Neetel Inside ニートノベル
表紙

うちのオーパーツ
裏庭の光る石

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 炎。
 圧倒的な色彩が、周囲の闇を喰らい尽くさんとして踊り狂う。克己(かつみ)は背後で燃えさかるその炎に視線を奪われた。
「マスター、お怪我はありませんか?」
 正面、投げ出した足の側から聞こえたその声にはっ、となり、克己はそちらに向き直った。
 振り向いた彼の鼻をわずかにくすぐったのは、彼女の長い銀髪である。本来であれば背中一面を覆うはずの銀髪が、熱風に吹かれて大きく舞っていた。その一本一本が炎に照らされ、美しいオレンジに輝く。
 眼前を通り過ぎた髪の毛を見送って、次に克己の視界に入ったのは彼女の背中。一糸纏わぬその背中に、克己は目を奪われた。
本来であれば水晶のように透き通った白い肌も、今は炎の色をありのまま反射させている。場違いなその美しさを目の当たりにして、克己は、ゆっくりと口内にたまった唾液を飲み下した。
「あ、ああ…」
 ようやく、と言っていいくらいの時間は経過していただろう。彼の喉が空気を震わせると、彼女は正面を向いたまま小さく頷き、こう口にした。
「ご命令を、マスター」


 一.

 帰りのホームルームが終了すると同時に、机の脇にかけたバッグを手に取ると、内村克己(うちむらかつみ)は誰よりも早く教室を飛び出した。
「こらっ、克己くん!」
「わりぃ、ゆっちゃん!今日は急ぎっす!」
「君はいっつもでしょ!!」
 担任のいつも通りの高い声を背中に受けながら、克己はなおも疾走中。なぜならば―
「くぉらっ!カツミ、あんた今週掃除当番でしょうがっ!!」
 ―担任よりも恐ろしい第二の追手が、こちらもいつも通りやってくることを、彼は予期していたからである。
 声の主を振り返ると、その距離はおよそ一五メートル。逃げきれるかどうか、かなり際どい。何せ相手はバリバリのスポーツマン。かたや克己は相当なインドア派である。
「掃除なんかやってたら埋まっちまうんだって!」
 突き当りの角を曲がれば階段。そこを過ぎればさすがに追ってはくるまいと判断し、克己は正面に向き直ってスピードを上げた。
「言い訳に、なるかあっ!!」
 びゅおんっ!と風を切る音がして、顔の左を何かがものすごい勢いで通り過ぎた。それはスピードを落とさずに数十メートル先の壁に叩きつけられる。
 ぼすっ、という音が一度して、正面を見ると、白い壁にはキレイに青色の縞模様が残されていた。そうして廊下に転がったのは、ご存じ黒板消しである。
「あっぶねぇだろーが!」
 消す側ではなく、持ち手側があの勢いで頭部に直撃していたら…、ということを想像し、背中にひんやりとしたものを感じながら、克己は再度背後を振り返った。
「そう思うなら、おとなしく止まることねえっ!」
 距離は先ほどよりも二メートル程縮まっているだろうか。
追手はなおも勢いを緩めることなく克己に迫る。大きく結ったポニーテールが左右に揺れていた。けれど、克己目がけて一直線といったその様は、仔馬というよりは猪である。そしてその左手には、よく見ればもう一発の弾丸が握られていた。
「冗談じゃねぇ…!」
 そう独りごちて、克己はさらにスピードを上げた。階段まで残り二〇メートル。
「いい加減に―」
 だんっ!という音を最後に、背後の足音が止んだ。けれどそれは追手が諦めたわけではない。むしろ逆である。
 最後の足音は、追手の右足が強烈に廊下を叩いたものだ。
 すなわち、跳躍。
 やばい!と思ったその瞬間、まさに目と鼻の先にあった2年A組から、見知った横顔が出てくるのを発見し、克己はその人物の陰に入り込むようにしてスピードを上げた。
「―しろっっっ!!」
「おう、克(かつ)…ぼふぅっ!」
