期間限定の僕ら
期間限定の僕ら5
気がつくと僕は、橙色の光が差し込む教室に立っていた。
「雪群君」
不意に声が聞こえ、僕はその声のした方へと視線を向ける。
そこには綾瀬がいた。顔を下に俯かせて手を後ろで組み、窓に寄り掛かっている。
「綾瀬さん?」
僕はそう言って彼女へと一歩ずつ歩み寄っていく。不思議な事に周囲にクラスメイトはおろか、駿介や翔さえもいない。時計を見てみると時刻は四時三十分。皆はもう帰ってしまったのだろうか。
「一番知りたかったこと、教えてあげようか」
足が止まる。
「――え?」
彼女は俯いていた顔をゆっくりと上げる。何故か前髪で隠れていて目が見えない。口元は両端を釣り上げられて不気味な微笑みを作っている。僕はだんだんと今目の前にいる彼女が綾瀬なのかどうか不安に思い始める。
「知りたかったんでしょう?」
その問いかけに、僕はゆっくりと頷いた。
「――」
彼女の声にミュートがかかった。
―期間限定の僕ら5―
―土曜日―
ぼんやりとした目を擦りながら、枕元に転がる着信音の鳴り響く携帯を取り耳に当てる。
「はい、もしもし……」
『雪群君?』
その一言で、ぼんやりとした脳が一気に醒める。寝ぼけていたところに突然の電話であったために思わず甲高い声を上げてしまう。
『大丈夫?』
「気にしないで。それで、何の用?」
僕は思わず上げてしまった悲鳴に恥ずかしさを覚えつつ、綾瀬に要件を聞いた。
変な人、と彼女は笑いながらそれでね、と呟いた。
「今日、暇?」
「えっと、うん。まぁ暇だけど……」
そっか。綾瀬は少し嬉しそうにそう返事をする。
「じゃあさ、今日、少し付き合ってくれないかな?」
「つ、付き合う!?」
『見たい映画があって、チケットを二枚取っていたんだけれど、友達が行けなくなっちゃったの……』
僕の脳がゆっくりと熱を帯びてきているのが分かる。そしてそれによってまともな思考を巡らす事がだんだんと不可能になっていく。
『折角だからね』
「それって、もしかして……」
『一緒に見に行かない? 映画』
僕はそれに二文字を返した。
○
腕時計は集合時間の数十分手前を示している。寝ぼけている状況からよくここまで瞬時に身支度が出来たものだと我ながらに思う。というか、女性と会う(実質デートのようなものなのだが)時一体どんな服装で行くべきなのか全く以て分からなかったが時間があまり無かったため、適当に買っておいた新品の服を引っ張り出して適当に組み合わせとなってしまった。
駅前の公衆トイレの鏡で身なりを整えはしてみたものの、なんだかはりぼてみたいな感じがした為髪もくしゃくしゃといつもの適当な髪型にしてしまった。
もうすぐ彼女も来る頃だろう。僕は人ごみを見回し、そして空を見上げた。
あの妙に現実味のあった夢は、果たして何だったのだろうか。僕と綾瀬以外誰もいない教室で彼女は何かを告白しようとしていた。
確かに何かを言っていたと思うのに、今思い出そうとしても、口の動きだけで、声が思い出せない。でも、一つだけはっきりしているのは、それは僕の知りたい「真実」ということだ。何故僕を選んだのかという事。その真実をあの夢の中できっと彼女は言っていたのだと思う。
聞こえなかったのは、現実でその事実を明かしてもらっていないからなのだろう。
「おまたせ」
物思いに耽っていると、人ごみの中から綾瀬が手を振ってこちらへと駆け寄ってきた。そんな彼女に僕は軽く微笑んで手を振り返す。
「待った?」
「いや、全然」
なんだか恋愛物語のカップル達決まり文句のようにも聞こえるこの会話を交わす僕ら。
「じゃあ、行こうか」
僕がそう言うと彼女は頷き、手を伸ばす。
僕は、それをにこりと笑みを彼女に見せてから、優しく右手で握ってから歩き出す。
そういえば、今日行く上で一番大切なことを聞いていなかったな。僕は隣を歩く彼女に目を向ける。
「どんな映画を友達と見るつもりだったの?」
「ええとね……」
そう言うと彼女は右肩に背負った鞄から二枚のチケットを取り出し、こちらに向けて掲げる。
「“正しい校舎の使い方”?」
あまり聞いたことのない題名の映画だ。
「うん、ずっと前から見たかったものなの」
へぇ、と僕は生返事をしながらチケットを見つめる。なんだか魅力的の感じないタイトルだと思いつつも、食わず嫌いは駄目だと自分に言い聞かせてから、面白そうだねと一言彼女に伝えてチケットを返す。
