校舎裏にある桜の樹は、今年も咲いた。
僕はその樹の下に立ち、花を見上げていた。桜の花びらが風にゆられ、その間からやわらかな日の光がふりそそいでいる。光は体の内側に少しずつたまっていき、体全体が光に変わっていくような、そんな気がした。
「きみ、この学校の生徒?」
後ろから急に声をかけられてふり返った。
二十歳を少し過ぎたくらいの女が、静かに微笑んで、軽くウェーブのかかった長い黒髪を風にゆらしていた。
彼女はゆっくりとした歩調で僕に近づき、「きみ、今ヒマかな?」と尋ねた。僕が黙ってうなずくと、「それじゃあ手伝ってくれる?」と少し申し訳なさそうに言った。
探し物を手伝ってほしいの、と彼女は言う。でもその探し物が何なのか、どこにあるのか、何もわからない。ただ、それは何かとても大切なもので、思いださなければいけないのだけれど、どこか心の中でそれを怖がっているような、そんなところがある。そう彼女は語った。
彼女は僕のほうを向き、「ごめんなさい。変だよね、こんなこと初めて会った人に」と言った。でもね、と彼女は言う。「なんだかあなたを見てたら声をかけなきゃって思ったの、なんでだかわからないけど、とても懐かしい感じがして」
彼女は、「やっぱり変だよね、頭おかしいとか思わないでね」と笑い、僕もつられて笑った。
僕と彼女は学校中を探し回った。
まだ春休みなので学校には人の気配はなく、どこもひっそりと静まり返っていた。
彼女が昔すごしていた教室、部活に打ち込んで汗を流した体育館、テスト前にお世話になった図書館、いろいろなところを探した。どこかうれしそうに、それでいて少し寂しげに「懐かしいなあ」とつぶやきながら、彼女はそれらを見て回った。
廊下を歩いていると、彼女の足音だけが響き渡った。日はもう沈みかけていて、どこか遠くでカラスの鳴き声が聞こえ、夕日が窓から差し込んでいた。
赤く静かな光を浴びながら、彼女はふと立ち止まり、「あの桜の樹……」とぼんやりとした口調で言った。「何か思い出したの?」と僕が聞くと首を振って、「わからない、でも……きみがいたあの桜の樹……あそこに何かある、そんな気がするの」と曖昧に答えた。
僕らは桜がある校舎裏に戻った。外はもう薄暗くなっていた。彼女は、ごめんなさい、こんな遅くまでつき合わせちゃって、と言った。僕はそれに答えずに、ただ微笑んだ。
彼女は僕に向けていた視線をはずすと、どこか波間を漂う船のような頼りない足取りで、桜の樹に歩み寄った。
そうしてその白い手で樹にそっと触れた。
「私の名前……それと」
樹には上にハートのついた傘のマークが彫られていた。そしてその下には二人の名前が刻まれている。一人は彼女。もう一人は……。
「孝……也……?」
僕の名前だ。
彼女が困惑した顔を僕に向けた。今にも崩れ落ちそうな表情だった。
僕の頭の中で桜の花びらが浮かぶ。あたたかい光の中、花びらはゆるやかな風に吹かれ、僕の手にとまった。てのひらに乗った淡い色を見つめていると、孝也、と呼ぶ声がする。振り返ると彼女がいた。
「今日で卒業だね」
僕は「ああ」と軽く微笑み、桜の樹を見つめた。
「今年もきれいに咲いたなあ。この桜ともお別れか」
彼女は「そうだね」と小さく答えてしゃがみこむと、少し大きめの小石を拾った。「何するの?」という僕の問いかけには答えず、彼女は桜の樹に何かをガリガリと彫りはじめた。
僕が近づくとさっとふり返って「書き終わるまで見ちゃダメだよ」と舌を出して笑った。
少したってから「もういいよ」と彼女が言うので、見てみると相合傘のマークの下に僕と彼女の名前が書かれていた。
彼女は頬を赤らめて、少し照れくさそうに笑い、僕も笑った。
その日の帰り道、僕らは一緒に帰り、信号を待っていた。青信号に変わり、手をつないで一緒に渡ろうとした、そのとき。突然運転を誤ったトラックが突っ込んできた。僕がとっさに彼女を突き飛ばしたから彼女は助かったけど、かわりに僕はそのままトラックに轢かれて死んでしまった。
そして、気がつくと僕はこの桜の樹の下にいた。誰にも気づかれることなく、ひとりでずっと桜の樹を見ていた。花が散り、また桜の花が咲いた頃、彼女がやってきた。探し物を手伝ってほしい、と。
彼女は僕のことを全部忘れていた。自らつらい記憶を封印したのかもしれない。わからない。それでも僕はうれしかった。肩を並べて一緒に歩いていると、とても懐かしい感じがした。
そしてこの桜の樹に刻まれた思い出を見てすべてを思い出し、彼女は泣いた。僕は何も言うことが出来なかった。彼女も何も言わずに立ち去った。そして次の年の春、彼女はまたやって来た。ふたたび記憶を失って。
繰り返しなのだ。もう何度目になるだろう。
泣き声が聞こえて、僕は回想から引き戻された。もうすっかり暗くなっていた。あいかわらず彼女はうずくまって泣き続けている。
僕は彼女を救いたいと思った。でも死んでしまった僕に何ができるのだろう。たとえ一年に一度でも、たとえそのことで彼女が苦しんでも、彼女に会いたいと思っているこんな僕に何が出来るのだろう。結局彼女を苦しめているのは僕なのだ。
きっと桜は来年も咲くんだろうな、とふと思った。そして僕はまた桜の花を見上げた。夜風にゆれる花びらの間から月がのぞいていた。月の淡く優しい光は、僕たちをいつまでも照らし続けていた。