風が強く吹いている。
この風と共にどこか遠くへ飛んで行けたならば、どんなに気持ちがいいのだろうかと考えた後、私はふふ、と笑ってから目を閉じた。
分かっている。人は飛ぶ事はできない。
「とうとう卒業式が近づいてきちゃったね……。あんたと離れ離れになるのは寂しいわぁ……」
私の机に突伏しながら皆川良子はそんなことを呟く。三年に進級してから知り合ったが、本当に色々とお世話になったことを考えると、こちらとしても少し寂しい。
「――で、あっちの件はどうなったの?」
彼女は腕に顔をうずめたまま静かに問いかける。
「……彼次第よ」
私はその問いかけに対して、非常に穏やかな気持ちで答える。
「あんたねぇ……まあこうなっちゃったらそれしかないわよね」
「うん」
「ほんと、大馬鹿者よ、あんた……」
蹲ったまま彼女は再び言葉を放つ。
「うん」
「素直に伝えちゃえば良かったのに……」
「うん」
「これで終わりなんかになったら、心配した私が大損じゃない……」
「うん」
うん、としか言葉が出てこない。いや、それ以外の言葉を口にする必要が感じられないのだ。きっと彼女は分かってくれている。そんな気持ちが私のどこかにあるのだと思う。言葉にしなければ伝わらない物があるという事はちゃんと分かっている。けれども今更になって口にしたって伝わらないものもあるのだ。
私は窓の外を眺め、そして入り込んでくる冷たい風を受けながら目を閉じた。
――私と一週間だけ、体験してみる?
咄嗟に、本当に咄嗟に出てしまった言葉だった。彼に突然出会ってしまったことで気が動転してしまったということもこの台詞の裏側にはあるかもしれない。心臓は強く高鳴っていたし、表情にはなんとか出さずに済んだが熱くなっていく感覚はあったし、とにかくあの時は必死だったのだ。
あの時の出来事を言った時、友人は口を揃えて「お前は馬鹿なのか?」と言われてしまった。いや、実際馬鹿としか言いようがない。
一方的に“知って”いる状態で突然話しかけられれば、驚かれるし呆れられるのは当たり前だ。
けれども、彼はそれを了承した。
軽い女だと思われ軽蔑されてもいいだろう言葉を、彼はすんなりと受け入れた。
そして始まったのだ。
不思議な、不思議な一週間が。
―期間限定の僕ら9―
―期限・後篇―
この一週間で変われた事は一杯あったのに、何故僕はその幾つもの光から目を背けていたのだろうか。
「……はぁ……はぁっ……はぁっ!」
足を一歩出す毎に感じる疲労感を必死に抑えつけ、そしてまた一歩を踏み出す。こんなに学校って大きなものだっただろうかと脳が会議を始めようとしているが、そんなことは関係ないと弾き飛ばして更に廊下を駆け抜ける。
○
罪悪感と後悔が残った拳を見つめながら俺は小さくため息を吐き出す。担任の話を聞きつつもちらりちらりと見る。多分この時間中に返ってくる事はないだろうが、この後あいつがどういった行動に移るのか、そのことで頭がいっぱいだ。
「よう、随分とやったみたいじゃないか」
「ん?」
笑みを浮かべた翔がこちらを見て、聴きとれるぎりぎりの声量でこちらに言葉をかけてくる。
「呼び出した時点でそういった方向のことだとは思ってたさ」
俺は下唇を軽く噛みながらそっぽを向く。
「で、スッキリしたのか?」
するわけないじゃないか。俺はそんな言葉を籠めた視線を翔に送りつける。そのメッセージをうまく受信できたのか翔は微笑した。あの「ああ分かった分かった」とでも言いたそうな表情を見るのはこれで何度目だろうか。とにかく三人の中でまとめ役を買って出ていた彼だからこそできる表情だろう。
俺は一度軽いため息を吐いてから窓の外を見上げる。
「結局は俺の覚悟の弱さだったんだろうなって思うんだ」
「……」
自分の告白が遅かったのは否めない。その悔しさが、諦めきれない一つの理由へとつながっているのだろう。本当に最悪な人間だなと自嘲気味に笑ってみる。
「でも、できたんだろう?」
「何が?」
「伝える事は伝えられたんだろ?」
「ああ、たぶんな……」
机に突っ伏したままあの日の出来事を思い出す。
あの日俺は有名な映画にかこつけて彼女を誘い、そして帰りに告白をしようと決めて連絡を入れた。彼女は大分渋っていたが、元々のしつこさを活かしてそこは粘り勝ちすることができた。
だが、当日の彼女は勿論楽しそうな表情など一度もしなかったし、何よりも俺と一言もまともに会話をすることすらなかった。
今日はどうだったか、と尋ねても帰ってくるのは一言。
――うん。
強引に誘ったのはいいが、ここまで緊張の糸を張り巡らされてしまうとこちらもどうしようもできない。
だから、その糸を断ち切る為に、自分が進むために、言ったのだ。
――ずっと前から、好きだったんだ。と……。
けれども、彼女から返って来たのはただの一言。
――ごめんなさい。
粘った。必死の思いでその後も説得を繰り返したが、彼女が俺に傾く事は一度たりともなく、いわば一人相撲でもしているような光景だった。まるで空気にでも語りかけているような、そんな感覚さえ覚えたのだ。
そうして暫くしてから、彼女はやっと静かに口を開いた。