 追手が放った黒板消しが、見事クリーンヒットしたらしい。けれど克己はその様子を確認することなく角を曲がり、七段ある階段を一跳びして踊り場に降り立った。
 多少の足の痺れは気にせず、手すりを利用してターン。
「ごめ!シューイチ、大丈夫!?」
 そんな焦りの混じった追手の声が聞こえてくる頃には、すでに一階に辿り着いていた。
「秋一(しゅういち)、先行ってるぞー!」
 姿の見えない友人からの返事は待たず、克己は昇降口に急いだ。
 通常時と比較して二倍程度のスピードでスニーカーに履き替えると、校舎を出て校門へと向かう。そこで案の定、背後から追手の声を聞くことになった。
「明日はあんた一人でやらせるからねっ!」
 声のした方向を見上げると、2年A組の窓から、目をつり上げた追手が身を乗り出しているところだった。
「おう、また明日~」
 克己はにんまり、と笑みを浮かべてそれに応じると、後ろ向きの小走りをやめて正面に向き直る。まだ誰もいない坂道を足早に下ると、校門を出たところで大きく息を吐いた。
「だぁ~、危なかった…」
 門にもたれかかり、呼吸を整える。
 二度言うが、インドア派の克己にとって、この鬼ごっこはなかなかにハードである。いくら短距離とは言え、全力で駆け抜けたことで、今の彼は割と消耗していた。
 とは言え、一年以上もこんなやり取りを続けていれば、身体は慣れてくるものらしい。昨年の同じ時期、同じ場所に座り込んで三〇分も動けなくなっていた自分を思い出して、克己は満足げに頷いた。
「うっし、行くか」
 もう一度軽く息を吐き出してから、もたれかけていた身体を起こす。常態の六割程度まで回復したのを自覚して、目的の方向に足を向けたその直後、背後にうらめしげな声を聞いた克己は、そちらを振り返った。
「待ちやがれぇ~…」
 よたよた、といった足取りで坂道を下ってくるのは、先ほど追手の一撃をモロに喰らったらしい友人―春日(かすが)秋一(しゅういち)―である。汚れたら嫌でも目立つ黒のブレザーには被害は無いようだ。が、空いている方の手で後頭部を押さえているあたり、どうやら柔らかくない方(・・・・・・・)がそこに直撃してしまったらしい。
「お、おう、大丈夫か?」
 つとめて明るく振る舞いながらそう言った克己だったが、けれど秋一はうらめしげな表情のままに近づくと、幾分上からの目線で彼を睨みつけた。
 あ、よく見るとちょっと泣いてる。
「大丈夫じゃねーよ、ヴォケっ!」
 前歯で下唇を噛む発音でそう言いながら身を乗り出す友人に、克己は身体の前で両手を開き、片目を閉じてみせる。まぁまぁ落ち着け、という意味だ。
「良く考えろ秋一。こんなところで仲間割れしてる場合か?早く行かないと台が埋まっちまうぞ?」
「誰のせいでこうなってんだ、あぁん?」
 普段は垂れ気味の目じりをつり上げながら、ずずい、となおも身体を寄せてくる秋一の、一応はスポーツマンらしい胸板を、今度は直接押し返して、克己はやむなくといった風にこう口にした。
「三ゲームおごるから、な」
 一瞬ぴく、と反応し、身体の動きを止めた秋一であるが、けれど彼は無言で頭を押さえていた方の手を外すと、パーの形にして克己に突き出した。
 これで彼に実害が及んだのは何度目だったか。多少の罪悪感も手伝って、克己はこの要求を素直に飲むことにする。
「オーケー、分かった…」
 そう言って頷くと、ようやく彼の方も表情を崩して、いつも通りの調子で声を漏らした。
「マジで痛かったぞあれ」
「そりゃ、そうだろうな…」
 隣に並んだ秋一と歩調を合わせて歩き出す。なおもさすり続ける彼の後頭部を、克己は首を伸ばして眺めた。が、伸びた髪の毛に阻まれて、当然ながら患部の様子は分からない。
「でもまぁ、静奈(しずな)ちゃんに介抱してもらったしな」
 そう言ってにやけて見せる友人に、「じゃ、おごりは無しでいいな」と告げると、再びじろり、と睨む視線を向けられる。
「冗談だよ…」
 薄く唇をつり上げて、小さく息を吐き出す克己であった。

