Neetel Inside 文芸新都
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灰の魔王
プロローグ

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 静かな夜だった。いつもは聞こえる虫の鳴き声や、鳥のさえずりも聞こえない。そんな中、亜美は横になりながらも、眠れずにいた。静かすぎて逆に気が散る。何も聞こえないというのがこうも苛立ちがつのるとは思わなかった。昨日までは心地よい静かさのなか、ゆっくりと眠っていたのに。なぜ、今夜はこんなにも静かなのだろう。
 静寂の中、コツンという音が聞こえた。部屋の外、廊下からだろうか、足音の様に聞こえた。ベッドから腰を下ろす。
「――なの?」
 亜美は恐る恐る夫の名前を呼ぶが、足音が夫のものではないという事はわかっている。
 コツンという音がしたという事は、音の主は靴を履いている。しかし、夫が自分の家の中で靴を履いて亜美の部屋まで来る理由が見当たらない。
 また、コツンと音がした。
 亜美がまず思った事は家に強盗や、その類の者が我が家に侵入したのではないか、という事だった。
 あり得ないことではない。家はそれほど裕福という訳ではないが、世間から見れば、大金持ちのように勘違いされても仕方のない職業に夫は就いているのだから。良からぬことを考える輩がいるのかもしれない。だが、家は他人が考えているほど裕福ではない。家になんか来るよりも、まだまだ、金持ちの家はそこいらにあるのに。
 警察に電話するべきだろう。亜美は電話に手を伸ばすが、思いとどまる。いや、もしかしたら勘違いかもしれない。何を間違えているのかは想像できないが、こんな夜だから、ちょっとした音に敏感になっているのかもしれない。
 コツン。音がする。心なしか近づいてきているような気がする。
 ゆっくり、ゆっくりと足音を殺しながら、亜美は寝室のドアに近づいていく。
 そう、ドアを開けたら、案外たわいのない原因だったりするのだ。大丈夫。
 念のためにハードカバーの分厚い本を片手にドアノブに手をかける。こんなものでも、無いよりかはるかにましだ。
 四度目の足音と同時に女はドアを勢い良く開けた。
 亜美の思考は一瞬停止した。彼女の眼の前は銀色の髪を腰まで伸ばし、舞踏会にでも参加してきたかのような、十九世紀ごろのイブニングドレスを着ている、明らかに奇妙な女が真っ直ぐ、一本の棒のように立っていた。
 亜美は悲鳴を上げることさえ出来なかった。様々な光景を想像していたのに、最悪、凶器を持って、目を充血させた大男が立っていることすら覚悟していたのに、そこにいたのは外人らしき細い美女だけ。しかも、明らかに時代を間違えている。
「誰?」
 口から出たのはこんなくだらない言葉だった。この女が誰であろうと関係ない、これは不法侵入だ。今すぐに警察に通報するべきなのに。
女は少し咳き込むと。
「わかりません。もしかしたら、私は狂っているのでしょうか。でも、今の私にはこれしか考えられないのです。コホコホ。これで、少しでも私の望みが叶う確率が上がるのならば。仕方のないことのです」
 女は亜美を見ていなかった。憂いげな目をしながら、意味の分からない事を呟いている。
 亜美は少し身の危険を感じた。もしかしたら、この女はどこかの精神病院から逃げ出した、狂人ではないのか。おそらく、この格好もきっと自分が中世の貴族と思っているのだ。この近くに精神病棟があっただろうか。
 女の黄色い瞳が亜美を捉えた。
「亜美さんですね」
 コホッ。
「ええ」
 女はしっかりと、亜美を捉えていた。その目はとても澄んでいて、病人のものとは思えない。
「私は、覚悟を決めました」
「何の事。あんた、どこから来たの、取りあえず、落ち付きなさい」
 女は云われるまでもなく、落ち着いていた。それが失恋して自殺寸前のうつ病患者のように不気味で、亜美は取り乱してしまう。
「ですから」
 女が亜美に向かって、優雅に一歩踏み出す。コツンと音がする。
亜美は悲鳴あげようとするが、引きつった声にしかならない。のどを痙攣させながら部屋の中に駆け込む。倒れこむように電話に手を伸ばす。
 後ろから、コツン、コツンと足音がゆっくりと寝室の中に侵入してくる。
 電話からは電子音が流れ続けている。振り返ると女がすぐ目の前に立っていた。
「あなたも」
 女は云うと人差し指を亜美に向ける。赤い爪が額に触れる。亜美は恐怖で震えることしかできない。
「何なの。あなたは誰。どこから来たの。何で、何で」
「覚悟を」
喚く亜美を見つめながら、女は何も聞こえていないような無表情で一度、コホと咳き込むとトン、と亜美の額を軽く弾いた。
 すると、亜美は全身から力を失い、その場に崩れ落ちてしまった。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
 女はまた、コホリ、コホリと咳き込んだ。

       

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