玉石混交のショートショート集
官僚の流儀(作:通りすがりのT)
「官僚の流儀」
古代陽王朝の刑罰には、次の通りの記載があった。
法一
良民(奴隷以外の一般民)を殺害したものは、死罪とする。ただし、特別の理由
あって酌量の余地あるものは、刑罰を軽減する。
但し、以下の罪を犯したものは、次の通り刑罰を定める。
一、皇帝を殺害したものは、五族処刑とする。
二、皇族及び三品官以上の官吏を殺害したものは、三族処刑とする。
三、五品官以上の官吏を殺害したもの、及び後宮の婦女を殺害または姦淫した
ものは、一族処刑とする
(中略)
これらの刑罰の特色は、五品官(副大臣職以上)の職責を有する高級官僚の殺害
と、後宮の婦女を姦淫する罪は、通常の刑罰よりも遥かに重い罪とされたこと
である。前者は行政府の要職に当たる高級官僚を私刑することは、法律に拠る
支配を揺るがせにするためであり、後者は皇帝の世継ぎを産ませるべく集めら
れた女房たちが皇帝以外の者に姦淫されることで、皇位の系統が汚され、王朝
の正当性が揺るがせにされるためである。これが三品官(宰相職相当)ともなる
と、さらに罪科が重くなり、それだけ陽王朝が法治支配を重視していたことが
見て取れるものである。
(民明書房刊「陽王朝の刑罰・法体系に関する一考察」より抜粋)
あるとき、陽王朝に蔡英という官僚がいた。蔡英の父蔡儀は進士に及第した後、中央の要職や大国の刺史(知事)を歴任した後、ついには宰相に昇進した高級官僚であり、蔡英はそんなエリートの父を持つ士大夫として生まれた。若くして天才児ともてはやされ、ついには19歳の時に進士に状元(首席)で及第し、エリート官僚の道を歩んでいた。
あるとき、陽王朝の宰相の一人であった司馬慎が何者かに殺害されるという事件が発生し、裁判府の役人であった蔡英はその容疑者の取調べを行っていた。
取調べは連日夜遅くまで行われていたが、そんなある日、蔡英は家に一人の少女を連れて帰宅した。肌が白く、黒髪は透き通るように滑らかで、胸や尻の肉つきが良いのに腰が折れそうなほど細い、美しい少女だった。
蔡英の妻は、夫が新しい妾を連れてきたのかといぶかしんでいたが、蔡英は微笑しながら妻の疑問に答えた。
「妻よ、そう怖い顔をすることはない。この者は中書府の役人、余岱の娘だ」
「余岱様なら旦那さまのご先輩ではございませんか。それがなぜ、その娘様を伴ってご帰宅をなされましたか?」
「余岱は、宰相司馬慎様の殺害を自供した」
「何ですって?」
夫の言葉に、妻は腰を抜かさんばかりに驚いた。
「法律に従うなら、余岱の三族は皆殺しとなる。それゆえ、その前に俺がとりなして、娘を俺の父、祭儀の養女とすることにしたのだ。三品官の官吏を殺害すれば、父母兄弟、妻子孫や妻方の一族まで皆殺しとなるが、他家の養子となったものにまでは罪科は及ばんのでな」
「さようでございましたか…」
妻はホッと胸を撫で下ろした。
「それでは、この娘は我が家の娘として育てられるのでございますか?」
「いや、そうではない。この娘は、間もなく皇帝陛下の第一皇子、経王殿下の正室としてお輿入れをする予定だ」
「何ですって?」
蔡英の予想外の言葉に、妻は目を白黒させた。
「妻よ、まぁ聞け。実はこの娘は幼い頃に病を得て目が見えん。しかしながら歌も楽器も上手で性格が大人しく、それでいて胸が大きく器量の良さは天下一品だ。それゆえ、あの径王殿下の殿下にはぴったりなのだ」
「確かに美しい娘ですが…どうして径王殿下にぴったりなのですか?」
妻はまじまじと娘の美しい姿を眺めながら、夫に尋ねた。
「径王殿下は、言うては良くないのだがボンクラだ。普通の若者に比べても明らかに言っていることの論理が通らんし、言葉も不明瞭。正直言って顔は豚のように醜いし、何よりも振る舞いの一つ一つが三歳の子供よりも劣っておる。それゆえ、家柄が良く、物事の見える妻を正室として迎えてしまうと、必ず妻は殿下を侮って、その妻の一族が皇帝即位後の径王殿下をないがしろにし、我が陽王朝の国政を私物化することが目に見えておる。それゆえ、先手を打って、後ろ盾もなく余計なことをしないこの娘を正室とするのだ」
「さようでございましたか…」
蔡英の言葉を、妻はただうなずきながら聞いていた。
「…ところで妻よ、我が父も間もなく六十歳を迎え、宰相に在職すること三年となった。実は内々のことではあるが、俺は近々五品官である侍中となることが内定しておる。そんな折になって司馬慎閣下の暗殺が起こり、この娘が転がり込んできた。俺には運がある」
「と、申しますと?」
「わが国の法律には、皇子の正室となる娘は、過去に三品官を務めたものの子で現在三品官の職になく、また本人以外の子弟に五品官以上の官位を務める者がいないことと定められておる。これは、皇子の妻となるからには一定の家柄や学識が求められる一方、将来皇后の一族が要職にあって外戚として権力を振るわぬようにするために設けられた決まりだ」
そして、蔡英はそこまで話すと、妻に向かってにやりと微笑んだ。
「そして今、俺の父蔡儀は三品官にあって宰相の職を務めておる。もしこの娘を養女とし、その後に父が隠居を申し出れば、父の功績からして二品官の太傅に進むだろう。そうなればこの娘には皇子の正室となる資格が生ずる。その上で皇子の正室としてお輿入れをし、俺はその後五品官に昇進する。こうなれば、俺は父から正式に後継者として指名されるだけでなく、俺は将来皇帝の外戚としていずれは宰相職に昇進し、この国の実質的な支配者となることができる」
