賭博異聞録シマウマ
第一話 闇に舞い降りた少女
今日は俺の十七回目の誕生日だった。
そして恐らく、命日になるだろう。
帰宅ラッシュが終わり、すっかり人気がなくなった駅のホームに俺はいた。学校帰りからずっとここにいるから、もう何時間もまるで人形のように立ち尽くしていることになる。
幾度となく過ぎ去っていく電車を見送りながら、俺はいつ死のうかと思案していた。躊躇もしていた。しかしどうしても死なねばならなかった。
平常から死にたい死にたいと繰り返していた俺だが、いざ死のうとすると足が動かない。どこかの国では宗教のために人が死ぬ。そうすれば極楽へいけるのだという。しかし資本主義かつ無宗教のこの国で一体なにを信じろというのか。
生きることも死ぬこともできず、俺はただ途方に暮れるしかない。
駅前の繁華街からは誰かの楽しげな笑い声やパチンコの騒音、行き交う車のエンジン音などが聞こえてくる。すべて俺から遠くの世界で起こっていることだった。ああ、俺も普通に生きてみたい。友達と楽しく過ごして、彼女とか作って、まじめに働いて、いい上司や部下に恵まれて、孫の顔を見て死んでいきたい。しかしダメだ。
死ね、馬場天馬。おまえは死ななければならない。
なぜなら、俺が生きていれば妹が地獄の苦しみを味わわねばならなくなる。
単純に命の価値の話だ。誰からも必要とされない俺が犠牲になり、みんなから愛されている妹が助かるべきなのだ。
ああ、死にたい。しかし死ねない。恐ろしくて……。
電車が来る。何本目だろう。
「早くしてよ、電車来ちゃうでしょ!」
「大丈夫だって、急がなくてもさあ」
高校生らしき制服を着たカップルがはしゃぎながら階段を駆け上がってくる。俺はため息を吐いた。
ああ、いっそ俺をここから落としてくれないだろうか……。
そんな言葉が頭に浮かんだ瞬間、俺の身体は中空へと投げ出された。突然だった。女の「あっ!」という声が聞こえたかと思うと、顔めんにはげしいしょうげ、き、が……。
深い……とても深い眠りから、俺は目を覚ました。
ここはどこだろう、俺はどうして寝ているんだろう。寝過ごした時によくあるように、記憶が判然としない。思い出そうとするが、なんだか考えるのが面倒で、俺は寝返りを打った。もう一眠りしたい。
ああそれにしても、いま何時だろう。もう朝だろうか。もしかして昼だろうか、それなら学校を休んでしまったことに……。
学校?
俺は布団を蹴飛ばした。重い体を起こし、そしてようやくここが自分の部屋ではないことに気づいた。俺の部屋にテレビはない。
どこだここは?
ベッドも机も見慣れぬものだ。ただ本棚の中身には見覚えがあった。『徐々に奇妙な冒険』や『賭博黙示録アカジ』が全巻置いてある。しかし俺の本棚に『30世紀少年』はない。
ととと、と足音が聞こえた。自然と身がこわばる。
「あ、起きた?」
扉を開けて現れた人物を見て、俺はまだ夢を見ているのかもしれないと思った。くりくりした大きな目が不思議そうに俺を見つめている。
「大丈夫?」
夢のような美少女が、俺に向かって首を傾げていた。頬を噛んでみる。痛かった。
「……というわけだったんだ」
「そうですか、ありがとうございました」
そう言う他になかった。
少女の話によれば、駅のホームに落ちそうになった俺を反対ホームから見ていた彼女は、線路を走り抜けて俺の顔面に膝蹴りを食らわしてホームに戻したのだという。
だが、残念ながら究極のお節介だ。俺は死にたかったのだから……。
「ねえ、なんで死のうとしてたの?」
少女はパソコン机に腰かけながら問いかけてきた。正しくはバカップルにぶつかられただけなのだが、元々死ぬつもりだったのは間違いない。しかしどうしてその理由を、命の恩人とはいえ見知らぬ他人に喋らなければならないのか。
「あの……ええと」
「ん? ああ、そうだった。嶋あやめって言います。君は?」
「……馬場天馬」
「馬場くんか。歳いくつ?」
「十七……」
「ふうん、高二?」
「まあ」
その後も嶋あやめは俺にいろいろと質問を重ねた。どこに住んでいるのか、高校はどこか、家族はいるのか、学校は楽しいか、などなど……。俺はうんざりしながらも、他にすることもないのでいちいち答えてやった。
「投身自殺なんてよくやろうと思ったね。痛そうじゃない?」
「べつに……一瞬で死ねればなにも感じないでしょ」
「死ねなかったらどうするつもりだったの? しばらく生きてることとか、あるらしいよ」
「……知るか。なあ、あんたなんなんだ? 助けてくれたとはいえ、どうしてあんたに身の上話なんてしなくちゃならねえんだ」
少し言い過ぎたかと思ったが、シマは照れくさそうに頭をかいた。気にしていないようだ。
「実はわたしさ、大学で心理学を専攻してるんだ。なにか助けになれるかも、と思って」
……助けだと?
