ジャララッラララ バーパーパー ドギョロロロッロロロ
俺は椅子に座っている。だけど向かうのはオフィスのデスクじゃない。それはもう何ヶ月も前の話である。
鼓膜を劈く、けたたましい電子音にも慣れてきた。周りには老若男女様々な人間が様々な表情で、皆同じ方向を凝視している。
情けない話、家庭から逃走し行き着いた先はパチンコ店だった。玄関から飛び出して煌々とした太陽を目一杯浴びた時は、開き直りじみた清々しさがあったのに、今やそれも良い思い出になってしまっている。
先日、俺が約二十年ぶりに打ったパチンコは、帰ってきたビギナーズラックか、当たりに当たった。余った玉で出たお菓子などの賞品は、修太には喜ばれたが、娘と妻の眼差しは古井戸みたいに仄暗かった。確かに、職安にも行かずに遊んでいる夫や父親に対する反応としては当然だ。
それに味を占めて、俺は今日もこの戦場に推参したのだった。
『少年よ神話になーれッ』
「俺はもうおっさんだよ…」
咥え煙草で呟きながら、淡々と回す。
どうしてこの世から戦争は無くならないんだろうか。権力の座に上り詰めてしまった人がほんのちょっと強情で独善的だったり、遥か昔に置いてきた筈の怨恨がひょっこりと顔を出したり、地球上に俺みたいな奴が居たりするからだろうか。
どうしてこの世から犯罪は無くならないんだろうか。例えば自分の欲望が法律に合わなかったり、恨みつらみが重なってどうしようも無くなってしまったり、レールの上を走りたくなかったり、地球上に俺みたいな奴が居たりするからだろうか。
益体のない事を考えていたから気付かなかったが、もう頃合的にかからなくなっていた。
「今日はもう終わるか…」
総合的には大きく勝っている。俺は呆けた顔の若いアルバイトを呼んで、終了する意思を伝えた。見た目とは裏腹に手際のよい彼。
きっとこの青年は、いや、辺りにいる大学生風の男女や定年を迎えた感じの老人だって、俺みたいな働き盛りのホワイトカラーが此処に居る事について疑問を感じているに違いない。あれこれ想像して、俺を嘲笑っているのではないかと考えてしまう。
「……これは、被害妄想って奴か?」
陽気なのが取り得だった俺は、それすらも失おうとしていた。
屋外に設置されている換金所に向かった。
自動ドアを抜けると、スゥと雑音が遠ざかり、奇妙な感覚を覚える。屋内で渦を巻いていた、煙草の臭いと生暖かい空気から解放されて、街中のそれでさえ山中の清らかな大気にも思えてしまうから不思議だ。
換金を済ませると懐が随分と暖かくなった。一応、儲けは大半を家計に入れている。それで許してくれとは言わないが、多少なりともの贖罪と考えていた。贖罪と言えば聞こえは良いが、自己満足の方がしっくりくるのかも知れない。
結局、罪悪感を感じているあたり、俺は家庭から逃げ切れていないのだろう。
「あー…」
腰の下辺りまでポールみたいになった汚い灰皿に灰を落とし、間延びした声を出す。ついでに伸び。凝った筋肉をほぐすと、もはややる事が無くなった。
絵や壷なんかは全く興味ないが、美術館にでも行こうか。ゲームセンターは何故だか敬遠してしまう。映画館は観たいものが上映されていない。
色々思案した結果、漫画喫茶で時間を潰そうかと思い立った瞬間だった。
自動ドアが滑らかに開き、一人の客が出てきた。
そこには腕の中一杯に賞品を抱えて、よろけながらも換金所に辿り着く女の姿があった。
顔は見えないけれど、きっと若い。しかしその服装は、年頃の女にしては些か地味だと思わざるを得なかった。セミロングの黒髪にも、大して艶は感じられず、むしろカラスの羽みたいだ。
トップスは灰色の地味なスウェットパーカー。ボトムスは色落ちしたブルーの細身のデニム。足元には汚れたナイキのスニーカーを難なく落とし込んでいる。
全体的にパッとしない印象だ。身長が高くないからか、パチンコ店の年齢制限に引っかかりそうだなと思った。
その体躯、容貌、印象から、野良猫という三文字が頭に浮かぶ。
「…予定変更だな」
興味を引かれた、と言えばいいのだろうか。俺は怪しげに呟いた。
一瞬、ワイドショーを賑やかす変態中年男の幻影が浮かんだが、それは違うと薙ぎ払う。
純粋に、俺は人恋しかった。
最近のまともな話し相手と言ったら、息子の修太か、庭のサボテンの植木鉢、ガレージの自家用車しかなかったのだ。しかもその内二つはひどく無口な奴らで、たまに一言二言しか喋らない。俺は真剣に人と話がしたかった。
