「なつめお姉ちゃん!行こ!」
修太に手を引かれ、よろけながら彼と一緒に動物たちに向かって走っていく恩田の姿と、それに付き添って歩く娘の姿を眺めながら煙草を取り出す。
俺と加藤さんはコカコーラのロゴの入った古惚けた赤いベンチに腰を下ろしている。煙草を咥えたままライターを取り出そうとポケットを弄り始めた時に気付いた。加藤さんの隣には幼い女の子がいる。俺は申し訳なさそうに笑って、煙草を箱に戻した。
「その子はあなたのお孫さんですか?」
俺は加藤さんに尋ねた。彼の年齢と女の子の見た感じの年――五才か六才だろう――を照らし合わせてみると、孫の可能性も考えられたからだ。
「いいえ。この子…未紀は娘です。遅い子でしたから、そう見えてしまうのも仕方がないのかも知れませんね」
加藤さんは平和に笑った。
今彼の瞳には、俺の子ども達が映っていることだろう。先刻までは豹のしなやか且つ健壮な動きに目を輝かせ、今は羆を観察できる箱状の穴のような檻に顔を覗きこませている。修太は柵によじ登っており、憂梨は弟の体が落ちないように支えている。その横では恩田が爪先立ちで見入っていた。息子に負けず劣らず、恩田も動物園を楽しんでいるようだ。
「今日は奥さんは一緒に来られていないんですか?」
三人の様子に薄く笑いながら質問する。加藤さんは全く平素と変わらずに答えた。
「家内は、いません」
「え?」
「未紀を産んだ三年後に他界しました。私が病床で、看取りました」
喜怒哀楽全てを超越したような穏やかな声。
俺にはとても、掛けるべき言葉が見つけられなかった。しかし加藤さんは懐かしい思い出を紡ぐかのように話を続けた。その音色には、悲しみと言うものが一寸も感じられない。むしろ、微笑みながら語られる物語のようだった。
「でもね、家内が消えてしまった後でも不思議と私は前を向けたんですよ。娘を立派に育ててくれるよう、家内に頼まれましたから。確かに母親がいないことは、この子にとって良いことではありません。それでも私は未紀を素晴らしい女性にしてあげたいと思います。今は、娘を育てると言う使命感と喜びに動かされていますよ」
娘の瑞々しい髪を撫でながら、加藤さんは顔を緩ませた。未紀ちゃんは気持ち良さそうに目を細めている。
羨ましいくらいに清々しいと思った。加藤さんの背負った十字架は重い。けれど彼は正しく両足で地面を踏みしめて歩いているのだ。俺はこの人に対する尊敬の念をますます強固なものにするしかなかった。
「ところで、貴方の方はいかがですか?」
再び、遠くではしゃぐ恩田と子ども達に視線を送りながら、加藤さんは何かを感じとったように俺に訊ねた。すでにその眼差しには、温かい色が浮かんでいる。
俺は意地悪く口の端を吊り上げて、自信を込めて言った。
「ええ、長い時間を費やしましたけど…光が見えました。再就職先もほぼ確定で、意志もあります」
「そうですか…それは良かった。貴方は真の意味で、水底から復活することが出来た」
「はい。航路もはっきりと見えた。…俺も貴方のように、頑張っていきたいと思います」
「ええ…。私も貴方のように、頑張っていきたい」
小恥ずかしい思いになりながらも、俺と加藤さんは笑い合った。
すると、向こうで修太が大きく手を振っているのが見えた。お父さんも来てよ、と一際高い声で叫ぶ声が聞こえる。俺は軽く溜息を吐きながら腰を上げた。
「…じゃあ加藤さん、俺はもう行きます」
「ええ、行ってあげて下さい。私たちはもう堪能しましたから」
遊び疲れたからか、話が退屈だったからか、眠たそうに瞼を擦っている未紀ちゃんを見ながら加藤さんは言う。
「では、またどこかで」
そう別れを告げて歩き出そうとする俺の背中を加藤さんは呼び止めた。
「栗山さん」
「はい?」
「Gesundheit」
聞き慣れない言葉だ。耳の触り具合から、英語でもないだろう。
