玉石混交のショートショート集
姉弟ゲーム(作:NAECO)
「ねえねえ」
姉貴はある一点を指差しながら俺の肩を叩いている。その目はまるで、初めて海を見た子供のように煌めいていた。
「なんだよ」
朝のホームルームが始まるまでの数分間、寝不足の頭を休ませようとしていた俺は頭を掻きながら姉貴の方を向いた。
「あの子」
「……ん?」
姉貴の指差す方に目をやると、教室の隅でなるべく目立たないように座っている男子が居た。余計なお世話かもしれないが、そいつは目立たない努力が必要なほど目立つ存在には見えない。上背はないし、気も小さそうだ。顔はいいが中性的で、どうにも男らしくない奴だった。
高校に進学してから二週間が経つというのに、そいつの顔に見覚えはない。
「中学校のときのあんたと同じ」
姉貴がいたずらっぽく言った。
俺は返事をしないことに決めた。姉貴が俺とあいつの容姿でなく、境遇を比較して言っているのだとわかってはいたが、それを認めるのもなんとなく癪だった。
「……ふふーん」
姉貴は何やらニヤニヤしながらさっきの男子の方を凝視している。当の本人はと言えば、不安そうに教室の中をキョロキョロと眺めまわしていた。そして、とうとう姉貴と目があった。
それを合図に、姉貴は奴の方へと歩いていく。
――なんとなく、嫌な予感はしていたんだ。
教室の隅、窓際の最後列の席――いわゆる「ベストポジション」――が、入学式から昨日まで一度も埋まっていないことに目ざとく気付いていた俺は、こんな事態を予想していた。
教室の隅へ吸い寄せられるように近付いていく姉貴の、黒くて艶のある髪が流れた背中越しに、怯えたような視線を姉貴に向けるそいつの姿がある。
そして、とうとう姉貴の背中でそいつが隠れて見えなくなってしまったとき、姉貴はこう尋ねた。
「今日までずっと学校に来てなかったみたいだけど、どうしたの?」
「……え、えっと……一昨日まで入院してたんです」
「そうかあ」
なぜ入院していたのか、いつから入院していたのかなど、これ以上詳しいことは尋ねずに――そもそも姉貴はそんなことに興味がない――今度はこう言った。
「誰も友達がいなくて心細いんでしょ」
「……はい」
姉貴の次のセリフがわかって、ようやく俺は席を立った。
「おい、ちょっと――」
俺が止める間もなく姉貴が宣言する。
「じゃあ今から、私が君のお姉さんだ」
胸を張るその姿はまるで感謝しろと言わんばかりだ。
「あ、あの……? ど、どういう……」
事態が飲み込めないと言った様子で、そいつは上目遣いに姉貴の様子を窺っている。
「寂しそうだから、私がお姉さんになって遊んであげるってことよ――ほら、そこに居るのが私の弟一号」
そう言って、俺の方を振り向かずに指差す姉貴。俺は席を立って移動したのだが、その様子を見ていない姉貴がどうして俺を正確に指差せるのかが解せなかった。
――もうダメだ、姉貴はどうやっても止まらない。
俺が諦めて席に戻ろうとした、そのとき。
「――あ、ああ、ああ、あの、あの……お姉さんとかじゃなくて、その、その――」
奴は、とうとう俺にも弟ができちまうんだな、などと諦め半分に考えていた俺の予想の遥か斜め上を行った。
「付き合って下さい!」
叫ぶような告白に教室の空気が止まった。教室の中にいる全員が何事かとこちらの様子を窺っている。まるで世界のゼンマイのネジが切れてしまったかのような光景を滑稽だと思う余裕さえなかった。奴の言葉は、俺のゼンマイ動力もすべて消費させてしまっていたからだ。
だが、姉貴だけは動じず、咳払いを一つしてからこんなことを言った。
「これから毎日『ゲーム』をしよう」
「……『ゲーム』?」
「そう、『ゲーム』。それに一度でも勝てたら付き合ってあげる。それまではずっと姉弟」
姉貴の提案に俺は抗議する。
「やめろよ。そんな条件出すなんて」
「いいじゃない。一目惚れだなんて嬉しいし、ね?」
姉貴は新しい方の弟に目配せした。弟は黙って頷いた。
「……おい、姉貴」
その日の帰り道、俺は新しい弟とのことで姉貴に文句を言ってやろうとしていた。
「やめろよ。付き合うだのなんだの賭けて『ゲーム』って、おかしいだろ? 負ける気もないくせに」
「うん、姉ってのは、いつだって弟より強いもんなんだからね」
