「さようなら」と言えたとして、そのたった五文字に一体どれだけ中身が詰まっているものなのだろうか。そしてそのスカスカの言葉は一体どれだけはっきりと相手に伝わるものなのだろう……。
「またね」
「うん、ばいばい」
その言葉が、その笑みが、僕の何かをがりりと削り取って捨てた――
目が覚めて最初に目に入ったのは縦に印字された文字群だった。ああそうだ確か僕は寝る間際までずっと本を読んでいたのだっけとその本にしおりを挟み枕元に置いた。
ぼんやりとした意識が何か大切な事も一緒に持って行っている。記憶の輪郭が滲む。
「……あぁそうだった」
輪郭が、カタチがハッキリと姿を現した瞬間、僕の心は小さな小さな悲鳴を上げた。
「今日が、最後の日だっけ」
―期間限定の僕ら8―
―期限・前篇―
読み切れていない本を鞄に放り込み、それ以外何も入っていない通学用鞄を肩に提げると僕は玄関を出る。卒業式が近づいている。多分高校生として生活ができるのはこの一週間が最後だろう。既に授業は終了を迎え、毎日のようにあるホームルームに少しうんざりとした感覚を覚える日々が、今日から始まる。
ホームルームが終わったらカラオケにでも行こうか。ああボーリング、いやゲームセンターに行くのもいいかもしれない。明日から午後は“暇”になるのだから、なるべく楽しい計画を練っておかなくてはならない。
読み終わっていない本は多分突っ伏しているだけになるであろうホームルーム中に読めば終わるし、帰りには彼女に返す事ができるだろう。
そんな事を考えながら僕は目の前の道を見た。
この角を曲がれば、きっと綾瀬はいる。最後の逢瀬が、最後の彼氏としての“雪群駿”の一日が始まってしまう。
答えは、結局出なかった。綾瀬という存在が僕の中で大きくなっていっただけで女性に対する苦手意識は克服の「こ」の字すら出なかった。
一体彼女は何を僕に伝えたかったのだろうか。
何故僕にあの本を読ませたかったのだろうか。
原作の本は未だに映画どおりの道を進んでいて、あと数ページなのにも関わらずオリジナルの展開が出てくることがない。このままでは映画通りに話が終わってしまいそうなのだ。
なんでもいいじゃないか。今日が終わってしまえば、この物語も、この僕の物語も記憶の奥底へと霧散していくのだから……。
そうして僕はとうとうその曲がり角を曲がった。
「おはよう」
「……おはよう」
いつものどおりの彼女が、マフラーに顔を埋めながら、笑っていた。
いつもどおり手を繋いで、いつもどおり笑い合って、いつもどおりの話題で盛り上がって……。
そしていつもどおり無言のまま暫く歩く。
無言のまま歩いているときが何故か一番満たされていた。何も言葉を発していないけれども、彼女とはちゃんとつながっているという感覚を得られるからだ。これは僕だけが感じることかもしれないし、彼女はそんなことを思ってもいないし、むしろ今日が最後の日だからどう別れようかななんて思っているかもしれない。
僕だけの宝物でいい。それでいいじゃないか。そう思うと自然に笑みが漏れた。
「何か嬉しい事でもあったの?」
「いいや、なんでもないよ」
首をかしげる彼女に微笑んでから、僕はふと思う。ああそういえば一つ、恋人関係なのにしていない事があったなと。期限付きだけど僕は彼氏なのだから――
「綾瀬さん」
僕からしてあげる事も、大事なのではないかと思ったのだ。
「どうし――」
そこで、言葉は途切れた。多分この一週間の中で最も心地よい静寂ではないかと思えるくらいの空間が、そこに生まれた。
合わせるだけの、本当に拙くて切ない口付けだった。
口を離してから、何が起こったのか分からないとでもいったような彼女の表情を一度見た後僕は視線を逸らす。
「……」
「……」
一週間の中で最も顔を赤くした綾瀬を見れたことが、少し嬉しかった。
「突然ごめんね」
「びっくりしちゃった……」
彼女は怒っただろうか?
