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エスケープ フロム 釧路
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8月23日 午前11時 北海道 釧路町

釧路郡には、二つの釧路がある。
ひとつは「市」であり、残りは「町」だ。
町、とは言うものの、二万人を超える人が住むこの釧路町は、世間一般で言われるほどの寂れた印象を持たせない。とはいっても、わずかに二キロほど西へと向かえば「市」である釧路があるため、来る者も住む者も、さほどの差を意識していないというのが実際のところなのだが。
 そしてこの釧路町別保の治安と安全を維持するべくいるのが、この別保駐在所の警官、田丸 吾郎なのである。
彼は生まれも育ちも北海道であり、この別保駐在に30年近く勤務するベテランの警官でもあった。周辺住民からの評判も上々で、道警本部としても市民の意向を受け入れ、彼を特例的に長居させていたのだった。
別保駐在所は、別保駅からほど近い、根室本線と根釧国道との間にある。
駐在所は、90年代に一度改装をされており、一見するとかなり小洒落た作りになっている。レトロな作りをした駐在所は、一般的な二階建てで、住宅しか存在しない別保の町によく似合っていた。
 田丸はいつものように一階で事務作業をしていた。
この町で異常な事件や事故など、起こることはめったになく、彼は報告書を午前のうちにやってしまうのだ。
いつも通り、報告書を書き終えると、警邏に出る。ロッカーには着用を義務付けられている防刃チョッキと、携帯を義務付けられている拳銃がある。
しかしこの町にそんな物騒なものはいらなかった。田丸はそのことを身をもって知っていたのだ。
田丸は席を立つと、駐在所を出、自転車にまたがる。田丸は制帽のつばに手をかけるついでに、天を仰いだ。雲ひとつない青空は、まさにのどかな田舎町というものを体現していた。
今日もなにもないのだな、そう考えると田丸の表情は自然と明るくなる。
田丸はいつもの警邏ルートを廻ろうと、自転車をこぎだした。国道を横断し、
役場へと向かう一本道を進む。しばらくゆくと、左手には改装された役場があり、そこを中心に森と民家が広がった。
と、そこへ中年男が、血相を欠き、民家の方から逃げ出すようにして田丸のほうへと駆けてきた。その形相からただごとではないということを、田丸も悟った。
「た、田丸さあん!」
駆けつつ、男は叫んだ。
田丸はその声ですぐに判断がついた。あれは町の最もはずれに住む吉川 裕也だということに。
裕也は田丸と合流すると、ひざに手をつき、激しく肩を上下させた。
「どうしたんだい、吉川さん」
言いつつ、田丸は自転車から降り、スタンドを立てた。
裕也はようやく呼吸を整えることができたのか、喋りだした。
「う、うちに変な男が突然入ってきて、女房に襲い掛かったんだ!しばらく悲鳴がしたんだが、そのうち奇声に変わってて、あんまり怖くなっちまったんで、逃げ出したんだ!頼む田丸さん!見に行ってやくれねえか!」
田丸は少々、駐在所に防刃チョッキを置いたことを後悔したが、自らのいる町が「別保」と考えることで、その不安を打ち消した。
「なに、大したことじゃないはずだ。ちょっくら見てくるから待っててくれや」
田丸はそう言うと、再度自転車にまたがり、裕也の家へと向かった。
二階建ての一軒家、ごくごく一般的な作りの家だ。
吉川家の石垣の前に自転車を平行に停めると、田丸は敷地へと足を踏み入れた。
ドアの前に立ち、インターホンを押す。
電子音がしばらくの間響くが、声は帰ってこない。
田丸は少し後ずさりをし、二階を見上げたり、庭に回りこんではその窓を覗き込んだりしてみた。
石垣の向こう側には裕也が両手を口にあてては、不安げな視線を田丸に向けている。
それに気がついてか、田丸のほうも裕也へと視線を投げ返す。
「吉川さーん、中には誰もいないみたいですよー」
それを聞き、裕也のほうも返事をしてみたが、その声はかき消されてしまった。
<ッシャーン!>
ガラスが割れると同時に、そこから血まみれの男女二人が田丸に襲い掛かった。
二人に押し倒されると、田丸は庭の上に転がった。この時田丸は、チョッキだけではなく拳銃を携帯しなかったことにも後悔の念を覚えたが、時はすでに遅かった。薄れ行く人間的意識をかき消すのは暴力的で、最も本能的なものだけだ。
次の瞬間には、もう田丸は警官でも社会人でも、ましてや人間ですらなかった。
田丸は起き上がるなり、かすれた絶叫とともに全速力で裕也めがけ走り出した。石垣を飛び越え、道路に着地する。あとの二人もそれに続いた。
裕也は泣き叫びながら駆けた。振り返り、駆け、振り返り、駆けた。
血まみれとなり、人間とも呼べぬそれは、裕也を餌か何かと見ているのであろう、文字通り血眼になって追っている。
そしてとうとう、その化け物の手が裕也の肩にかけられ、一瞬の後に、裕也は先ほどの田丸のような立ち位置となっていた。
コンクリート舗装された道路の上に「大」の字で転がると、その上に田丸が馬乗りになる。爪を立てられ、喉元を噛まれ、はらわたを裂かれ。
騒ぎを聞きつけ近所の住人たちが仲裁に入ろうと、何人も飛び込んだ。
しかしいつしかその人々もまた化け物となり、ついさきほどまで平穏のどかそのものだった住宅街は、阿鼻叫喚に包まれた。

       

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