悪びれる様子もなく姉貴は笑っている。正確には、その顔は夕陽のオレンジの色彩の影となって見えていなかったのだが、俺には姉貴が笑っているのがわかった。そして、本当に悪気がないこともわかっていた。
こんな風に夕陽を背に俺の方を向かれると、あの記憶がフラッシュバックして俺の脳を灼くのだ。
「……姉貴」
俺は普段通りに口を動かそうとしたが、緊張で渇いた口の粘膜が邪魔をして、きっと、姉貴にはボソボソと呟いているようにしか聞こえなかっただろう。
「ん?」
艶やかな黒髪を揺らし、姉貴は振り返った。そして、いつものように澄んだ瞳に俺の姿を映している。
「ずっと考えてたんだけどさ――」
傾いた陽の光が俺たちの顔を朱色に染める。下校路の住宅街に伸びる俺たちの影は、長く長く、どこまでも続いているように見えた。
通り抜けた秋風をそっと吸い込んで、俺は言った。
「姉貴のことが好きだから、俺と付き合ってほしい」
逆光が姉貴の顔を影で塗り潰していたから、そのときの表情はよくわからなかった。ただ姉貴は、言い方から察すると嬉しそうに、それでいて申し訳なさそうに「ごめんね」とだけ言った。
俺は握りしめていた拳を解いた。あまりにも予想通りの結果に、残念がるのもなんだか悔しい。
でも、何も心配することはない。このことで、俺たちの関係が壊れることなどありはしない。
「……そっか」
俺は声のボリュームを普段通りに戻して言った。
「よし、帰ろうぜ姉貴」
「これからも今まで通りで頼むね」
ケタケタと愉快そうに笑う。
「――あんたは、私の弟なんだから」
傾いた陽の光のようなオレンジ色の記憶は、いつまで経っても鮮烈だ。
高校に入学した半年くらい前にそんなことがあってからも、俺たちの関係は出会ったときからずっと同じように続いている。実の姉弟でなくとも、親戚でさえなくとも、姉貴はずっと姉貴で、俺はずっと弟だった。
告白の翌日、恥を忍んで直接「俺のどこがいけないのか」と尋ねてみた。多大な勇気が要る行動だったが、どうしても姉貴の口からそれを聞きたかったのだ。
姉貴は目をぱちくりさせてこちらを見つめた後、こう言った。
「当然でしょ? 弟は恋愛対象にならないって」
どうやら、姉貴の中では俺に対してもインセスト・タブーが適用されるらしい。
――姉貴はただ、弟が欲しかった。
そう、ただ、それだけだ。
「じゃあ、校舎を三周、早かった方の勝ち」
「分かりました!」
元気のいい返事を聞いて、姉貴は満足気に頷く。
「じゃあ、位置について」
無理やりジャッジをやらされることになった俺は、腕を伸ばして大体のスタートラインを示すと、手を挙げた。
「用意――ドンっていったらスタートな」
二人の身体が勢いよく前につんのめる。お約束のギャグに見事に引っかかった二人に非難されながら、容赦なくいきなり「ドン」と言ってやった。
「後で覚えてろよ!」
姉貴はそう言いながら、校舎の角を曲がって消えた。
「あ、ああっ!」
お世辞にも速いとは言えない弟も、校舎の影へと走り去っていった。
「……女子が『覚えてろよ』はねえだろ」
俺は独り呟いて、中学時代のことを思い返していた。
「はい、これ」
その日俺に手渡されたのはストップウォッチだった。
「……これで何をしろって?」
俺は少し大げさに眉をひそめて、何がしたいのかが伝わってこないことをアピールした。
「液晶を見ちゃダメ。一分に近い方が勝ち、わかった?」
「なるほど」
そう言って、俺はスタートボタンを押した。
またある日のこと、姉貴は俺の手を引いて街のスーパーへとやってきた。
「先に千円ぴったり買ってきた方が勝ち」
「いきなり言われても金がねえ」
俺が抗議すると、得意げな顔の姉貴が俺に千円札を差し出していた。
「今日の『ゲーム』はこれ!」
また別の日のこと、姉貴は目を輝かせて俺に一枚のプリントを突き付けた。
「……数学オリンピックの過去問?」
「三十分で解けるところまでやって、点数の良かった方が勝ち」
姉貴はそう言うや否や、すでに解答を始めている。
「姉貴、俺が数学苦手なの知ってるだろ……」
わかりもしない問題と三十分も睨めっこするのは想像以上に苦痛で、俺は頭を掻き毟りながら格闘したが、何もできなかったのを覚えている。
姉貴の「ゲーム」はいつだって訳が分からなくて、理不尽だった。何が目的だったのかはわからないし、目的があるのかどうかさえも定かでない。ただ、「ゲーム」の内容はいつだって姉貴が決めてきて、必ず姉貴が勝つということだけはわかっていた。
「はいゴール」
三度俺の前を走り抜けた姉貴に向かって手を差し出すと、姉貴も応えてタッチした。
「楽勝ね」
結局、姉貴が先に三周したのだが、あまりに差が大きい。
――なんと、奴はまだ一周もして来ていないのだ。
「遅すぎるだろ……」
「変だなあ、一度も追い抜いてないんだけど」
それから俺たちは弟の姿を探して、校舎の周りを何周もしたのだが、どうしても見つからないので校舎の中へと引き上げた。
そして、奴はどういうわけか校舎の中、しかも二階の廊下で見つかったのだ。
そのわけを聞いて、俺と姉貴は開いた口が塞がらない思いだった。
「み、道に迷っちゃって……」
それから数ヶ月が経った頃のこと――。
「どうやったら勝てるんですかね」
「さあな」
俺は考え込んでいる弟の方に視線さえ向けず、曖昧な返事をした。
新しい弟は相当な「馬鹿」で、運動音痴であるようだった。まず、教科書レベルの問題をどこからか姉貴が調達してきて、それを解いて勝負した。ともすれば、俺なら何とか勝てるかもしれないレベルの勝負だ。
――零点では勝負にならなかった、それだけだ。
運動の方は、足も遅いし、力もない。体力も少なければ反射神経も器用さもなしときた。
「俺でも勝てたことないんだ、姉貴には」
それでも必死に勝とうとする弟に、俺は酷な真実を教えてやることにした。
「……あのな、俺たちじゃ姉貴には勝てないんだよ」
「――どうしてですか?」
まるで俺が倫理に反することを言ったかのように、奴は責めるような目で俺を見る。
「姉貴は絶対に勝てる勝負しか仕掛けてこないからだ」
「まさか?」
「それが『姉貴』なんだよ」
姉貴は俺たちの能力を完璧に把握している。そこから、必ず勝てる分野だけを抽出して
勝負をする。あるいは「ゲーム」の前に十分な練習をしてから勝負を持ちかけるのだ。
「それでも、何かの間違いで――」
「……それにな」
まだあるのかと弟が黙る。
「姉貴はお前と付き合う気はない――まあ聞け」
俺の言葉を遮って否定しようとする奴をなだめすかしながら、俺は続けた。
「お前はもう姉貴の弟なんだよ。姉と弟は恋愛関係にはならない。そういうことだ」
「そんな馬鹿な……血が繋がってるわけじゃあるまいし!」
奴に釣られて俺の声も大きくなる。
「そうなんだよ! 俺のときがそうだったんだよ! 弟だから――」
ここまで叫んで俺は我に返った。
「弟だから……ダメなんだよ……」
奴の眼が弱々しく呟く俺を見つめている。
「まあ、俺のときは『ゲーム』に勝ったらなんて条件さえつけてくれやしなかった。万に一つもなかったってことだ」
「それでも僕は、諦めませんよ」
そこには、恋に燃える男子高校生の姿があった。
その日の「ゲーム」は「肉眼でより正確にQRコードからURLを読み取った方が勝ち」という途方もないものだった。
だが、弟の頭の程度を把握している姉貴にとって勝つことは造作もない。
制限時間が過ぎて、俺が「そこまで」の声で二人からコードの書かれた紙を回収した。
弟の解答は白紙だったが、姉貴は違った。
この勝負のミソは「より正確に読み取る」という部分にある。つまり、全てを読み取ることが出来なくとも、文字列の一部を読み取ることができればいいのだ。
――姉貴の解答は「http://」だった。
それを見た弟が驚いた様子で姉貴に尋ねている。
「ど、どうやって読み取ったんですか」
「コツがあるのさ、コツが」
得意気に言う姉貴は憎たらしいほどに可愛かった。
その後、俺は思い切って姉貴に切り出すことにした。
「なあ、姉貴」
「どうした、改まって」
「もうやめにしねえか、あいつとの『ゲーム』は」
姉貴の表情が強張った。
「不公平じゃねえか、あいつには勝ち目がないし、可哀そうだ」
「……いいじゃない、別に。私も楽しめて、向こうにもチャンスがある。約束破る気なんてないし」
「いっそ一思いに断ってやれよ! 俺のときみたいに! あいつは本気だぞ、本気で勝とうとあの足りない頭で悩んでんだぞ!?」
――この際だ、これも言ってしまおう。
「なんで俺のときはこんなチャンスもくれなくて、あいつにはやるんだよ!?」
とうとう姉貴は言葉に詰まったようだった。こんなに激昂している俺は見たことがないだろう。なんせ、俺はこんなに激昂したことがないからな。
「来い!」
「ちょ、ちょっと……!」
俺は無理やり姉貴の線の細い手を引いて、放課後の教室めがけて駆けて戻った。
「ねえ、どこに行くの?」
「いいから黙って」
全力で走ってきた俺はもうさすがに語気を荒げる余裕もなく、ただ姉貴にそう言うだけだった。
やがて俺たちは、俺たちの教室の前へとたどり着いた。
俺がバレないように覗けと目配せすると、姉貴はそれに従って、そして、目を丸くした。
再び家路についた俺たちの間に言葉はほとんどなかった。
姉貴は、真剣にQRコードを見つめて読み取る練習をしていたあいつを見て、どう思ったのだろうか。
――ああ、確かに滑稽かもしれない。馬鹿らしいだろう。それも並みの馬鹿じゃない。この話を聞いた他人は笑いたきゃ笑えばいい。
それでも俺は、姉貴がこのことを少しでも馬鹿にしたら、今日限りで姉弟の縁を切ってやるつもりだった。
「……一目惚れがもう半年近くも叶わないのに続いてさ……勝てるはずもない『ゲーム』に勝とうと、あんなおかしなことやってる。今日だけじゃない。他の『ゲーム』のときも、ずっと毎日だ。――いくら好きでも、俺じゃ、あんなことはできなかったかもな」
できるだけ厭味に聞こえないよう、軽い口調で俺は言った。
「……どうするよ、姉貴?」
その日、姉貴の家の玄関に姉貴が消えるまで、その口は真一文字のままだった。
次の日、馬鹿みたいに青い空の下、馬鹿みたいな明るさの馬鹿が、馬鹿馬鹿しい質問をしてきた。
「お姉さん、今日の『ゲーム』は?」
元気いっぱいな奴の眼は、闘志に燃えている。
その眼をまっすぐ見据えて、姉貴は静かに言った。
「……じゃんけん」
「じゃんけん?」
俺は我が耳を疑った。
「こんなチャンス、今日だけだからね」
ふてくされた様子で言って、姉貴は俺に合図をするようにと伝えた。
「よし……最初はグー、ジャンケン――ポンって言ったら出せよ?」
あの日みたいに、二人は俺に非難の眼差しを向ける。
「冗談だって。今度はいくからな」
この「ゲーム」の勝敗は、誰にもわからない。
「……最初はグー、ジャンケン――」
姉貴はある一点を指差しながら俺の肩を叩いている。その目はまるで、初めて海を見た子供のように煌めいていた。
「なんだよ」
朝のホームルームが始まるまでの数分間、寝不足の頭を休ませようとしていた俺は頭を掻きながら姉貴の方を向いた。
「あの子」
「……ん?」
姉貴の指差す方に目をやると、教室の隅でなるべく目立たないように座っている男子が居た。余計なお世話かもしれないが、そいつは目立たない努力が必要なほど目立つ存在には見えない。上背はないし、気も小さそうだ。顔はいいが中性的で、どうにも男らしくない奴だった。
高校に進学してから二週間が経つというのに、そいつの顔に見覚えはない。
「中学校のときのあんたと同じ」
姉貴がいたずらっぽく言った。
俺は返事をしないことに決めた。姉貴が俺とあいつの容姿でなく、境遇を比較して言っているのだとわかってはいたが、それを認めるのもなんとなく癪だった。
「……ふふーん」
姉貴は何やらニヤニヤしながらさっきの男子の方を凝視している。当の本人はと言えば、不安そうに教室の中をキョロキョロと眺めまわしていた。そして、とうとう姉貴と目があった。
それを合図に、姉貴は奴の方へと歩いていく。
――なんとなく、嫌な予感はしていたんだ。
教室の隅、窓際の最後列の席――いわゆる「ベストポジション」――が、入学式から昨日まで一度も埋まっていないことに目ざとく気付いていた俺は、こんな事態を予想していた。
教室の隅へ吸い寄せられるように近付いていく姉貴の、黒くて艶のある髪が流れた背中越しに、怯えたような視線を姉貴に向けるそいつの姿がある。
そして、とうとう姉貴の背中でそいつが隠れて見えなくなってしまったとき、姉貴はこう尋ねた。
「今日までずっと学校に来てなかったみたいだけど、どうしたの?」
「……え、えっと……一昨日まで入院してたんです」
「そうかあ」
なぜ入院していたのか、いつから入院していたのかなど、これ以上詳しいことは尋ねずに――そもそも姉貴はそんなことに興味がない――今度はこう言った。
「誰も友達がいなくて心細いんでしょ」
「……はい」
姉貴の次のセリフがわかって、ようやく俺は席を立った。
「おい、ちょっと――」
俺が止める間もなく姉貴が宣言する。
「じゃあ今から、私が君のお姉さんだ」
胸を張るその姿はまるで感謝しろと言わんばかりだ。
「あ、あの……? ど、どういう……」
事態が飲み込めないと言った様子で、そいつは上目遣いに姉貴の様子を窺っている。
「寂しそうだから、私がお姉さんになって遊んであげるってことよ――ほら、そこに居るのが私の弟一号」
そう言って、俺の方を振り向かずに指差す姉貴。俺は席を立って移動したのだが、その様子を見ていない姉貴がどうして俺を正確に指差せるのかが解せなかった。
――もうダメだ、姉貴はどうやっても止まらない。
俺が諦めて席に戻ろうとした、そのとき。
「――あ、ああ、ああ、あの、あの……お姉さんとかじゃなくて、その、その――」
奴は、とうとう俺にも弟ができちまうんだな、などと諦め半分に考えていた俺の予想の遥か斜め上を行った。
「付き合って下さい!」
叫ぶような告白に教室の空気が止まった。教室の中にいる全員が何事かとこちらの様子を窺っている。まるで世界のゼンマイのネジが切れてしまったかのような光景を滑稽だと思う余裕さえなかった。奴の言葉は、俺のゼンマイ動力もすべて消費させてしまっていたからだ。
だが、姉貴だけは動じず、咳払いを一つしてからこんなことを言った。
「これから毎日『ゲーム』をしよう」
「……『ゲーム』?」
「そう、『ゲーム』。それに一度でも勝てたら付き合ってあげる。それまではずっと姉弟」
姉貴の提案に俺は抗議する。
「やめろよ。そんな条件出すなんて」
「いいじゃない。一目惚れだなんて嬉しいし、ね?」
姉貴は新しい方の弟に目配せした。弟は黙って頷いた。
「……おい、姉貴」
その日の帰り道、俺は新しい弟とのことで姉貴に文句を言ってやろうとしていた。
「やめろよ。付き合うだのなんだの賭けて『ゲーム』って、おかしいだろ? 負ける気もないくせに」
「うん、姉ってのは、いつだって弟より強いもんなんだからね」
悪びれる様子もなく姉貴は笑っている。正確には、その顔は夕陽のオレンジの色彩の影となって見えていなかったのだが、俺には姉貴が笑っているのがわかった。そして、本当に悪気がないこともわかっていた。
こんな風に夕陽を背に俺の方を向かれると、あの記憶がフラッシュバックして俺の脳を灼くのだ。
「……姉貴」
俺は普段通りに口を動かそうとしたが、緊張で渇いた口の粘膜が邪魔をして、きっと、姉貴にはボソボソと呟いているようにしか聞こえなかっただろう。
「ん?」
艶やかな黒髪を揺らし、姉貴は振り返った。そして、いつものように澄んだ瞳に俺の姿を映している。
「ずっと考えてたんだけどさ――」
傾いた陽の光が俺たちの顔を朱色に染める。下校路の住宅街に伸びる俺たちの影は、長く長く、どこまでも続いているように見えた。
通り抜けた秋風をそっと吸い込んで、俺は言った。
「姉貴のことが好きだから、俺と付き合ってほしい」
逆光が姉貴の顔を影で塗り潰していたから、そのときの表情はよくわからなかった。ただ姉貴は、言い方から察すると嬉しそうに、それでいて申し訳なさそうに「ごめんね」とだけ言った。
俺は握りしめていた拳を解いた。あまりにも予想通りの結果に、残念がるのもなんだか悔しい。
でも、何も心配することはない。このことで、俺たちの関係が壊れることなどありはしない。
「……そっか」
俺は声のボリュームを普段通りに戻して言った。
「よし、帰ろうぜ姉貴」
「これからも今まで通りで頼むね」
ケタケタと愉快そうに笑う。
「――あんたは、私の弟なんだから」
傾いた陽の光のようなオレンジ色の記憶は、いつまで経っても鮮烈だ。
高校に入学した半年くらい前にそんなことがあってからも、俺たちの関係は出会ったときからずっと同じように続いている。実の姉弟でなくとも、親戚でさえなくとも、姉貴はずっと姉貴で、俺はずっと弟だった。
告白の翌日、恥を忍んで直接「俺のどこがいけないのか」と尋ねてみた。多大な勇気が要る行動だったが、どうしても姉貴の口からそれを聞きたかったのだ。
姉貴は目をぱちくりさせてこちらを見つめた後、こう言った。
「当然でしょ? 弟は恋愛対象にならないって」
どうやら、姉貴の中では俺に対してもインセスト・タブーが適用されるらしい。
――姉貴はただ、弟が欲しかった。
そう、ただ、それだけだ。
「じゃあ、校舎を三周、早かった方の勝ち」
「分かりました!」
元気のいい返事を聞いて、姉貴は満足気に頷く。
「じゃあ、位置について」
無理やりジャッジをやらされることになった俺は、腕を伸ばして大体のスタートラインを示すと、手を挙げた。
「用意――ドンっていったらスタートな」
二人の身体が勢いよく前につんのめる。お約束のギャグに見事に引っかかった二人に非難されながら、容赦なくいきなり「ドン」と言ってやった。
「後で覚えてろよ!」
姉貴はそう言いながら、校舎の角を曲がって消えた。
「あ、ああっ!」
お世辞にも速いとは言えない弟も、校舎の影へと走り去っていった。
「……女子が『覚えてろよ』はねえだろ」
俺は独り呟いて、中学時代のことを思い返していた。
「はい、これ」
その日俺に手渡されたのはストップウォッチだった。
「……これで何をしろって?」
俺は少し大げさに眉をひそめて、何がしたいのかが伝わってこないことをアピールした。
「液晶を見ちゃダメ。一分に近い方が勝ち、わかった?」
「なるほど」
そう言って、俺はスタートボタンを押した。
またある日のこと、姉貴は俺の手を引いて街のスーパーへとやってきた。
「先に千円ぴったり買ってきた方が勝ち」
「いきなり言われても金がねえ」
俺が抗議すると、得意げな顔の姉貴が俺に千円札を差し出していた。
「今日の『ゲーム』はこれ!」
また別の日のこと、姉貴は目を輝かせて俺に一枚のプリントを突き付けた。
「……数学オリンピックの過去問?」
「三十分で解けるところまでやって、点数の良かった方が勝ち」
姉貴はそう言うや否や、すでに解答を始めている。
「姉貴、俺が数学苦手なの知ってるだろ……」
わかりもしない問題と三十分も睨めっこするのは想像以上に苦痛で、俺は頭を掻き毟りながら格闘したが、何もできなかったのを覚えている。
姉貴の「ゲーム」はいつだって訳が分からなくて、理不尽だった。何が目的だったのかはわからないし、目的があるのかどうかさえも定かでない。ただ、「ゲーム」の内容はいつだって姉貴が決めてきて、必ず姉貴が勝つということだけはわかっていた。
「はいゴール」
三度俺の前を走り抜けた姉貴に向かって手を差し出すと、姉貴も応えてタッチした。
「楽勝ね」
結局、姉貴が先に三周したのだが、あまりに差が大きい。
――なんと、奴はまだ一周もして来ていないのだ。
「遅すぎるだろ……」
「変だなあ、一度も追い抜いてないんだけど」
それから俺たちは弟の姿を探して、校舎の周りを何周もしたのだが、どうしても見つからないので校舎の中へと引き上げた。
そして、奴はどういうわけか校舎の中、しかも二階の廊下で見つかったのだ。
そのわけを聞いて、俺と姉貴は開いた口が塞がらない思いだった。
「み、道に迷っちゃって……」
それから数ヶ月が経った頃のこと――。
「どうやったら勝てるんですかね」
「さあな」
俺は考え込んでいる弟の方に視線さえ向けず、曖昧な返事をした。
新しい弟は相当な「馬鹿」で、運動音痴であるようだった。まず、教科書レベルの問題をどこからか姉貴が調達してきて、それを解いて勝負した。ともすれば、俺なら何とか勝てるかもしれないレベルの勝負だ。
――零点では勝負にならなかった、それだけだ。
運動の方は、足も遅いし、力もない。体力も少なければ反射神経も器用さもなしときた。
「俺でも勝てたことないんだ、姉貴には」
それでも必死に勝とうとする弟に、俺は酷な真実を教えてやることにした。
「……あのな、俺たちじゃ姉貴には勝てないんだよ」
「――どうしてですか?」
まるで俺が倫理に反することを言ったかのように、奴は責めるような目で俺を見る。
「姉貴は絶対に勝てる勝負しか仕掛けてこないからだ」
「まさか?」
「それが『姉貴』なんだよ」
姉貴は俺たちの能力を完璧に把握している。そこから、必ず勝てる分野だけを抽出して
勝負をする。あるいは「ゲーム」の前に十分な練習をしてから勝負を持ちかけるのだ。
「それでも、何かの間違いで――」
「……それにな」
まだあるのかと弟が黙る。
「姉貴はお前と付き合う気はない――まあ聞け」
俺の言葉を遮って否定しようとする奴をなだめすかしながら、俺は続けた。
「お前はもう姉貴の弟なんだよ。姉と弟は恋愛関係にはならない。そういうことだ」
「そんな馬鹿な……血が繋がってるわけじゃあるまいし!」
奴に釣られて俺の声も大きくなる。
「そうなんだよ! 俺のときがそうだったんだよ! 弟だから――」
ここまで叫んで俺は我に返った。
「弟だから……ダメなんだよ……」
奴の眼が弱々しく呟く俺を見つめている。
「まあ、俺のときは『ゲーム』に勝ったらなんて条件さえつけてくれやしなかった。万に一つもなかったってことだ」
「それでも僕は、諦めませんよ」
そこには、恋に燃える男子高校生の姿があった。
その日の「ゲーム」は「肉眼でより正確にQRコードからURLを読み取った方が勝ち」という途方もないものだった。
だが、弟の頭の程度を把握している姉貴にとって勝つことは造作もない。
制限時間が過ぎて、俺が「そこまで」の声で二人からコードの書かれた紙を回収した。
弟の解答は白紙だったが、姉貴は違った。
この勝負のミソは「より正確に読み取る」という部分にある。つまり、全てを読み取ることが出来なくとも、文字列の一部を読み取ることができればいいのだ。
――姉貴の解答は「http://」だった。
それを見た弟が驚いた様子で姉貴に尋ねている。
「ど、どうやって読み取ったんですか」
「コツがあるのさ、コツが」
得意気に言う姉貴は憎たらしいほどに可愛かった。
その後、俺は思い切って姉貴に切り出すことにした。
「なあ、姉貴」
「どうした、改まって」
「もうやめにしねえか、あいつとの『ゲーム』は」
姉貴の表情が強張った。
「不公平じゃねえか、あいつには勝ち目がないし、可哀そうだ」
「……いいじゃない、別に。私も楽しめて、向こうにもチャンスがある。約束破る気なんてないし」
「いっそ一思いに断ってやれよ! 俺のときみたいに! あいつは本気だぞ、本気で勝とうとあの足りない頭で悩んでんだぞ!?」
――この際だ、これも言ってしまおう。
「なんで俺のときはこんなチャンスもくれなくて、あいつにはやるんだよ!?」
とうとう姉貴は言葉に詰まったようだった。こんなに激昂している俺は見たことがないだろう。なんせ、俺はこんなに激昂したことがないからな。
「来い!」
「ちょ、ちょっと……!」
俺は無理やり姉貴の線の細い手を引いて、放課後の教室めがけて駆けて戻った。
「ねえ、どこに行くの?」
「いいから黙って」
全力で走ってきた俺はもうさすがに語気を荒げる余裕もなく、ただ姉貴にそう言うだけだった。
やがて俺たちは、俺たちの教室の前へとたどり着いた。
俺がバレないように覗けと目配せすると、姉貴はそれに従って、そして、目を丸くした。
再び家路についた俺たちの間に言葉はほとんどなかった。
姉貴は、真剣にQRコードを見つめて読み取る練習をしていたあいつを見て、どう思ったのだろうか。
――ああ、確かに滑稽かもしれない。馬鹿らしいだろう。それも並みの馬鹿じゃない。この話を聞いた他人は笑いたきゃ笑えばいい。
それでも俺は、姉貴がこのことを少しでも馬鹿にしたら、今日限りで姉弟の縁を切ってやるつもりだった。
「……一目惚れがもう半年近くも叶わないのに続いてさ……勝てるはずもない『ゲーム』に勝とうと、あんなおかしなことやってる。今日だけじゃない。他の『ゲーム』のときも、ずっと毎日だ。――いくら好きでも、俺じゃ、あんなことはできなかったかもな」
できるだけ厭味に聞こえないよう、軽い口調で俺は言った。
「……どうするよ、姉貴?」
その日、姉貴の家の玄関に姉貴が消えるまで、その口は真一文字のままだった。
次の日、馬鹿みたいに青い空の下、馬鹿みたいな明るさの馬鹿が、馬鹿馬鹿しい質問をしてきた。
「お姉さん、今日の『ゲーム』は?」
元気いっぱいな奴の眼は、闘志に燃えている。
その眼をまっすぐ見据えて、姉貴は静かに言った。
「……じゃんけん」
「じゃんけん?」
俺は我が耳を疑った。
「こんなチャンス、今日だけだからね」
ふてくされた様子で言って、姉貴は俺に合図をするようにと伝えた。
「よし……最初はグー、ジャンケン――ポンって言ったら出せよ?」
あの日みたいに、二人は俺に非難の眼差しを向ける。
「冗談だって。今度はいくからな」
この「ゲーム」の勝敗は、誰にもわからない。
「……最初はグー、ジャンケン――」
↑(FA作者:通りすがりのT先生)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「姉弟ゲーム」採点・寸評
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1.文章力
95点
2.発想力
80点
3. 推薦度
90点
4.寸評
姉とはどうしてこんなに素敵なんでしょ。
なかなか長い話でしたが、スッキリと読ませてもらいました。テンポがよく、キャラクターもさっぱりしていたからでしょう。
姉貴は素敵でした。こんな同い年の女がいたら誰だって冷静にはなれないのではないだろうか?
最後のゲームが、最高でした。企画も終盤に来て、良作が多く出てきていますね。
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1.文章力
90点
2.発想力
70点
3. 推薦度
90点
4.寸評
イイハナシダナー系の中では最高の作品だったと思います。意外性は特にありませんが、読後感がとてもよく起承転結が明確で、何より三人のキャラが素晴らしい。
勝手にお姉さんの容姿を きまぐれオレンジロードのまどかと今ジャンプで連載中のめだかちゃんをミックスした感じでイメージしていたのは内緒です。
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1.文章力 60点
2.発想力 80点
3.推薦度 60点
4.寸評
発想は面白いですが、うまく纏まっていない感があります。登場人物が勝手に動き回っていて、何の説明もなく進むストーリーは多少の飛躍も含め、読者を置き去りにしてしまう気がします。
あとは、弟同士にも固有名詞を付けてあげたほうが読みやすかったと思います。
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1.文章力 35点
2.発想力 30点
3.推薦度 35点
4.寸評
序盤、何の情報も与えられないままに読まされるのを辛く感じた。
同じ教室にいる姉弟という矛盾、新しい弟、『ゲーム』。唐突に展開は進んでいくが、こちらにはその理由の一つ一つが分からず、序盤のうちにいきなり置いていかれたような印象を受ける。
それが全て伏線だ、というならまだ救われるのだが、その大部分は説明されずに終わるのだから、タチが悪いとしか言いようが無い。
特に、主人公と『姉貴』が姉弟という体をとっている理由が全く描かれていないのは、本当に不可解である。
過去を説明するための回想シーンはあるというのに、そこではすでに姉弟の体であるし、『以前同じようなことが起こった』ということしか分からない。
他にもなぜ『ゲーム』を始めたのか、なぜ『姉貴』は弟を欲しがっているのか、なぜ主人公にはチャンスが与えられなかったのか。
とにかくあれもこれも説明不足で、読んでもとても終わったという気にはなれないし、作者のやりたかったことも分からない。これではオナニーといわれても仕方の無い内容だろう。
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1.文章力 50
2.発想力 30
3. 推薦度 40
4.寸評
王道だが展開が巧い。けど、ここまできたら結果がほしかったかな。
物足りない印象。ここで終わるのも綺麗だけれど。
QRコードは確かに可愛かった。
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各平均点
1.文章力 66点
2.発想力 58点
3. 推薦度 63点
合計平均点 187点