Neetel Inside ニートノベル
表紙

たったひとつのバグ
抱きしめて……

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「……ぃちゃん。ぉにぃちゃん?」
「え? あ、なに?」
「もう、お兄ちゃん。早く花を取り替えて来てよ。いつまで、花瓶持ったままそこに突っ立っているの?」
「ご、ごめん。ちょっとだいぶ前のこと思い出しちゃって、すぐ替えてくるから」
 部屋を出る。花梨がいた。
「どう? 京螺ちゃんの具合」
 花瓶の水を取り替えるためにわざわざついてきてくれる。
「あぁ、花梨が集めてくれた人たちのお陰でなんとか進行が遅れているよ」
「ふん、筋ジストロフィーがベッカー型だったから遅いっていうのもあるんだけどね……」
 性(せい)染色体(せんしょくたい)劣性(れっせい)遺伝型筋(いでんがたきん)ジストロフィーの症状は大きく二つに分かれている。
 一つはデュシェンヌ型。
 これは進行性筋ジストロフィーの大部分を占め、重症な型である。おおよそ小学校五年生くらいの十歳代で車椅子生活となる人が多い。昔は二十歳前後で心不全・呼吸不全のため死亡するといわれていたが、「侵襲的人工呼吸法」(気管切開を用いる)や最近では「非侵襲的人工呼吸法」(気管切開などの方法を用いない)など医療技術の進歩により、五年から十年は生命予後が延びている。しかし、未だ根本的な治療法が確立していない難病であるということには変わりない。
 そしてもう一つが京螺が罹った、ベッカー型だ。
 病態はデュシェンヌ型と同じだが、発症時期が遅く、症状の進行も緩徐。関節拘縮も少ない。一般に予後は良いとされている。
 たったそれだけの違い。
 それだけの違いなのだが、ボクにとっては大きく違う。
 少しでも遅く症状が遅れれば少しの時間の中で京螺はたくさんの笑顔を見せてくれる。
 一分でも、一秒でも遅く、ゼロコンマ一秒でも遅くてもいい。京螺が笑えば、京螺が楽しければ……ボクは生きていける。
「でも、ありがと。花梨のところじゃなきゃいまごろ…………死んでたかもしれない……」
 できれば、死という言葉は使いたくなかった。だが、花梨に感謝すべきことだから素直に言おうと思った。
「……お礼は、京ちゃんの病気が治ってからにして欲しいわ」
 ツカツカ、と先に行ってしまう。
 水場を通り過ぎていった……
 やっぱり恥ずかしかったんだろう。
「ただいま。さっき花梨が通ったんだけどどっかいっちゃった」
 京螺に気さくに話しかける。
「そう……別に花梨さんに会いたいわけじゃないんだけどね」
 彼女は、ボクに振り返ることなく窓の外にある景色を眺めていた。
「なぁ、外に出てみないか?」
 べつにこの病気は遅く蝕まれていくだけであって今の状態なら外出してもいいのに病気に罹って以来まったく外出しようとはしなかった。
「花梨も誘ってさ、髪もまったく手入れしてないから美容院に行こう。京螺は服のセンスもいいから買い物もいいな」
「……行かない。髪なんか手入れしなくても生きていけるし、病院にいれば服なんかもいらない」
 病気になってからネガティブになっている。
 病は気からということわざの通り憂鬱になるのはよくない。だから気分転換にでもなればと提案したことをすべて『病院』というかごの中から出ようとしない縛り付けられた鳥のようだった。

     

「そんなこと言わずにさ、どこか行きたい場所はある?」
「……どこも行きたくない、父さんはわたしが入院してもまったく来ないしわたし、捨てられたの?」
 いま、言うべきなのだろうか。
「実は、ね。もっと早くいうべきだったんだろうけど……とーちゃんにはいってないんだ。京螺の病気も、母さんが……亡くなったことも……」
 すぐにこっちを向いてベッドから起き上がる。
「最低。アンタなんかお兄ちゃんじゃない! アンタなんか、人の皮を被った悪魔よ! 最低!」
 頬に衝撃が走る。
 ビンタで思いっきり叩かれたことに初めて気づく。
 殴られるのは避けられないとずでに思っていたので何とか踏ん張る。
「あぁ、オレは最低だ。だから、だから、京螺だけは、純粋に生きてくれ。オレのこと軽蔑してもいいから、罵ってもいいから、忘れてもいい。ただ、笑ってくれ。オレの分まで笑顔でいてくれ」
「……もう、来ないで」
 ペチッと往復で帰ってきたビンタには先ほどのような威力はなかったがいま、ここでオレたちの脆い絆がなくなる違った衝撃がきてしまう。
「髪の手入れしろよ? たまには外に出ろ。でなきゃほとんど引きこもりだからな。……元気でな」
「……うるさい……バカ」
 小さく呟いた。その言葉は心に大きくのしかかった。
 ドアを閉める。
 オレは嫌われてもいい。少しでも長く京螺が生きてくれればいくらでも悪魔になる。
「いい音ね」
 階段には待っていたように花梨がいた。
「そんなに大きかった?」
 花梨はボクの叩かれた頬に手を当てる。
「あ~あ、こんなに赤く腫らしちゃって……くっきり手の形が残ってるわよ」
「はあ、やっぱりか……まぁ、全部話したからこうなるのはわかってたんだけどね」
 花梨は無言で手の形を残した頬をなぞっていく。
「……あらぁ以外。燕尾のほっぺ、やわらかくて気持ちいい」
 撫でる。ボクの頬をあやすように。
「やめてくれ……今はそんな気分じゃないんだ……」
 頬を触る手をどけようとする。
「あら、ダメなの? ざ~んねん。今日はもう遅いからわたしの車で送ってあげようかしら?」
「……いや、いい。今日は歩いて帰るよ。少し、一人でいたいんだ」
「ふふ。そうね。安心して、すっとアナタがわたしのモノになるのなら京螺ちゃんの治療には全力を尽くすから。それとぉ……」
 奇妙な含み笑いをし、ボクに近づいてくる。
「キスしてよ」
 たったその一言。目に前には花梨のドアップ。しかも、絶対に自分からしてこない。いつまでもいつまでも待っている。
 そんな気分じゃないことを知っているのに。
「してくれないのぉ? キス?」
 そしてボクが絶対に断れないのを知っているのに。
「……」
 触れる程度のキス。今のボクの限界だ。
「んふふ。アリガト……気をつけて帰りなさい。燕尾の身に何かあってもたいへんだからね」
 妖艶な声を残しヒールの音と共に消えていった。
 なんだか、生気を吸い取られたようにどっと疲れた。
 壁にもたれ、力尽きたようにその場に座った。

