NOT シー LOVE!
二十余り一つ眼 「私はまた逃げ出してしまったみたいです」(2011/4/29更新)
恋というものはなんと恐ろしい情熱だろうか。
それなのに世間の嘘つきどもは、恋をあたかも幸福の源泉のように言っている。
スタンダール
インプットされるべき道程は決して私の頭の中に書き込まれる事はなかった。
暗い空間を行ったり来たりする身に覚えのない音や匂いはいつの間にか私の身体に慣れ親しんだものへと変わっていった。
不特定多数の男女の声があっちに行ったりそっちに行ったり、とても忙しない。やっとの事で私は通い慣れたキャンパスまで戻ってこれた、らしい。
「今、大学のランチ棟前だ。すぐそこにベンチがある」
小泉の言葉で現在地の風景がパッと頭の中に広がる。
小泉は私をそのベンチに腰掛けさせると「なんか、昼飯買ってこようか?」と尋ねてきた。何かを口に運ぶ気にもなれないので、私は首を横に振って、昼食を求めるキャンパスメイトで溢れるランチ棟に向かう小泉に「いってらっしゃい」と手を振って見送った。
顔の表面を春の風が撫でて、どこの誰かも解らない通行人の気配や声が引っ切り無しに私の前を通り過ぎていく。ぽつんと座っている私を尻目に時間はひたすら流れている。‘時よ止まれ’とか‘時よ戻れ'とか。そんな事を考えてみたりもした。でも、そんなありきたりな魔法の言葉は、やっぱり馬鹿げた戯言でしかなくて、私の目の前に広がっていると思われる人混みの中でそれはもみくちゃにされるだけ。戻って来たのは時間ではなくて、昼食を引っ提げて「待った?」と私に声をかける小泉だった。
頼みもしないのに気を利かせて小泉は私の為にバナナ牛乳の紙パックを買ってきてくれた。「いらないよ」と断ったのに、小泉は少しひんやりとした紙パックを座っている私の膝上にちょこんと乗せてきた。
「どうする? これから」
もぐもぐと口に食べ物を含みながら小泉が私に話しかけてくる。
「どうしようかな」
「なんか、授業に出る気もしないよな~」
「そうだね」
まるで、何事もなかったかの様に小泉と言葉を交わす自分が不思議に思えてならなかった。
小泉自身も私を病院まで連れて行った事を忘れしまったのか、普段と変わらない調子で私に言葉を投げかけてくる。
「サー室にしけ込むか」
「ばっかじゃないの……すけべ」
古びた木製のベンチが小刻みにギシギシと揺れている。
きっと、小泉の言葉は冗談だ。私をからかって悪戯にニヤつきながら身体を揺らす小泉の姿が脳裏に浮かんできた。
私の予想は的中して、小泉は「冗談だよ」と大げさに笑いながら、またいつもの様に大きな手で私の頭をくしゃくしゃにした。ただ、いつもと違って、小泉の笑い声がすぐ止んでしまって、わけのわからないタイミングで微妙な間が出来てしまった。
ぎこちない会話。そして、やがて訪れる沈黙。いつまで私と小泉はこんな堂々巡りをするのだろうか。
私は自分の足元に大人しく座っているラブリーの身体を撫でた。ほんのりとラブリーの体温が私の手に伝わる。
盲導犬としての役目を十分に果せずに、今日のラブリーはさぞかし苛ついている事だろう。
私に撫でられても、ラブリーがはしゃぐ事はない。
とても申し訳ない気持ちで居た堪れなくなった。
「あれ? 仕事中の盲導犬は撫でたりしちゃいけないんじゃなかったか?」
「うん……そうだった」
「でも、今日はラブリー、仕事らしい仕事してないよな」
「……そうだね。今日は小泉が歩行介助してくれたからね」
私はラブリーの身体からそっと手を離した。
「なんか、疲れちゃったな~」
小泉は大げさに溜め息を吐いた。思いっきり手を挙げて背筋でも伸ばしているのか、またベンチが鈍く鳴る。
「そんなに疲れた? 大した距離は歩いてないと思うけど……」
「いや、疲れたよ。だって、姉さん、自分で歩こうとしないからさ。もう、肩凝った、肩凝った。姉さん、ダイエットでもした方がいいんじゃない?」