俺は激しい嫌悪にかられた。心理学を専攻? 数年前に俺を診察したプロの精神科医はなにもできずにサジを投げた。それをただの学生にいまさらどうにかできるわけがない。
俺を憐れんでいるのか? それとも蔑んでいるのか? 俺を見る人間の目は常にどちらかだ。そして共通なのは、どいつもこいつも俺を『どうしようもないクズ』だと見下している点だ。
俺はシマの目を憎悪をこめて睨みつけた。
無垢な瞳に「?」と書いてある。
……?
その時、なにか違和感を感じた。
なんだろう、なにか今まで見てきた人間と違うような……。
ただのお節介焼きに見える目の奥に、なにか、俺の想像しているのとはべつの意志があるような気がした。
なんだ……こいつ……。
そもそもおかしくないか? いくら人が死にそうとはいえ、電車が迫ってくる中の線路へ飛び込んでくるだろうか。
善意にそこまで人を動かす力はない。
なら、なにがこのシマという人間を動かしめたのだろう……。
ふと気がつくと、俺の口は物語り始めていた。
学校時代は輝かしい時代であり、この時にしかできないことがたくさんあるという。
そして俺は、そういったあらゆるものを失ってきた。
小学生の時、えんぴつを取った取らないで女の子を突き飛ばし、怪我をさせた。
それ以来、誰からも相手にされなくなった。
ブレーキの効かないやつらのサンドバッグとして大抜擢されたのもこの頃からだ。
中学生の時、俺は部活に入らないというだけで教師に呼び出された。
我慢できなくなり、机を蹴り飛ばしたら体育教師に殴られた。
このことは学校全体で隠蔽され、俺は自分で転んだ怪我をしたことになった。
修学旅行、運動会、文化祭、音楽祭……そのすべてを欠席した。
あまりの孤独におかしくなり壁を殴りつけ拳を骨折し、ついに母親に精神病院に通院させられるようになった。
『学生時代の友達は一生の宝物』
この言葉を聞くたびにぞっとした。
では、それを得られなかった俺はなんなのだ?
生きていても無駄なのか?
……無駄なのか?
高校に進学するつもりはなかった。ただ両親に「どこでもいいからいってくれ」と言われ、勉強だけはそこそこできたので普通科の高校に進学した。
そして今日に至る……。
そう、あの悪魔の取引を持ちかけられた今日に……。
「おーい、みんな聞いてくれ! 馬場が一発芸してくれるってさ!」
倉田の大声にクラス中の注目が俺に集まる。一気に冷や汗が背中に吹き出す。
しかし俺はそんなことおくびにも出さず、へらへらと答えた。
「お~い~やめてくれよ~。できねえよそんなすぐにはあ。えへへ」
「いいからやれって! みんな見たいだろ?」
クラスの人間の反応は様々だ。
にやにやしながら眺めているもの、嫌悪感を露にしているもの、まったく無視して友達と喋り続けているもの……。
確かなのは、俺の味方は存在しないということだ。
倉田の楽しげな声が教室に響き渡る。
「ほら、いつものやれよ、いつもの!」
思いっきり足を蹴られる。痛い。だが逆らうことなどできない。奴隷はどんな仕打ちにも笑顔で従うだけだ。
俺は精一杯明るく声を張り上げた。
「じゃあいくぜ!