「な、なんということ…」
「妻よ、宰相祭儀の長子にして進士首席の俺の妻となれたことを幸せに思うが良い。法律はただ人を治め、人を裁くためにあるのではない。有能な官僚は法律を隅々まで熟知し、これを有効に活用せねばならぬのだ」
蔡英の壮大な計画に、妻はただただ、唖然とするしかなかった。
こうして宰相蔡儀の養女となった娘は、蔡儀の隠居と共に皇太子径王殿下の正室となり、その後間もなく、蔡英自身も侍中として皇帝の側近に封じられた。将来を約束された蔡英の下には、広大な荘園を持つ豪族や同輩たる官吏、大商人、果ては皇族の人々に至るまで中央地方を問わず実力者たちがこぞって贈り物を持ち込み、祝いの言葉を述べた。
ただ、蔡英と同期に進士に及第した虞洋だけが、結婚したばかりの妻に愚痴をこぼしていた。
「蔡英は法の決め事を逆手にとって、自らの権勢を伸ばした。確かに径王殿下は皇帝にふさわしくない人物であるゆえ、できることなら美しい女性をあてがって国政から遠ざけ、国政は我々試験で選ばれた官僚が行った方が国のためには良いことだ。これは一見、他者が喜ぶことをして、一方で自分の利益になることをしたということだ。だが、自分は上手くやったつもりであろうが、誰もが得になることなどあろうはずがなく、必ず誰かにそのしわ寄せは来る。このようなことを繰り返せば、誰が一番困るかが見えぬことが官僚の悪いところなのだ」と。
それから20年の月日が流れた。
先代皇帝が崩御された後、径王が帝位を継いで明愛帝となった。だが、明愛帝の器量の無さは誰の目にも明らかであったため、蔡英を始めとした官僚たちは、目が見えず日々の生活に介助が必要な皇后様を支えることこそ皇帝としての慈愛を天下国民に知らしめることであると説得し、明愛帝を政治の世界から引き離してしまった。
蔡英はトントン拍子に出世し、ついに三品官に昇って宰相となって陽王朝の国政の最高実力者となった。宰相に昇る以前から蔡英は様々な法律を作って国の安定を図ったが、例えば
父が死んだ場合、父が持っていた財産は子供たちに均等な金額となる
ように分配する。ただし、計量器具の最小限でも測りきれない余りは、
分配方法による揉め事を避けるため、国庫に属することとする。
というように、全ての人に対して法の適用が公平であるように図る一方、必ず一部を手数料として合法的に国が徴収する、というような内容であった。
蔡英の法運営が極めて厳格であり、一方で様々な法律によって国民から財貨を吸い上げたため、次第に揉め事は少なくなり、国庫は潤うようになった。だが、このようなことが長く続くようになると、国民を縛る法律は次第に増え、そのたびに国民から絞り上げられる財貨の量が増えたため、それと共に国民の生活に余裕が無くなって苦しくなっていった。
ある日、大蔵府の長(財務大臣)となっていた虞洋は、酒を飲みながら妻子に対して愚痴をこぼしていた。
「蔡英が宰相の任に就いてすでに五年になるが、あやつは法律を用いて国民から財産を掠め取ることばかりを試み、あろうことか国庫の負担を減らすため、その一部を地方官の経費として計上することを認めた。このため地方の官吏は合法的に国庫に収めるべき財産の一部を着服して私腹を肥やし、その一部を公然と蔡英に賄賂として送っておる。蔡英はずっと中央の官吏であって地方を知らぬゆえ、法治主義、平等主義を隠れ蓑に自分の冨を増やし、その結果国民の生活が著しく悪化しておることに全く気づいておらぬ。国庫を預る大臣としては誠に悔しいことだが、陛下の信頼も厚く、巧妙に法を犯さぬようにしておるため、誰も蔡英の暴走を止められぬ。どうにかならぬものだろうか…」
「お父様、それでしたら私に一つ、考えがございます」
虞洋が見ると、その声は今年で16歳になる虞洋の末娘のものだった。
「なんじゃ、申してみい」
「お父様、「皇族及び三品官以上の官吏を殺害したものは、三族処刑とする」という法律は、万が一にも、家族のものがその官吏を殺害した場合にも適用されるのでしょうか?」
「うむ、その通りじゃ。それゆえ、過去にそのような事態が発生した場合は、その一族は身内から犯人が出たことを隠匿し、病死ということで内々にすることが多いのじゃが…?!」
そこまで言うと、虞洋は末娘の企みに気がついた。
「もしや、お前…」
「さようでございます。宰相蔡英は数年前に細君をなくしておられますが、その一人息子である蔡阜は23歳の若さにして近頃進士に榜眼(第二位)で及第し、間もなく翰林院(皇帝の秘書室)に採用されると聞いております。それゆえ、我が家の栄達を願い、その蔡阜様の妻として、私をご推挙いただきたいのでございます」
「お前…」
蔡英の息子に嫁ぎ、頃合を見て蔡英を殺害する。身内が蔡英を殺害したのであれば、その遺族は連座して自分たちが処刑されることを恐れ、事件を内々にして片付けるであろう、ということであった。
そうなれば、娘は必ず殺される。
ひどい仕打ちを受けて、父である自分も知らぬうちに。
「…わしは、娘を生贄にしてまで、この国を救わねばならんのか…」
虞洋はその晩じゅう、酒を煽って泣き続けた。しまいには余りにも飲みすぎて悪酔いをし、便所で吐き続け、そして最後はぐったりと気を失ってしまった。