「え、何ですかそれ?」
「Gesundheit―――医学の国であるドイツの言葉で〝お大事に〟と言う意味です」
「へえ…お大事に、ですか。ゲズントハイト、いい響きですね」
「ええ…ですから、Gesundheit、栗山さん」
「はい…加藤さんも、Gesundheit」
「Gesundheit」
一層力を入れて俺を呼ぶ子ども達に手を振り返しながら、俺は空に向かって高らかに、
「Gesundheit!!」
そう謳った。
凍てついた薄い灰褐色の雲で日の高さは分からないが、徐々に街が色を失ってきている。
動物園を出た俺達は、長い直線の歩道を歩いていた。隣では恩田が白い靄を雪でも降り出しそうな空に立ち昇らせながらゆっくりと足を運び、俺はその歩調に合わせている。娘と息子は十歩ほど後ろ。土産物屋で買ってもらったミニチュアサイズの翼竜の玩具を手に持って遊ぶ修太に、憂梨が付いている状態だった。
「…なあ恩田、今日は楽しめたか?」
「うん。楽しかった」
喋る度に、二人の口から白い息が漏れる。もしかしたら、こういうものが重なり集まって冬の曇り空は出来ているのかも知れない。動物園で多少なりとも遊楽したからだろう。そんな子どもじみた発想が生まれてくる。だが、それも今は悪くない。
「実際、終盤だれてきた修太よりもお前の方が元気に回ってような気がするぞ」
「…うるさいな」
茶化してみると、予想通りの返答が返ってきた。僅かに頬を染めたり膨らましたりと忙しい恩田を見ながら、声を押し殺して俺は笑う。そしてそれが治まると今度は静寂が二人の間に訪れた。
「……」
「……」
俺と恩田は黙って歩く。恩田にはもはやへそを曲げている様子は無い。俺にはこの沈黙が、とても心地よいものに思えた。
その時だった。髪の毛に透き通った何かが沁みる感覚がした。最初は気にならなかったが、それが二度三度続いた頃、ふと広げた手のひらに白く微細な花びらが乗った。それは一瞬で溶けて消えてしまって、爽やかな冷たさが肌に残るのみ。
恩田が自然と呟くのが聞こえた。
「…雪だぁ…」
そう、雪が降り始めていた。
穏やかな瞳で空を見上げる恩田の周りに白い光が舞う。その一片一片は自らが溶けゆく地面を嫌うかのようにゆっくりと揺れながら降りてくる。恩田はダウンジャケットのポケットに入れていた両手を外に広げ、小雪を受けようとする。その姿は何故だろうか、幻想的に見え、俺は少しの間呆としてしまっていた。
唐突に、恩田が口を開いた。
「…栗山、私帰ろうと思う」
いつもと同じ、淡白な声。だから俺も、いつもと同じ声で言う。
「…実家にか?」
「うん。…栗山に付き合っている内に、母さんの顔が見たくなってさ…帰ってみようかな、なんて思うようになったんだ。成人式は終わっちゃったけど、友達にも久しぶりに会いたいしね…」
「そうか…」
「考えてみたら、中学校にいたあいつの方がまだマシだったような気がする」
判然とした口調で恩田は言った。
この街から離れると言うことは、黒部誠司のことは忘れようとしているのだろうか。とにもかくにも、彼女は前に進もうとしているのだろう。
「帰って……実家の酒屋を継いで、あいつがまだ地元に残っていたら、会いに行ってみようかな。あいつさ、本当に横着でデリカシーがなくてムカつく奴だったけど……私が椅子を蹴った時、笑っちゃうくらい変な顔して謝ったんだよね…」
そう思い出す恩田の横顔は、何処か楽しそうに見えた。
深々と舞い落ちてくる雪を眺めながら、俺は何気なく呟く。
「そうだな…、恩田が帰っても、俺達また会えたらいいな」
「…うん。また、栗山と話がしたい」
「会おう。車走らせて行くよ」
「うん」
「ああ」
気付けば、駅に到着していた。俺は足を止め、振り返って子ども達が追いついてくるのを待った。それはとても有意義な、雪の降る一月の話だった。
それから二週間が過ぎた。
妻が帰ってきて、次第に食卓に笑顔が戻ってきていた。
修太とは一緒にテレビゲームで対戦したり、学校の休みの日は部活のサッカーの練習に付き合ったりもした。憂梨もたまにではあるが俺と修太の遊びに参加したり、高校の先生の愚痴や試験のいやらしさ、クラスの男子と女子の関係について話を聞かせてくれた。
妻はまだ少しの間、養生が必要だった。俺は妻にもう働かなくていいと、パートを辞めることを薦めた。しかし彼女は、あともう少し、頑張らせて下さい、と言った。
それは確かに助かるが、絶対に身体を壊すようなことはしないで欲しい。逢紗子には俺の心の健康がかかっている。そのことを伝えると、妻は未だ微かに血色の良くない頬を薄赤く染めて、分かりました、と嬉しそうに頷いた。
家族の温かい笑顔に、ぐんぐん気力を漲らせている昨今である。
そうして二月の中旬の土曜日、新しい職場の面接をする日を迎えた。
今はもう、元企業戦士の矜持云々は語らない。正真正銘の会社員になるべくワイシャツに袖を通した。つい数ヶ月前までは、この服装にぶら下がっているような心持ちだったのだが、今日身に纏ったスーツは気持ちが引き締まる感じがする。
午前中にマイカー君とサボテン君との別れを済ませた。名残惜しそうに棘の項垂れたサボテン君との白熱した議論は永遠に忘れないだろう。
顔合わせは昼過ぎからで、早めに出掛けることにする。玄関にて俺は革靴を履きつつ、背後に立つ妻に尋ねた。
「逢紗子、子ども達は?」
「修太はお友達と公園に行きましたよ」
「憂梨は?」
「お昼前に、制服姿で出掛けていきましたけど」
「そうか」
俺は靴べらを置いて立ち上がった。企業戦士の完全武装だ。死角はない。
ビジネスバッグを持って、扉に手を掛けた。
「それじゃあ、行ってくるよ」
家を発ったら、昨夜の緊張が蘇ってきた。商店街は平日にも増して盛況だ。駅に向かう途中で一服をしようかとコンビニの前で立ち止まる。
「……」
しかし取り出した煙草の箱とライターを見つめて、俺はごみ箱にそれらを捨てた。
今はもう煙草だけじゃない。人生だって旨くなりかけているのだ。もはやこんな物に頼る道理はない。これからは妻の料理や、子ども達の笑顔がそれに取って代わるだろう。
駅前の広場を通り過ぎようとする。
恩田と並んで座ったベンチ。彼女の飲んだマックスコーヒーはこの界隈ではあの自販機にしか売ってない。少し外れた所に聳える銀色の学習塾のビル。俺はそれらを見渡しながら気分を落ち着かせようとした。
そして恩田と入り、憂梨に誤解を与えてしまったカラオケ店――。
「…あれは」
何気なしに見遣った場所に娘が見えた。その周りには、彼女以外女性は一人。憂梨と同じ高校の制服を着ているから、彼女の友達の一人だろう。加えて男性が四人いた。大学生かそれ以上の青年。どこにでも居そうな平凡な顔立ちである。しかし、何処か不穏な空気を漂わせていた。
そして男達は憂梨を取り囲むようにして地下のカラオケ店へと下る階段の入口に入って行こうとする。まさか、またあのような方法で娘は金銭を得ようとしているのだろうか。
一瞬、四人組の隙間から憂梨の様子が窺えた。
左の肘を、右手で頻りに擦っている。
それは他人から見たら何の変哲も無い仕草。だが、父親である俺にはそのサインの意味が分かる。
―――娘は今、不安や恐怖を強く感じている。
「……」
俺は時計を確認した。まだまだ面接の時間までには余裕がある。ここで娘を追いかけて説教をして止めさせるくらいのことは出来そうだ。
「全く、何やってるんだあの子は」
俺は進路を変え、娘と連中が消えていったカラオケ店への下り口を小走りで下り始めた。
その十数分後。
連絡も無しに帰郷した恩田棗が実家の門を開き、驚いた顔で応対する母に自然と笑いかけた頃。
地下に、生々しい悲鳴が響き渡った。