Neetel Inside ニートノベル
表紙

突然ですが、世界を救って下さい。
想い、君に届け-ページ統括版

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【すまない。とんだ迷惑をかけてしまったな】
《構わないさ。君が快復すればポポロカも喜ぶだろう。お礼ならポポロカに言うんだね、いち早く君の存在に気付いたのはポポロカなんだから》
 ハユマは、自分が身を埋めている床に目をやった。腰より下を覆っている掛け布団の上に、ポポロカが突っ伏している。

 
 ハユマが意識を取り戻したのは、今より一時間ほど前のことだ。それまでポポロカは、熱心にハユマの看護に当たっていた。尤も、梔子高千穂の目から見て、それは看護の類には見えなかったのだが。
 通常の幼子が出来るようなことではなかった。
 昨日、正午を少し過ぎたくらいの時間に帰宅したポポロカは、そのままハユマの看護の役目を梔子高千穂から引継ぎ、梔子高が床に就いて尚、その場から動こうとはしなかった。
 今朝。
 梔子高千穂が目を覚ました時、ポポロカは、尚もハユマの心臓部に掌を添えながら、熱心に何かを念じていた。時折、ぶつぶつと何かを呟きながら。
 もしも夜通し看護していたのであれば、ポポロカまで体調を崩してしまうと梔子高は考えたが、だからと言ってそれを中断させることはしなかった。原理は解らなかったが、それが看護の類であることを、梔子高千穂は知っていた。知っていたから、邪魔をしてはいけないと思ったのだ。
 結局、梔子高千穂は、「あまり無理をしないように」と忠告だけをして、家を出た。
 夕方。
 学校から帰宅した梔子高千穂は、戦慄した。
 そこには、朝に確認した際と、数ミリの差異も無い風景があった。……そこに存在した人間含み、である。
 今まで、ずっとこうしていたとしたならば。
 どう少なく見積もっても、三十時間無いし二十五時間以上。
 その間、飲まず食わずで看護のようなものをしていた証明であった。
 流石にこれではミイラ取りがミイラになってしまうと、梔子高千穂はポポロカの頭に手をやろうとした。「後は私がやるから、ポポロカは少し休むんだ」と言うつもりだった。場合によっては、叱りつけることも厭わぬつもりだった。
 そして次の瞬間、掻き消えるように呟いたポポロカの言葉に、絶句したのだ。
 そのまま、ハユマが目を覚ますまで見守ることしか出来なかったのは、その呟きが起因する。

──ママ。

【この子には、辛い思いばかりをさせてしまっている】
 掛け布団に突っ伏して、ぷぅぷぅと小動物のような寝息を立てているポポロカの頭を、ハユマは櫛で梳かすように撫でる。
 文字通り、懸命な看護の甲斐あって目を覚ましたハユマを確認した瞬間、発条が切れた人形のように倒れ伏したのだ。梔子高千穂が、思わず鼻と口の前に掌をかざしてしまうような、そんな倒れ方だった。
《そう思うなら、これからは自分の体調にも気を使うことを薦めるよ。子供というのは、予想しているよりもずっと注意深く、両親を見ているものさ》
【……そうだな】
 梔子高千穂は苦笑した。自分で口走っておきながら、それは何と現実味を帯びない言葉であることか。
 ハユマを見る。
 どう見ても、母親となるに適齢とされる齢には見えない。それどころか、自分と同年代ほどではないだろうか?
【そう、だな】
 もう一度、噛み締めるようにハユマは呟いた。