かくして、宰相蔡英の長子蔡阜と、虞洋の末娘は多くの人々の祝福を受けて盛大に結婚式を執り行った。虞洋は家の財産を投げ打って、豪華な花嫁衣裳と嫁入り道具を用立てて娘を見送った。
しかし娘は蔡阜の妻となった後も、すぐには蔡英暗殺を行おうとはしなかった。
あくまで貞淑な妻として振る舞い、殺害のことなどおくびにも出さなかった。そして、間もなくして父虞洋も三品官に昇進し、宰相の末席に名を連ねることとなった。
やがて、夫の蔡阜が翰林院よりある郡の査察官に任命されることとなり、蔡英の邸宅で盛大な壮行会が催された。宰相筆頭である蔡英の権勢を誇るかのように豪華絢爛な宴会が行われた。蔡阜は散々飲み散らかした後、しばしの別れを惜しむために親友の家に出かけた。
普段下戸で酒を飲まない蔡英もこの日だけは断りきれず、悪酔いを抑えながらもしたたかに飲酒を重ねたため、悪酔いをしてその場に倒れこんでいた。娘は蔡英を抱え、寝室へと蔡英を運んでいった。
「さぁ、お薬をお持ちいたしました。お酒に酔われた時はこれが一番です」
「おお~すまんなぁ…」
差し出された薬湯を手に取ると、蔡英はぐいとひと息に飲み干した。そして、コップを机に置くと、娘をじっと見つめた。
「…いいか、良く聞け。俺は、自ら毒を煽って死んだのだ。決して…息子の妻に毒を盛られたのではない。それだけは、絶対だ。我が息子…蔡阜にことの次第を聞かれても、俺が宰相の仕事に疲れたゆえに自ら命を絶ったのだ、とだけ伝えておいてくれ…」
そういうと蔡英はあっと大量に吐血し、あっけなく息を引き取った。
私のたくらみは、とっくに蔡英には気づかれていたのか…。
娘の背中に、冷たい汗が流れた。
蔡阜は、翌日の夜遅く、帰ってきた。
「あなた…お帰りが遅うございます。一体、どちらで何をなさっておられたのですか?」
さめざめと泣く娘に対して、蔡阜はひと言、つぶやいた。
「そなたの父…虞洋様が、病死なされた」
そのひと言に、娘は雷で打たれたような衝撃を受けた。
「…僕の妻に、父を暗殺したのではないかという疑惑がかかっているので、お父君である虞洋様に、そのことを問い質しに行ったのだ。そうなされたら、虞洋様は余りの衝撃に心臓を悪くなされて、お薬を飲まれたところ、急に血を吐いて息を引き取られたのだ…」
蔡阜の言葉に、娘は全てを悟っていた。
「あなたさま…いつごろから、私を疑っておりましたか?」
「…最初は僕も気づかなかった。だが、しばしばそなたが体調を崩して夜の営みをしないことがあり、それが余りに多いので、ちと気になっておったのだ」
蔡阜は、娘をまじまじと見つめながら、言った。
「そなたは、僕の子供を作らないように、わざと妊娠をしそうな日を避けておったのであろう。もし、子供が生まれてしまったら、もしかしたら罪のない子供まで、宰相暗殺の連座で処刑されるかもしれない。それでなくても、歳幾許もいかぬまに、母を失ってしまうかもしれない。それを、恐れておったのであろう…」
図星を突かれた娘は、ガックリとうなだれた。
「…我が父、蔡英は…飲み慣れないお酒を多量に召されて心臓を悪くして薬湯を召された後、その甲斐なく急死なされた。それで相違ないな?」
「あなた…」
娘が何かを言いたそうにしたので、蔡阜は静かに首を横に振った。
「確かに、法に照らし合わせれば、僕には我が父蔡英の死因を明らかにし、万一他殺であったのなら、下手人を捕らえて三族皆処刑せねばならない。しかし、法律と皇帝陛下に忠実に振舞うのであれば、僕は自分の妻を拷問して醜い姿にした上に、その結果は一族郎党皆処刑ということになる。そんな無意味なことをするぐらいなら、真実は闇に葬って、静かに暮らしたいのだ…」
全てを蔡阜に見透かされ、娘はもはや返すべき言葉も無かった。
「…聞いてくれ。我が父蔡英は、大変有能な官僚であった。法律や過去の歴史に明るく、采配は公平で常に行政の運営に過不足は無かった。その上で国民から上手に財貨を集めて国を富ませ、一方で我々の一族郎党を皆引き立ててくださった。国の治安を保って平和に運営し、国庫を富ませ、自らの一族も繁栄させる。父上は自分が見えている範囲の全ての人たちが幸せになるように、30年もの長きにわたって忠実な官僚として国政に携わってきたのだ。だが…」
蔡阜は、さらに続けた。
「父上は、生まれながらの官僚の家柄に生まれ、地方に下ることなく進士に及第して官僚としての道を歩き始めた。それゆえ、本来最も大切にするべき国民という存在が、父上の頭の中からはすっぽりと抜け落ちておったのだ。すでに国民は食べるものにすら困って娘を奴隷商人に売り払うようなことが横行しておるのに、ただ法律を守り、法によって国民を虐げるだけの三下官僚は何の危機感も持ってはおらん。いずれにしても、昨日病死をなされなかったとしても、父上はいずれ誰かに殺されていたであろうし、このままでは我々が拠り所とする陽王朝自体が、亡くなってしまうところであった…」
蔡阜は、ほのかに輝く月を眺めながら、一筋伝う涙をそっと拭った。
「…あなた…」
「…ところで、わが妻よ」
言葉が重なり、互いに一度躊躇した。
「言いたいことがあるなら、先に言え」
「いえ、あなた様から、お先に…」
「よし、では僕から言おう。そなた…このたびのことは水に流して、今後とも僕の妻でいてくれぬか?」