「うっさい」
「ほんと、疲れたなあ~。昼寝して~」
「すれば?」
「マジで? じゃあ、姉さん膝枕してよ」
「あんたには、まだ早い」
本当は罪滅ぼしのために膝枕の一回や二回してあげるべきなのかもしれないけれど、羞恥心はこんな時でもしっかりと発揮されるみたいだ。
「ケチだなあ~」
「こんな所じゃ出来ないよ」
「え? じゃあ、ここじゃなかったらしてくれるの」
「いや、そういう意味じゃないから」
「なんだよ~期待したのに」
「期待しないでよ」
「う~ん……じゃあ、サー室にでも行くかな。実はサー室には昼寝するのに丁度いいクッションがあるんだよ」
「へ~。じゃあ、行って来れば、サークル室に」
「ああ、そうするわ」
そう言うと、小泉は私の手を握って立ち上がろうとした。
「え? なんで、小泉、私の手、握ってんの?」
「ん? だって、姉さんも行くだろ? いいじゃん。どうせ、行くとこ無いだろ?」
「そんな事……」
「ない」と言おうとしたけど、私は言い淀んでしまった。
そんな事無い。いいや、そんな事あるのだ。
今の私には行くとこなんて無い。
私が行くべき場所は確かに存在していた。そう、慧がいる病院だ。でも、私は自分の手でその行くべき場所へと続く道を塞いでしまったのだ。
行くべき場所を理解していながら、その場所に近付こうともしない。自らの意志で行く所を無くしたと言っても過言ではない。
全く小泉の言葉は的を射ていた。
「うん……そうだね。じゃあ、私も行こうかな。あ、でも、もう手を繋いでくれなくてもいいよ。サークル室までは自分の力で行けるから」
私は小泉の手を離して立ち上がった。
「ラブリー、Up! (立って!)」
私の指示を聴いたラブリーもスッと素早く立ち上がった。堂々とした私とラブリーの佇まいに小泉が感嘆の声をあげている。
「おーけー! わかった! 先に行ってるわ! じゃあ、ファイト! 姉さん!」
いきなり小泉にポンと肩を叩かれた。不意を突かれたはずなのに私は驚かなかった。
この期に及んで、まだ私は小泉から励まされる事を望んでいるのだろうか。
「小泉」
呼んでも返事がなかった。
私がサークル室に行く理由なんて無い。
でも、私は小泉の返事を求めるかのように自然と前へ歩き始めていた。
程良くぬくい春の日差しが私の肌を覆っているかと思ったら、徐々にその温もりは肌から剥がれ落ちて、日当たりの悪い立地に建てられたサークル棟の近くまで自分は足を踏み入れているのだと確かに感じた。ちょっとした段差に躓いてしまうだとか、障害物にぶつかってしまうだとか、そんな不具合が起こる事も無く無事に私はサークル棟の前まで辿りつけた。
入り口を開けると、前にここに来た時と同じく決して心地善いとは言い切れない雑じり気(まじりき)のある独特の空気が私を出迎えてくれた。昼休憩の時間という事もあって、たくさんの人の気配がした。各々が談笑に花を咲かせたり音楽を楽しんで歌ったりギターを奏でていたり、思い思いの時間を過ごしているようだ。
私一人が悩もうが泣こうが喚こうがどこ吹く風。呑気にのんびり時間は流れている。
「あ! あかり~ん」
入り口で佇んでいると私を呼ぶ声が聞こえてきた。聞き覚えのある声。杏ちゃん先輩だ。‘はんけん'のサークル室までの距離感をしっかりと身体に覚えさせていなかったのでとても助かった。入り口から、二十一歩、いや、二十二歩。杏ちゃん先輩はその距離にいた。
「あかりん、お昼ご飯食べた?」
「まだです」
「じゃあ、一緒にたぶうで!」
「え?」
「一緒に食べようよ!」
私一人が悩もうが泣こうが喚こうがどこ吹く風――別に、この瞬間、私は泣いても喚いてもいないけれど――。杏ちゃん先輩はいつもの調子で方言を喋っている。私は無理やり笑顔を作って、「はい」と頷いた。
「あの」
「なん?」
「中に入らないんですか?」
「ああ、なんかね、知らん人が中におっと」
杏ちゃん先輩の声が途端にひそひそと小さくなった。
「知らん人?」
「うん。そいでね、小泉の声もするとばってん、なんか、二人で話しとるごたん。なんば、話しよっとか、よう聞こえんけど」
「はあ」
「んで、ちょっと、聞き耳ば立て取ったとさ」
杏ちゃん先輩の声色はどこか楽しげだ。ドアの陰で気配を隠して、片方の耳に手を当てて、にやつきながら盗み聞きをする杏ちゃん先輩の姿がうっすらと想像出来た。
「そういうの、あんまり善くないと思うんですけど……悪趣味っていうか、なんていうか」
「よかた~い」。子ども染みたその一言で私の苦言は一蹴された。
私は一体何をしているんだろう。サークル室に来る理由なんて、やっぱり私にはないみたいだ。時間の無駄であると、そんな大げさな事は言わない。だけど、何かが変わる、そんな一抹の希望をこの場所に見出す事は出来なさそうだ。
杏ちゃん先輩と知り合ったのは、つい一昨日の事だ。出会って間もない人、しかも、年上の人に対して指図するなんてとてもじゃないけど私には出来はしない。私は、背中がもたれかかれそうな壁か何かを右手の甲で探り当てると、そこに背中を預けて、杏ちゃん先輩が盗み聞きに飽きるのを待つ事にした。私が右手に持っていた紙パックのバナナ牛乳はすっかり冷たくなくなっていて、紙パックの表面は水滴でいっぱいに濡れ始めていた。
「あわ!」
ガチャリとドアノブが回る音が聞こえて、突拍子ない杏ちゃん先輩の奇声がドアの開く音に被さった。
「あ、すみません!」
きれが良く、それでいて気取った様子もない、落ち着いた男の人の声が私の耳に飛び込んできた。
「あ~も、ね~……。いきなりドアばあけんでよ!」
「本当にすみません。まさか、人がいるとは思いもしなかったもので……」
どこかで耳にした事がある声だと、ふと、思った。でも、はっきりと思い出せない。
「なんね、あんた? うちに何か用? ……もしかして、入会希望?」
「入会? ……いいえ、違います。あの、突然で申し訳ないと思ったのですが、実は小泉君にどうしてもお伺いしたい事がありましたので、ここに馳せ参じた次第です。……あの、失礼ですが、貴女はこのサークルの方ですか?」
「うん、そうだよ。この‘犯罪小説研究会'の会長・久本でっす! てか、あんた、だい?」
「だい?」
「……おほん! あなたは誰ですか?」
「あ、申し遅れました。俺、鷲津洋(わしづよう)と申します」
私はハッと息を呑んだ。私は……その名前を知っている。
「鷲津君……ね。で、お伺いしたい事ってなん?」
「え? あ~……あの、慧……岩下慧という子を御存知……ですか?」
「うん。知っとるよ」
「本当ですか!」
「てかさ、なんね? あんたのその喋り方」
「すみません。初対面の方とお話する時は、いつも、こんな調子で……」
「なんか、耳のこそばゆか~。よかって、そげん畏まらんちゃ」
「はあ……」
「よかって! 普通に喋ってよ。普通に」
「あ……。あの、それより、ひょっとして、慧が今どこにいるか知っていたりしますか?」
心臓が飛び出るかと思った。鷲津さんは、今、慧を呼び捨てにした。つまり、この人は慧と親しい間柄にある人物であるという事だ。つまり。
「昨日から、慧と全く連絡が取れないんです」
「ん? ちょっとよか?」
「何ですか?」
「鷲津君ってさ、もしかして……岩下さんの……これ?」
少し間を置いてから「これ」と言った杏ちゃん先輩が、今どんな仕草をしているのか手に取るようにわかる。きっと、杏ちゃん先輩は親指を立てて、それを鷲津さんに見せているのではないだろうか。
「え? あ~、はい。俺、慧の彼氏です」
「あ~やっぱり! そう思ったとさね~」
鷲津さんから朝早くに電話があった事を私は思い出していた。その時、私は不躾にも黙って電話を切ってしまった。不穏な気配を察知した私はあの時、電話を切る事で逃げ出した。
でも、もう逃げられない。というよりは、竦み上がって、逃げ出そうとする気概も起こらない。どうすればいいのかも考えられない。
「昨日の昼から連絡がつかなくて、何度も何度も電話したのに……全然、繋がらないし……朝から、慧の友だちの野尻さんにも電話して聞いてみたけど、何故か、電話を切られちゃって……。さっきまで大学中を探してもみたけど、さすがに、見つけられなくて。慧の身に何かあったのかと思ったらいてもたってもいられなくて……」
「なんね? そげん心配すっとやったら、岩下さんの家に押しかければよかたい。なんで、ここに来る必要があっとね。お門違いってやつじゃなかと?」
「いや、俺、慧の家に行った事ないんですよ。それで、慧の友だちの小泉君ならもしかしたら何か知ってるかと思って……」
「よう、小泉がここにおるってわかったね」
「慧から、いろいろ、噂とか聞いてるんで……」
「ふ~ん」
「小泉君に訊いても、わからないって言うし……。久本さん! 何か知ってますか?」
「あ~あの子ね、今、病院におると思うよ」
「病院!? ……一体……どうして!?」
「昨日ね……頭ばぶつけたとさ。ほら、サークル棟の入り口の屋根ば支えとる、ぶっといコンクリート柱があるたい? あそこに、自分で転んで、ガツーンって、頭ば打ったとさ。そんまま救急車で運ばれていったとよ~……。あの子、大丈夫やろか」
「どこの病院ですか!」
鷲津さんの声が震えている。動揺した気持ちが嫌というほど、私にも伝わってきた。
「ちょっと……落ち着かんね、鷲津君」
「どこの病院かって聞いてるんだ!」
震えた声は怒号に変わって、それと同時に柔らかい何かが壁にぶつかる音がした。
これは、とてつもない、怒り、悲しみが、弾けた音だ。そんな印象を与える音だった。
あまりの迫力に私は右手の紙パックを落としてしまった。
「……ここからすぐそこの……大学病院」
弱弱しい声で杏ちゃん先輩はそう答えた。
杏ちゃん先輩が言い終わると同時に、駆け出す足音が鳴り響いて、勢い良く入り口の引き戸が開け閉めされた。息も吐かせぬ、あっと言う間の出来事だった。
「はあ~やれやれ」
杏ちゃん先輩が安堵にも似た溜め息を吐いていた。一体、杏ちゃん先輩の身に何があったのだろう。恐る恐る杏ちゃん先輩の方を私は見つめた。
「あかり~ん、あんた、命拾いしたね~……」
「命……拾い?」
「私が咄嗟に‘岩下さんは自分で転んだ'って嘘ば吐いとらんかったら、あんた、鷲津君になんばされるか、わかんらんかったよ~。まあ、でも、鷲津君、あんたが‘野尻さん'だって思ってなかったみたいだけど……」
あの何かが壁にぶつかった音の正体は、杏ちゃん先輩が鷲津さんから両肩を掴まれて壁に押し付けられた音だったそうだ。
仮に、杏ちゃん先輩が本当の事を――私が慧を突き飛ばして怪我をさせた事を――鷲津さんに言っていたら、鷲津さんの矛先は確実に私の方に向けられていただろう。それに、私は慧を傷付けた張本人だ。壁に押し付けられるといった生温い事では済まなかったかもしれない。
「杏ちゃん先輩、大丈夫なんですか?」
「大丈夫、大丈夫。むしろ、あかりんの方は大丈夫かと? なんか、元気がないみたい。もうお腹ぺこぺこ?」
陽気に笑いながら、杏ちゃん先輩は私の肩を叩く。何事も無かったように朗らかに私の肩を叩く。何のしがらみもなく、実に伸び伸びとした態度だ。
それに比べると、どんよりとした暗い気分にどっぷりと浸かっている自分の姿が滑稽に思えてしまう。
――私、実は、まだ慧に謝っていないんです――。杏ちゃん先輩に、そう打ち明けたら、杏ちゃん先輩は何と言い返してくるだろうか。
――大丈夫、大丈夫――。
自分が犯してしまった事を正当化するつもりはもちろん微塵もないけれど、杏ちゃん先輩ならそう言ってくれると、そんな気がした。