それに、妙に親近感が湧いたのだ。黒い髪は妻や娘と同じだし、それだけじゃない、何か言葉で言い表せられないようなシンパシーを感じたのだった。
女は無言で歩きはじめた。相変わらず足取りは危なっかしい。実は前もあまり見えていないんじゃないか。
俺は吸殻を灰皿に捨てると、その背中を歩いて追った。歩幅は段違い。俺はすぐに何食わぬ顔で追いつくことに成功した。彼女は斜め後ろの男に気付いていない様子だ。いざとなると緊張するのは俺の悪い癖だが、俺は昔妻に初めて話しかけた時のように声をかけた。
「やあやあお嬢さん、荷物重そうだな。俺が持つぜ」
俺は早速後悔した。そう、俺が妻に初めて話しかけた時と言うのは80年代後半なのだ。俺達の青春はもはや化石。その時の文句が現代のヤングマン達に通じる筈がない。
俺の言葉に、ゆっくりと女は振り返った。
やや幼さが残るものの、大人と言われれば大人の顔である。
「…オジサン、誰?」
訝しげに、俺の素性を簡潔に聞き出そうとする。
「俺は栗山洋介。1966年12月8日生まれ。アメリカ人が聞いたらリメンバーとか言いだしそうな誕生日の、見ての通りサラリーマン風の男だよ」
突然の、免許証と張り合うような自己紹介に、さらに怪訝そうな顔をする女。しかし彼女も何処か独特な人間なのか、冷静な声で返してきた。
「風って何?」
「実はもうサラリーマンじゃないんだ。解雇されてさ。だから、風」
続いて履歴書いらずのカミングアウトを決めてしまった。俺がさも面白そうに陰気な話をするからか、女の表情からは警戒の色が薄くなっていった。
「…何それ。意味分からないけど…。それで、何の用?」
「別に、用があるって訳じゃないぜ。無職だからか知らないけど、恐ろしく退屈なんだ。ちょうど話し相手が欲しかった所で君が目に入った」
「それで、私とお話ししましょうって?」
「ああ、ご名答だ。探偵になれる」
「ワトソンの方が好きなんだけど…」
これ持ってて、と女は一先ず片腕骨折中の俺に荷物を預け、俯いて考え出した。利益を比較考量しているのだろう。悪いが、利益はただコーヒーぐらいしかないと思う。
しかし、女は乏しい表情はそのままに答えた。
「別に、いいよ。オジサンと一緒で、私も暇だし」
驚いた。俺の年齢の二分の一ぐらいしか生きていなさそうな女が、ちょっと思案しただけで付き合ってくれるとは思わなかったからだ。だけどそれも話し相手が見つかった喜びに比べれば、数秒で消え去る程度のものである。
「おお、マジか。サンキュー。じゃ、俺の知ってる喫茶店でいいか?」
「…変な所じゃなければ、どこでも」
「なら安心だ。気のいい爺さんが迎えてくれるぞ」
「フーン…」
パチンコ店の敷地から離れて、町の小さな商店街の小さな喫茶店、喫茶ヤマタカ帽の店先に差しかかった時、俺はふと思い出して聞いてみた。
「そういえば君の名前は?聞いてなかった」
「教える必要あるの?」
「いや、まぁ別にないっちゃあないんだけど」
刺すように言われて、俺はしどろもどろに返すしかない。
けれどそう言った女は、しばらく黙った後、自分で思い出すかようにその名を告げた。
「……恩田、棗。恩に着るの恩に、田んぼの田。あと棗貝の、棗」
「山根さん、久しぶり」
「…栗山君か。ご無沙汰だな。腕に愉快なもんがついとるが、そりゃなんだ?」
「いやー、ちょっとドジ踏みまして…。あ、そこのテーブルいいっすか?」
「勝手にしてくれ。実は君が来ることを予知して貸切にしといたんだ」
「そりゃいい。お礼として今度閑古鳥の置物でも持ってきましょうか?」
「いらん。余計なお世話だ」
そう言って、店主は読みかけだった新聞に再び視線を落とした。
この手の冗談は恒例だ。山根卓弘とはもうかなりの付き合いになるが、俺は彼の名前と家族構成くらいしか知らない。一方彼もまた、俺に関しては同じようなものである。彼は自分を深く人に知られるのも、人を必要以上に知るのも嫌いなのだと言う。彼なりの人生観があるのだろう。
だから、山根は俺が失業、自殺未遂の話を饒舌に話し出したとしても、耳を塞ぐか、裏に引っ込むか、あるいは怒鳴って止めさせると思う。現に、妻子持ちの俺が若い女を連れて現れても、何の口出しもしないのだ。
ある意味、一番気楽な人間関係を体現しているのかも知れない。