「えっ?」
蔡阜の信じがたいひと言に、娘は目を丸くした。
「…あなた、私は、あなた様の父を殺した人間ですよ…」
「くどいな。僕の父は病死したのだ。そして、そなたの父も病死したのだ。それ以上は、何も言わせんぞ…」
「…あなた、もしかすると、私はいつ何時、あなた様のお命を狙わないとも、限らないのですよ?」
「もし僕が道を誤り、国家と国民をないがしろにする政事を行ったなら、それはそなたが僕を殺すことは道理だな。皇帝の妻は貞淑で余計なことに口出しをしない方が良いが、官僚の妻は一般庶民の目を常に持ち続け、夫を監視するぐらいの方がちょうど良い…」
「…あなた、私は皇后さまのように胸は大きくないですし、夜の営みも上手ではありませんよ。それでもよろしいのですか?」
「僕がいつ、胸の大きい女性の方が好みだと言った?いつ、閨の上手な女性の方が良いといった?男は胸が大きい女性の方が良い、床上手のほうが良いなどというのは、そなたの勝手な思い込みではないのか?」
蔡阜は、自分の妻をがっしりと抱き寄せ、そして言った。
「官僚の妻にそんなものは要らん。国家のために尽くし、国民のために尽力する夫が、道を誤らぬように支えてくれればそれで良いのだ。別に美人でなくても、必要以上に目端が利いて口うるさくても、夜の営みが淡白でも、何の問題もない。僕の妻は、やっぱりそなただけなのだ…」
「…あなた」
夫の頼りない鳴き声を聞きながら、娘もまた溢れる涙を止めようも無く、ただひたすらに嗚咽を漏らしていた。
「僕は、蔡英と虞洋様、二人の尊敬する父親を一度に失ったのだ。今また、最愛の妻まで失っては、僕は明日からこの国のために尽くすことができるのか、自信がないのだ。頼むから、断じて、僕を見捨てないでくれ…」
すすり泣く蔡阜は、妻のか細い体を抱きしめ、ずるずると崩れ落ちていった。
「…承知をいたしました、あなた様。私はただいまより、蔡阜様の本当の妻になります。ただ、その前にただ一瞬だけ、妻で無くなることを、お許しいただきたいのです」
「…おお、どうしたのだ?」
「しばし、ご無礼をいたします。申し訳ございません…」
「許す。何があろうとも、許そう…」
蔡阜が手を離すと、娘はその場にうずくまり、夜空に響き渡るほどに声を上げて泣き始めた。
「…お父様、今まで私を育てていただき、本当にありがとうございました。私はただいまより、大帝国の忠臣にして偉大な宰相虞洋の娘から、偉大な宰相蔡英様が御子にして、大帝国の忠臣たる蔡阜様の妻となります。蔡阜様が大帝国とその臣民に全てを捧げるならば、私もまた蔡阜様の妻として全てを捧げます。お父様、しばしのお別れでございますが、今後はどうか仲直りをなされて、お二人揃って蔡阜様と不肖この私を見守ってくださいますよう、お願い申し上げます…」
その夜、娘の泣き声は広い邸宅のどこにいても聞こえるほどに響き続け、やがて月も高く昇るまで、止まなかった。
その後間もなく明愛帝は崩御されてその長子である洋英帝の治世に代わると、三品官以上の官吏を殺害したものは三族処刑という法律は廃止され、その他にも廃止されたり、刑罰を緩めたりした法律は後を絶たなかったということであった。これらの法律の整理や改正を主導したのが、後に宰相となった蔡阜によるところであったらしいと、後の世に伝えられているところである。
古代陽王朝の刑罰には、次の通りの記載があった。
法一
良民(奴隷以外の一般民)を殺害したものは、死罪とする。ただし、特別の理由
あって酌量の余地あるものは、刑罰を軽減する。
但し、以下の罪を犯したものは、次の通り刑罰を定める。
一、皇帝を殺害したものは、五族処刑とする。
二、皇族及び三品官以上の官吏を殺害したものは、三族処刑とする。
三、五品官以上の官吏を殺害したもの、及び後宮の婦女を殺害または姦淫した
ものは、一族処刑とする
(中略)
これらの刑罰の特色は、五品官(副大臣職以上)の職責を有する高級官僚の殺害
と、後宮の婦女を姦淫する罪は、通常の刑罰よりも遥かに重い罪とされたこと
である。前者は行政府の要職に当たる高級官僚を私刑することは、法律に拠る
支配を揺るがせにするためであり、後者は皇帝の世継ぎを産ませるべく集めら
れた女房たちが皇帝以外の者に姦淫されることで、皇位の系統が汚され、王朝
の正当性が揺るがせにされるためである。これが三品官(宰相職相当)ともなる
と、さらに罪科が重くなり、それだけ陽王朝が法治支配を重視していたことが
見て取れるものである。
(民明書房刊「陽王朝の刑罰・法体系に関する一考察」より抜粋)
あるとき、陽王朝に蔡英という官僚がいた。蔡英の父蔡儀は進士に及第した後、中央の要職や大国の刺史(知事)を歴任した後、ついには宰相に昇進した高級官僚であり、蔡英はそんなエリートの父を持つ士大夫として生まれた。若くして天才児ともてはやされ、ついには19歳の時に進士に状元(首席)で及第し、エリート官僚の道を歩んでいた。
あるとき、陽王朝の宰相の一人であった司馬慎が何者かに殺害されるという事件が発生し、裁判府の役人であった蔡英はその容疑者の取調べを行っていた。
取調べは連日夜遅くまで行われていたが、そんなある日、蔡英は家に一人の少女を連れて帰宅した。肌が白く、黒髪は透き通るように滑らかで、胸や尻の肉つきが良いのに腰が折れそうなほど細い、美しい少女だった。
