どこで壊れたのだろう。
秋とも冬ともつかないこの時期特有の、赤く忙しない夕日が鮮やかに教室を染めている。窓の外では今日も野球部が声を張り上げ、遠く音楽室から吹奏楽部の奏でる頼りない音色が微かに教室を震わせている。
響子はこの曲を知らない。知りたいとも思わない。教室で一人、机に置いた金貨を見つめながら、ただ思い出していた。
夕焼けと共に聞こえてきたあの歌を。橙色の優しい風に真っ直ぐ伸びた黒髪を流しながら、響子の傍らで、響子の手を、響子の指を撫でながら凛が口ずさんでいたあの歌を。
お世辞にも上手いとは言えない、しかし不思議と心地よい凛の歌声。
ずっと聴いていたかった。
ソメイリンという名を、響子はよく知っていた。学校の廊下で、通学路で、果ては街を歩いている時でさえ。「ソメイさん」「リン」などと、よく声を掛けられた。
振り返った響子の顔を見て、呼び止めた彼らは「あっ」と呻く。そして直後にこう口にするのだ。「間違えました」と。響子とその「ソメイリン」はよほど似ているらしかった。
だから響子が河川敷道で途方に暮れていたあの時、「どうかしましたか」と顔を覗き込んできた彼女が「ソメイリン」だと瞬時に理解できた。
ソメイリン。同じ高校に通う一つ年上の二年生。それしか情報を持っていない響子だったが、なるほど、確かに彼女は響子に似ていた。
背格好も、分け目は違うが長い黒髪も、目鼻立ちも。響子自身は気付かなかったが、歩き方や鞄の持ち方まで。後姿や遠目から見れば、見間違うのも無理からぬことだった。
「どうか、しましたか」
首を軽く傾げながら、ソメイリンが再び訊く。ゆっくりと、落ち着き払ったコントラルト。自らの上擦り落ち着きの無い声にコンプレックスを持っている響子にとって、彼女の声質は大変に羨ましく、魅力的だった。声帯の造りも同じだったら良かったのに、そんなことを思った。
視線だけをソメイリンに向けたまま動かない響子を見て、ソメイリンは訝しげに眉をひそめた。「ねえ、大丈夫?」そう言って響子の肩に触れる。響子は肩に置かれた美しい指先に見惚れながら、
「ソメイリンさんですか」
唐突に放たれた響子の問いに、はっとしたように目の前の彼女は目を瞬かせ、そして微笑んだ。
「やっぱり。あなたハルミさんね?ハルミキョウコさん」
そうじゃないかと思ったのよ、リンはそう呟きながら響子の頬に手を当てる。
「うん、そうね。ぱっと見は似ているけれど、でも違う顔だわ。私よりずっと綺麗」
無遠慮に瞼や唇を撫でるリンに少々面食らいながらも、響子は何故自分の名前を知ってるいるのかを尋ねた。
「あなたと同じよ、多分。あなたの友達にね、よくあなたと間違えられたの。それがあんまり多いものだから、いい加減憶えてしまったわ」
やっと実物に会えた。
六月特有の湿った生暖かい風が二人の間をすり抜ける。響子は不意に顔が熱くなるのを感じて、一歩後ずさりリンの手から逃れた。
「私は別に、可愛くないですよ」
俯く響子を見つめながら、リンは微かに吹き出した。しゃっくりのような、独特の笑い方だった。
「面白い子ね、あなた」
「何か御用ですか」
その一言で、リンは本格的に笑い出した。口に手を当て、必死に堪えながら。
「なんですか」
「だってあなた、この世の終わり、みたいな顔をして呆然としていたんだもの。誰だって気になって声を掛けるわ。それなのに、『何か御用ですか』はないでしょう」
肩を震わせ、つっかえながらリンは言う。
「それで、どうしたの。何か大変なことがあったんじゃないかしら?」
私に良く似た、なんだかとても失礼な上級生に絡まれるのは『大変なこと』に含まれるのだろうか。響子は下らない自問に内心溜息をつきながら、それでもついそれを口にしてしまった。リンにはどこか、無条件で人の信頼を得てしまう雰囲気があった。
「コインを、落としてしまって」
「コイン?」
「大事なコインなんです。見てたんです、それを、手に持って。そしたら自転車が来て、避けた拍子にコインがそこに」
まともな管理もされず放置されていたのだろう、響子の指差す先には、好き放題に伸びた草むらがあった。彼女達の腰ほどの高さまで雑草が達している場所もある。
「一枚?」
「え?」
「落としたコイン」
「……はい」
一緒に探すわ。言うやいなや、リンは躊躇いもなく河川敷道から土手を駆け下り、草むらに足を踏み入れた。