「俺からしたこと、なかったからさ」
「ほんと、びっくりした……」
何を話せばいい。話題を作ろうと必死になった僕はふとあの本の事を思い出した。
「ああ、そうだあの本なんだけどさ」
「読み終わった……の?」
まだ顔を赤くしたままの彼女は、僕から目を背けつつも、そう問いかけてきた。
「まだあと数ページ残っているんだ。だから、放課後に――」
放課後に、読んで何をしようとしているのだろうか。僕は。
「ちゃんと、言うから」
その言葉を聞いて、彼女はゆっくりと頷いた。
「最後まで、読んでね」
「うん。絶対に読むから」
そうして僕らはいつのどおり校門前で別れた。
○
「おはよう、かけ――」
「……よお、駿」
菅野駿介は僕に向けて鈍い色に染まった笑みを浮かべていた。少し驚きはしたが、別段仲が相当悪くなったわけではないので、苦笑しつつ僕は手を振り返した。
「学校休むとか、珍しいな」
その空気を悟った翔が、僕と駿介の間を唐竹に割った。
「別に大した風邪じゃなかったんだけど、親が休んどけってさ」
「風邪って、何度くらいさ?」
「にじゅうはちど」
「お前っ! それは大したって言葉を使う体温じゃねぇよ!」
だよな、と笑う駿介と、驚くほどの速さで彼に突っ込みを入れていく翔を交互に見て僕はクスリと一度だけ笑う。
ああ、今日もいつもどおりなのだなと、本日何度目なのだろうと思いながらも「いつもどおり」を再度使用した。
「そうだ駿、一時限目のホームルームの後さ、ちょっと付き合ってくれないか?」
大分空気感に慣れたのか、駿介は僕にそう言った。僕がそれに対し無言のまま一度頷くと、彼はそうかそうかと微笑んだ。
「なんだなんだ、何をするつもりだ?」
そう言って入ってくる翔に対し駿介は一言「秘密だよ」と言って笑った。彼の満面の笑みを見るのは、そういえば久しいかもしれない。
瞬間、チャイムが鳴り響く。
同時に教室に担任が欠伸をしながら入ってくると、ぱすんと名簿を教卓の上に置いた。
「今日から二時限分のホームルーム終了と同時に下校。いいかな?」
生徒達はその声に騒ぎ始める。やはりこうなったかとでも言いたげな視線で教室を眺める担任。
そんな光景を尻目に、僕はしおりの挟まれた小説を取り出すと机の下でそれを開く。あと数ページの物語。けれども多分僕の読書スピードだと二時限の終わりの辺りまでかかるかもしれない。
けれどもやらなくてはならないのだ。これが恋人としてできる最後のものなのだから……。
○
「僕はもう空を見上げる事はできないよ」
僕は友人にそう話した。彼は少し不思議そうな顔をした後、その意味を理解して顔をそむける。
「求めたものが消えてしまったんだ」
もう彼女は僕を見ていない。彼女は二度と戻ってくる事はないんだと確信にも似た何かを心に抱いた瞬間、僕は空を見る事ができなくなった。
勿論ただ見上げるだけならできる。けれども、本当の意味で「見上げる」ことは多分一生できそうもない。
「空はこんなにも遠くて、僕はこんなにもちっぽけな個体だったんだね」
それを理解できただけでも良かったと思うべきなのだろうか。
無言の友人を一瞥してから僕は、地面を見据えて一歩踏み出した。
○
一時限目の終了を知らせるチャイムが鳴り響く。あと、十頁くらいだなと残りのページ数を確認し、そしてしおりを挟んだ。
求める物が手に入らないと知った瞬間、やはり僕も彼のように空を見上げる事ができなくなってしまうのだろうか。今この生活が終わった瞬間に、僕はまた地面を見つめる生活に戻ってしまうのだろうか。
「駿」
その声が僕の意識のスイッチを入れた。
すぐ右に視線を巡らせるとそこには駿介の姿があった。ああ、そういえば休み時間に彼に付き合うという話だった気がする。
「分かってる。で、どこに行くんだ?」
僕は本を鞄に丁寧にポケットに仕舞うと席を立ち、そして間近で駿介を見据えた。
彼は小さく微笑むと、上を指さした。
「屋上」
ぎしり、とまた一段と滑りの悪くなった扉を開いた。錆が更に酷くなったのではないかと感じるほどに力を込めないと開かなかったそれは、何か僕に“行くな”とでも言っているような感覚がした。
まだ春には程遠いなと思えるほどに冷気を孕んだその風を全身に受け、身を凍えさせながら僕は屋上の中央へと歩いていく。いつも三人で昼を食べた場所。もう今後来る事もなくなるだろうし、それぞれの道へ進んでしまえば僕ら三人で集まることすらなくなってしまう。
「で、何の用なんだ?」
僕は振り返り、彼の方を見てそう問いかけた。