おちんちんびろーん!!」
俺はパンツを下ろした。
誰もなにも言ってくれなかった。
倉田が楽しげに笑っている。俺も笑っていた。涙はだいぶ昔に流れなくなっていた。
下校のチャイムが鳴り、生徒はバラバラに動き始める。部活へ行くもの、帰宅するもの、教室で麻雀を始めるもの……俺はそのどれにも属さなかった。
いつものように誰にも挨拶せずに屋上へいく。
立ち入り禁止の札を無視すると、そこは大空でした。
この高校は生徒数が多く、校舎が8階まである。だから屋上まで来ると街を一望できるのだ。
「よう、馬場」
「やっほー、きてやったぜ雨宮!」
俺のなけなしのプライドが恐怖と屈辱を隠す。
雨宮は屈伸などをして体をほぐしている。そばには取り巻きの倉田と八木もいた。
やつは古くから続く地主の家に産まれ、ボクシング、空手、柔道から剣道まで経験し、成績は常にトップクラス。
校則違反の金髪をしながら唯一教師から叱責を受けない。当然、顔もいい。高い鼻と鋭い顎がスマートでゾッコン、とはクラスの女子の弁。
この学校に舞い降りた天才。それが雨宮だった。
「おい、今日はあの日だぜ。ちゃんと持ってきたか?」
「おいおい、俺が忘れるわけないだろ~?」
へらへら笑いながら、一か月分の小遣いと、親からくすねた金を取り巻き1の倉田に手渡す。倉田は受け取るとすぐに中身を改める。これが無礼に当たると知ったのはつい最近のことだ。
「馬場センパイ、今日もサイコーでしたよ、あのギャグ。マジ廊下からみんなで見てたんすけど、めっちゃウケたっすよ~」
「そうだろうそうだろう、サイコーだったろ!」
取り巻き2、一年生の八木が俺の肩を叩いてくる。
後輩とはいえ身長は180センチを越していて、その細い腕からは鋭いパンチが繰り出されることを俺の腹筋はよく知っている。
「ほらよ」
雨宮がヘッドセットを渡してきた。
「今日もみっちり鍛えてやるよ」
「へへっ、負けないぞお」
太陽との闘いが始まる。
雨宮のグローブが俺のもろい腹筋に弾丸のように突き刺さり、もう何度目かわからないが俺は地面にぶっ倒れた。
それを八木と倉田が抱え起こし、雨宮が畳みかける。
最初はウォームアップがてらに軽くなぶられるのだが、だんだんと雨宮は見境なくなっていく。時折膝蹴りや頭突きなども浴びせかけてくる。
「あああああああっ! 死ねっ、このゴミっ、生きててもしかたねーくせになんで呼吸してんだっ、恥を知れっ、ゴキブリでも食ってれば いいんだっ、貴重なっ、米をっ、無駄にしやがってえええええええ!」
雨宮がなにに怒っているのか、なにを言いたいのかはだいぶ前に考えるのをやめた。理由などない。
恐らく、人間は誰でも自由にストレスをぶつけられる対象を見つけたらこうなるのだろう。
雨宮の気まぐれで、俺は放課後ここに呼び出されて嬲り殺しにされるのが恒例となっていた。
それは10分で終わることもあれば、日暮れまで終わらないこともある。ただし少なくとも最終下校時刻までには帰れるし、ホントに死にそうなときは八木と倉田が止めに入る。
今日もとどめの雨宮の飛び蹴りを俺の腹筋が受け止めたところで
「やめだ」
雨宮はグローブを外した。すっかり辺りは暗くなっている。
「へへ……あい……かわらず……いい蹴りだったぜ……ガクッ」
なんで俺はまだ冗談を叩いているんだろう。自分でもわからないが、雨宮はもっとわからなかったらしい。
跪いた俺の背中を踏みつける。それぐらいもう屁でもない。
頭上から冷たい言葉が降ってくる。
「おまえさあ、プライドとかないわけ。こんなことされてさ、悔しくないの」
絶対的な力に守られてるくせにプライドだ? 寝言も大概にしろこの人格破綻者が。
俺の思いとは裏腹に、口は生き残るための言葉を撒き散らす。
「へいきへいき……トレーニングにもなる……から……」
これで今日もミッションコンプリート。
ようやく家に帰れる……。
しかし、今日はいつもと違っていた。
いつもはそこでどくはずの足が、乗っかったままだ。
「……やっぱ、おまえ死んでいいわ」
「え?」
「ちょっとこれ見てみな」
「おいおい雨宮ぁ、ちょっと馬場くんにはショッキングすぎない~?」
「過激ッスからね~! クク……」
なんだ?