蔡英の妻は、夫が新しい妾を連れてきたのかといぶかしんでいたが、蔡英は微笑しながら妻の疑問に答えた。
「妻よ、そう怖い顔をすることはない。この者は中書府の役人、余岱の娘だ」
「余岱様なら旦那さまのご先輩ではございませんか。それがなぜ、その娘様を伴ってご帰宅をなされましたか?」
「余岱は、宰相司馬慎様の殺害を自供した」
「何ですって?」
夫の言葉に、妻は腰を抜かさんばかりに驚いた。
「法律に従うなら、余岱の三族は皆殺しとなる。それゆえ、その前に俺がとりなして、娘を俺の父、祭儀の養女とすることにしたのだ。三品官の官吏を殺害すれば、父母兄弟、妻子孫や妻方の一族まで皆殺しとなるが、他家の養子となったものにまでは罪科は及ばんのでな」
「さようでございましたか…」
妻はホッと胸を撫で下ろした。
「それでは、この娘は我が家の娘として育てられるのでございますか?」
「いや、そうではない。この娘は、間もなく皇帝陛下の第一皇子、経王殿下の正室としてお輿入れをする予定だ」
「何ですって?」
蔡英の予想外の言葉に、妻は目を白黒させた。
「妻よ、まぁ聞け。実はこの娘は幼い頃に病を得て目が見えん。しかしながら歌も楽器も上手で性格が大人しく、それでいて胸が大きく器量の良さは天下一品だ。それゆえ、あの径王殿下の殿下にはぴったりなのだ」
「確かに美しい娘ですが…どうして径王殿下にぴったりなのですか?」
妻はまじまじと娘の美しい姿を眺めながら、夫に尋ねた。
「径王殿下は、言うては良くないのだがボンクラだ。普通の若者に比べても明らかに言っていることの論理が通らんし、言葉も不明瞭。正直言って顔は豚のように醜いし、何よりも振る舞いの一つ一つが三歳の子供よりも劣っておる。それゆえ、家柄が良く、物事の見える妻を正室として迎えてしまうと、必ず妻は殿下を侮って、その妻の一族が皇帝即位後の径王殿下をないがしろにし、我が陽王朝の国政を私物化することが目に見えておる。それゆえ、先手を打って、後ろ盾もなく余計なことをしないこの娘を正室とするのだ」
「さようでございましたか…」
蔡英の言葉を、妻はただうなずきながら聞いていた。
「…ところで妻よ、我が父も間もなく六十歳を迎え、宰相に在職すること三年となった。実は内々のことではあるが、俺は近々五品官である侍中となることが内定しておる。そんな折になって司馬慎閣下の暗殺が起こり、この娘が転がり込んできた。俺には運がある」
「と、申しますと?」
「わが国の法律には、皇子の正室となる娘は、過去に三品官を務めたものの子で現在三品官の職になく、また本人以外の子弟に五品官以上の官位を務める者がいないことと定められておる。これは、皇子の妻となるからには一定の家柄や学識が求められる一方、将来皇后の一族が要職にあって外戚として権力を振るわぬようにするために設けられた決まりだ」
そして、蔡英はそこまで話すと、妻に向かってにやりと微笑んだ。
「そして今、俺の父蔡儀は三品官にあって宰相の職を務めておる。もしこの娘を養女とし、その後に父が隠居を申し出れば、父の功績からして二品官の太傅に進むだろう。そうなればこの娘には皇子の正室となる資格が生ずる。その上で皇子の正室としてお輿入れをし、俺はその後五品官に昇進する。こうなれば、俺は父から正式に後継者として指名されるだけでなく、俺は将来皇帝の外戚としていずれは宰相職に昇進し、この国の実質的な支配者となることができる」
「な、なんということ…」
「妻よ、宰相祭儀の長子にして進士首席の俺の妻となれたことを幸せに思うが良い。法律はただ人を治め、人を裁くためにあるのではない。有能な官僚は法律を隅々まで熟知し、これを有効に活用せねばならぬのだ」
蔡英の壮大な計画に、妻はただただ、唖然とするしかなかった。
こうして宰相蔡儀の養女となった娘は、蔡儀の隠居と共に皇太子径王殿下の正室となり、その後間もなく、蔡英自身も侍中として皇帝の側近に封じられた。将来を約束された蔡英の下には、広大な荘園を持つ豪族や同輩たる官吏、大商人、果ては皇族の人々に至るまで中央地方を問わず実力者たちがこぞって贈り物を持ち込み、祝いの言葉を述べた。
ただ、蔡英と同期に進士に及第した虞洋だけが、結婚したばかりの妻に愚痴をこぼしていた。
「蔡英は法の決め事を逆手にとって、自らの権勢を伸ばした。確かに径王殿下は皇帝にふさわしくない人物であるゆえ、できることなら美しい女性をあてがって国政から遠ざけ、国政は我々試験で選ばれた官僚が行った方が国のためには良いことだ。これは一見、他者が喜ぶことをして、一方で自分の利益になることをしたということだ。だが、自分は上手くやったつもりであろうが、誰もが得になることなどあろうはずがなく、必ず誰かにそのしわ寄せは来る。このようなことを繰り返せば、誰が一番困るかが見えぬことが官僚の悪いところなのだ」と。
それから20年の月日が流れた。
先代皇帝が崩御された後、径王が帝位を継いで明愛帝となった。だが、明愛帝の器量の無さは誰の目にも明らかであったため、蔡英を始めとした官僚たちは、目が見えず日々の生活に介助が必要な皇后様を支えることこそ皇帝としての慈愛を天下国民に知らしめることであると説得し、明愛帝を政治の世界から引き離してしまった。
蔡英はトントン拍子に出世し、ついに三品官に昇って宰相となって陽王朝の国政の最高実力者となった。宰相に昇る以前から蔡英は様々な法律を作って国の安定を図ったが、例えば
父が死んだ場合、父が持っていた財産は子供たちに均等な金額となる
ように分配する。ただし、計量器具の最小限でも測りきれない余りは、
分配方法による揉め事を避けるため、国庫に属することとする。
というように、全ての人に対して法の適用が公平であるように図る一方、必ず一部を手数料として合法的に国が徴収する、というような内容であった。
蔡英の法運営が極めて厳格であり、一方で様々な法律によって国民から財貨を吸い上げたため、次第に揉め事は少なくなり、国庫は潤うようになった。だが、このようなことが長く続くようになると、国民を縛る法律は次第に増え、そのたびに国民から絞り上げられる財貨の量が増えたため、それと共に国民の生活に余裕が無くなって苦しくなっていった。
ある日、大蔵府の長(財務大臣)となっていた虞洋は、酒を飲みながら妻子に対して愚痴をこぼしていた。
「蔡英が宰相の任に就いてすでに五年になるが、あやつは法律を用いて国民から財産を掠め取ることばかりを試み、あろうことか国庫の負担を減らすため、その一部を地方官の経費として計上することを認めた。このため地方の官吏は合法的に国庫に収めるべき財産の一部を着服して私腹を肥やし、その一部を公然と蔡英に賄賂として送っておる。蔡英はずっと中央の官吏であって地方を知らぬゆえ、法治主義、平等主義を隠れ蓑に自分の冨を増やし、その結果国民の生活が著しく悪化しておることに全く気づいておらぬ。国庫を預る大臣としては誠に悔しいことだが、陛下の信頼も厚く、巧妙に法を犯さぬようにしておるため、誰も蔡英の暴走を止められぬ。どうにかならぬものだろうか…」
「お父様、それでしたら私に一つ、考えがございます」
虞洋が見ると、その声は今年で16歳になる虞洋の末娘のものだった。
「なんじゃ、申してみい」
「お父様、「皇族及び三品官以上の官吏を殺害したものは、三族処刑とする」という法律は、万が一にも、家族のものがその官吏を殺害した場合にも適用されるのでしょうか?」
「うむ、その通りじゃ。それゆえ、過去にそのような事態が発生した場合は、その一族は身内から犯人が出たことを隠匿し、病死ということで内々にすることが多いのじゃが…?!」
そこまで言うと、虞洋は末娘の企みに気がついた。
「もしや、お前…」
「さようでございます。宰相蔡英は数年前に細君をなくしておられますが、その一人息子である蔡阜は23歳の若さにして近頃進士に榜眼(第二位)で及第し、間もなく翰林院(皇帝の秘書室)に採用されると聞いております。それゆえ、我が家の栄達を願い、その蔡阜様の妻として、私をご推挙いただきたいのでございます」
「お前…」
蔡英の息子に嫁ぎ、頃合を見て蔡英を殺害する。身内が蔡英を殺害したのであれば、その遺族は連座して自分たちが処刑されることを恐れ、事件を内々にして片付けるであろう、ということであった。
そうなれば、娘は必ず殺される。
ひどい仕打ちを受けて、父である自分も知らぬうちに。
「…わしは、娘を生贄にしてまで、この国を救わねばならんのか…」
虞洋はその晩じゅう、酒を煽って泣き続けた。しまいには余りにも飲みすぎて悪酔いをし、便所で吐き続け、そして最後はぐったりと気を失ってしまった。
かくして、宰相蔡英の長子蔡阜と、虞洋の末娘は多くの人々の祝福を受けて盛大に結婚式を執り行った。虞洋は家の財産を投げ打って、豪華な花嫁衣裳と嫁入り道具を用立てて娘を見送った。
しかし娘は蔡阜の妻となった後も、すぐには蔡英暗殺を行おうとはしなかった。
あくまで貞淑な妻として振る舞い、殺害のことなどおくびにも出さなかった。そして、間もなくして父虞洋も三品官に昇進し、宰相の末席に名を連ねることとなった。
やがて、夫の蔡阜が翰林院よりある郡の査察官に任命されることとなり、蔡英の邸宅で盛大な壮行会が催された。宰相筆頭である蔡英の権勢を誇るかのように豪華絢爛な宴会が行われた。蔡阜は散々飲み散らかした後、しばしの別れを惜しむために親友の家に出かけた。
普段下戸で酒を飲まない蔡英もこの日だけは断りきれず、悪酔いを抑えながらもしたたかに飲酒を重ねたため、悪酔いをしてその場に倒れこんでいた。娘は蔡英を抱え、寝室へと蔡英を運んでいった。
「さぁ、お薬をお持ちいたしました。お酒に酔われた時はこれが一番です」
「おお~すまんなぁ…」
差し出された薬湯を手に取ると、蔡英はぐいとひと息に飲み干した。そして、コップを机に置くと、娘をじっと見つめた。
「…いいか、良く聞け。俺は、自ら毒を煽って死んだのだ。決して…息子の妻に毒を盛られたのではない。それだけは、絶対だ。我が息子…蔡阜にことの次第を聞かれても、俺が宰相の仕事に疲れたゆえに自ら命を絶ったのだ、とだけ伝えておいてくれ…」
そういうと蔡英はあっと大量に吐血し、あっけなく息を引き取った。
私のたくらみは、とっくに蔡英には気づかれていたのか…。
娘の背中に、冷たい汗が流れた。
蔡阜は、翌日の夜遅く、帰ってきた。
「あなた…お帰りが遅うございます。一体、どちらで何をなさっておられたのですか?」
さめざめと泣く娘に対して、蔡阜はひと言、つぶやいた。
「そなたの父…虞洋様が、病死なされた」
そのひと言に、娘は雷で打たれたような衝撃を受けた。