 最初、ハユマが不可思議な能力を使って、梔子高千穂の脳内に直接意識を送り込んできた際も、梔子高千穂は狼狽はしなかった。何故ならそれは、既にポポロカとのファーストコンタクトで経験済みであり、梔子高千穂自身も「一種のテレパシーのようなものだろう」と、妙に達観した感想を抱いていたからだ。
 梔子高千穂は、自分に理解出来ないことを否定することはしない。自分が知っていようが知らなかろうが、そういう現象が起こっている以上、それは「ある」のだ。
 ポポロカが倒れ伏した後、ハユマの看護全般は梔子高千穂が引き継いだ。
 看護といっても、それは病人に対するそれであったが、それが梔子高千穂に出来ることであり、またポポロカのような不可思議な能力は、自分の理解の範疇を遥かに逸脱しており、従ってそれらのような作業全般は、管轄外である。
 梔子高千穂は、ハユマに敬語を使わなかった。看護の場や看護そのものを請け負ったのは自分であり、従ってこの場で優位なのは自分であって、それに加えハユマの風体は、どう見ても自分より年長の者には見えなかったからだ。
 お粥を作って食べさせようとした時も、【自分で食べられる】と言ってごねるハユマに、半ば強制的に食べさせた。病人の「自分で出来る」ほど信用出来ないものは無い。
 それに、だ。
 何だか、誰かさんを思い出した。
 誰かさんを思い出したものだから、その作業が楽しくてしょうがなくなってしまったのだ。
《君のことは、ミヤコから聞いているよ。お化け甲冑さん》
【……ああ、ノベオカミヤコのことか。すると、君はノベオカミヤコの伴侶なのか?】
《まさか》
 我ながら、相手に失礼ではなかろうかと思うほどの嘲笑だった。しかしそれは、嘲笑せざるを得ない予測である。ハユマの常識ではどうだか知らないが、少なくとも一般常識に於いて、自分は結婚適齢期には程遠い。
 だがしかし。
 その予測を、完全に嘲笑し切れない自分がいるのもまた、事実である。
 最近の自分は、どこかがおかしい。少し前までは、ミヤコに対してこんな感情を抱いてはい……なかったと断言することは出来ないが、「何を今更」という抑制要素があったため、その感情は苦も無く抑えられていたのだ。
 ある日をキッカケに、その感情が爆発的に膨れ上がった。
 ミヤコと接触していない時は、何とか抑えられる。だがしかし、行動を共にしている時が厄介だった。
 放っておけば何をしでかすか解らない、ミヤコに対する淡い想い……という言葉で表現するにはあまりにも強大過ぎる、欲情とも言えるその感情を抑えつけるのは、中々の重労働である。
 現に、抑え切ることの出来なかったケースも存在する。
【君は、私の夫に似ているな】
 梔子高千穂は首を傾げた。失敬な人だとは思わなかったが、ボーイッシュを心掛けた記憶も無い。
【気を悪くしないでくれ。容姿や何かの話ではなく、そうだな……雰囲気。雰囲気が、私の夫によく似ている】
 不意にハユマは、何かを思い出したかのように目を細めた。
【そしてポポロカがここにいる、か。そうか、では君が……】
《うん? それはシナリオの新しい展開かい?》
【シナリオ?】
《いいや、こっちの話さ》
 梔子高千穂は、いつものように微笑んだ。傍観者が出演者に次の展開を聞くのはマナー違反だろう。ハユマの言動から察するに、ここでもう一人の自分が出て来るとかなら面白いが、流石に自分のそっくりさんを見つけるのは難しいと思う。尤も催眠術やテレパシーの類まで扱う集団だ、それくらいはやってのけそうだが。
【私は、もう一人の君を知っている】
《へぇ》
 もしここで、本当に自分のそっくりさんが現れたら、その時は流石に狼狽を禁じえないかもしれない。世界には自分に似た人間が三人はいる、という古事があるが、その類なのだろうか? それとも、ドッペルゲンガーの一つや二つ現れるのか?
【私は彼を、ノマウスを殺さなければならない】
《……私は、理由を問うてもいいのかな?》
 ハユマは、表情に影を差して俯いた。梔子高千穂は、その行動から回答を読み取る。
 きっと本来ならば、聞いてはいけないのだろう。応か否かの二通りの選択しか無いこの問いの返答を濁すということは、大分が「否」である事に他ならない。
……本来ならば、だ。
【話そう。君にとっても、それは関係の無い話ではない】
《暖かい飲み物でも用意しようか。少しばかり待っていてくれたまえ》
 言いながら、梔子高千穂は腰を上げた。幼少の頃は、正座というものが毛虫よりも嫌いだったものだ。しかし最近では、どうにも座るなら正座でなければ落ち着かなくなってしまった。
 心地良い痺れの残る足で歩を進めながら、考える。
 さて、これは「話してはならないことを話す」というイベントなのか? はたまた、本当に話してはならない、一種のネタバレ要素的なものをお聞かせ願えるのだろうか?
 どうあれ、病人の心は、その体調に比例して脆弱になるものだ。脆弱になるから、何かに縋りつきたくなる。誰かに、話を聞いて欲しくなる。
 耳を傾けるくらいならば、罰も当たるまい。