いまさらなにが来たって驚くわけ……。
俺は、雨宮が差し出した写真を見た瞬間に凍りついた。
それには二人の男女が写っていた。全裸で、公園のベンチで絡み合っている。男は女に覆いかぶさっていて、顔が見えない。
そして男の体越しに見える女の顔を俺は毎日見ていた。カメラの存在に気づいていないのか、頬を赤らめ目を細めているのは渚だ。
俺の妹の、馬場渚が写っていた。
そしてこんな写真の使い道などひとつしかない。
「やめてくれ……」
「ん?」
「妹は関係ないだろ……」
「涙ぐましいな、家族愛ってやつか? 俺にはよくわからんが……まあ、安心しろよ。誰も貰い手がいなくなったら俺がもらってやるさ。何人目かな……」
「雨宮は激しいからなあ~おまえの妹、きっと病みつきになるぜ」
「やめろって……」
背中の上の靴にさらなる圧力が加わり、俺は声を出せなくなった。
雨宮が耳元に口を寄せてくる。
「やめてやってもいい。というか、この写真とフィルムを返してやってもいい」
「……どうすればいい。なんでもする」
「なんでもする、か。じゃあそうしてもらおう。
俺とギャンブルしろ。負けたら一生、ただ働きだ」
「……ギャンブル?」
「そうだ。おまえ、麻雀やったことあるか?」
「……ネット麻雀なら、少し」
「よしよし、いいぞ。これでできないとか言われたら興ざめだったからな……」
「待ってくれ、そんなに慣れてるわけじゃ」
「あっそ。じゃ、明日の朝はおまえの可愛い妹のプロマイドが全校生徒の机の中に入ってることになる。
拒否権なんかおまえにはねーんだよ、馬場。
今日の深夜3時、街外れの廃墟に来い。わかるよな? でっけー屋敷だぞ、バイオハザードみてえな」
雨宮はようやく靴を上げ取り巻きを連れて立ち去ろうとしていた。
麻雀? ギャンブル?
負けたら……ナギサの写真が公開される?
これは悪い夢なのか……?
「あ、そうそう」
雨宮は足を止めた。半身で振り向いているやつの口元から、鋭い犬歯がちらりと見えた。
「この写真、すぐに焼き払ってやらないこともない。
「ほ、本当か?」
「ああ。嘘はつかない。
おまえ、自殺しろ」
「え……」
「妹を確実に助けたいなら、死ねば?
クク……ハハハ……」
雨宮の笑い声はだんだんと高くなり、最後は通報されるのではないかと思うほどの高笑いへと変わっていった。
俺はたった一人、取り残された。
頬を噛んでみた。
痛かった。
これが、俺の人生だった。
俺が話し終えると、沈黙が流れた。
シマは話の間、身動きもせずにタバコを吸っていた。そのあどけない容姿でハイライトを取り出した時はちょっとひるんだが、吸っているその姿は不思議と似合っていた。その薄い唇から煙と言葉が転がり出てくる。
「そうか、それで自殺して終わりにしようとしたんだ、妹さんのために。仲いいの?」
「いや……最近は話もしない」
ナギサは社会の枠組みにうまく溶け込めない兄を嫌悪しているのだ。あいつからすれば、自分の平穏な生活を妨げる邪魔者だろう。
「ね、逃げちゃえば?」
俺は驚いてシマを見た。悪びれもせず、それどころか微笑んですらいる。俺の話を冗談だと思ったのだろうか?
「それは考えたけど……できない」
「どうしてかな。べつに仲悪いなら、家族でもどうでもいいって思わない?」
「あんただったら、そうするのか」
「いいや」
なんだそりゃ、と思ったが不思議と怒りは湧いてこない。なんとなくわかった。こいつはからかっているのではなく、本当にそう思って喋っている気がする。……ただの勘だが。
「なにか飲む?」
シマが台所から声をかけてきたが、断った。とてもなにか口にする気分じゃない。時計を見ると10時半。あと半日足らずで勝負の場に赴かねばならない。
くそ……あのまま死んでいれば……すべて丸く収まっていたのに……。
俺を生き永らえさせてくれた張本人は、再びハイライトを短くする作業に従事している。
なんで助けたんだ。
そう言おうと口を開いた瞬間、
「なんで助けたんだ」
シマがセリフを奪い、俺は言葉に詰まった。だがすぐに頭に血が昇った。
「そうだよ、なんで助けたんだ? 話聞いたろ? 俺が死んでりゃよかったんだ……なのに部外者のアンタが余計なことするから……もしかしたら……最悪なことになっちまうかもしんねぇ……!!!
俺はな、どうしようもねえんだ。なにやってもダメ。運動もできねえ、勉強はできても頭はキレない、人望はなし、絵は棒人間、音程なんざわからねえ、性格もひねてて修正不能。誰がこんな人間見て喜ぶんだ!?
俺はなぁ……生きてく才能がねえんだ!!!
死んじまえばいいんだよ!!!!!!!」
声を枯らさんばかりに怒鳴った後、後悔した。こんな言葉こそ他人にぶつけるものではない。無駄なことをした……。そう思い、もう出て行こうと思った時、
「死にたい?」
とぼそっとシマが呟いた。
「なんだよ。責めるのか? 命は大切だの、生きてればいいことあるだの、そういう言葉はうんざりなんだよ。誰も俺の苦しみをわかることなんてできねえのに……」
俺は俯いた。顔を上げるのが恐ろしい。きっとシマは怒っているだろう。軽蔑しているだろう。いままで俺と出会った人たちのように……。
……。
ふ。
ふふ……。
シマは笑っていた。嘲りも怒りもなく、ただ楽しげに笑っていた。
「死にたいか……じゃあ」
シマはタバコを消した。
「殺してあげる」
「は、やってみろよ」
よく知りもしない他人を殺すメリットがどこにある。無駄な問答だ……。
だから俺は、シマが机から拳銃を出した時も動じたりはしなかった。いや、実はちょっとドキっとした。しかし本物の拳銃がただの女子大生の机に入っているわけがない。
なにかが破裂した。
ベッド脇の目覚まし時計が、四回転半ジャンプを華麗にこなして地面に墜落死した。
…………。
え?
俺は呆然とするほかない。
シマはこちらに背を向け、シリンダーを回転させると、ポケットからハンカチを取り出してかぶせた。
「こうしないと、弾丸が見えちゃうからね」
シマはまるで「こうしないとおいしくならないから」と目玉焼きを焼いているフライパンにフタをするかのように自然に喋っている。その顔は狂っているとは思えない。むしろ安楽死する老人のように穏やかだった。
「なに……する気だよ」
「知りたい?」
シマの瞳が無感動に見下ろしてくる。
「生存率6分の1……」
そのかわいらしい唇が歪み、獣のような笑みを作り出す。
「ロシアン・ルーレット」
「…………冗談だろ」
「わたし嘘つくの苦手なんだ。わかりやすいでしょ?」
「こんなことしたって、おまえにメリットなんかねえぞ」
「死にたい馬場くんにはメリットだらけなんじゃない? いいよいいよ、そんなに気にしないで……」
シマが近づいてくる。俺はベッドの縁に後ずさりした。
俺の挙動がおかしかったのか、シマは笑い出した。
「そんなオバケ見るような顔しないでよ。傷つくなあ」
「……それ、本物か?」
俺は顎で拳銃を指し示した。
「うん。友達にもらったんだ」
「どんな友達だよ……」
「ふふ。でも残念だな……君はわたしの友達にはなれないかもしれないんだよね。でもいいよね? いらない命だもん」
シマがベッドの上に侵略してきた。俺の目は拳銃に釘付けになったまま、動かせない。うしろに下がりたくても、すでに最低防衛ライン『壁』まで下がってしまった。
シマの細い手首が、俺の首に回る。小柄な体が、俺の身体に密着する。拳銃が、俺の額に押し付けられる。
ま、待ってくれ。
あれ?
声、出てなくないか?
