事なら何だってわかる。彼女は紙コップに入った飲み物を一口飲んだ。
「何飲んでるの?」
「当てて御覧なさいよ。あなたなら‘わかる’はずよ。」
「アッサムのミルクティー?」
「もちろんそうよ。」
「何故わかったんだろう。」
「そんなの当たり前じゃない。だって私にはあなたの事が何だってわかるのよ。あなたには私のことが何だってわかるの。そういうふうに出来てるの。それは当たり前のことなのよ。」
そんな風にして、我々は恋人になった。僕には彼女の事が何でもわかり、彼女は僕の事を全て知っていた。夢のような三時間が過ぎた後、僕は彼女の部屋のベットの上で、天井の柄と世界の謎について考えていた。彼女は隣ですやすやと寝ている。
ケータイ電話の着信音が鳴った。午後19:47分。地元の親友からだ。
「もしもし」
「ねぇ、俺はもうだめみたいだよ」と、彼は言った。
「うん。」彼の人生はすべての歯車が、ほんの少しずつズレて来てしまっていた。家庭の事、恋人の事。人生の大きな流れを目の前にして、僕はあまりにも無力で、いつも何も言えずに立ち尽くしていたけれど、今日は何かを言ってやれそうな気がした。
「ねぇ、俺、恋人が出来たよ」と僕は言った。
「あ、ほんとう。よかったじゃん。」
「うん、まぁなんて言うか、運が良いみたいだな、俺は。」
「運?」
「出会うか、出会わないか。だよ。全部。そうだと思う。」
「ふぅん」
「ねぇところでさ、お前、誕生日いつだっけ?」
「11月7日」
そうか、じゃあ、まぁまたいつでも電話して来てよ。と言って、僕は電話を切った。彼女は目をつぶっていたが、目を覚ましているようだった。
「ねぇミズキさん?」
「何?」
「君、誕生日いつ?」
「11月7日」
☆
彼女の部屋で順番にシャワーを浴びてから、我々はサイゼリヤに夕食を食べに出かけた。僕はイタリアンハンバーグとトマトクリームスパゲティを注文し、彼女は若鶏のディアボラ風とライスのエス、食後にチョコレートケーキを注文した。二人で、小エビのカクテルサラダも注文した。特にたいした話もせずに料理が出てくるのを待ち、料理が出て来てからも、やはり特に話もせずにもそもそと食べた。僕はどちらかというと口下手な方で、誰かと食事をするとずっと何か話さなくてはと思ってしまうのだけど、この時はほとんど話をしていない事にしばらく気が付かなかった。まるで家族みたいだった。
「なんか、家族みたい。」と彼女が幾分はにかんだように言った。
☆
サイゼリヤでミズキさんと別れ、家に帰ってきた。
風呂を沸かして、本を読みながらじっくり一時間湯の中で過ごした。湯から上がって体を拭き、ジャージを着てから歯を磨いた。23:30。寝る時間だ。
電気を消して、布団をかぶる。朝の事を思い出す。いや、やめよう。寝る時間だ。僕は最近、寝るのがうまい。眠る前に、最後の力を振り絞って脳は何かを考えようとする。その言葉に耳を傾けているうちに、人は眠れなくなってしまうのだ。それではいけない。僕は頭の中の‘疲れている’部分を意識する。何故だか分からないけれど、いつも左側の後頭部が一番疲れている。ズーンとした重みを感じる。ソラマメ位の大きさのブラックホール。その塊に意識を集中していると、だんだんとそのブラックホールは僕の体全体にまで広がって行き、甘く痺れる様な快感に包まれる。全てがその中に吸い込めれていった時、僕は眠りに落ちる。
シャットダウン。
☆
息を吸い込むと同時に目が開いた。
夢の中で眠った瞬間に目を醒ました。約三時間程前のことだ。現実の僕の部屋は散らかりきっているし、布団なんてかぶってやしない。口の中は、何だか覚えちゃいないけど何かを食べて酒を飲んで煙草を吸ってセックスをしてそのまま寝た次の日の朝の味がした。
万年床になってしまっている布団には、1年半前から彼女なんだか何なんだか、とにかくいつも抱く女が丸くなって寝ている。この女のせいで、僕の寝るスペースはいつも少ないし、寝覚めはだんだん悪くなる。ちなみに名前はミズキではない。別に背も高くはないし、髪だって長い。
それにしても今朝に限っては、とても久しぶりに、まるで何年か前、まだバスケットボールの選手だった頃のように気持ちよく目が覚めた。そしてパソコンを開き、この文章を書いている。あまりにもリアリティのある夢だったし、驚くほどクリアに記憶に残っている。
ビー、ビー。
びっくりした。ドアベルが鳴った。時刻は7時半である。おいおい誰だろう、まさかシナモンだろうか。
ビー、ビー。
もしかしたらこの話には続きが存在するのかもしれない。
とにかくドアを開けてみようと思う。ドアを開けてみなければ、何が起きるかはわからないのだ。