************************



【〈ンル=シド〉のことは?】
《ポポロカから聞いているよ。詳しいことは解らないけれど、どうにも世界が大変な事になるらしいじゃないか》
 梔子高千穂にとって、それは興味深い話の一つである。地球が滅亡する、生命が絶滅する等々の事象であれば、容易に想像はつく。だがしかし、世界が崩壊するとは、どういうことなのだろう? 世界が崩壊するということは、何が、どうなることなのだろう?
 問うまい。おそらくはハユマも、それを把握している事は無いと予想出来たし、本筋はそこではないのだ。
【〈ンル=シド〉は、私の夫だ。〈ンル=シド〉に選ばれたのは、私の夫ノマウスだった。だから私は〈エティエンナ〉として、ノマウスを抹消しなければならない】
《それは、極論だろう? 『〈ンル=シド〉に干渉することが出来る』というのが〈エティエンナ〉の仕様だと、私はポポロカから聞いているのだけれど。違うのかい?》
【いいや、違わない。だがしかし、それ以外に方法が無いんだ】
 梔子高千穂は、その意見に対して首を傾げる。
「方法が無い」という言葉が、好きではなかった。
 梔子高という名字を持っている以上、梔子高千穂は梔子高日豊の一人娘であり、「やれば出来る」が座右の銘である梔子高日豊の一人娘である以上、「出来ない」「不可能だ」という言葉に負の感情を抱くのは父譲りであり、何の不思議でもない。
【カスカ学会上層員の一人娘であっても、所詮は娘でしかない。私に、それ以外の方法を模索出来るほどの叡智は無い。あまつさえ、学会ですら『それしか無い』と結論を出したのだから、それ以外の方法など、考えることは出来ない。唯一の希望である私の異空間同位体も、未だ見つける事が出来ずにいる】
 梔子高千穂の中で、ハユマの株がみるみるうちに下落してゆく。
 平たく言えば、それは結局、模索していないのと同意義なのだ。模索もせずに極論に走ろうとしているのだ。
【もう、それしか……方法は無い。絶対に】
……だから。

《有り得ないね》

 そんな風に真っ向否定すれば、ハユマは気分を害するかもしれないとは、考えもしなかった。
《方法が無いなんて有り得ない。絶対なんて、存在する筈が無い》
 ハユマが顔を上げ、梔子高千穂を見る。
 珍しい事である。
 梔子高千穂は、不機嫌だった。
《全能の逆説を知っているかい? 全能とは真の意味で全能なのかという設問を説いた、哲学上の逆説の一つだ。例えば、『絶対に誰にも持ち上げられない岩』があるとする。全能は、これを持ち上げることが可能なのだろうか? ……矛盾、しないかい? その岩が持ち上げられないのであれば、全能は『全能』ではないし、その岩を持ち上げられたとしたならば、その岩は『絶対』に誰にも持ち上げられない岩ではない。つまり、『絶対』と『全能』が同時に存在することなど、有り得ないのさ》
 誰かさんなら、この話だけで船を漕ぎそうだなと、何とも無しに梔子高千穂は考えた。そう考えたから思わず可笑しくなり、不機嫌も少しは和ぐ。
《仮に〈ンル=シド〉が『全能』だったならば、〈エティエンナ〉なるものが存在する筈が無い。干渉が可能である〈エティエンナ〉が存在する時点で、『全能』という前提が崩壊するからね。それに、絶対に方法が無いのであれば、そもそも〈ンル=シド〉を討伐することも不可能だ。討伐が可能であれば、〈ンル=シド〉は『絶対』ではない。そして現実問題として、〈エティエンナ〉は確かに存在し、討伐という選択肢も可能である》
……否。
 誰かさんは、船なんか漕がなかった。
 そう言えば過去にこの話を、彼にもしたことがあったのだ。
 確かその時、彼は珍しいことに船を漕がずに、甚くこの話に感銘を受けていた筈だ。
「やれば出来るんだ」と、爛々と目を輝かせていた筈だ。
 ああ。だからなのかもしれない。
 彼は今、必死に頑張っている。
 自分には解らない場所で、自分には解らない事を、彼は必死に頑張っている。
 きっと今頃、自分には荷が重いと嘯きながらも、自分に出来る事など塵芥に等しいと嘆きながらも、自分に出来ることを、精一杯模索している筈だ。
 だからなのだろう。
 梔子高がハユマに苛立ちを覚えたのは、自分に出来ることを模索しようともせずに、極論に落ち着いて嘆いているハユマを、自分に出来ることを精一杯模索し、極論を避けようとして嘆いている誰かさんに、投影したからなのかもしれない。
 そう言えば、よく似ている。
 ハユマは自分を、雰囲気が夫に似ていると評した。しかし、そう評したハユマもまた、雰囲気が誰かさんにそっくりだ。
 だからこそ、許せない。
 誰かさんに雰囲気が似ているハユマが、こんな風に後ろ向きな姿勢でいることが、梔子高千穂には許せなかった。
《つまり、〈エティエンナ〉が存在し、討伐という選択が可能であるならば》
 少しだけ。
 梔子高千穂は、指に力を込めてキータッチした。
《他にも方法はある。『絶対』に》