「あ、今絶対につまんないと思ってるでしょ?」
綾瀬はそう言うと少し不機嫌そうな表情を浮かべる。正直、図星だったが折角誘ってもらったのにここで彼女の機嫌を損ねるわけにはいかない。
「そんなことないよ」
「正直に言って」
「……」
暫く黙りこむ僕たち。駄目だ、綾瀬の眼力に負けた。
根競べは彼女の大勝だ。
「……正直、ちょっと魅力を感じないなぁ」
「でしょ」
でしょ、と来たかこの子は。僕は満足そうに微笑む彼女を少しじいと見つめながらそんな突っ込みを心の中で入れる。
「これね、ずっと前に出版された小説を映画化したものなの」
「へぇ……」
彼女は少し古ぼけた文庫本を取り出すと僕に見せる。屋上に二人の少年が立っている写真が表紙となり、そこに簡素な黒字で「正しい校舎の使い方」と書かれている。
「私も昔に薦められて読んでね。変な題名だなぁとか思いながら最後まで読んでみたんだけど、読み終わった頃にはすっかりハマっちゃって……」
「それだけ、この映画を楽しみにしていたんだね」
楽しそうに語り始める綾瀬に向けて僕がそう言うと、綾瀬は太陽のように燦々とした笑みを浮かべて頷いた。僕はその表情を見て、本当に素敵な笑顔を浮かべるなぁと暖かい空気の中に身を委ねる。
「そんなに良い映画なんだ」
「この本、できれば帰ってから読んでみてくれないかな?」
どうやら彼女は映画で話が分かった後でもちゃんと小説の方を読んで欲しいらしい。正直活字を頻繁に読む方ではないので、一度把握してしまった物語を再度読めるだろうかと少し心配だ。
「大丈夫。物語を知った上でもきっと読めるから」
彼女はそんな僕の心情を即座に感じ取ったのか、そんな言葉を付け足した。とりあえず断る道理も特に見つからないので、その小説を僕は受け取っておいた。
それから暫くすると、町中で多分一番利用されている映画館が見えてきた。テレビや雑誌等で大々的に宣伝されている映画の看板や張り紙がそこら中に張られていて、少しやり過ぎではないかと思ってしまう。
そんな名の知られた映画の宣伝ポスターが並ぶ中、ぽつんとこの映画の物が貼られていた。その様子からしてやはり相当マイナーな作品が映画化されたのだろう。主演の演者や監督もあまり聞かない名前ばかり。
「随分と隅っこに追いやられてるね」
「有名じゃないからね。大体こうなるものよ」
そう言いながらも綾瀬は少し悲しそうな表情を浮かべてそのみすぼらしいポスターを見つめている。やはり自分の好きな作品が周囲に評価されないというのは寂しいものなのだろう。
「とりあえず見ようか」
そうだね、と僕は綾瀬に言ってチケットを受取り、館内へと入っていく。
○
客はそれなりに入っていた。映画になるような作品なのだから、それなりのファンは付いているものなのだろう。綾瀬も中の様子に幾分安心したようで、先程よりも明るい表情を見せている。
「飲み物とか、要る?」
「うん、見る事に集中したいから」
そっか、と僕は頷き、彼女の隣に腰かけた。駿介や翔と映画を観に行く時に駿介がよく言う言葉。それが彼女の口から出たという事に多少の驚きを覚えた。さりげないところで似通った点を持っている人間がいるものだなと僕は駿介の顔を頭に浮かべながら、そんなことを考える。
「雪群君は? いいの?」
「大丈夫」
「無理に私に合わせる必要はないよ」
既に慣れているから、特に気になるという事もない。
「俺も集中して観ようと思うんだ。折角綾瀬さんが誘ってくれた映画なんだから」
その言葉に、彼女は微笑みを浮かべる。
と同時に、その微笑みがブザー音と共に暗闇へと落ちて行く。映画が始まる事を知らせる合図だ。僕と綾瀬は目の前に広がる白いスクリーンに視線を向けた。
後方からスクリーンに向けて光が放たれ、そして白いスクリーンを鮮やかな色達が染め始める。
数々の宣伝が終わった後、配給元のマークが荒れ狂う海の中から現れて、そうしてから一度暗転していく。
【人を好きになるってどんな気持ちなのか知ってる?】
突然始まった台詞に、なぜか僕の心がどきりと反応を示す。どこかで聴き覚えのある言葉だった。
僕は首を左右に振ってから再度スクリーンに集中する。
二人の少年が一人の少女を取り合うという三角関係の物語。