――私……ずっと……
ブツ、と突然静寂の中に飛び込んできたノイズ音が俺の意識を現実へと引き戻した。
『――あ、あ……入ってるのかな……?』
周囲がその声を聞いて唖然としている中――
俺は静かに微笑む。
「そうだ翔、ひとつ良い事を教えてやろうか」
「え?」
「綾瀬さん、男性に苦手意識持ってる子で、彼氏作ったことないんだぜ」
俺の突然の告白を聞いて、翔は唖然とした表情を浮かべた。
その様子を見て俺は思わず笑みを漏らし、そして目を閉じた。
○
もうすぐ、授業が終わってしまう。最後の放課後が始まってしまう。またいつもどおりの帰路について、そして終わる。
約束を途中で曲げても良かったのかもしれない。けれども私は変なところで生真面目になってしまう。そして同時に男性にする“苦手意識”のせいで今だって心臓が苦しい。必死に男性付き合いが盛んな“振り”をしていたが、私だって彼と同じく誰かと“付き合ったこと”が一度もないのだ。
周囲は「あんたは作れないんじゃなくて、作ろうとしないのよ」と言っていたが、作ろうと思って作った彼氏に一体何の価値があるのだろうか。
「……」
黒板に今後の予定を書いている担任をぼんやりと見つめ、そうしてから時計へと視線を移す。
ああ、あと十五分。
キスをした。
抱きしめた。
手を繋いだ。
こんなことを自分からすることができた私が、最後の最後で「延長券」なんていう方法を使っている。その事が何故かとても虚しく思えてくる。初めに言うべきである筈の「ソレ」を言おうとすると口が動かないのだ。
彼はあの頁を見て、笑うだろうか、怒るだろうか……。
ふと、私は机に開いておいたノートに目を落とす。
――いくじなし。
無意識のうちに書かれたそれに、私は自虐的な笑みを浮かべた。
強がり続けていたつもりだったのに、優しく接してくれた彼を見れば見るほどこの気持ちは膨らんでいって、耐えられないほどの想いが蓄積されていった。
彼の顔を見るだけで切なくなったし、週末明けの朝に彼が私の手から離れていった時は引き裂かれそうな思いだった。「もう私に幻滅した」のだと思い、誰も見ていないところでたくさん泣いた。
けれども、そんな日々も今日で終わるのだ。
「……」
くしゃり、とノートが歪んだ。
――終わらせたく、ないなぁ……。
同時に、世界も歪む。
『ブツッ……』
スピーカから出現したノイズ音に私はハッとし、目を擦ると顔を上げた。周囲、それに担任もその突然の音に首をかしげているようである。
「誰だ、スピーカを入れたのは」
戸惑いながらそう呟く担任を見た後、再びそのスピーカに視線を戻して私は唇を少し噛み締める。
もしかして、という気持ちが私の脳裏を翳めた。核心はないのだけれども、きっと彼だと私の心が決めつけていた。
『――あ、あ……入ってるのかな……?』
予想は大当たりだった。
○
どうやら放送は行き渡っているようだ。鍵をかけた扉が乱暴に叩かれている音を聞く限り上手くいっているというのが良く分かった。さて、時間は限られている。数分で決着をつけなければいけない。
僕はマイクを両手で包みこむと口を開いた。
「……突然こんな放送をしてすみません。けれども、ちょっとズレている彼女に対してできる最大の馬鹿な返答の仕方はこれしかないと、思ったんです」
心臓が高鳴る。引き返せと脳が警告を放っている。これ以上恥ずかしい思いをするつもりかと叫んでいる。
それでも、マイクを離すという行動に移すつもりはない。
「俺は一週間という期間で、彼女と恋人関係にありました。女性に対して苦手意識を持つ俺に対して提示されたそれを聞いて、きっとからかわれているのだとずっと疑っていました」
マイクを持つ手に、力が込められる。
「不思議な関係ですよね、けれども、そんな日々のどこかに魅力を感じている自分がいました。二人でただ並んで歩いているだけでも、楽しいと感じる自分がいたんです」
不意にドアのノック音が止んだ。後方を見てみると、暈された窓ガラスに映っていた人影が消えている。ああ、もしかしたら鍵を取りに行ったのかもしれないな。じゃあもっというべき事を早めなくては、と僕は腹に力を込めた。
「彼女に薦められた本にこんな一節がありました――」
――空を見上げたくなるのはどうしてなのか。
――求める事はつまり上を目指す事だからだ。
「ならば、俺も空を見上げようと思うんです。たった今、求めるべきものが分かったのだから……」
このたった一言を言う為に、今日の僕はいるのだ。
机に両手を叩きつけると、僕は目を硬く瞑り、そしてマイクに“言葉”という名の“音”をぶつけた。
「あなたが好きだ、綾瀬遥さん」
同時に開いた扉。
なだれ込んでくる教師の面々が僕の身体を掴むと放送室から引きずり出していく。遠くへ行ってしまったマイクを見つめながら、静かに笑った。ああ笑ったさ。言える事が言えたのだ。もう満足だ。
彼女はどう返事を返してくれるかな。そんな事をぼんやりと考えながら僕は、怒声にまみれたこの教師の群れの中で窓越しに空を見つめる。
先程の曇り空が嘘であるかのように、青い空と白い雲がそこにはあった。