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「──それが、僕の推論だ」
「ふーん」
 ノマウスの、耳から服用するマイスリーとも言えるような超理論を延々聞かされたものの、延岡都のそれに対する感想は、三文字で表現出来る腑抜けたものだった。『絶対』や『全能』など有り得ないと延々語り聞かせておきながら、〆に「他にも方法はある。『絶対』に」などとは、随分なお言葉である。落語でも始めると良い。空き缶が飛び交うこと間違い無しだ。
 どこかで、聞いたことのあるような気もする。
 どこで聞いたのかは……知らん。忘れた。大方、誰かさんの長口上の一つだったのだろう。
 誰かさんと言えば、だ。
 流石は異空間同位体、と言えるだろう。
 この目の前のニヤケッ面は、本当に誰かさんに似ていると、延岡都は思った。


 確か、自室のベッドで、今後のことを考えていた筈だったのだ。
 しかし、毛布の温もりというものは中々に凶悪な野郎で、まだまだ考えることが山積みである延岡都を、そんなことは知ったことかと言わんばかりに眠りの世界へ引きずり込んだ。


 そして、ここに居た。
 予想はしていた。おそらく何かしらのキッカケがあった時、自分はこんな風に、真っ暗な、目を開けているのか開けていないのかすらも解らない、音も無い世界に降り立つのではないか、という予想を。尤も、まさかこんなタイミングでそれが発生するとまでは予想出来なかったが。
 いよいよ、のっぴきならない状況になった、ということだろう。
「居るんだろう? ポポロカ」
 延岡都は、虚空に向かって呼び掛けた。
 必ず、居ると思ったからだ。
 仮にこれが夢であれば、それならそれで良し。夢じゃなかったならば、こんなことが出来る人物に心当たりは一人しかいない。
 そしてその予想は、見事に的中する事になる。
「……ごめんなさい」
 まるで、空気の断末魔のような声だった。内輪で仰げば掻き消えてしまいそうな、微かな、しかし悲痛に満ちた声。
 斯くしてポポロカは、確かに延岡都の正面に存在した。
「何があったのか、説明してもらってもいいかな?」
 延岡都が問いかけるも、ポポロカはいつものように、淡々と説明することはしない。ただ俯いて、下唇を噛み締めている。
「ポポロカが僕に何をしたのかの説明はいいや。多分、それは重要じゃない。僕には理解出来ない方法で、ポポロカは僕をここに呼んだ。それでいいと思う」
 それに、説明されたところで理解は出来ないだろう。この段階まで来ると、流石の自分でもそれくらいの予測は出来る。
 それなら、自分に理解出来ることを聞こう。
「教えて欲しい。僕がここにいることは、キッカケなのかな? これをキッカケと認識して構わないんだろうか?」
「〈ンル=シド〉が、自分自身の崩壊を開始したの」
 舌を打った。……二通りの仮説のうちの、的中して欲しくない方を取ったか。
「ここは、世界の外側。崩壊して、活用が不可能になった情報が流れ着く、ゴミ箱とも言える場所なのよ」
 よく見れば、ポポロカの体は、水につけた和紙のように薄く透けている。
「意識だけを、ここに連れて来たの。今、ポポロカとミヤコの肉体に何をしても、ポポロカ達が目を覚ますことはない。意識がここにあるから、肉体は活動することが出来ないのね。植物人間が、一番近しい表現なのかもしれないの」
 ポポロカが、息を詰まらせた。取り返しのつかない失敗を報告する時、人はこんな風に息を詰まらせる。
「……ポポロカの力じゃ、元に戻せない。ミヤコの意識を元の肉体に戻すことは、もう出来ない。ポポロカがここに留まることも、そう長い間は出来ないのね」
「うん、解った」
 しかし延岡都は、事も無げにそれを受け入れた。
 嬉しかったのだ。
 ポポロカが、こんな風に人の迷惑を顧みずに行動したことが、嬉しかった。
「ポポロカ」
 ポポロカは、何も言わない。ただ、下唇を噛んでいる。
「安心して。僕が、必ず何とかするから」
 ポポロカは、何も言わない。ただ、下唇を噛んでいる。
「ノマウスは……ポポロカのお父さんは、絶対に消させやしない。必ず元通りにする」
 弾かれたように顔を上げて、延岡都を凝視した。
 どうして?
 目が、そう問うていた。
 様々な意味合いがあるのだろう。どうしてそのことを? どうして許すのだ? どうしてそんな風に、自信満々で宣言出来るのだ?
「ポポロカ。もう、我慢するのは止めなよ。迷惑だなんて思わない。ポポロカはもっと、ワガママになっていいんだ」
 延岡都は、先だってのポポロカの言葉を反芻する。
 どんな結果になっても、それが自分の望んだ結果や、ベストを尽くして出した結果ならば、一切文句は言わない。すべてを受け入れる。
 例えそれが、〈ンル=シド〉を……父親を犠牲にした結果だったとしても、だ。
 良く出来た子である。自分の気持ちを押し殺して、偉い人達の決定に従って、これまで動いてきたのだ。偉いねと、良い子だねと、褒めて然るべきだ。
……。