片方とその少女は付き合っているのだが、もう一人の親友はその少女に対する想いを諦められずに、とうとう親友に宣戦布告をしてしまうという少し昼のドラマでやっていそうなドロドロとした暗い雰囲気の話だ。
何故だかこの物語に僕と駿介の影がちらつくのは何故だろうか。
「……」
僕はゆっくりと隣で映画を見ている綾瀬に目を向ける。
彼女は真剣な眼差しでスクリーンを眺め、そして両手をぎゅうと握り締めている。これだけ力の籠った様子からして多分彼女はこの物語に相当な思い入れがあるのだろう。
「……」
僕は綾瀬のそんな真剣な眼差しを見て一人微笑んだ後、再びスクリーンに目を向ける。繋いだ手をぶらりぶらりと振って歩く二人の後姿が映っている。バックではこの風景にとても合っている曲が流れている。この曲、聴き覚えがあるけれど、なんだっただろうか……。
そんな事を考えながら、僕を微笑む二人の姿をじいと眺め続ける。
【私たち、ずっとこうしていられるよね】
そう問いかける少女に、少年はただただ微笑みを浮かべて少女に笑いかけるだけ。
この微笑みに、一体何が秘められているというのだろうか。何故頷きも返事を返しもせずに、ほほ笑むだけなのだろうか。
二人は無言で歩き続ける。ゆっくりとフェードアウトしていく二人と同時に、流れている曲も小さくなっていく。
――ああそうだ、この曲「半分花」だったかな。
消え去った音と二人。それと同時に、僕はかかっていた曲名を思い出した
会場が明るくなる。ざわめく会場。エンディングにまた先程の曲がかかってるが、それを気にせずに退場していく客達。
「……」
「……」
そんな中僕らは、無言のままエンディングロールを見続けていた。
親友の彼女の事を諦めた筈の親友は、最後に放送室で思い切り自らの想いを叫んだ。そして少女はそれに対し静かに謝罪の言葉を送った。その返事を聞いた親友は何故だかとても清々しい顔をして、放送室で佇み、そして目を閉じた。
そこで、物語は終わってしまった。
色々と三人の間での喧騒や交差があったけれども、結局少女は元の鞘に収まってしまったし、少年と親友は仲違いのまま終わってしまった。ただそれだけの物語。
それなのに、何故だか僕はこの映画の不思議な空気にいつの間にか包み込まれてしまっていた。
「……終わったね」
テロップが終わり、他の客は既にいなくなっている。今ここにいるのは僕と綾瀬だけ。
「うん、終わった」
無音の空間で、僕らはじっと座り続ける。
「どうだった?」
「え……」
「おもしろかった?」
彼女はスクリーンに視線を固定したまま僕にそう問いかける。
「良かった。けど、何かもやもやが残った」
「そうだろうね」
「うん」
「この続きがちゃんとあるのに、そこが映画だと描かれてなかった……」
「不思議なところで切ったんだね」
「でも、これでも悪くないと思ったの」
「何故?」
「語り過ぎないっていうのも悪くないってね」
「そっか……」
暫く、僕らはずっとこのままこの二人だけの空間を過ごし続ける。
今気づいたが、僕の右手に、彼女の左手が添えられている。いつ、どの時に添えられたのだろうか。それさえ記憶にない。
「ちゃんとした終わり、読むよ」
言うべき言葉だと、今最も彼女に言うべき言葉だと僕は思った。
「うん」
「感想も言うよ」
「うん」
「俺そんなに読むの早くないけど、いいかな」
「ずっと待ってる。最後までちゃんと読んで欲しいから」
その言葉を交わした瞬間に、清掃員のおばさんが僕らだけの空間に介入してきた。「もう上映は終わりましたよ」と告げる。
「行こっか」
「そうだね」
僕らはそう言葉を交わして、やっと立ち上がり映画館を出た。
「じゃあ、今日はありがとうね」
「気にしないで。結構楽しかったから」
そう返事を返すと彼女はにこりと笑い、そして手を振ると踵を返して行ってしまった。僕はその後姿に見えなくなるまで手を振り続け、そして受け取った文庫本を見つめる。
少年と親友と少女の三角関係の物語。
ぼんやりとした終わり方をした映画の先に、何があったのか。その部分だけ読むことだってできる。
けれども、少しづつ時間をかけ、最初から最後まで読んでいくべきだと、その時僕は何故だか思った。
「明日はゆっくりとこれを読もうかな」
僕は本をしまうと僕は歩き出す。
ゆっくりと、ゆっくりと。一歩をかみしめるように……。
終わりまで語られることのなかった映画を観ることになった土曜日の出来事だった。