刹那、僕の右頬に衝撃が走った。僕はその突然の衝撃に耐えきれずに二、三歩後方へとよろめきながら後退していき、そして尻もちをついた。
殴られたことに気付いたのは、尻もちをついてから数秒後のことだった。
「いきなり何を……」
「諦めようと、何度も自分に言い聞かせた……」
彼はこちらに歩み寄ってくる。一歩、二歩と赤色を背負った駿介はこちらを強く睨みながら、拳を固める。
「でも、駄目だ」
「……」
胸倉を掴まれたかと思うと無理矢理に立たされ、そのまま怒りの宿る瞳でこちらを見つめる。
「なんでお前なんだよっ!!」
怒声と同時に二発目が右頬に激痛を与えた。痺れるような痛みなのに、何故か脳はぼんやりとしてくる。この感覚はなんなのだろうか。
「俺はっ」
腹部に足が一発。
「ずっと前からっ」
蹲ったところへケリが一発。
「……行動に移そうとしなかった俺が悪かったのか?」
亀のように蹲る僕の耳許で彼はそう呟いた。
「……知るかよ」
捻り出すようにして漏れた言葉を聞いて、駿介は更に拳と足に力を込めていた。一発一発に軋む身体、うまく酸素が回らない状態で脳が更にぼんやりとしてくる。
痛い。
けれども、なぜか虚しさを感じてしまう。この“痛い”という言葉を、今僕はどちらに対して使っているのだろうか。
――僕はもう空を見上げる事はできないよ。
不意に小説の彼の言った言葉が脳裏をよぎった。
何故あのシーンが妙に印象に残ったのか、駿介を見て今やっと分かった。
――この世界で、僕は友人役だったのか。
暫くして駿介の攻撃は止まった。顔に痛々しい傷や今に中身を吐いてしまいそうな程の吐き気を感じながらも、なぜかやり返そうという気持ちにはななかった。
「……もうすぐ、卒業だな」
その言葉に、僕は頷きだけを返す。
「お前らがどうなるか、俺は知らないけど、一つだけ約束してくれよ」
「……」
彼は僕に背中を見せたまま、静かに言った。
「ちゃんと決着くらいはつけてくれ」
彼が見ているか分からないし、彼も僕が意識を保っているかどうか分からないと思う。
けれども、僕はその言葉に、一度だけ頷きを返した。
二時限目のチャイムが鳴る音を、僕は冷たい風を浴びながら聴いた。
彼が出て行ってから僕は腕に力を込めて必死の思いで起きあがると、すぐ傍の壁に寄り掛かり、そしてポケットの本を取り出す。
表紙が少しだけ破れてしまったのを見て、なんだかとても泣きたい気持ちになる。
「……」
そして、残りのページを読むべくしおりの挟んであるページを開き、そして文章に視線を巡らしていく。
あの映画は原作に従順であったこと。この物語に彼女の言っていた続きなんて一つも存在していなかったことを読んでいくうちに僕は理解した。
映画で見たとおりに僕は去っていくし、友人とヒロインは付き合ってしまう。とてもやるせない気持ちになる終焉へと物語は進んでいく。
そして今、最後のページへと移った。たった三行だけの、見すぼらしい最後のページだ。
「求めるものがあるのなら、空を見上げろ。下をけして見るな……」
不意に呟かれたその言葉に僕は驚き、そして思わず空を見上げた。
いつの間にか鈍色の雲で埋め尽くされていて、青が見えない。
「……」
刹那、少し強い風が吹いて最後のページが捲れた。
「あ――」
そして、それは姿を現した。
それを見た瞬間、思わず僕は笑ってしまった。
「なんだよ、こんなことするなら、普通に言ってくれればよかったのに……」
彼女も僕と同じだったのだろうか。
どうしようか考えた末に思いついた手段だったのだろうか。
それとも、この物語をなぞって伝えたかった意地悪な女性なのだろうか。
どちらにしろ、こんなものを見せられてしまって、駿介に背中を押されてしまった。僕が出すべき答えはもう一つしかない。
「なんだよ、絶対性格悪いか天然だろ……」
不意に零れた涙が、本を濡らした。最後のページにあった一文を見た後に、再度それを見つめる。
僕は立ち上がった。彼女がこんな馬鹿な真似をしたのなら、僕も馬鹿な行為で返してやろうと、そんな理由も分からない考えが思い浮かんだ。
すぐさまに立ちあがり、痛む身体に鞭を打ちながら地面を蹴ると、階段を降りて行く。
どうせならはっきりと、叫んでやろうと思うのだ。“これ”に対する僕の返答を……。
――あれから、僕は空を見上げる事はなくなった。
――けれども、一生このままでいるのはもっと悲しいことだと思うのだ。だから、僕がまた求めるものができたその時は、空を見上げよう。
――上を向いて、ちゃんと手を伸ばして。
『期間延長券』
「期限・後篇」へと続く。