頭上のテレビが良く見える位置に座り、人形みたいに立っている恩田に声をかけた。
「座ってくれよ、立ち食いそばじゃないんだ。俺はコーヒーにするけど、恩田はどうだ?食いたい物あったら言ってくれ」
恩田は、壁に掛けられたメニューをひとしきり見て、コーヒーとホットドック、と言った。俺は山根の名を呼び、コーヒー二つとホットドックを注文した。彼は、あいよ、と面倒臭そうに息を吐いて立ち上がった。
コーヒーと軽食を代償に、恩田棗は俺の話し相手になってくれた。
彼女は現在二十歳のフリーターで、パチンコと仕送りで生活しているらしい。パチンコの運が強く、甘デジ台ならそうそう負ける事はないが、楽しくはないと言った。
「…結局、不安定に生きながらえているだけだよ」
「そうか。俺は今、安定的に無職なんだけども」
「栗山、なんかダサいね」
「それ、この前娘にも言われたぞ…。つか、栗山ってなんだ。この世には敬称ってものがあるんだぜ」
「…だって、栗山が恩田って呼ぶから、苗字同士で一緒でしょ」
「ほう……棗ちゃん」
「……栗山」
「まぁ、それでいい」
他愛のない話ばかりだ。テレビをおかずに、雑誌を種に、明日忘れてしまうような会話を何時間も続ける。けれどそんな平日の午後は、俺の黒く凝り固まりかけた心を、まるで温泉のように柔らかく解していくような気がした。それは言い過ぎかも知れないが、奇妙な孤独感からリラックス出来たのは紛れもない事実だった。
今の時間、喫茶ヤマタカ帽の疎らな客はカウンターに座っていて、テレビを見ている者は俺達二人だけだった。
「お、このアニメな。息子が観てんだよ」
「フーン…」
勝手にチャンネルを変えていたところで、偶々映ったアニメだが、確かそれは夕方の六時辺りの番組の筈だ。するともうそろそろ、帰宅しなければならないだろう。
正確な時間を知りたかったが、生憎俺は腕時計を嵌めていなかった。そこに丁度、腕時計を嵌めた恩田の腕がテーブルの上にあったので、俺は覗き込むようにして腕に近づいた。
「な、何」
「いや悪い、ちょっと時間を……」
教えてくれ、と言いかけて喉が止まった。
腕時計のベルトの下。手首の内側。一つだけじゃない。醜悪な蛇のように肌に走る、変色した傷跡が。
「…ッ!」
俺の見ているものに気付いたのだろう。物凄い勢いで、恩田は手首を引っ込めた。
今までの冷静な態度が一変、呼吸が浅く、狼狽しているのが分かった。
それを悟られまいと思ったのか、彼女は努めて平静を装って、今は…六時、二十分、と呟いた。その瞳は不安と焦燥に彩られ、敵意のようなものまで感じられる。
人間、知られたくない事が一つや二つはあるものだ。俺は、彼女のその一つに触れてしまったらしい。けれど俺は驚愕よりも、神の啓示を受けた時のような安堵を抱いていた。
換金所で初めて見た時の、あの共鳴は嘘じゃなかった。恩田も俺も、似たような人間だ。質や大きさ、形は違えど、何処か心に洞がある。
「…そ、そろそろ、帰らないと…」
恩田は立ち上がって、素早く出る準備をする。
俺はその姿を見つめながら、普段通りに口を開いた。
「なあ、待ってくれよ恩田」
俺の言葉を耳にした彼女は、機械みたいに俺の顔を見返してくる。
「また、こうやって話そうか。…いいじゃないか、ハリーポッターみたいでかっこいいぜ?」
「そ…そんな」
「ツレナイこと言うなよ。俺はもっと君と話したいんだ」
「……」
「恩田は違うかも知れないが、俺は今日ほんとに楽しかった。人恋しい気持ちだって満たされた。出来れば、この楽しさを後数回は享受したいんだけど」
暫しの沈黙。もしかしたら、魔法少年の件に腹を立てたのかも知れないと思う。しかしほんの僅かだが、恩田の表情から暗い物が褪せたように見えた。
「…別に。さっきも言ったけど、私、栗山と一緒で暇なんだ。だから、話し相手ぐらいにならなってあげる、かも知れない」
「…ああ。お願いするよ」
恩田は笑いこそはしないが、彼女の森の清流のような声に、俺は微笑んだ。そして彼女は、あ、と声を出した。
「…ちなみに、私ハリーよりロンの方が好きなのですが」
「お前…とことんズレてるよな」
そう?と、恩田は振り向きながら言った。その姿には、いつの間にか淡白さが戻っていた。
夕方の六時半。
店先で俺と恩田は別れた。
また会おうと言う、口約束を陽気に交わして。