「どうして人は死にたいなんて言うのか、わたしはずっと考えてきた。けど、わかってしまえばなんてことはなかった」
おい、なんでだよ、なんで声が……。
「つまりそれは今、自分が置かれてる状況、境遇、そういったものに絶望しているから。ああいやでいやで仕方ない、このまま生きていくくらいなら死んだ方が……」
こいつ……。
「人間て不思議だよね。野性の生き物は危機と相対したとき闘うか逃げるか、少なくとも生きようとするのに人は時に生そのものを止めてしまおうとする。肥大した脳の下した結論なのか、あるいは……」
本気だ。
シマの人差し指が絞られる。
「嘘なのか」
「やめ、てくれぇ……」
目から涙があふれてくる。
「……死にたく、ない……いやだ……いやだ……」
シマは拳銃を下ろした。
「いいんだよ、それで。どんなに潔く振る舞っていても、いざその時が来れば恐れおののくのが人間。それが生き物として正しいあり方……それを恥ずかしく思う必要はない。
みんな、ホントは死にたいんじゃない……変えたいんだ。どうにもならないと思い込んでる色んなこと……せめて変えようとしたいんだ」
そうだ、なんとかできるものならそうしたい。そんなのみんな思ってる。
「でも……できねぇよ……俺……」
「一人で生きようとしてるからだよ」
「だってさ……人間はみんな一人ぼっちじゃねえか……」
「目ぇ見えてる?」
「え?」
「目の前にいるじゃん。人間」
「だからそういう意味じゃなくて」
「そういう意味なんだよ。君が着てる服は君が作ったの? 君が食べてるお米は君が耕したの?」
「そんな説教されたって……」
「説教? これは事実だよ。人は一人では生きられない。言い方が気に入らないのかな。つまりさ……」
シマの笑みが深くなる。言い知れぬ不安と期待に背筋がぞくぞくした。
「味方にならないなら、利用してやればいい。骨の髄まで……」
「どうやって……」
「教えてあげるよ。
君に、勝利の味を」
俺は涙をぬぐった。
シマは話の間、身動きもせずにタバコを吸っていた。そのあどけない容姿でハイライトを取り出した時はちょっとひるんだが、吸っているその姿は不思議と似合っていた。その薄い唇から煙と言葉が転がり出てくる。
「そうか、それで自殺して終わりにしようとしたんだ、妹さんのために。仲いいの?」
「いや……最近は話もしない」
ナギサは社会の枠組みにうまく溶け込めない兄を嫌悪しているのだ。あいつからすれば、自分の平穏な生活を妨げる邪魔者だろう。
「ね、逃げちゃえば?」
俺は驚いてシマを見た。悪びれもせず、それどころか微笑んですらいる。俺の話を冗談だと思ったのだろうか?
「それは考えたけど……できない」
「どうしてかな。べつに仲悪いなら、家族でもどうでもいいって思わない?」
「あんただったら、そうするのか」
「いいや」
なんだそりゃ、と思ったが不思議と怒りは湧いてこない。なんとなくわかった。こいつはからかっているのではなく、本当にそう思って喋っている気がする。……ただの勘だが。
「なにか飲む?」
シマが台所から声をかけてきたが、断った。とてもなにか口にする気分じゃない。時計を見ると10時半。あと半日足らずで勝負の場に赴かねばならない。
くそ……あのまま死んでいれば……すべて丸く収まっていたのに……。
俺を生き永らえさせてくれた張本人は、再びハイライトを短くする作業に従事している。
なんで助けたんだ。
そう言おうと口を開いた瞬間、
「なんで助けたんだ」
シマがセリフを奪い、俺は言葉に詰まった。だがすぐに頭に血が昇った。
「そうだよ、なんで助けたんだ? 話聞いたろ? 俺が死んでりゃよかったんだ……なのに部外者のアンタが余計なことするから……もしかしたら……最悪なことになっちまうかもしんねぇ……!!!
俺はな、どうしようもねえんだ。なにやってもダメ。運動もできねえ、勉強はできても頭はキレない、人望はなし、絵は棒人間、音程なんざわからねえ、性格もひねてて修正不能。誰がこんな人間見て喜ぶんだ!?
俺はなぁ……生きてく才能がねえんだ!!!
死んじまえばいいんだよ!!!!!!!」
声を枯らさんばかりに怒鳴った後、後悔した。こんな言葉こそ他人にぶつけるものではない。無駄なことをした……。そう思い、もう出て行こうと思った時、
「死にたい?」
とぼそっとシマが呟いた。
「なんだよ。責めるのか? 命は大切だの、生きてればいいことあるだの、そういう言葉はうんざりなんだよ。誰も俺の苦しみをわかることなんてできねえのに……」
俺は俯いた。顔を上げるのが恐ろしい。きっとシマは怒っているだろう。軽蔑しているだろう。いままで俺と出会った人たちのように……。
……。
ふ。
ふふ……。
シマは笑っていた。嘲りも怒りもなく、ただ楽しげに笑っていた。
「死にたいか……じゃあ」
シマはタバコを消した。
「殺してあげる」
「は、やってみろよ」
よく知りもしない他人を殺すメリットがどこにある。無駄な問答だ……。
だから俺は、シマが机から拳銃を出した時も動じたりはしなかった。いや、実はちょっとドキっとした。しかし本物の拳銃がただの女子大生の机に入っているわけがない。
なにかが破裂した。
ベッド脇の目覚まし時計が、四回転半ジャンプを華麗にこなして地面に墜落死した。
…………。
え?
