第二話 ラン・ローラ・ラン
真奈は激怒した。必ず、かの邪智暴虐の矢野孝を除かねばならぬと決意した。
真奈には陸上理論が分からぬ。真奈は、れいんの娘である。両親から受け継いだ身体的才能で、
凡人達と遊んで勝ち続けてきた。けれども矢野に対しては人一倍敏感であった。
「あー、ちくしょう!」
真奈はときに、言葉遣いが粗野になることがあった。それは、大抵矢野に競り負けた時なのだ。
矢野とは、真奈の同級生の陸上部員である。真奈は、基本的に男女関係なく勝ち続けてきた。し
かし、矢野にはどうしても勝てなくなってきた。去年までは、確かに真奈の方が矢野より速かった
(学校で真奈に勝てる者は、ほとんどいなかった)のだが。
顧問は「男女差だ」と言った。当然、真奈がそれで納得するはずもない。
しかし、現実として勝てない。何度一緒に走っても、最後に競り負ける。このままじゃダメなん
だ、ということは真奈が一番思い知っていた。
「もっと大きなストライドで走った方がいいよ」
真奈は、父に助けを求めた。父とは無論、千葉に単身赴任のロッテの先発四番手投手、雄一であ
る。
「千メートルだったら、そのほうが絶対いい」
「どうして?」
真奈は電話なのに、心底嘆願するような顔でいた。
「ストライドが長い方が、スピードが持続するんだよ。まーは歩幅が小さいんだな」
「そうなのかなあ……」
「そうだよ。圧倒的に力の差がない限りは、後半勝負になるんだ。その時、後半にスピードを多く
持続させられた方が勝つだろう」
「うん」
「だから、走る幅を大きくする練習をしなよ。そうすれば、きっといい結果が出るって」
「…おとうさん」
「ん?」
「おとうさん、プロ野球選手でしょ? なのに、なんでそんなに詳しいの?」
雄一は、詳しくないよ、と笑いながら言った後、
「まあ、キャンプ中とか毎日走ってるからな」
真奈は父の助言を忠実に遂行しつつも、自分なりの向上方法も模索していた。
様々試した中で真奈が手応えを得たのは、
「メロスは激怒した! 必ず、かの邪智暴虐の王を除かねばならぬと決意した!」
何かを叫びながら走ることである。
今日が、矢野との八度目の対決となる。最初は、去年の運動会でのアンカー対決だった。真奈は
逃げる矢野を最後まで追い込んだが、届かず二着で終わっている。しかし、脚色は確実に真奈が勝
っており、同じ位置からスタートする通常競走ならば、真奈の圧勝であっただろう。真奈自身も、
内心ではあのリレーでの負けをさほど気にしてはいなかった(父と母の前で勝てなかった、という
落ち込みは無論あった)。
今年、クラス替えで矢野と同じクラスとなり、真奈はよく彼と走るようになったが、そのとき、
驚愕を禁じ得なかった。矢野が、飛躍的に速くなっていたのである。見ると、身長が大分伸びてい
た。去年は、真奈と矢野はそう変わらないものだった。しかし、今は真奈の顔が矢野の肩に当たる
くらいに差がついていた。
二度目の競走は真奈の辛勝。だが、三回以降は全て矢野が勝利している。
「スタート!」
声が響いた。
静から、急激な動へ。
二人は、小学生とは思えないスピードで、最初のカーブに入った。全くの併走である。差はない。
真奈も分かっている。まだ、矢野とのスピード差はないと。要は、持久力の問題であるのかもしれ
ない。男の方が体力がある。それは、当然のことだ。しかし、そんなことを受け入れる真奈ではない。だからこそ、父に助言を求め、努力を続けてきたのである。
「メロスは激怒した!!」
突如、真奈は叫びだした。走りながら。通常、走りながら叫ぶなど、言語道断であろう。叫ぶ暇
があるのなら、空気を取り込め。しかし真奈はこの時、「こちらのほうがいい」と確信していた。
確かに、真奈の踏み込みは力強くなっている。体力の消耗は激しくなっているものの、しかし。真
奈は、体二つ分矢野よりリードした。残り二百メートル足らず。事実として、真奈はこの時点で矢野より前にいるのである。
だが、ここからが矢野の強さである。
真奈のスピードが、徐々に落ちだす。矢野は落ちない。差は詰まり、そして、ついに並び掛けた。
まだ体半分真奈のリード。残り百。真奈は、女であることを忘れたように、歯を食い縛っている。
道中の叫びが、ここに来て響いているのか。
「うああ」
もはや「走れメロス」の一節を叫ぶ力はない。ただ呻くのみである。真奈はここで、父の言葉を、強く、強く反芻した。
『走る幅を大きく――』
はばを――はばを!
ぐっ。
真奈は、関節の可動区域限界まで脚を伸ばした。そして足の裏で着地し、逆の脚をまた限界まで
伸ばした。かなりの危険を伴う走り。れいんから受け継いだ、しなやかな質の良い筋肉のお陰か、
この後故障を発生させることはなかった。
残り五十。
胸だけ。
残り三十。
突き出した肩だけ。
残り、十。
鼻だけ――
――〇。
真奈は、鼻差を最後まで保たせた。
矢野は、精根尽き果てた様子で寝転がっている真奈に、こう声を掛けた。
「俺はまだ余裕がある。お前みたく一杯一杯で走らなかっただけだ」
それだけ言って、ぷいと去って行った。
真奈は当然、内心激怒していた、必ず、かの邪智暴虐の矢野孝を除かねばならぬ。そう思ってい
た。
しかし、今は勝利の余韻と、限界まで性能を搾り出した肉体とを地面に結びつけることを、真奈は止めたくはなかったのだ。