「…僕の妻に、父を暗殺したのではないかという疑惑がかかっているので、お父君である虞洋様に、そのことを問い質しに行ったのだ。そうなされたら、虞洋様は余りの衝撃に心臓を悪くなされて、お薬を飲まれたところ、急に血を吐いて息を引き取られたのだ…」
蔡阜の言葉に、娘は全てを悟っていた。
「あなたさま…いつごろから、私を疑っておりましたか?」
「…最初は僕も気づかなかった。だが、しばしばそなたが体調を崩して夜の営みをしないことがあり、それが余りに多いので、ちと気になっておったのだ」
蔡阜は、娘をまじまじと見つめながら、言った。
「そなたは、僕の子供を作らないように、わざと妊娠をしそうな日を避けておったのであろう。もし、子供が生まれてしまったら、もしかしたら罪のない子供まで、宰相暗殺の連座で処刑されるかもしれない。それでなくても、歳幾許もいかぬまに、母を失ってしまうかもしれない。それを、恐れておったのであろう…」
図星を突かれた娘は、ガックリとうなだれた。
「…我が父、蔡英は…飲み慣れないお酒を多量に召されて心臓を悪くして薬湯を召された後、その甲斐なく急死なされた。それで相違ないな?」
「あなた…」
娘が何かを言いたそうにしたので、蔡阜は静かに首を横に振った。
「確かに、法に照らし合わせれば、僕には我が父蔡英の死因を明らかにし、万一他殺であったのなら、下手人を捕らえて三族皆処刑せねばならない。しかし、法律と皇帝陛下に忠実に振舞うのであれば、僕は自分の妻を拷問して醜い姿にした上に、その結果は一族郎党皆処刑ということになる。そんな無意味なことをするぐらいなら、真実は闇に葬って、静かに暮らしたいのだ…」
全てを蔡阜に見透かされ、娘はもはや返すべき言葉も無かった。
「…聞いてくれ。我が父蔡英は、大変有能な官僚であった。法律や過去の歴史に明るく、采配は公平で常に行政の運営に過不足は無かった。その上で国民から上手に財貨を集めて国を富ませ、一方で我々の一族郎党を皆引き立ててくださった。国の治安を保って平和に運営し、国庫を富ませ、自らの一族も繁栄させる。父上は自分が見えている範囲の全ての人たちが幸せになるように、30年もの長きにわたって忠実な官僚として国政に携わってきたのだ。だが…」
蔡阜は、さらに続けた。
「父上は、生まれながらの官僚の家柄に生まれ、地方に下ることなく進士に及第して官僚としての道を歩き始めた。それゆえ、本来最も大切にするべき国民という存在が、父上の頭の中からはすっぽりと抜け落ちておったのだ。すでに国民は食べるものにすら困って娘を奴隷商人に売り払うようなことが横行しておるのに、ただ法律を守り、法によって国民を虐げるだけの三下官僚は何の危機感も持ってはおらん。いずれにしても、昨日病死をなされなかったとしても、父上はいずれ誰かに殺されていたであろうし、このままでは我々が拠り所とする陽王朝自体が、亡くなってしまうところであった…」
蔡阜は、ほのかに輝く月を眺めながら、一筋伝う涙をそっと拭った。
「…あなた…」
「…ところで、わが妻よ」
言葉が重なり、互いに一度躊躇した。
「言いたいことがあるなら、先に言え」
「いえ、あなた様から、お先に…」
「よし、では僕から言おう。そなた…このたびのことは水に流して、今後とも僕の妻でいてくれぬか?」
「えっ?」
蔡阜の信じがたいひと言に、娘は目を丸くした。
「…あなた、私は、あなた様の父を殺した人間ですよ…」
「くどいな。僕の父は病死したのだ。そして、そなたの父も病死したのだ。それ以上は、何も言わせんぞ…」
「…あなた、もしかすると、私はいつ何時、あなた様のお命を狙わないとも、限らないのですよ?」
「もし僕が道を誤り、国家と国民をないがしろにする政事を行ったなら、それはそなたが僕を殺すことは道理だな。皇帝の妻は貞淑で余計なことに口出しをしない方が良いが、官僚の妻は一般庶民の目を常に持ち続け、夫を監視するぐらいの方がちょうど良い…」
「…あなた、私は皇后さまのように胸は大きくないですし、夜の営みも上手ではありませんよ。それでもよろしいのですか?」
「僕がいつ、胸の大きい女性の方が好みだと言った?いつ、閨の上手な女性の方が良いといった?男は胸が大きい女性の方が良い、床上手のほうが良いなどというのは、そなたの勝手な思い込みではないのか?」
蔡阜は、自分の妻をがっしりと抱き寄せ、そして言った。
「官僚の妻にそんなものは要らん。国家のために尽くし、国民のために尽力する夫が、道を誤らぬように支えてくれればそれで良いのだ。別に美人でなくても、必要以上に目端が利いて口うるさくても、夜の営みが淡白でも、何の問題もない。僕の妻は、やっぱりそなただけなのだ…」
「…あなた」
夫の頼りない鳴き声を聞きながら、娘もまた溢れる涙を止めようも無く、ただひたすらに嗚咽を漏らしていた。
「僕は、蔡英と虞洋様、二人の尊敬する父親を一度に失ったのだ。今また、最愛の妻まで失っては、僕は明日からこの国のために尽くすことができるのか、自信がないのだ。頼むから、断じて、僕を見捨てないでくれ…」
すすり泣く蔡阜は、妻のか細い体を抱きしめ、ずるずると崩れ落ちていった。
「…承知をいたしました、あなた様。私はただいまより、蔡阜様の本当の妻になります。ただ、その前にただ一瞬だけ、妻で無くなることを、お許しいただきたいのです」
「…おお、どうしたのだ?」
「しばし、ご無礼をいたします。申し訳ございません…」