 そんな筈、ねぇだろ。


 四歳だ。保育園に赴くような年だ。デパートで、母親にお菓子を強請って泣き喚く年なのだ。テレビゲームよりも、真っ赤なスポーツカーの模型に目を輝かせる年だぞ?
 父親が。母親が。恋しくないものか。
 そんな非情な決定に、文句一つ言わずに従っていい筈があるものか。
「……助けて」
 延岡都の言葉が引き金だったのかは、解らない。
 だがそこには、理性にギチギチと締め付けられた本音は、確かに存在していた。
 そしてそれは、音も無く決壊を始める。
「パパを、殺さないで。パパを、助けてあげて下さい……お願い、します……」
 おそらく、延岡都がこれまで目の当たりにしたポポロカの仕草の中で、一番その身に相応しい仕草だった。
「も、もう、ポ、ポロ……ポポロカじゃ、な、に、何も、出来、出来な……」
 泣いたのだ。
 唇を噛み締めて、ぽろぽろと、泣いたのだ。
「大丈夫。僕に任せて」
 延岡都はポポロカの頭に手を乗せて、満面の笑みでその哀願を承った。
 実のところ、良い方法があるわけでは無い。作戦も無ければ、秘策など持っている筈も無い。
 ただ、まず始めにやることは決まっていた。
 怒鳴りつけてやるのだ。場合によっては鉄拳制裁である。
 ポポロカの懇願は聞き入れよう。だがしかし、自分の望むように行動するという公約を無効にするつもりは無い。
 世界がどうとか、知ったことか。僕は、僕の許せない理由で、〈ンル=シド〉とやらを責め立ててやるのだ。
「お願いします……お願いします……」
 そう何度も何度も呟きながら、徐々にポポロカの体が透明度を増す。
 そして、消えた。跡形も無く。
 最後まで「お願いします」と反芻しながら。
 残ったのは、延岡都一人。
……と、もう一人。
「さて、と」
 延岡都は、誰に聞かせるわけでもなく嘯きながら、指の骨を鳴らした。
「もう一人」に対する鉄拳制裁の気、満々である。


 そして。
 相対した。
 今回の騒動の張本人であり、本人含む皆々の頭痛の種であり、延岡都基準の殴り倒したい男ダントツ一位。
 ノマウス、その人である。
「始めまして、だね。君がハユマの異空間同位体か」
「始めに、言っておくよ」
 かつて誰にも見せたことの無いような憤怒の形相を隠すことなく、延岡都はノマウスを睨めつける。
「僕が、アンタを殴らなくてもいい理由があるなら、今のうちに言っておいてくれ」
 尤も、聞いても理解は出来ないことは解っていた。解っていたし、理解出来たところで拳を緩めるようなことをするつもりは、一切無い。
「考えうる限り最悪の方法を選んでくれやがって。当然、誰もが納得出来るような理由があるんだろうな? もしも限界まで考えもしないでこんな方法を選んだのなら、僕なりの制裁をさせてもらう」