俺は呆然とするほかない。
シマはこちらに背を向け、シリンダーを回転させると、ポケットからハンカチを取り出してかぶせた。
「こうしないと、弾丸が見えちゃうからね」
シマはまるで「こうしないとおいしくならないから」と目玉焼きを焼いているフライパンにフタをするかのように自然に喋っている。その顔は狂っているとは思えない。むしろ安楽死する老人のように穏やかだった。
「なに……する気だよ」
「知りたい?」
シマの瞳が無感動に見下ろしてくる。
「生存率6分の1……」
そのかわいらしい唇が歪み、獣のような笑みを作り出す。
「ロシアン・ルーレット」
「…………冗談だろ」
「わたし嘘つくの苦手なんだ。わかりやすいでしょ?」
「こんなことしたって、おまえにメリットなんかねえぞ」
「死にたい馬場くんにはメリットだらけなんじゃない? いいよいいよ、そんなに気にしないで……」
シマが近づいてくる。俺はベッドの縁に後ずさりした。
俺の挙動がおかしかったのか、シマは笑い出した。
「そんなオバケ見るような顔しないでよ。傷つくなあ」
「……それ、本物か?」
俺は顎で拳銃を指し示した。
「うん。友達にもらったんだ」
「どんな友達だよ……」
「ふふ。でも残念だな……君はわたしの友達にはなれないかもしれないんだよね。でもいいよね? いらない命だもん」
シマがベッドの上に侵略してきた。俺の目は拳銃に釘付けになったまま、動かせない。うしろに下がりたくても、すでに最低防衛ライン『壁』まで下がってしまった。
シマの細い手首が、俺の首に回る。小柄な体が、俺の身体に密着する。拳銃が、俺の額に押し付けられる。
ま、待ってくれ。
あれ?
声、出てなくないか?
「どうして人は死にたいなんて言うのか、わたしはずっと考えてきた。けど、わかってしまえばなんてことはなかった」
おい、なんでだよ、なんで声が……。
「つまりそれは今、自分が置かれてる状況、境遇、そういったものに絶望しているから。ああいやでいやで仕方ない、このまま生きていくくらいなら死んだ方が……」
こいつ……。
「人間て不思議だよね。野性の生き物は危機と相対したとき闘うか逃げるか、少なくとも生きようとするのに人は時に生そのものを止めてしまおうとする。肥大した脳の下した結論なのか、あるいは……」
本気だ。
シマの人差し指が絞られる。
「嘘なのか」
「やめ、てくれぇ……」
目から涙があふれてくる。
「……死にたく、ない……いやだ……いやだ……」
シマは拳銃を下ろした。
「いいんだよ、それで。どんなに潔く振る舞っていても、いざその時が来れば恐れおののくのが人間。それが生き物として正しいあり方……それを恥ずかしく思う必要はない。
みんな、ホントは死にたいんじゃない……変えたいんだ。どうにもならないと思い込んでる色んなこと……せめて変えようとしたいんだ」
そうだ、なんとかできるものならそうしたい。そんなのみんな思ってる。
「でも……できねぇよ……俺……」
「一人で生きようとしてるからだよ」
「だってさ……人間はみんな一人ぼっちじゃねえか……」
「目ぇ見えてる?」
「え?」
「目の前にいるじゃん。人間」
「だからそういう意味じゃなくて」
「そういう意味なんだよ。君が着てる服は君が作ったの? 君が食べてるお米は君が耕したの?」
「そんな説教されたって……」
「説教? これは事実だよ。人は一人では生きられない。言い方が気に入らないのかな。つまりさ……」
シマの笑みが深くなる。言い知れぬ不安と期待に背筋がぞくぞくした。
「味方にならないなら、利用してやればいい。骨の髄まで……」
「どうやって……」
「教えてあげるよ。
君に、勝利の味を」
俺は涙をぬぐった。