 自動ドアが開くと、内部の雑多なBGMが一気に外へと流れ出す。その流れに逆らうように、克己たちは通い慣れた店内へと足を踏み入れた。UFOキャッチャーやらプリクラのマシンやらが並ぶエリアをわき目も振らずに通り過ぎ、お目当ての格闘ゲームが並ぶ店の奥に足を運ぶ。
「お、空いてる空いてる」
 そう言って笑いながら伸ばされた秋一の掌に、克己はバッグから取り出した財布から、百円玉を五枚乗せてやった。
「あ、もう百円ないじゃん…」
「そんじゃ、お先に~」
 百円玉のなくなった克己にそう言って、秋一は空いている台の一番端に腰を下ろした。
「最初は乱入無しな!」
 店内の音に負けないようにそう言った秋一の声を背中に受けながら、片手をひらひらさせて応じると、克己は手近な両替機に千円札を突っ込んだ。
「よう、少年」
「あ、ちーっす」
 じゃらじゃら、と音を立てて落ちてきた百円玉を集めながら、秋一は隣に立ったカラフルなニット帽の男にそう返した。
「しっかしお前らもホント好きだね」
「店長に言われたくないっすよ。どうせもうやりこんでるんでしょ?」
「バカ言え。一応仕事なんだからな?とりあえずレベルマックスにして一周したくらいだよ」
 そう言って帽子からはみ出たドレッドヘアをいじりながら、大きな口を開けて男は笑う。
 今日も原色バリバリのジャケットにTシャツ、ユ○クロかと言いたくなるようなカラージーンズに身を包んだ、ファンキーという言葉が似合う男は、この小さな地方都市の小さな商店街に、唯一つのゲームセンターを構える店長である。
 克己と秋一がここに入り浸るきっかけを作ったのも彼であった。二人の間では超絶プレイの店長で通っている。
 名前は知らない。
「どうっすか、感想は?」
「んー、まぁまぁ。システムはよく練られてるし、絵も綺麗だし。ただやっぱりなぁ、格ゲーの面白さってのは、人と対戦してみないことには、なぁ?」
 玄人らしい批評を交えながら、ビビッドなピンクのメガネをくい、と上げてみせた店長に、「やりませんよ」と返して背中を向けると、克己も秋一の隣の台に腰を下ろした。
 ちらり、と目に入った秋一の使うキャラクターは何と言ったか。黒のロングコートに身を包み、懐に隠し持った多数の銃器で戦う女性。
「王子ぃ、あいつ相手してくれないんだ。これ終わったら一戦やろうぜ」
 後ろからついてきていたらしい店長が、隣でがちゃがちゃレバーを動かす秋一にそう声をかける。
 ちなみに王子というのは、彼がテニス部に所属しているという理由だけで安易につけられたあだ名である。店長以外には誰もそう呼ばないし、そもそも秋一は王子という外見には程遠い。よく言えば優しそう、といったその雰囲気は、同等の例えをするなら田舎から出てきた見習い兵士とかそんなところか。
「えー、絶対イヤっす」
 画面から銃撃の音を響かせながら、さらり、とそう告げた秋一の肩を軽く小突いて、店長は克己の対面に腰掛けた。
「ちょっと、俺初めてなんっすから、乱入しないで下さいよ」
 台の右側から顔を出してそう言うと、店長も同じ方向から顔を出した。
「大丈夫だって。見てるだけだから」
 にやにや、と笑う店長を睨みつけながら、百円玉を投入する。直後、画面に踊った「CHALLENGER!!」の文字に、克己は立ち上がった。
「店長、仕事仕事」
 嫌味たっぷりといった具合にそう告げた克己だが、けれど店長の方は慣れたものである。
「大丈夫だって。見ての通り、お前ら以外まだ客いないし」
 事実、店内には克己と秋一以外に客の姿はない。とはいえ、そういうことじゃないだろう…。と思う克己である。
「もちろん、これはおじさんのおごりだ。な、少年。一回だけ、な?」
 年齢不詳の顔をくしゃっ、と歪め、悪戯っぽくそう言われてしまえば、特に断る理由もない。それどころか、今日この台が入るという情報をもらった恩もある。「一回だけですよ」と言って座りなおすと、筐体越しに上機嫌な「サンキュー!」の声が響いた。
 画面に向き直り、事前に仕入れていた情報から、使いやすそうなキャラクターを選ぶ。克己が目をつけていたのは、近接格闘が得意な少女型アンドロイド。
 銀色のロングヘアが日本人離れした外見を助長させているが、けれど日本の高校に通っているという設定の彼女の身を包む制服は、黒のブレザーに赤のリボン、スカートは赤地にチェック柄と、彼の通う高校の女子用の制服に酷似している。
 だから選んだわけじゃないけど。
 誰に対しての言い訳か、そんなことを心の中で呟いて、克己はスタートボタンを軽く叩いた。
 ほどなくして、画面が一瞬暗くなる。
 先ほどの鬼ごっこのせいだろう。そこに映った自分の乱れた頭を見て、克己は手ぐしで軽く撫でつけた。

「だぁあ~!店長相変わらずえげつねぇ!」
 あの後、克己同様ひどいコンボで瞬殺された秋一である。
 二人も決して下手なわけではないのだが、彼にだけは勝ったことが無い。なんというか、プロを名乗っても全くおかしくないほどの実力者なのだ。
「克己、ジュース」
 そう言って不機嫌そうに広げてよこした秋一の右手を、克己は「バカ言え」と言って叩いた。
 間もなく七時だが、ずいぶん日が長くなってきた。透き通るような青、とは言わないまでも、薄ぼんやりとした水色が、空には広がっている。
「なんか食って帰るか?」
「んー、ハンバーガーくらいなら」
 今日は自炊のつもりだったが、たまにはいいだろう。そう思い財布を取り出した克己だったが、同時に別のことに気が付いて、慌ててバッグをあさり出す。
「どうした?」
 覗きこむ秋一に、彼は右手を立てて視線を返した。
「わりぃ、忘れ物した…」
「なに、課題?」
「数学。ノート無い。プリント挟んだままだ…」
「うっわ、タっちゃんに絞られる~」
 楽しそうに節をつけて歌い上げる秋一の脇の辺りを軽く殴りつけて、克己は後ろ向きに来た道を戻り始める。
「悪いな。また明日」
「おう」
 友人の返事を待ってから彼に背中を向けると、克己は小走りに学校へと向かった。
 一日に二回もこの坂を上るのはなかなか気が重い。やけに傾斜のきつい正面の坂を上り終え、今後は忘れものに一層注意を払おうと決意を新たにした克己であった。
 一度足を止め、正面の入口を眺めながら、乱れた呼吸を整える。
 視線を動かす。
 一階の明かりは職員室くらいか。二階には明かりが無い。三階にはほとんどの教室に照明がついていた。
 三年生が自習をしているのだろう。センター試験まで七ヶ月程。来年の自分のことを考えて少々気が重くなり、小さく俯く。手近な小石を軽く蹴りつけた。
 昇降口へ回り、二階に上がる。ひと気はない。
 朝のよっぽど早い時間か、誰もいなくなった放課後にしか見ることの出来ない風景。そういえばそのどちらにも、今まで縁がなかったと、克己は思った。
遮るものなく真っ直ぐに続く廊下。窓枠の影がそれを彩る。
ふっ、と先ほどのことを思い出して後ろを振り返ると、壁にはまだうっすらとチョークの青が残っていた。
 廊下には自分の足音がやけに鮮明に響く。
「こつ、こつ、こつ…」
 途中から音に合わせて呟いてみる。
十回ほど口にしたところで、教室の前にたどり着いた。
曇りガラスにぼんやりと映る自分の姿を眺め、一拍置いてドアを開いた。
がらり、と思いのほか大きな音が、空の教室に反響した。
克己の席は中央最後列。椅子を引いて机を覗き込むと、それだけ綺麗に置き去りにされた数学のノートに再会することが出来た。
 ぱらぱら、とめくって課題のプリントが挟まれていることを確認すると、克己は小さく安堵の息を吐き出した。
「あぶねあぶね」
 そう口にしながらバッグにしまい込む。
ふと思い立って、そのまま後退。
 後方の壁に背中をくっつけると、誰もいない教室を、瞳の動きだけで見渡した。
 整った机。綺麗に消された黒板。
 廊下と同様に、こういったリセットされた状態の教室を見るのは、克己にとっては初めてのことだった。
一度視線をあさっての方に向けて「……明日はちゃんと、やりますよ」と呟くと、克己は教室を後にした。
 静まり返った廊下を、今度は戻る。ほんの一、二分のことだったが、心なしか、先ほどよりも窓枠の影が伸びていた。
 校舎の裏側には駐車場と駐輪場がある。なんとなく窓際に寄って、下を眺めながら、克己は歩いた。
 …白、…黒、…青、…緑、…白―
 並ぶ車の色を胸中に呟く。
 ―…青、…白、…赤、…黒、…………青?
 初めは陽が車体に反射したものだと思った。けれど、並んだ車は黒の軽ワゴンが最後である。
 その隣、一瞬青い輝きの見えた部分に目を凝らす。
 黒の軽の前輪の付近、確かに何か小さな物が、青く輝いているのが見えた。強い輝きではない。不透明なプラ版かなにかの後ろから青い光で照らしたとしたら、こんな感じにぼんやりと光って見えるのではないだろうか。
 何か胸がざわつくのを感じて、克己は足早に階段を降り、校舎を出た。
 普段ならば用のない校舎の裏側に出る。歩くたびに、敷かれた石同士がこすれて音を立てた。
 黒のワゴンが見えた。前輪の辺りに目をやる。
「あれ…」
 けれど、そこに先ほど見えたはずの光はない。
 三歩近づく。距離は五メートル。
 一度、軽く視線を落としたときだった。
「……!」
 四歩目を踏み出す前に、克己は足を止めた。
 ゆっくりと、足元(・・)に転がっていたものを手に取る。
 ただの石ではない。それは周りにいくらでも転がっているその他多数と比べれば明らかだ。
 ビー玉をわずかに大きくしたようなきれいな球体が、ぼんやりと、青く輝いていた。触った感じはそれこそガラス玉に近い。
 克己はこういったものに心当たりがあった。とてもよく知っている、と言っていいだろう。
 けれど、今手にしたそれは、克己の良く知るそれら(・・・)とは多少異なるようである。
 彼の手指が触れてもなお、それは変わらず淡い光を放ち続けていた。
 もう一度、克己は黒のワゴンに視線を向けた。次に、それを見下ろしていた窓。そして、再び自分の手へ。
 間違いない。これは自分が今立つここには無かった。
 そう、先ほどまでは。
 球体を指で転がす。
 変化が無いのを確認してから一度強く握りしめ、克己はそれを、ブレザーのポケットにしまった。

 薄暗くなり、静まりかえった住宅街に、人影があった。
「近いな」
 一言それだけだったが、もし誰かその声を聞いていた者がいたら、よく通るテノール、とでも表現したのではないだろうか。男性である。
 スーツに身を包んだすらり、とした長身の男性は、右手に握った携帯電話のようなものを覗き込んでいた。液晶の光が、彼の彫りの深い顔立ちを際立たせる。
 仕事帰りのサラリーマンに見えないこともないが、それにしてはビジネスバッグも持たず、彼の所持品は顔の前に掲げた大きめの携帯電話のようなものただ一つ。十数本のラインが縦横に走るその画面の上端に、小さく、青く輝く光点があった。それは一度小さく瞬いて、ぴこん、といかにも機械音らしい軽めの音を立てる。
 その音に反応したように、男は唇の両端をつり上げた。くくっ、と笑い声のようなものが喉の奥から漏れる。
 わずかに俯けていた顔を上げて、男は歩きだした。
 アスファルトを打つ革靴の音が、聞く者のいない住宅街に響いた。

       

表紙

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Neetsha