     

オレは……京螺になんと言われたんだっけ?
確か、最低とか人の皮を被った悪魔、とか。言われたっけ?
ホント最低だよな。ただでさえ絶対に治らない病気だ。少しでも支えが欲しいところを兄のオレが邪魔をしたんだ。
でもな、オレは京螺のことしか考えてなかったんだ。お前のことを考えた結果がこうなったんだ。
考えても仕方ない。帰ろう……
病院を出る。何気ない視線に振り返ると京螺が見下ろしていた。泣いていた。信頼していた兄に裏切られ泣いていた。
今すぐ病室まで走ってギュッと抱きしめたかった。息が止まるまで、京螺の涙が止まるまで力いっぱい抱きしめていたかった。
だけど、もうそれはできない。
その機会をボク自身が潰したから。もう彼女に何もいえないから。
カーテンが閉まる。明かりも消える。
 いまごろベッドの中で声も出せず嘔吐しながら泣いているのだろうか。想像するだけで胸が締め付けられる想いだ。泣く必要ないのに。京螺が何をした? 何もしていないだろ? むしろ、泣かなきゃいけないのはボクの方だ。オレが、全部悪いんだ。京螺は悪くない。
帰ろう。家へ……ボクがいまここにいる必要なんてこれっぽっちもないんだから。
 帰り道を寄り道せずまっすぐ帰る。とは、いかない。
 傷心中のボクはいま、ここがどこでなにを考えて生きているのかすらわからなかった。
 空を見上げるのもだるかった。だから、下を見る。なんだか、落ちつかない。そういえば、京螺が言ってたな。
人は空に憧れているから見上げるんだ、地面を見たって何も変わらないって。でも、いまは、いまだけは地面を見ていよう。まぶし過ぎるから。いまのボクには月の光でさえまぶし過ぎるから。
 誰でもいい。誰か、ボクの悲しみに気づいて京螺の代わりに抱きしめてください。お願いです。
 でないと、今のボクには辛すぎて一歩歩くたびに何か崩れていく気がする。
 誰か、誰か。
 ふらふらと酔っ払いのようにさまようボクにそっと触れて抱きしめていた少女がいたその温もりが温かくて、嬉しくて。

     

 誰だろう。顔を上げた。
「さがし…………ました」
 耳元で囁く声は微かに完全に息があがっていた。
「ら、ミ……ア……?」
「どこに……行ってたんですか?」
 ボクの後ろに回した手に力が入る。
「心配したんですよ?」
「怒ら……ないのか?」
「燕尾さんを見つけた瞬間、そんな怒りなんて吹っ飛びました。…………とにかく……よかったです」
 足がなくなるように倒れる。
「ラミア? ラミア!」
 揺さぶる。だが、何の反応もしない。
「燕尾……さん……見つかった」
 繰り返すように呟く。
「眠っただけか……」
 安堵のため息をついた。
 ここまで来るのは結構な道のりだったし自宅から学校までの道しか知らない彼女にとってもっと迷ってここまで来たのだろうか?
「ありがとう」
 小さく消えそうになりながら話した。
 ここまで来てくれた事に感謝した。これが例え偶然だったとしても彼女がここに来てくれたことは喜悦の涙を流す。他人のために泣いたのは久しぶりだった。母さんが死んだ時以来だろうか。ボクはいままで京螺を護る為に生きていたといっても過言ではない。じゃあいまは? 今は……今だけは、ラミアを護ろう。いま、この日本でラミアを知っていて護れるのはオレだけだ。
 京螺を護れなかったオレじゃあ頼りないかもしれないけど、今度こそ護る。
 家に帰るため、ラミアをおんぶする。
「意外と……重いな」
 急に息苦しくなったのは気のせいだろうか?
「ラミア、護ってあげるからな」
 例え、血は繋がっていなくても。
 心では繋がっているから。
 何も心配しなくても大丈夫だから。
 この世界で。
 この汚れた世界で。
 たった一人のお姫様を。
護ってやろう。
一人の騎士(ナイト)として。

       

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