「え、でもいいですよ、汚れちゃうし、悪いです」
慌てて制止する響子に見向きもせず、「大事なものなんでしょう。急がないと」それだけを呟き、しゃがみ込んで草を掻き分けはじめる。確かにあと一時間もすれば日が暮れる。そうなれば、コインを探し出すのは不可能だろう。
「ありがとうございます」
土手を下りながら、リンの背中に向けて礼を言う。
「どんなコインなの?色とか、大きさとか」
「えっと、500円玉より少し大きいくらいの金貨です。レプリカですけど」
コインが入り込んだと思われる箇所に重点を絞り、草と草との間に注視する。草を掻く手を容赦なく葉が切りつけるが、気にしている余裕はない。リンを見ると、響子以上に必死な顔をしていた。涙が出そうになった。
「あら」
空の大部分を藍色が侵食したころ、リンが声をあげた。
その声色に響子が弾かれたように顔を上げると、はたしてリンの手にはコインが握られていた。響子が落としたものに違いなかった。
「あ、そ、それです。間違いないです」
焦って舌を噛みそうになりながら、リンの下へ駆け寄る。コインが手元を離れていたのは2時間にも満たない間だったのに、何年かぶりに見たかのような気がした。
「良かったわ、案外簡単に見つかって。寂しいものね。失くなったら」
「ありがとうございます、本当に。なんとお礼を言ったらいいか」
差し出されたコインを両手で受け取り、胸の前で握り締めた。ふとリンの手を見ると、小さな傷が無数について痛々しかった。血が滲んでいる所もある。先程響子の肩に触れた綺麗に整った指先を思い出し、響子は思わず「ごめんなさい」と叫んだ。
「え?なに、どうしたの」
驚いてリンが後ろに仰け反る。響子は泣いていた。薄暗くてリンにはよく見えなかったが、それでも嬉し泣きとか、そういう類のものではないことはすぐにわかった。
「ちょっと、ねえ。どうして泣くのよ。大事なものが見つかったんでしょう。なにも悲しいことなんてないじゃない」
「でも、あの、ソメイさんの手が……こんなに傷、ついちゃって」
「手?」
虚をつかれ、呆気にとられながら、リンは自らの手に目を向ける。たしかに傷だらけだ。しかし痕が残るような深い傷もない。例の如くリンは吹き出し、響子の前に手を差し出す。
「もう、馬鹿ね。こんなもの、3日もすれば治るわ。気にすることなんてないのよ」
鼻をすすりながら、響子はリンの手を見つめる。リンの言うとおりなのだが、響子にはとてもそうは思えなかった。土手を駆け上がり、鞄を取って戻ると、ポケットから簡易救急セットを取り出し、わずかに血が出ている最も大きな傷に絆創膏を貼り付けた。
4センチ四方の柄も何も無い、薄茶色の質素な絆創膏はリンの傷にはあまりにも大げさだったが、リンがそこに触れると不思議と温かかった。
「ありがとう。これでもう大丈夫よ」
響子を安心させるように耳元で優しく囁いた。頭を撫で、もう一度「ありがとう」と繰り返す。
「ありがとうしなくちゃいけないのは、私のほうです」
目をこすり、リンと向き合う。わずかに乾いた土の匂いがした。
「お礼をさせてください。なんでもします。何かさせてください」
そこまで恩に着られても困ると内心リンは戸惑ったが、ここで響子の申し出を断るのはかえって気が引けた。結局、今度どこかでお茶でも奢ってもらうと提案し、それに響子も納得した。
連絡のために互いの携帯電話番号とメールアドレスを交換し、今まで音で憶えていた名前が「晴海響子」「染井凛」と表記することを知った。漢字を見た途端、それまで不定形だった輪郭がはっきりと形を帯びたように感じられたのが響子には可笑しかった。
「お礼、頑張ってセッティングしますから。期待しててくださいね」
「ええ、楽しみにしているわ」
それじゃあ、と凛は響子に背を向けて歩き出す。すっかり暗くなった河川敷と、対岸に光るビルのイルミネーションをぐるりと見回してから、響子も駅へと一歩踏み出した。
今夜は眠るために、相当の努力が要りそうだわ、などと呟きながら。
何故気付けなかったのかと、私は今でも―――今だからこそ悔やんでいます。
思えば、手掛かりは初めからありました。
私が私でなければ、私がもっと頭の良い、注意力のある、しっかりした人間だったならば。
きっと私は凛を救えたのだろうと、そう思わずにはいられないのです。