「許す。何があろうとも、許そう…」
蔡阜が手を離すと、娘はその場にうずくまり、夜空に響き渡るほどに声を上げて泣き始めた。
「…お父様、今まで私を育てていただき、本当にありがとうございました。私はただいまより、大帝国の忠臣にして偉大な宰相虞洋の娘から、偉大な宰相蔡英様が御子にして、大帝国の忠臣たる蔡阜様の妻となります。蔡阜様が大帝国とその臣民に全てを捧げるならば、私もまた蔡阜様の妻として全てを捧げます。お父様、しばしのお別れでございますが、今後はどうか仲直りをなされて、お二人揃って蔡阜様と不肖この私を見守ってくださいますよう、お願い申し上げます…」
その夜、娘の泣き声は広い邸宅のどこにいても聞こえるほどに響き続け、やがて月も高く昇るまで、止まなかった。
その後間もなく明愛帝は崩御されてその長子である洋英帝の治世に代わると、三品官以上の官吏を殺害したものは三族処刑という法律は廃止され、その他にも廃止されたり、刑罰を緩めたりした法律は後を絶たなかったということであった。これらの法律の整理や改正を主導したのが、後に宰相となった蔡阜によるところであったらしいと、後の世に伝えられているところである。
↑(FA作者:学先生)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「官僚の流儀」採点・寸評)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1.文章力
95点
2.発想力
90点
3. 推薦度
95点
4.寸評
面白いなあ……
中国の官僚を描くことで、いつの世も変わらぬ"政治"というものを描いているな、と感じました。この作品はまさに鏡のようなものです。
そして内容的にも、人間をしっかりと描いており、解説だけでは終わっていません。良いバランス感覚をお持ちです。
知的好奇心を刺激しつつ、娯楽的要素もある、良い作品です。オチも王道を行くようなもので、気持の良い読後感を得られました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1.文章力
60点
2.発想力
80点
3. 推薦度
60点
4.寸評
古代陽王朝の官僚の話からここまでの作品にした発想は見事だと思います。
ただ前作から感じるんですが、言いたいことを言うのに作者様は余計な解説や台詞や知識や言い回しが多すぎます。そのため三文芝居臭くなるのが欠点です。
知識は大切ですが知識をひけらかすのは余計です。読者のために最低限の解説は必要ですが、過剰な解説はこれでもかこれでもかという投石のようなものです。まとめると余計な文章はせっかくの発想、コンセプトにケチをつけてしまいます。
前作よりは三文芝居臭くないですが、もっとシンプルに分かりやすく読みやすくなる努力をお願いしたいです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1.文章力 85点
2.発想力 55点
3.推薦度 15点
4.寸評
まずショートショートと呼ぶには程遠い文章量で推薦度をかなり低めにさせていただきました。二倍以上の量では、明らかにショートショートとは違います。
内容は、歴史物ですが、設定や背景の練られ方は目を見張るものがあります。これだけ詳細に書けるのは素晴しいと思いますし、話の流れもテンポよく、設定説明もそこまで気になりませんでした。
ただやはり、この企画として見るならばこの作品を推薦する事はできません。
作者さんの長編歴史物を読んでみたくなる作品でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1.文章力 60点
2.発想力 50点
3.推薦度 55点
4.寸評
失礼かもしれないが、同作者の前作とほとんど同じ内容、その上、比べると劣化しているのではないかという印象を受けてしまった。
すなわち、「この企画に適さない長さ」「説明的なセリフばかり」である。前作は登場人物がかなり絞られていたため、それに加えて「キャラクターが立っている」と感じることができたが、今回は物語が大きく前後に分かれており、各キャラクターへの掘り下げが浅いためにそう思うことはできなかった。
また、キャラクターの名前が日本の常用漢字からかけ離れていて分かりづらく、引用による法の説明などから始まるなど、短編を読もうとする読者をはねつけるような構成も、ショートショートとしては減点対象とせざるを得ないだろう。
構成が似たようなものを書くのが悪いとは言わないが、同じ企画に別作品として投稿した以上、作者の「この作品だからやりたかったこと」を見せて欲しかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1.文章力 60
2.発想力 40
3. 推薦度 50
4.寸評
頭の中で映像が流れた。ドラマ色が強くて面白い。
文章はやや硬めですが、読んで損はないと思います。部分部分がしっかりしているのでイメージもし易い。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
各平均点
1.文章力 72点
2.発想力 69点
3. 推薦度 55点
合計平均点 196点