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【──私がそうノマウスを叱責した瞬間、一度目の暴走が始まった】
《母は強し、だね》
 後ろ向きな案に定着してしまった夫を叱責するような、強かな妻。やはり女はこうでなくてはいけないと、梔子高千穂は何度も頷きながら思う。
【今でも、間違ったことを言ったとは思っていない。有無を言わさず甲冑と剣を身に着けさせられ、何を言うかと思えば『自分を斬れ』だ。後悔していることと言えば、張り手の一つでも喰らわせておけば良かったということだけだな】
《でも、斬らざるを得ない状況になってしまった》
 梔子高千穂がそう言うと、ハユマは俯き、太陽を直視した時のような顔色を模る。
 それでも。
 愛する夫の願いを、妻は忠実に遂行したのだろう。
 そうせざるを得ない状況になってしまったから。そうしなかった時に待ち受ける結果は、夫が最も望まない結果だと、容易に想像出来たから。
【流石、と言うべきなのだろうな】
 ハユマが、瞑った目を薄らと開けて呟いた。
【先ほど君の言わんとしていたことは、私には解らない。私には過ぎた話なのだろう。ただ夫も、君と同じようなことを言っていた気がする】
 おそらく、時間が足りなかったのだなと思う。時間さえあれば、もっとリスクの低い方法を思いついたのだろう。
【私には、解らない……解らなかったんだ】
 ポポロカを抱きかかえ、別途用意した布団に横たえた。よほど深い眠りに落ちているのだろう、寝返り一つ打たない。このまま二度と目覚めないのではと心配するほどだ。
【助けたい。夫の力になりたい。どんな些細なことでもいい。ノマウスを助ける為に、自分に出来ることをしたい。……でも、解らない! 些細なことすらも解らないから、励ますことすら出来ない!】
《出来るさ》
 ポポロカに掛けた毛布を定期的に掌で撫でながら、事も無げに梔子高千穂はそう言い放つ。
《根拠なんかいらない。ただ一言、でも何度も何度も、『大丈夫! 何とかなる!』って、言葉をかけてあげれば良かったと思う。それだけで良かったと思うんだ》
【そんなもの、根拠の無い励ましなど……! 君に、何が解る!】
《もう一人の私なんだろう? だったらきっと、そう思った筈さ》
 ハユマが、口を噤む。怒鳴り散らしたいが、怒鳴り散らす言葉が思い当たらない。そんなところだろう。
 根拠の無い励まし。
 それは、自分達のような理屈屋には出来ないことだ。理に適った理屈が無ければ発言すら出来ない、自分達のような理屈屋には出来ない芸当。
 だからこそ、欲しい。本当に困った時には、そんな根拠の無い励ましが、欲しいと思う。
 そして自分には、そんな根拠の無い励ましをしてくれる誰かさんが居た。「よく解らないけど、梔子高なら大丈夫なんじゃないかな?」と、根拠の無い絶対の信頼を寄せてくれる誰かさんが居た。
 だから再び、考えようと思える。そんな無責任な誰かさんの信頼に応える為に、知恵を振り絞ろうと思えるのだ。
……想い人の言葉には、それほどの力がある。
【そんなの、言われないと──】



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「──解らないじゃないか。夫婦であっても他人なんだから、言われないと解らないことだって沢山ある」
 ましてや根拠の無い励ましを求めていたなどとは、言われても釈然としないだろう。
「心配をかけたくなかった、と言えば、納得してくれるかな?」
「しない。するわけないだろ」
 延岡都は、憮然としてその言い訳を突っ撥ねた。心配をかけたくなかったなど、事後にする言い訳としては最低のものだ。最低なのだから、当然納得なんかしない。
 ただ。
 理解なら、出来るかもしれない。
 心配をかけたくなかったと言うのは、本心なのだろう。奥さんからしてみれば、自分の旦那がとんでもキャラになってしまったなどと聞けば、心労の糧の一つや二つにはなる筈だ。卒倒だってするかもしれない。
 だがしかし、もしも理由が「それだけ」だったのならば、僕は理解すらしていなかっただろう。
 どんなにそれらしいことを言っても、それは結局はエゴイズムであり、先ほど申し上げた通り、事が起こってから「心配をかけたくなかったんだ!」などと言われても、そちらの方が迷惑である。
「おそらく君は、僕を優秀な頭脳を持った男だと考えているのだろう。でも、それは間違いだ。間違いだからこそ、こんな事態に陥ってしまったのだからね」
 お説ごもっともだ。梔子高の異空間同位体なのだから、それなりでもなく、相応でもなく、頭が良いのだろう。絶対に持ち上げられない岩がどうのという話をし始めた辺りから、そんな気はしていた。梔子高と比べても、違うのは性別くらいのものなのではないだろうか?
「君は、僕を馬鹿にするかい?」
「したいけど、出来ない。それは、鏡に映った自分を馬鹿にするようなものだよ」
 ノマウスが、どこかで見たことのあるような微笑を漏らした。何が可笑しいんだコノヤロウ。と言えればいいのだが、何が可笑しいのかなど一目瞭然なので、悔しいがそれを言うことは出来ない。
 そう。
 コイツは、男だ。
 それも、僕とそれほど年齢の離れていない、僕の世界では未成年と表現出来る年だ。男の子なのである。
「自分の力を妄信していたわけじゃない。ただ何というか……それでも、一人で何とかしてみたかった。ハユマやポポロカを巻き込むことなく、自分の力で何とかしてみたかった」
 延岡都は、やれやれとは思わなかった。ただ、何か恥ずかしいものを目の当たりにした時のように、両目を掌で覆って、頭を振った。
 どこの世界でも変わらんのだなぁ、と思う。
 要するに。

 格好良いところを見せたかったのだ。

 愛する妻に。愛する息子に。
 自分が有能であるところを見せつけたかったのだ。自分の力で解決する場面を見せつけて、自分に魅力を感じて欲しかったのだ。格好良いと思って欲しかったのだ。自分自身でも自信を持てるように、「一人で出来るもん」という格好良いことをしてみたかったのだ。
 延岡都はかつて、梔子高千穂に「一人で頑張らせて欲しい」と主張した。それは、言えない理由があったからだ。梔子高千穂には言ってはいけないという条件があったからだ。
……本当に、理由はそれだけか?
 馬鹿な、と思う。食事も咽喉を通らぬほどの満身創痍の状態で尚、そんな公約を律儀に守り通せるほど、自分は強くはない。
 考えるまでもない。「一人で頑張る」ことを頑張っている自分を、誰かさんに見て欲しかったんじゃないのか? そうして「素敵な男の子だ」と思ってもらおうという、この上無く汚くて、独り善がりで、恥ずかしい謀略を企てていたのではないか?
 ふと、思う。
 もしかして、アイツもそうなのか?  アイツもまた、同じような事を考えながら行動しているから、無難に何でもこなせるように見えるし、いつも余裕綽々で無難な薄笑いを浮かべていられる「ように見える」のか?
 思ってすぐに、延岡都は頭を振った。まさか、な。
 ……そんな都合の良い穿ち、あるもんか。
 それはともかくとして、どうあれそれは、理解出来る理由でもあり、また納得出来ない理由でもあった。
 理由は言うまでもないが、この場は敢えて口にしよう。
「結果が出せなきゃ──」



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《──世話がない、なんてことは解っているんだ。解っているんだけども、そうすることを今更止められない。何故なら、今までそうして来たから。それが、自分のスタイルだからね》
【……そんなことしなくたって、私やポポロカは始めから……】
《始めから、何?》などという無粋な詮索はしなかった。ただ、それに対して苦笑を漏らす権利くらいは、梔子高千穂にはある。義務とも言えるが。
 羨ましい、とは思わなかった。
 隣の芝生は青い、という言葉がある。自分の所持している芝生と隣人の所持している芝生を見比べて、どこか自分の方が朽ち果てているように見える様を描いた、他人が持っていて自分が持っていないという劣等感を表現する言葉だ。
 自分の芝生が青いのだから、ハユマの芝生を羨む理由は無い。
 梔子高千穂の心情を表現するならば、「どうです、うちの芝生は? まぁお宅の芝生も負けず劣らず青々と茂っていますがね」と言った所だろうか。
《私達のような人間はね、つくづく身勝手なのさ》
 ハユマが、伏せた目を梔子高千穂に向ける。
《自分一人の力で何でも出来るところを見せ付けたい。見せ付けて、自分に魅力を感じて欲しい。自分のことを、凄い奴だと思って欲しい。そんなことを考えているクセに、だ》
 誰かさんには、口が裂けようが自白剤を投与されようが、漏らすことは出来ない本音。
 でも、ハユマになら言える。この、誰かさんではないけれど、この上無く誰かさんにそっくりなハユマになら、自分の本音を漏らすことが出来る。
《……実を言うと、いつだって助けを求めてる。『君なら大丈夫さ』って思って欲しい気持ちとは裏腹に、『君を助けるよ』という言葉を、いつだって待っているのさ。そんな矛盾の葛藤があるからこそ、言えない。言わなければ伝わらないことは解っているけれど、言えないんだ》



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「……馬鹿だよ、そんなの」
 延岡都は、呆れたように呟いた。



【……馬鹿だ、そんなのは】
 ハユマは、何かを後悔するように呟いた。



「そうだね。とても馬鹿だ、僕は」
 ノマウスは、自傷するように肯定した。



《そうだね。とても馬鹿だ、私は》
 梔子高千穂は、恥らうように肯定した。



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 蓋を開けてみれば、この体たらくである。
 言わんこっちゃない。
 荷が重かったのだ、僕「ら」には。
 どいつもこいつも、だ。揃いも揃って、自分には荷が重過ぎる責任を、或いは背負わされ、或いは自分から進んで背負って、そしてもがいている。挙句の果て、性根の探り合いすら出来ずに、このザマである。
 板垣さんは言っていた。「これはある種、喜劇とも言える」と。
 お説ごもっとも。これは喜劇以外の何物でもない。いや、演劇ですらない。
 大きな声で、身振り手振り、表現するのが、演劇だ。
 雁首揃えて自分の中でだけウジウジネチネチと燻って、このザマだ。自分が観客なら、「金返せ」と空き缶の一つくらいは投げつけてやる。
「本当に……本当に、愚かだ。今となっては、謝ることすら出来ない。このような状況になってしまった以上、僕はもう二度と、ハユマに会うことは叶わないのだろう。会えたところで、見せる顔は無い」
 何とも無しに。
 まるで、天啓を得るように、延岡都は。

「ああ、この為か」と、すべてを理解した。

「言えよ」
 ノマウスが、微かに首を傾げる。
「アンタの本音。謝らなくてもいい。それは無意味だし、今更謝られてもしょうがないだろう? だから、アンタの本音を聞かせろ。ハユマには言えなくても、僕には言える筈だ」



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《私の本音。謝ることはしない。それは無意味だし、今更謝ってもしょうがないことだからね、自分で言うのもなんだけれども。だから、私の本音を言うよ。誰かさんには言えなくても、君には言えるからね》
 これは、誰の言葉だろう? 梔子高千穂はそう思う。
 当然、自分の言葉だ。自分の意思で、自分の口から吐き出されるのだから、それは自分の言葉に他ならない。
 でも、もしかしたら違うのかもしれない。そういう風にして聞かされる、他人の言葉があるのかもしれない。
 これは、誰に向けた言葉だろう? 梔子高千穂はそう思う。
 当然、ハユマに向けた言葉だ。ハユマの目を見て、ハユマに放つのだから、それはハユマに向けた言葉に他ならない。
 でも、もしかしたら違うのかもしれない。そういう風にして伝える、誰かへの言葉があるのかもしれない。
 そう思わないか、誰かさん?

 茶を飲んで、一往復半。
 吸って、吐いて、吸って。梔子高千穂は、覚悟を決めるように、その言葉を紡いだ。
 それは、TTSに頼らない、梔子高千穂本人の声で放たれた、美しい悲鳴。
 余裕振った自分を演出するために常日頃使用しているものではない、本音の慟哭。
 誰かさんに対する、「ここ一番」のとっておき。



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「私を、助けて。私に、手を差し伸べて。そうすれば、一緒に頑張れるから」


「僕が、助ける。僕が、手を差し伸べる。そうすれば、一緒に頑張れるだろ?」




 そして。

       

表紙

六月十七日 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha