今日も彼女は「うんこ」を連呼する。
北部構内にある辺鄙な場所に、もはや築何十年かも推測できない、ほぼ半壊状態の建物がある。そこに私の愛すべき大学生協があるのだ。その殺伐とした生協食堂内に、彼女の毅然たる声色の「うんこ」が突き抜けていった。
本日五度目の「うんこ」であった。一度目の「うんこ」は私が割り損ねた箸を取り換える際、不意に発せられた。これはあくまで推測であって、それは彼女の「うんこ」だったのかも知れないし、あんぱんを食う女の「あんこ」だったのかもしれない。もしかすると「うんこ」という名の女がいたのかもしれない。あくまで私の推測だ。
しかし、その「うんこ」らしきものが空気を震わせた直後の彼女はというと、非常に伸びやかな笑みでうどんを持ち上げていた。彼女は「うんこ」の後、必ずこのように表情を緩ませる癖がある。なので恐らく、彼女の「うんこ」だったと思われる。
一度目の「うんこ」はその場に吐き捨てるようなブツリとしたもので、まだ体が温まっていないうちの発言だった故の手抜かりだったに違いない。いつもの勢いはなかった。それからはテンポの良い「うんこ」が続き、五度目を数える頃にはすっかりいつもの「うんこ」に成った。
あらゆる状況から彼女の「うんこ」を分析してきた「うんこ」の権威である私が言うのだ。自信はある。
彼女の「うんこ」バリエーションは実に多岐へと渡り、雨の日も風の日も「うんこ」を忘れることはない。芯の通った声で「うんこ」と発言することもあれば、歯切れの良い「うんこっ」や、舌を噛みつつ絞り出す「うんここ」もある。また、撫でるような柔らかい「うんこぉ」もあれば、思い出したように無機質な「うんこー」もあるにはある。
酷い時には「うんこうんこうんこ」と連続して回数を稼ぐ日さえある。そして彼女は喜ぶのだ。それはもう、喜ぶのである。
会話の節々に「うんこ」を組み込み、無垢な笑顔を見せる彼女。喜怒哀楽は「うんこ」にあり、その先もまた「うんこ」なのだ。
故に彼女の「うんこ」は超自然的でかつ、奇想天外で、異空間感覚の、神秘的な、正直何かよくわからないものであって、それすなわちマジカルである。
しかし、可憐で美しい彼女に「うんこ」は似合わない。似合うはずがない。何か宇宙的なものか憑依的なものか陰謀的なものか罰ゲームか、とにかく現実的ではない何かが彼女に言わせているとしか考えられない。
この私が言うのだ。私に間違いはない。
○
彼女の「うんこ」を初めて聞いたのは陰鬱な桜の風がそよぐ四月の初め。
希望に満々た新参者達が何事にも一喜一憂し、群れを求め普段より明るく振る舞い、校内を嬉々と練り歩き、講義にも我先にと顔を出す四月。
私はというと怠惰に怠惰を重ねた結果、晴れて大学五回生を迎える事となった。
ほとんど研究室に顔を出さない私に教授は烈火の如く怒り、戦力外通告を受け、馬鹿野郎と飛び出してからは一度も研究室には行っていない。
そして、以前から勤めている三交代制のパン工場で週4日ほど働きながら大学にも行かず、就職活動もせずに肩書きだけは学生として虚空に堂々と屹立した。
パン工場での私は他に類を見ないほど隠された単純作業の才能を開花させ、ついには山崎パン第一工場サンドイッチ部班長ピクルス担当に任命。勤勉家で妻子思いのデボラ・ジャンセン氏を追い抜き、いち早くピクルス担当の座を射止めた。この迅速な栄進は工場内でも快挙であったという。
帰宅後は安酒を煽りながらなかなか卑猥にならない深夜映画を観賞し、いつの間にか気絶して翌日を迎えるのがお約束となっていた。
そしてカビ臭いアパートの万年床を昼頃に抜け出し、業務用スーパーで買った毒々しい漬物を持ってコストパフォーマンスだけが売りの大学生協へ向かう。ただ生きるためだけの登校である。漬物片手に構内を闊歩する私は、さぞかし哲学的であったろう。
そんな清々しいほどの絶望的な日々の中、彼女は颯爽と生協食堂に降臨したのだ。春風に靡(なび)く髪は陽光を受けて艶々と色めき、笑顔はマシュマロのように柔らかく、毅然としたその瞳はどこまでも真っ直ぐであった。
あの天女のような娘はどこぞの妖精か、と脳内マスコミがペン片手に騒ぎ囃したのは言うまでもいない。記者は胸を張る。彼女は恐らく新入生であると。
今となればゴミ同然と化した大学シラバスを熟読し、履修登録表を広げながらギクシャクとお国自慢などの愚行を晒してしまうのは新入生しかいない。何が美味しいだとか方言がどうたらとか、上澄みを掬うような会話を私もしてこなかったわけではない。数年前の話ではあるが確かにした。その上澄み話で育んだものは、その後面倒なものへと成り果てて構内ですれ違うたびによそよそしい挨拶を交わさねばならなくなる。名前さえも記憶が曖昧な人間に、いちいち愛想をプレゼントせねばならなくなる。
これはいわゆる人間であるが故の通過儀礼なのだ。彼女もまた、そうであるように。
従って彼女が悪いのではない。国に根づいた和の精神が悪いのだ。文化が悪く、時代が悪く、土地が悪い。ついでに政治家も悪い。彼女と私以外皆悪い。
そんな彼女は毎週必ず眼鏡の女と生協食堂に顔を出していた。
春先に堂々と生協食堂に迷い込んでしまうなどというのは新参者が必ず起こすミスなのであって、仕方のないことだ。
普通、我が生協食堂は金欠に喘ぎ、学友もおらず、味よりも何よりも一人で黙々と腹を満たすことが先決という底辺学生最後の牙城として機能している。
生協食堂に迷い込んでしまった罪無き新参者は、その異様な空気を本能的に察して早々に中央食堂や二号食堂、小奇麗なカフェテリア、ミリー・ジーンの総菜屋や構外に軒を連ねる良心的な定食屋へと流れる。近くのファミリーマートでサンドイッチとフルーツ牛乳を買って構内のベンチで読書をするのも良し、ファーストフード店で日が暮れるまで彼氏の話をするのも良しだと思う。
しかし彼女は何が楽しくて毎日ここへやってくるのか。それが未だに謎である。
どうやら彼女には窓際二人掛けの席でうどんを食うという一定の法則が存在するらしく、非常に興味深かった。毎日うどんなのだ。しかし具は変わる。
もちろん真面目な私は、謎多き明眸皓歯(めいぼうこうし)が現れる正午半頃より一時間早く食堂入りし、極限まで薄められた食堂備え付けの粗茶を揺らしながら待機。
そして予想通りの登場と同時に、私はひっそりと席を移動し、端然と座る彼女の姿を拝観できる長テーブルを陣取る。高校から愛用している背負い鞄から喧嘩別れをした教授に借りっぱなしになった固体地球物理理論のテキストを取り出し、それを悠々と広げて、いかにもな研究員を演じながらその隙間から彼女を観察するのである。
謎があれば解明する。興味があれば分析する。私は腐っても研究者であって、本当に腐りかけている白衣を身に纏って世界の不思議に挑む勇者なのだ。勇者はお姫様を救うし、なんなら悪もやっつける。だから私は今日も、業務用の毒々しい漬物片手に戦っている。
○
また彼女から「うんこ」が飛び出した。よりはっきりとして透明感のある、実に彼女らしい「うんこ」であった。
何気ない日常会話の中で、やはり彼女は巧みに「うんこ」を織り交ぜていた。私は不釣り合いで違和感のある「うんこ」を噛み締めながら観察を続ける。
そもそもなぜ「うんこ」なのだろうか。「うんち」ではいけないのだろうか。彼女は必ず「うんこ」と表現し、決してその他の語彙を用いない。これは絶対である。
クソ、大便、糞、落し物……言い換えはいくつかあるが、しかしこれではいけないのだ。あくまで「うんこ」でなくてはならない。
彼女の中で「うんこ」はどのような意味をなしているのだろう。「うんこ」の後の伸びやかな笑顔の意味を私は知りたい。謎多き乙女の正体を私は知りたいのだ。
本来「うんこ」は排泄物のことを指しており、不浄の存在、不衛生なものとしてのイメージが強い。そして何より臭う。あまり好ましくないものだという意から転じて役に立たないものや取るに足らないものを形容することが使い方としては一般的だ。
決して私のことではないが、出来の悪いものをクソと表現し、出来の悪い人間はクソ野郎と呼ばれる。大抵頭ごなしに悪い意味で用いられてはいるが、出来の悪いクソゲーを愛する私にとってクソ野郎もまた愛すべき存在に位置するのではないかと考えられんこともない。
そう、彼女は愛を語っているのかもしれない。慈悲深い笑みで砂漠のような食堂に愛を運んでいるのかもしれない。
また「うんこ」は元来ギャグ的なものとして扱われている。
漫画では巻かれた「うんこ」や金色の「うんこ」が登場し、メガネの超合金少女や亀に乗る御曹司など私が幼少のころ愛読していたものには例外なく「うんこ」が登場していた。
誰もが一度は経験のある「うんこ」を踏むといったものも非常にユーモラスな意味合いを含み、運が付くなどといった冗談に変換されることもある。
しかし、その愛溢れる「うんこ」も時として子どもたちへの凶器と変貌することがある。
学校で「うんこ」をするということは当時としてはかなり過酷な試練であり、授業中の便意はまさに死の宣告そのものであった。「うんこ」を我慢したらしたで手足を震わせ自分の首をじわじわと締めるような耐久戦を強いられ、排便したらしたでクラスメイトからの公開処刑が始まり、そしてもれなく不名誉なニックネームが与えられる。
なんとも変幻自在な「うんこ」は意地悪でもあるのだ。
彼女はそんな確立された社会悪への挑戦と断絶のため、自らの身を削り「うんこ」を叫んでいるとも考えられないこともない。ひょっとすると彼女は大学生の肩書を持つ革命家の可能性もある。
私は彼女の尻尾を掴むことさえ出来ず、たまたまこうして本来の目的から脱線した「うんこ」の意味合いについて思いを巡らせる。
それが唯一、私の枯れた日常に潤いを与えてくれる瞬間であるからだ。たとえそれが食事中であろうと関係はない。カレーを食っていても私は「うんこ」について考える。遠慮を知らない彼女の「うんこ」は今日もまた食堂内に響いてゆく。
私がいくら真実を語ろうと、彼女が違うと言えばそれは妄言に過ぎない。彼女はきっと、そういう人だ。
――だから少しでも、このままがいいと思った。
○
開け放たれた食堂の窓から、寂しい風が入ってきた。夜の匂いが少しばかり混ざっている。
風が私の髪を撫で過ぎると、忘れていた肌寒さに思わず白衣を取り出し袖を通した。空の赤みがゆっくりと傾いて背中の丸まった私の影を大きくした。
昼の食事時より人気はないものの、不摂生自慢の研究員達が入れ替わり立ち替わりこの生協食堂を訪れては足早に去っていく。
私は時計に目をやりながらパン工場での作業を思い出していた。今頃はちょうど立ちっぱなしの脚がぴりぴり痛みだす最初のピークだ。
まだ私がこうして生協内にいる罪悪感と、自分の小さな願望を実行してしまった達成感がちょうどいい具合に溶けてゆく。渦を巻いて、ゆっくりと。
パン工場からの着信が十件を超えたあたりで携帯電話の寿命が尽きた。彼女に比べれば、それは小さな革命である。しかし、これでいいのだと思う。
これでまた一つ、風穴が空いたのだ。
明日からどうするかを考えながら、ふうと息をついて再び窓の外に目をやった。夕日が勢いよく落ちて、夜の匂いが強くなっていく。
ふと構内を移動する群衆の中に彼女とよく似た後姿を見つけて、私は「うんこ」とぽろり投げかけてみた。
ああ、なるほど。
なるほどなぁ。