Neetel Inside 文芸新都
表紙

Salvaged Life
第十九審『Beautiful Morning With You』

見開き   最大化      

 やあ、神様。
 この間はどうも有り難う。見事に救済してもらっちゃって、恩に着るぜ。お陰で光明が見えたでござい、と来たもんだ。いいや、俺は真面目だよ。
 とは言っても、今回の俺のこの様は一体全体どう言う了見だい?あんたも伊達や酔狂で人を救っているわけじゃないだろう。俺は何度も水に浸かるのは趣味じゃあないんだ。掬い上げられてまた沈められるってのは頂けないぜ。
 ああ、にしてもあんたに会えるとは驚きだ。
 てっきり俺は地獄でいい旅悪夢(ゆめ)気分でもするのかと思っていたよ。灼熱風呂で絶景を眺めながら、とかな。なんせ俺は大き過ぎる罪を犯してしまった。愛する妻がいるのに、不倫してしまうなんて言語道断だろう。なあ、そう思わないか?
 ―――――――。
 何、カウントされてないだって?そいつは可笑しな話だな。まあ何がどうなっていたのかは知らないが、あんたがそう言うのなら間違いないんだろう。昔から、お上と仏の言うことには逆らうなって言うからね。おっと失敬、あんたはちょいと別物だった。
 で、積もる話はキレイに飛ばして、俺は今一体どんな状態なんだ?まさかとは思うが…俺はとっくに御陀仏で、今頃は火葬場で炎に巻かれているとか言わないでくれよ。妻に遺影でも持たれたら堪らない。
 ―――――――。
 そうか。どうにかならない事もない。
 まあ、そこでだ。一丁俺を送り返してくれないか?まあまあそんな顔するなよ。全人類の為にあんたは柔和な顔でいるべきだ。頼む、一回こっきりの例外でいいんだ。
 このまま家族を世知辛い地上に残していくなんてのは到底無理だ。今だって、彼女達は酷く悲惨な思いをしている筈なんだ。あんたも見ただろう?その家族の涙を見捨てろというのか。俺にとっては不可能に近い芸当だぜ。
 いいや、言い直す。不可能だ。
 ―――――――。
 おいおい、待ってくれよ。審理は始まっているだって?冗談は止せやい。
 せっかく俺は水底から這い出したんだ。家族と再会して、恩田と出会って、加藤さんに世話になって、池添の死を見て、松原と語って、葵に馬鹿な事を言って、山根さんに励まされて、久永さんに助けられて、俺はやっと陸に上がって歩き出そうとしていたんだ。そんな御無体なことはいけない。
 ―――――――。
 なあ、子羊の話も偶には聞くもんだぜ。
 俺には夢があるんだ。それだって死んでしまえば未練垂々だ。怨念抱えた野郎が天国這いずり回るのもあんたの本意とする所じゃないだろう。
 そう、俺には希望やするべき事が山ほどあるんだ。
 大切な家族を守っていくのは俺だ。
 娘の男に難癖付けるのは俺だ。きっと認めるのは妻だろうが。信じてみましょう、なんて言うのだろう。そして俺は丸め込まれてしまうに間違いない。
 そんな妻を連れて海外旅行に行くのは俺だ。
 修太が逞しく育つのを見届けるのは俺だ。
 ああ、今は舞い上がってしまって幾つも言えないが、冷静になって少し考えれば少なくとも千は願いが溢れてくる筈だ。いや、星の数ほどかも知れない。
 とにかく俺は、終りそうな体でも心は生き生きとしているんだよ。
 ―――――――。
 溜息が出るぜ。あんたも強情だな。余程、頑迷固陋な頭を持っていると見える。
 全知全能も大変だろう。…ああ、それならあんたは知っている筈なんだ。
 あんたはそれを隠しているのか見ないようにしているのかどうかは分からないけど、あんたが何を言ったって俺には確信できる一つの事実があるんだよ。
 やはりな、これだけは確かだ。家族は俺の帰りを待っている。
 俺はまだ、妻の波一つ立たない湖面のような落ち着いた声を、娘のまだ少女らしさが残る可愛げのある声を、息子の少し高い溌剌とした声を、聞いていたい。
 俺はまだ、妻の変わらない優しい微笑みを、娘の一瞬だけあどけなさが覗く笑顔を、息子の屈託の無い満面の笑みを、見ていたい。
 そうでないと、禁断症状が出てきてしまいそうだ。
 妻や子ども達には俺が必要で、俺にも彼女達が必要なんだよ。
 俺は彼女達と生きていく。それは、あんたでも枉げられない、俺の決めた運命だ。俺は俺の命を運ぶぜ。それはまた考えてみたら、随分と素晴らしい事じゃないか。
 ―――――――。
 ―――――――。
 ああ、全く、巫山戯るなよ、あんた。
 俺はもうカンカンだ。沸騰した薬缶みたいだと言えば分かるか?
 審判なんてする気になれない。あんたの言う事なんて聞く気になれない。
 俺は神の許しも、永遠の安らぎも要らない。欲しい物は、未来だ。
 どんな言葉を並べたってもう無駄だ。俺は何としても帰らせてもらうぜ。
 ―――――――。
 ―――――――――。
 ――――――――――――。
 悪いな。俺はこう見えて意外と頑固なんだ。あんたと同じさ。
 あんたは俺が誤っていると言うが、加藤さん曰く聖書にはこう書いてあるそうだ。
 正しい人はいない。一人もいない。
 これもあんたと同じ。
 さあ、無駄話はこれぐらいにしておいて、俺はもう行くよ。
 ―――――――。――――。
 ああ、そうだ。次はトビアスを呼んでやってくれ。あいつは六十年もあそこで他人が此処に入っていくのを見せ付けられてきた、可哀相な奴なんだ。
 ―――――。
 何だ。まだそんな事を言っているのかい。
 もう諦めろよ。相手が悪かったと思ってくれ。
 ああ、じゃあな。




 審判は終わり。〝最期〟を棄却。
 俺は掲げた後ろ手に別れを乗せて、背後の扉を押し破る。


                    ◇


 バァアン!!

 天上の平和を象徴する微睡みのような静けさを突き破って、乱暴な木の音が廊下に響いた。俺が力任せに開いた扉の向こうは、やはり先程までいた長方形の空間だった。
 白濁した天井や床を意味もなく見つめていた他の人々も流石に注意を持って一斉に音源に振り向いた。強引に扉が開かれる音に何か悲惨な記憶があるのか、耳を塞ぎ怯えた顔で目を見開く者が居たが、今はそれに構っている暇は少しもなかった。
 「!?ヨウスケ!」
 前方の左、長椅子に座っていたトビアスが、立ち上がって困惑と驚きが入り混じったような叫号を上げた。彫りの深い顔立ちにさらに凄みが増している。その顔はまさしく兵士のもので、改めて彼は戦争に巻き込まれた人間だったのだと実感する。
 「悪い、トビアス!!俺はやっぱりこのまま消える訳にはいかないんだ!!」
 そう叫び返して、俺は廊下を遡り始めた。この薄気味悪い館から脱出する為に。
 すると、開け放たれた乳白色の扉の奥から、霧を何とも思わない姿勢で二人の人間が出てきた。外のターミナルで見た駅員と同じく、真っ白な生地に金の刺繍が肩と胸に入った制服を着ている。どうやら俺を追いかけて来たらしい。
 しかしその容貌には動揺の色が滲んでいる。まさか自ら神の国を拒絶する輩がいるなんて想定していなかったのだろう。二人のその様子は緊急事態の様を如実に物語っていた。
 俺が再度走り出すのと、彼らが俺を確認するのはほぼ同時だった。
 彼我の差は六メートル程。俺は懸命に手足を動かすが、彼らの方が足が速い。
 俺は背中に迫ってくる追跡者の気配に熱い悪寒を感じていた。歯を食いしばってその嫌な感覚を打ち消そうとするが、否応なく彼らの存在感は増すばかりだ。
 そして彼らの伸ばされた手が空気の形を変え、その歪みが首筋に触れた。万事休すか…、と思われた時、突然首が見えない圧迫感から解放された。
 「ハァッ?…ハァ!?」
 冷や汗がどっと溢れ出してくるのを感じながら、走りつつ振り返ると、
 「ヨウスケ!早く行きなさい!」
 トビアスが天使の追跡を妨害していた。銃で一先ず打ち払うと、彼も俺に追いついてくる。
 俺は体力が失われるのを覚悟で大声で言った。
 「トビアス、どうしてッ」
 俺の必死の形相とは相反して冷静に走り続ける彼は、微笑みながら俺の顔に向けて、
 「言ったでしょう?気に入ったと。僕は君の気概に共感した。ただ、それだけです。それだけでこの手は君の行く手を阻む者を薙ぎ払った。…はは、戦争中にもこんなことはなかった」
 と妙な興奮を湛えた声の語気を強めて言った。
 俺は意地悪く歯を見せて笑うだけで返す。
 空洞に烈風が吹き抜けるように騒然とする廊下の先、俺はたった一つの出口を見つけた。
 トビアスと二人で巨大な門扉を体当たりで開いた。再び雲の上に着地する。
 俺は何も考えていなかった。無我夢中で黄金の駅に一目散に駆け出す。
 人知を超えた何かが俺に味方しているとしか思えなかった。今、停車しているのは〝For The Ground〟と彫られたプレートが側面に嵌め込まれたSL。乗客の最後の一人が乗り終えたところだった。甲高い汽笛を鳴らして、車体が唸り始める。
 猛然と走ってくる俺の勢いに気圧された駅員を尻目に、俺はゲートを飛び越えた。後ろからトビアスがその駅員に謝る声が聞こえる。
 発車し出した列車の最後尾の手摺に飛びつき、何とかよじ登る。火事場の馬鹿力か、俺の動作は若い頃と殆ど同等に冴えていた。間髪入れずに俺は、トビアス、と呼んで彼に手を伸ばした。
 だが、彼は淡い表情を浮かべて首を振った。何故だ。
 「僕は行きません。僕の体はもう亡いですし、息子もきっと立派なおじいさんになっているでしょうから。僕が気を揉む必要はないでしょう。無理をしてガイストになるつもりはないですよ」
 それは悟りでも諦観でもない。満足だった。
 徐々にトビアスと列車の距離が広がっていく。
 「でも、あなたは戻るべきだ。家族を守っていくべきだ。僕はあなたに僕の出来なかったことを成し遂げて欲しい。それが僕の助力にあなたが払うべき対償だ」
 そしてトビアスは立ち止まった。急速に彼の体が縮小を始める。
 「ああ!約束する!!だが、分割払いで頼む!俺の先は長いんだ!」
 俺の声を聞き取れたのか否か定かではないが、トビアスは大きく手を振り始めた。その背中には、制服姿の男二人が迫ってきている。俺は唇を噛んだ。これから彼はどのような仕打ちを受けるのだろうか。神の使いを攻撃したのだ。ただで済む筈がない。もしかしたら、審判を受ける資格を剥奪されるかも知れない。
 俺はどうにか別れの言葉を探した。口惜しい気持ちになりながらも、言葉を残さなければならないような気がした。そこで俺ははたと気付いた。俺の知っている彼に相応しい言葉を見つけ出したのだった。
 「Gesundheit!!」
 トビアスの祖国、ドイツの言葉。加藤さんに教えてもらった〝お大事に〟と言う言葉を、俺は精一杯喉を震わせて叫んだ。何度も何度も繰り返し、一回でも彼に伝わればいいと思った。
 すると既に豆粒ほどの大きさになっていたトビアスが苦笑するのが分かった。そして引き続き腕で高く弧を描きながら、何かを言い返してきた。遠い上に、列車の騒音の所為でうまく聞き取れなかったが、
 〝懐かしい響きですが少し違います。『さよなら』はこう。Wiedersehen!!〟
 そう訂正してくれた、そんな気がした。
 ……Wiedersehen。俺はそう呟き、手を振るのを止める。
 彼らの姿が見えなくなり、俺は車両内に続くドアを開けて入った。狭苦しい日本の地下鉄とは違い、西洋の鉄道みたいなゆとりのある内装だ。いや、それよりも些か豪奢だろう。対面座のソファが狭い通り道の左右にあるが、殆どが空席でぽつんと二、三人が離れて座っているだけだった。
 俺は空いている席の窓際に腰を下ろした。窓の縁に肘を預けて盛大に溜息を吐く。
 全く、えらく大それたことをしてしまったものだ。
 難を逃れて落ち着いたからか、安堵と共にえも言われぬ畏怖じみた感情が頭の中を駆け巡り始めた。
 高校時代、授業をしらばっくれた時の思い出が浮かんだが、そんなものとは比べ物にならないくらい今回は規模が大きい。米粒と太陽ほどの差があるに違いない。今更ながらに、こいつは大変だ、という思いがむくむくと膨らんでくる。
 「…でもまあ、やってしまったことには仕方がないよなあ」
 だが、俺はその心の風船を独り言という針の一刺しで事も無げに割った。幸か不幸か、俺はこういうところでも陽気さを発揮するのであった。
 その時、眺めていた空の下方に一際分厚く白々とした雲が見えた。現実味は一寸も帯びていない姿形。しかしそれだけに何かを予感させる。この列車はどうやらその中に突き込もうとしているらしい。
 突然シートにがくりと角度が生まれ、俺は、うお、と情けない声を漏らした。まるでジェットコースターに乗っているような気分になる。ぐんぐん列車はスピードを増し、強力な重力を全身に受ける。
 雲の中に突入したのだろう。ブワッと機関室から、窓と言う窓から真っ白な煙が襲い掛かるように流れ込み、瞬く間に視界が狭くなる。今まで体験したことの無いような強引な意識の剥がれ具合だった。
 そして俺は目の前が完全に暗くなる直前に、先程考えていたことを思い起こしていた。


 神様には流石に悪いと思っている。
 彼には少しあたってしまったし、あまつさえ逃げ出してしまった。
 そうだな。また云十年後かに謝りに行こう。
 出来れば、妻も同伴で。








 目を覚ますと、見知らぬ部屋にいた。
 いや、嘘を吐いた。幾度か見たことのある清潔そうな白い天井だ。その純白の中に一点浮かんだ染みの色を認めると、一度で世界は急速に色づいていく。窓から絵画のように射し込む黄色い陽光。弓を張ったように広がっていく碧く雄大な空。そして――――薄赤く染まる肌の色。
 ゆっくりと瞬きをすれば、それに乗じて耳も感覚を取り戻していく。今日は看護婦の機嫌が良いのか、廊下を転がるワゴンの軽快な車輪の音。見舞い客や患者が織り成す、朝の慌しい生活の音。誰々が結婚しただのと言うおめでたい世間話。それらはいつか、誰かの死を欲しているようだと思った病院の静けさが嘘みたいな人々の音。そして――――この耳に届く〝お父さん〟と言う潤んだ温かい声。
 ああ、なんて美しい朝なのだろう。
 俺は試合を終わらせなかった。ただ少し、タイムを取っていただけ。すぐに俺はバッターボックスに歩み寄る。
 何処からか、喜々としたアンパイアの高らかな試合再開の声が聞こえる。

 俺はまだ、朝を迎えて、生きていた。
 涙を目の縁に湛えた、家族の嬉しそうな笑顔を、両目に映して。

       

表紙

池戸葉若 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha