Neetel Inside 文芸新都
表紙

NOT シー LOVE!
十余り七つ眼 杏子「どうして、人は人を傷付けるとやろう?」

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相手の話に耳を傾ける。 これが愛の第一義務だ。


ポール・ネイリッヒ









 「心配することはありません。軽い脳震盪を起こしているだけです」
 などというドラマでお決まりのその台詞は全くの嘘っぱちであると杏ちゃん先輩が言っていた。
 遠くの方から微かに聞こえてきた救急車のサイレンらしき音。
 凛々しくてとても頼りがいのある雰囲気を醸し出している救急隊員らしき男性の声。
 どこから湧いて出てきたのか解らない野次馬達のさざめき。
 ああ、私は慧にとんでもない事をしてしまったのだな。慧をこの自分の手で痛めつけてしまったのだな。耳に突き刺さる幾つもの音達が情け容赦なくその事実を私に突き付ける。
 慧は私に突き飛ばされた時、慧のすぐ背後にあったサークル棟の鉄筋コンクリート柱に勢い良く後頭部をぶつけてしまい意識を失ってしまったそうだ。
 私はあの時聞いた。
 何か不吉な出来事の襲来を予感させるような低くて鈍い不気味な音を。
 その音は無機質で冷たいコンクリートが慧の後頭部を無慈悲にも捉えた音でもある。
 これらの音達が私の頭の中で何度も何度も鳴り響いて、やがて私の胸の中にその音達の残響が届いた頃、私は杏ちゃん先輩の言っている意味をようやく理解することが出来た。
 今にも慧は救急車に運ばれようとしているのだろう。
「私、慧についていきます!」
 救急車に慧が担ぎ込まれ、病院へ搬送されようとしている。
 私には慧に同行する義務があるのではないか。そんな気がした。義務? いや、それは違う。私は慧に謝らなければならない。
 何度も言うが、私は慧に‘どんでもない事’をしてしまったのだ。仮に私に義務があるとするなら、それは慧の傍にいてあげて、彼女の無事を祈る事ではないか。そして、慧が目覚めた時に謝罪をすることではないのか。
 そんな事を考えているうちに、私の足は自ずから前へと、救急車のサイレンが鳴る方へと、進んでいた。
「あかりん。その必要はありませんよ。私が同行しますので……」
 前へと行こうとする私の右手首を誰かが握った。私の行く手を遮ったのはアホの子先生だった。 アホの子先生の手はまるで石膏像のように冷たくて、その冷たさは沸き立った私の頭を冷やすには十分過ぎるものだった。もちろん、私の足も自然と止まっていた。
「今のあかりんは、非常に取り乱していると思います。違いますか?」
「そんなことありません」
 口ではそんなことないとのたまってはみたものの、冷静に考えるとそうなのかもしれない。
 自分の顔面に仄かな熱っぽさを感じる。やけに春の風がひんやりと私の頬を撫ぜるなあと思った原因はこのせいだったのか。
「あなたは岩下さんに謝ろうとしている」
「はい」
「そして、あなたは何よりも岩下さんの無事を願っている」
「はい」
「あなたは、岩下さんの傍にいてあげたい」
「はい」
 私が自信たっぷりに頭を縦に振ると、アホの子先生はいやらしい冷笑を私に浴びせかけた。私はムッとした。人の誠意を馬鹿にするとはどういう了見なのだろう。私は思わず、アホの子先生のフレグランスの香りがする方を睨みつける。
「いいえ、それは違います。ええ……全然違いますね」
 アホの子先生が、馬鹿にするような仕草で私の髪を触った。そして、艶めかしい指は私の髪をなぞっていたかと思うと私の首筋を伝って、ピタッと私の左肩に置かれた。
 自分の左肩にアホの子先生の手が置かれた。たったそれだけの事なのに私の身体は凍りついたように固まってしまった。
 私の肩に置かれたアホの子先生の手の冷たさは私に冷静さを取り戻させる以上に私の思考を停止させてしまうのではないかとそんな錯覚まで私に感じさせるものだった。
「あかりん……。あなたは、本当の意味で岩下さんを心配してはいない」
 先生が何を言っているのか、私は理解できないでいた。いや、理解していないフリをしていると言った方が正しいのかもしれない。そう思った。
 私が生唾を飲み込む音が静かに鳴る。何か悪い事をしてしまった子どもが自分の悪事を親に見事に看破されて、今にも自分の頭に親の拳骨が下ろされようとする瞬間。その時に似たような、何とも言えない居心地の悪い心境。それを私も今まさに感じていた。
 周囲でざわざわと騒ぎ立てている野次馬たちの声がなんだか心苦しいものに感じられた。
「あかりん……。実はあなたは別の事を考えている……」
 最早、反論できなかった。その通りだった。
「今、あなたが本当にやるべきことは何でしょうか? そして、今、あなたが出来る事はなんでしょうか? ……しっかりとそれを考える必要があるのではないですか?」
 私の心の中で今か今かと出番を待っていた‘本当の気持ち達’がひょっこりと顔を見せ始めた。そして心の中からその気持ち達はピエロのようにおどけた笑顔で私の顔を覗き込むのだ。
「たとえ、今、あなたが岩下さんに付き添ったとしても、あなたは彼女に何もしてあげることは出来ないでしょう。……無事を祈るだけならここでも出来ますよ。違いますか? 大丈夫! 私が代わりに岩下さんに付き添いますから……」
 私の肩に置かれていたアホの子先生の手が優しく私の頭を撫でた。そして、しばらくしてからその手の感覚はスッと私の頭上から消えた。その瞬間、肩の力が抜けて、急に私の全身を倦怠感が襲い出した。二本の足で立っていられることが不思議なくらいだ。
 「あかりんの事よろしくね」というアホの子先生の声が聞こえてくる。続け様に「同伴者の方は?」という男性の声も聞こえてきた。いつもなら周囲の様子から私は目の前の状況を想像して、その風景を頭の中で写真のように思い浮かべるのだけれど、この瞬間は不思議と目の前の出来事をイメージすることが出来なかった。
 救急車が発進したようだ。だんだんそのけたたましく鳴り響いていたサイレンもブラックホールに吸い込まれるようにして音を失くしていき聞こえなくなっていた。野次馬たちもいなくなってしまったみたいだ。
 途端に辺りが静かになった。
 そして、慧に同行しようと思っていたさっきまでの私の感情もすっかり治まっていた。
 風の音が聞こえる。
 やめて……。
 こんなに静かになってしまうとまた考えてしまうじゃないか。
「姉さん、とりあえずサークル室に入ろう」
 小泉の声が聞こえる。
「うんうん。その方がよか! あかりん! 行くよ~!」
 杏ちゃん先輩の声が聞こえる。
 二人の声は紛れもなく温かいもののはずだ。違いない。
 私はその温かく優しい二人の言葉に包まれるべきなのだ。理屈ではそんな事は解っている。でも私はその温もりを受け入れるどころか興味すらも抱かないでいた。
 不思議なことに。いいや、不思議な事なんかじゃないか。
 私には他に考えるべき事があるのだ。
 やるべき事があるのだ。
 今、私がすべき事。それは、人の優しさを享受して、もう大丈夫だよって笑顔で小泉と杏ちゃん先輩に応えることなんかじゃない。
 今、私が考えるべき事。それは……。
「姉さん、行くぞ!」
 小泉の手が温かい手が私の手を包み込んだ。私は何も言わずに小泉の手に引かれることにした。私の身体がフワッっと前に進んだ。
 今、私が考えるべき事。
「せっかくやけん、この事を題材にしてみようで……あかりんには悪かとばってん!」
 そう……今、私が考えるべき事。


‘どうして、慧は星さんを好きにならない方がいいと言ったのだろう’

     



 はんけんのサークル室に辿りつき、私は長机とパイプ椅子がある方へゆっくりと歩みを進めた。
 すると、しっかりと毛並みが整えられたラブリーの体毛が私の足元に触れたのがわかった。
 ラブリーは私の「Stay! (待機!)」という言いつけをしっかりと守って、健気に御主人の帰還を待っていたのだ。ラブリーの頭を撫でて「いい子だったね」と褒めてあげた。
 ズシリとパイプ椅子に腰を下ろす。
 とても静かだ。いいや。静かなのではなく私が聴覚から得られる情報を完全にシャットアウトするくらいに集中しているから……。だから、とても静かに感じられるのだろう。
 何やら杏ちゃん先輩が喋っている。
 でも、今の私にそんな事はどうでもいい。
「さて、さて! 第十三回! 人間談義のお時間がやってまいりました。今回は、とても興味深か題材が私たちの前に飛び込んできたとばってん……」
「杏ちゃん先輩! マジでやるんですか? こんな時に……」
「なんね? 小泉……。やる気のなかとね! けしからん!」
「だって、姉さんとか、人間談義に参加する気分じゃないだろうに……」
「あ~……そうやったねぇ~……ちょっと『KY』やったかもしれんね~……ごめんね! あかりん……」
 さて、早速考えてみる事にしよう。
 どうして慧は私の恋愛に対して釘を刺すような発言をしたのだろうか。
「あれ? あかりん?」
「ん? 姉さん?」
 ありきたりな言い方をしてしまえば、私と慧は‘親友’同士だ。
 そのような人間関係のあり方がどうあるべきなのか。それに対する決まった答えはないのかもしれない。でも、私が思うにお互いに気の置けない仲であるのだから、例えば親友の恋愛に対しては応援をするものではないかと、そう思ってしまう。でも、慧が私に対して言った言葉はエールなどという、勇気が湧いてくるような、温かな言葉ではなく……。
(もうこれ以上……星さんの事を……好きに……ならない方が……いい……かもしれない……!)
という言葉だったのだ。
 はっきりっと言ってしまおう。意味がわからないんじゃない。
 ありえない。
 それが、私の率直な感想だ。
「もしも~し……あかり~ん……」
「なんだか、聴こえてないみたいですね……」
「う~ん……。まさか、あかりんは耳も聴こえなかったりするの?」
「いや、そんなはずないっすよ。だって、いつも普通に会話してるし……」
「そうたいね! う~ん……。心此処に在らず……。心神喪失状態? みたいな感じ? ……友人を自分の手で傷付けてしまった事に対して、ショックでも受けとるとやろうか……」
「……う~ん。どうなんすかね?」
「仕方がない……今回の人間談義は……私と小泉だけでやろう……」
「え? やるんすか?」
「なんば寝ぼけた事ば言いよっとね! 当たり前たいね!」
「マジかよ……」
「あ~……。なんか、日差しが眩しかたいね~。小泉、ちょっとカーテンば閉めて! 雰囲気が出らん! あと、あかりんは放置しておくという方向で! おーけー?」
「いやいや」
「おーけぇ~?」
「……ら、らじゃー」
 ありえない。
 どうして、慧は素直に私を応援してくれないのだろう。
 頭の中に浮かんだ屈託くのない笑顔をした慧笑顔の慧を思い浮かべる事が私は好きだ。年甲斐もなく下品に大きく口を開いて、豪快に笑う。そんな慧の笑顔が好き。きっと、慧はそんな笑顔を持っている女の子なのだ。
 でも、今、私の想像の中で笑う慧にそんな愛敬を感じる事が出来ないでいた。
 憎たらしくも思えてきた。
 笑うなよ。そんな事まで思ってしまった。
 慧は私をからかって楽しんでいるのだ。
 あの時だってそうだ。慧と一緒にサンタナまで行こうとしたら、待ち合わせのベンチで偶然、星さんと出くわした時だって、慧は愉快そうだった。慌てふためく私の姿を見て、慧はさぞかし腹を抱えて笑い転げたことだろう。
 あの時だってそうだ。ようやく辿り着いたサンタナで私が席を外していた時に慧はアホの子先生と何か話をしていたはずだ。おそらく、恋煩いに悶え苦しむ私の事をスパイスにしてさぞかし美味しくサンタナの和菓子を堪能したことだろう。
「さて、ぶっちゃけて、言うよ~。今回の人間談義の議題は……」
「うわぁ~。マジで始めちゃったよ……この人……」
「……ズバリ! 『どうして、あかりんは友達を突き飛ばしてしまったのか!』」
「ストレート過ぎますね……」
「ばり、わかりやすかろうもん!」
「まぁ……そうですけど……」
 考えれば考えるほど慧が憎たらしい子に思えてくる。
 心の奥底から人を毛嫌いする負の感情が湧水のように溢れだしてくる。胃に何だか不快感がある。掌に自分の爪が食い込むくらい強く拳を握っていた。でも、痛みは感じない。
 ついさっきまで慧の安否を気遣っていた慈悲深い私はどこへ行ってしまったのだろう。
 たぶん、どこにも行っていない。きっと慈しみある私の清らかな感情は湧水の如く溢れだしてきた負の感情に侵食されてしまったのだ。
 人の言葉とは恐ろしいものだ。ふとそう思った。
「今回の件は、もっと深く掘り下げれば、ばり興味深か問題に突き当たるとよ~」
「へ~……どういうことですか?」
「なぜ、人は人を傷付けてしまうのか? また、傷付けてしまうのはどういう時なのか?」
「あ~……なるほど」
「てか、考え事しとったら、頭が沸騰してきた~。なんか、身体の熱か~。小泉、窓開けてくれんかな? カーテンはそのままでよかけん」
「はいはい……」
「返事は一回!」
「……はい!」
 私に負の感情を抱かせさらに怒りのオーラさえ纏わせてしまったのは他でもない。慧だ。
 以前、私は自分勝手にアホの子先生を自らの恋敵と決めつけていた。
 でも、今はそんな事は微塵も思っていない。アホの子先生はどこか私の恋路を見守ってくれている。ほんの僅かな時間しかアホの子先生と接していないけど、数少ないやり取りの中で不思議とその様な雰囲気を私はアホの子先生から感じ取った。
 でも、慧からは……。慧からはそんな温かな雰囲気を感じ取れない。
 慧は私の恋路を邪魔しようとする‘敵’になってしまったのだ。
 何をそんなに大げさなと思う人がいるかもしれない。
 でも、仕様がない。仕様がないのだ。
 どうしてもその風にしかイメージできない。
 今、視覚的なイメージとして私の想像の世界に存在している慧。
 私の想像の世界から笑顔で私を見つめる慧。
 見る人が見ればその笑顔は小生意気な悪ガキのようなあどけなさを感じさせるものなのだろう。実に可愛らしい。きっとギュッと抱きしめたいと思ってしまう人もいるかもしれない。
 でも、今、私はそんな笑顔をしている慧に思いっきり唾でも吐きかけてやりたい。
 つまり、今の慧は私にとってそういう存在なのだ。
 

     

「じゃあ、小泉! あんたの意見ば聞かせてくれんね」
「え? いきなりですか!」
「難しく考える必要はなかけん……。『どうして、あかりんは友達を突き飛ばしてしまったのか』この事について、小泉の率直な見解ば聴きたい!」
「うーむ……」
 「考えたくもない」という事柄、それは予告なしに道行く人を襲う夕立のように、突然、頭に浮かんでくるものだと思う。
 慧は一体何を考えているのだろうか。そして慧が私に放った言葉の意味は果して何だったのだろうか。その問いに対して私はある一つの仮説を打立てた。その仮説は例えばそれが世間一般に発表されてその結果一大センセーショナルを巻き起こすようなそんな大それたものなんかじゃない。
 とても単純な考えでしかない。そしてそれは同時に考えたくもないような事でもある
 それはとても単純な人の心の働き。抑えられない動物としての一つの本能。
 慧は星さんを好きになってしまった。
「慧が言った事に反応してついカッとなったから突き飛ばしてしまった……ですかね?」
「あんさ、私はその場におらんかったけん、よく解らんとばってん、あの、こまんか子……慧ちゃんやったっけ? そん子はあかりんになんば言ったとね?」
「えっと……。『これ以上、星さんを好きにならない方がいい』みたいな感じだったかな?」
「へー。意味深な言葉たいね……。てか、あかりんって星の事ば好いとると?」
「知らなかったんですか? 好き……みたいですよ」
「ふーん。で? あかりんは慧ちゃんのその言葉ば聞いて慧ちゃんを突き飛ばしたって事ね?」
「はい。……どういう事なんでしょうね?」
「ふーむ」
 拳を握り締めると掌がじっとりと湿っていた。頭の中で廻らせたあらゆる思考が汗となって私の身体の中から滲み出ているみたいだ。
 ……いや、滲み出てたと言うよりも―排出した―そう言った方が正しいかもしれない。身体は正直とはよく言ったもので意識せずとも生き物は自分に不必要な要素を取り除き、自身を浄化しようとする機能が備わっている。
 つまり、突如として私の目の前に現れた「慧は星さんを好きになってしまった」という一考は浄化すべき悪しき発想なのだ。
 人が誰かに恋愛感情を抱く。それはごく自然な感情。
 でも、今、慧は「他」の誰かにそんな感情を抱いてはいけないと思う。
「ところで小泉はどうしてあかりんがカッとなってしまったって思うと?」
「だって、片思いの相手にアプローチしようと頑張ってるのに、横から茶々を入れられたら誰だって怒りますよ!」
「そんなもんかな? つまり自分の恋路を邪魔されたからあかりんはカッとなってしまったと、そういう事?」
「それが一番単純明快な答えだと思います……」
「うーん……。疑問が一つある」
「え?」
 慧には歴とした恋人がいるのだ。
 最初は人伝(ひとづて)でその事を知ったけれど最終的に本人に恋人の有無を確認したから間違いない。今でも私は鮮明に思い出す事が出来る。慧の彼氏はどんな人かと私が尋ねた時に、はにかみながらでも嬉しそうに「優しいっちゃ優しい」と答えていた慧のあの声を。
 だから、慧は他の誰かに恋愛感情なんて抱いてはいけないのだ。恋人がいるのだから寧ろそんな感情を抱かないのではないのだろうか。
 理解できない。慧の考えている事がさっぱり理解できない。
 パイプ椅子にもたれかかって天井を見つめていると首筋から血液が懸命に全身を循環する音が聞こえてきた。
「『カッとなった』その理屈は何となくやけど解るよ。でも、どうしてカッとなったけんって慧ちゃんば突き飛ばす必要があっと?」
「あ? 確かに!」
「やろうも! 小泉の言っとる事は、あかりんの行動の意味に対する根本的な答えになっとらん! カッとなった理由はよく解る。でも、突き飛ばす意味がよくわからん」
「うーむ」
「たとえば小泉が友達から嫌な事言われたりしたら、どうする?」
「え? 俺ですか? えっと、そうだな……。やり返しますかね」
「つまり、どういう事?」
「うーん……殴られたら殴り返すし、悪口言われたら悪口で言い返しますよ」
「ほうほう……なるほどね。……小泉。今、あんた面白か事ば言ったね」
 あらゆる結果には必ずなにかしらの原因が付き纏っている。
 つまり「心の中に、ある感情が芽生える」という結果が生まれるためには原因となる何かしらの現象が存在しなければならないという事だ。
 意外な事に私の頭の中にその原因が何かすぐにわかってしまった。
 そうだ。きっと慧は今の恋人との関係が良好ではないのだ。いわゆる倦怠期という奴だ。そんな尤もらしい大義名分を振りかざしながら慧は星さんという魅力的な異性に出会ってしまった。そして、慧の浮ついた気持ちはものの見事にその魅力的な異性が存在する世界へと辿りついてしまったという事だ。
 その結果、星さんが存在する世界に先に居た私を追いやろうとした慧は私にあの言葉を突き付けたのだ。
「やり返すってことですか?」
「んにゃ『言われたら、言い返す』って事!」
 ありえない。
 でも、これが現実なのだ。いくら私が否定しようとも変わることのない現実なのだ。
 奪われてたまるものか。絶対に、絶対に奪われてたまるものか。
 先に星さんに恋をしたのは私なんだ。
 横恋慕なんて許されるはずがない。
 私は間違っていない。私が正しい。……はずだ。
「つまり、嫌なことをされたからって手を上げなくてもいいって事。言い返すって選択肢もあるって事だよ」
「じゃあ、何故、姉さんは慧に手を上げたのでしょうか?」
「さあね。それはあかりんに直接訊いてみんばわからん。憶測だけでモノを語っても何も始まらんけんね」
「う~ん……。お~い姉さ~ん」
 私の考えは間違っていない。どんな理由があったとしても、ヒトの感情に口出しをするような真似をしてはいけない。それが、恋愛感情にまつわる事なら尚更だ。
 神聖不可侵な領域を侵す輩は誰であろうと速やかに排除しなければならない。
 そう考えれば考えるほど星さんに関わろうとする女たちが私の恋路を邪魔する敵に思えてくる。
「あかりん? 聞こえてる? もしも~し」
 たとえば、私の傍らにいるこの女―杏ちゃん先輩―気さくに私に話しかけてきて、一聴してみれば人当たりの良さそうな印象が感じられる人に思えるけれど、実際、何を考えているのか分かったものじゃない。
 この女は星さんの事を気安く「星」なんて呼び捨てにしていた。一体どういう関係なのだろう。もしかしたら、この女は虎視眈々と星さんの心を射止めようと機会を窺っているハイエナのような意地汚い女なんじゃないのか。
 厭らしい。実に厭らしい。
 実際、この女は星さんに電話を掛けていたことがある。つまり、この女は私を差し置いて、ちゃっかり星さんの携帯電話の番号を知っているのだ。
 私はまだ知らないというのに。それ以前に、まともに星さんと話もした事がないというのに。
 腹立たしい。実に腹立たしい。
 ずるい女だ。
「はあ……。全く聞こえとらんね」
「……姉さん、どうしちまったんだ?」
「しょうがなかね~……。実力行使といきますか」
「え? 杏ちゃん先輩……何を?」
 不意に私は誰かに前から両肩を掴まれた。当然の出来事に声が出ない。私の肩を捉えている指には何故か力が込められていた。
 自分の身に今何が起きているのか、全く考えることが出来ない。
 ガタっとパイプ椅子が傍で倒れたかと思うと、次の瞬間、私の身体は誰かの腕の力で無理矢理誰かの方に向けられた。
「杏ちゃん先輩? 何やっ」
 私の右耳に風を切る音が微かに聞こえてきたのと同時にパン!という乾いた音が部屋に鳴り響いた。
 右頬に一瞬だけ鈍い痛みが広がる。突然の出来事に私は声を出すことが出来なかった。私は右頬に手を添えてその痛みの余韻を感じながら、震えて息を吐き出すのに精一杯だった。
「ごきげんよう、あかりん! やっと私に気づいてくれたね」
 杏ちゃん先輩……の声が聴こえてきた。その声は幼い我が子に語りかける母親のような穏やかな声だった
「ごめんね。いきなりビンタしちゃったりして……あんまりにもあかりんが私たちの事ば無視するけん……ついね……手を上げちゃった」
「マジで勘弁してくださいよ……。杏ちゃん先輩」
 動転した小泉の声が聞こえてきた。そして、私は漸く自分の身に何が起きたのかを理解する事が出来た。
「あかりん、どうしたの? なんか考え事ばしとったみたいやけど……」
 杏ちゃん先輩が私の手を取りながら、しおらしい声で私に話し掛けてくる。
 気持ち悪い。
「あ、そうだ! みんな、色々考え事して頭が疲れちまっただろ? メグ先生が買ってきたアイス食おうぜ!」
「お、それはグッドアイディア! 小泉! 気が利くたいね! そうしよう! そうしよう!」
 この人は一体何を考えているの。
 今、私の頭の中に浮かぶ杏ちゃん先輩の一挙手一投足の意味が全くわからない。
 こんな事は今までになかった。不気味としか言い様がない。
「姉さん? 何味がいい? バニラとグリーンティーとストロベリーと……」
「いらない」
 私はパイプ椅子から腰を上げながら小泉の言葉を遮った。そして、ハーネスを握るとラブリーに指示を送った。
「Up! Door! (ここから出よう!)」
「え? あかりん? 帰っちゃうの? アイスば食べていかん」
「Go home! (おうちに帰るよ!)」
 この日私は目が見えない事に初めて感謝した。
 もし杏ちゃん先輩と小泉の表情を見ていたら、私は二人にどんな顔をして何と言えばいいのか考えあぐねていたと思うから。
 ラブリーが部屋の入口まで辿り着いた事を確認すると、私は無言のまま「はんけん」のサークル室を後にした。
 私がサークル棟を出て、しばらくしてから小泉が私を呼ぶ声を背中に感じた。
 だけど、それはたぶん気のせいだと思う。
 帰り際、キャンパスのどこかで誰かにぶつかってしまった。ぶつかった相手がドサドサと本を地面に落した音が聞こえてきた。私は落してしまった本を拾うのを手伝いもせず、ただ「ごめんなさい」と軽く頭を下げて、またトボトボと家路へと歩みを進めた。
 帰り道の商店街から聴こえてくる喧騒が今日はあまりにも煩わしく思えて仕方がなかった。


       

表紙

文造 恋象 [website] 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha