「……え?」
思わず声が漏れていたことに自分で驚愕する。
権謀術数の世界で生きているデブチィが、ド素人のごとく心の声を吐露したのだ。
しかしそれも無理からぬこと。
「なんで……?」
確かに自分の記憶では、この位置にはハートのQがあった。
あるはずだった。
「やっと素直な君の声が聞けた気がする」
親しい人に向けるような柔らかい微笑をシマはデブチィに与えた。
しかし指先はパシィッと少しのためらいもなく、ディスプレイを弾いた。
現れたのはダイヤのエース。
今度はミスせず、スペードのエースを開く。
右下の獲得枚数がピコンと増加。
残りのカードはQ四枚。
事実上の決着だった。
「ね、デブチィ。最初は偶然だったんだよ」
「…………偶然?」
「うん」
シマはカードに触れると、そのまま指を離さなかった。
「びっくりするよ、きっと」
そしてツ――と横に動かす。
彼女の予告通りデブチィが息を呑んだ。
シマの奴隷と化したカードが、指の動きに合わせて液晶の海を泳いでいた。
「動かせるんだよ……カードの位置」
なにか言い返そうとしたデブチィの言葉を遮ってシマは続ける。
「反則じゃない。なぜって? できるから。
もしカードを動かすことが反則なら、そんな機能をつけなければいい。
できるってことは認めてるってこと。
気づいたやつは利用しろってこと。
そうでしょ、黒瀬さん」
黒瀬は無言。それが答え。
GGS-NETは弱者を救済しない。
気づかなかったやつが馬鹿を見る。
それがこの世の摂理。真なる自然の調和。
デブチィは人を殺せる体重を背もたれに預けた。
「参った――いや、強いな」
でも、とデブチィはニヤリと笑んで、余裕綽々、卓上の大トロを五つむんずと掴んで洞穴みたいな口の中に放り込んだ。
「もれはかつ」もぐもぐ。
歯の隙間から美味そうな身を覗かせながら宣言する。
「おまえは勝てない」ごくん。
「俺は負けたって二億を無くすだけだ」
タマゴ。
「そりゃタネ銭に響くから痛いが、また稼げばいい」
納豆巻き。
「なァにこの世はカモだらけ。いつまでだって勝ち続けてやる」
イクラ。
「バクチ打ちの夢、負けない勝負師。
俺ァそいつになってやる」
「デブチィ」
シマは敵の名を呼ぶと、卓上の料理を脇にどけた。
料理の谷の間に二人が挟まっている形だ。しかし見ているだけで涎が出てくるフルコースも、二人の放つ闘気の前では霞まざるを得ない。
シマは椅子を引きずって後ろに下がると、テーブルクロスをまくり上げた。裾がひらひらと涼しげに舞い、その下から引っ張り上げられてきたものは、
「これも食べる?」
ドスンと円卓に打ち付けられた二つのトランク。
繊細な指先が留め金を外す。
「召し上がれ」
総額二億。
「喰えるもんなら、喰ってみなよ――」
「……おまえ、無一文なんじゃなかったのか」
声が震える。シマはじっと顕微鏡のような視線でデブチィを観察している。二人の間にある距離がひどく狭苦しく思えた。
「カラス銭だよ。これでも必死で集めたんだ」
札束をお手玉のように弄ぶ。どこかへなくなってしまっても構わないような手つきで、気負わずに。
「身の程を弁えれば一生働かなくていい金を賭けるって……ちょっと調べたらずいぶんと噂になってたよ、デブチィくん」
空を鼻紙のように舞う札束を、シマは鷲掴みにして捉えた。指の隙間から折れ曲がった金が溢れている。
「二億負けてもへっちゃら? よかったね、おめでとう。勝てば二億とわたしだ。ビッグボーナス!
その代わり」
デブチィの震え上がった顔の前で、シマはトランクを荒々しくなぎ払った。
室内に降り注ぐ、金、金、金……。
金の雨。
「君を喰う」
「……」デブチィは痙攣じみた笑みを浮かべた。
「どうやらまだ、ハッタリは修行中らしいな」
冗談だと思いたかった。見え透いた見栄を張ってしまった。
バクチはナメられたら終わりなのに。
言わずにはいられなかった。安心したかった。
脅しが通用しないとわかって戸惑うシマを見たかった。
「ホントだよ。信じてよ。わたし、勝ったら君食べちゃうよ。
それが平等でしょ?」
「おまえなんかにできるものか」
「できるよ! だってわたしは――鬼だから」
シマは「いーっ」と綺麗に磨かれた歯を見せ付けると、
「がぶっ」
白い腕に突き立てた。
バイオハザードというゲームがある。
十数年前に発売されたソフトで、館の中を跋扈するゾンビと戦い生き延びるゲームで、いまでも続いている人気シリーズだ。
有名なシーンで、初めてゾンビに出くわすシーンがある。
ゾンビがしゃがみこんで主人公の仲間の死体を貪り食っているのだ。
ばりばり、むしゃむしゃ。
その懐かしい記憶を黒瀬は思い出していた。
途端、弾かれたようにシマの髪を掴んで腕から引き離した。
「やめろっ!」
思わず手荒なマネをしてしまい、慌てて手を開いた。
シマの首は引っ張られた勢いのまま椅子の背にもたれかかり、喉をデブチィに晒していた。
サラサラと血が腕を伝って地面にたまっていく。
気絶してしまったのか、と二人が思った時、がばっと首を跳ね起こし、デブチィが飛び上がらんばかりに驚いた。
「あんまり美味しくないけど」
口元を滴る新鮮な赤を拭い取る。痛みは気にならないのか無視しているのか。
「君の方が美味いかな」
さっきまで白かった歯はすべて真紅の牙になった。
生きたまま命を喰らう肉食獣の牙に。
デブチィはようやく、今夜ここに来たことを後悔した。
シマの腕を黒瀬が膝をついて手当している。
当然だと言わんばかりに手を差し出したシマの様子は女王の威厳さえ漂っていた。
(……イカレポンチめ)
デブチィは苛々を隠そうともせず、手当たり次第の食べ物を食い荒らしていた。
すでにナイフもフォークも使っちゃいない、火傷しない限りは素手でぽんぽん口に投げ込んでいる。
それが一番早いのだという。
(ハッタリだ、ハッタリに決まってる)
なんてことはないのだ。ちょっと自分の腕を強く噛んで見せてみただけ。
自動車のアタリ屋の方がよっぽどガッツがある。
頭ではわかっていた。
(……くそっ!)
なにか策があるのは間違いない。どうやってかは知らないが、シマの頭の中には自分の瞬間記憶を封殺する絵が飾ってある。
(なにがなんでも、カードオープンだけは目を逸らさないぞ。なにがあっても……!)
そうだ、たとえ手足をもがれようともこのまなこを開いていてやる。
タバコで片目を根性焼きされるなら、もう片方の目でケリをつけてやるのだ。
(自分を信じろ蟹場貴久。俺は記憶に縛られて生きてきたんだ)
(忘れることなど許されない。逃げる場所などどこにもない)
(俺は刻み続ける。この脳に、この命に)
(俺の勝ち続ける道の軌跡を――!)
「では、最後の勝負です。三回戦」
全身が闘気で燃え上がった。
「カード」
ぐっと身構える。筋肉が張り裂けるほど力が入る。
「……オープン!」
閃光。