Neetel Inside ニートノベル
表紙

駄作の集積所
ギフト・リテイク 1.0

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 路面電車が起伏に合わせて上下にわずかに揺れている。もはや過去のものになった路面電車もこの島では太陽電池式として最先端のものとして使用されていた。
 電車がセントラルモールの近くまでくると、神谷玄人は電車から飛び降りた。基本的に『駅』が存在しないため乗り降り自由、どこからでも乗れて、どこででも降りられるということになっている。
 中央商店街ことセントラルモールは島で一番大きなショッピングモールだ。名前の由来は島の中央の中央区にあるからというそのままのことだ。
 四方にガラス張りのルーフを伸ばし、商店街を上から見ればクロスか十字である。その中心には少しひらけた広場があり、島の完成の記念に移植された大きな樹が屋根を抜けて緑色の葉を広げている。
 神谷はガラス屋根が反射した橙色の陽に見向きもせずに本屋へと足を運んだ。
 花屋のすぐとなりにあるロケット鉛筆のような形をしたやや奇妙なお店。それが全国チェーンする大型書店「角山(つのやま)堂」である。「なんでも読める。なんでも揃う。あなたのまちの角山堂」というフレーズを聞いたことのない人はおそらくいないだろう。
 キャッチフレーズの通りに専門書から同人誌まで幅広く揃えていて、ちいなさ個人書店しかないこの島では多くの島民に重宝されている。
 これは噂であるが角山堂の社長は大のオタク嫌いらしい。というのも全国のどの店舗でも最上階もしくは最下階がオタク向け同人誌のフロアであり、そのフロアに直通のエレベーターはなく、下の階から階段をのぼるしかないという特殊な造りになっているのだ。その不便さはオタクに対する嫌がらせだからということが実しやかに囁かれていた。が、しょせん噂だ。
 神谷は入口すぐの新刊のコーナーを物色したのち、何冊か手に取り、二階へあがった。大事そうに本を抱えている彼は幸せそうである。
 二階の図鑑のコーナーで神谷は本棚とにらめっこでもするかのように真剣な表情をしていた。
 彼は基本的になにか目的のものがあって本屋に訪れるわけではない。さっき手にした新刊だって集めているシリーズものの続きであるとか、好きな作家の新作であるというわけではなく、たまたま目についたものを拾い上げただけだった。(むしろそういう買い方をするのでシリーズものを全巻集める方が稀だ)
 そういうわけだからこの棚にも目的の本があるわけではない。なにか琴線にふれるようなタイトルの本がないだろうか、と棚の節目にそって下から順に眺めているのだった。
 本を引きぬき、中身をパラパラとめくって棚に戻すという作業を何度か繰り返したあと、ぱっと表情を明るくしたのは興味をそそられる一品がそこにあったからだ。
 嬉々として手を伸ばすがそれは棚の最上段にあり届かなかった。本屋の棚とはかくも高いのである。平均身長ほどしかない彼にはその頭頂は雲の上と等しかった。
 たいてい高い棚のある本屋には脚立があるもので、それを知っている彼は脚立を探すのだが見つからない。というよりもはなから探す気がそれほどなく、左右を見やっただけだった。
 ふっと顔をあげると、再び手を伸ばした。それは意味のない行為に思える。あとほんのちょっとという距離ではなかったのだ。背伸びをめいいっぱいすればという。
 ゆうに指先から本まで一五センチはあったのだ。届くはずがない。
 が、それが届く。さきほど伸ばした時の限界点を軽々と越していく。神谷の手は本に届いていた。
 視線を足元まで落とせば、その理由がわかった。彼は脚立に乗っていたのだ。龍虎の模様が彩られた趣味の悪い脚立に「なぜか」乗っていたのだ。しかし、確かに寸前までは脚立の影も形もなかったのに、だ。
 神谷は本を手にとったが、きつく挟まっていたようで、力いっぱい引き抜いた拍子にバランスを崩してしまい脚立から落ちてしまった。
 背中をもろに床にたたきつけはしたものの、本をばら撒くということはしなかった。むしろ、本を守るために背中を打ち付けてしまったというのが正しい。
 彼が床に落下した音を聞きつけて店員が慌てて寄ってくる。
「だいじょうぶですか?」
 神谷は頷きつつ、差し出された腕をつかんで立ち上がった。それと同時に店員はすっとんきょうな声を漏らす。
「あれ? あんな踏み台……あんなのありました?」
「……ええ、お店のものだと思ったから使ったんですが忘れ物ですかね」と、神谷の答えにそれもそうだと店員は納得しつつも首をかしげながらレジのほうへ戻っていった。わざわざ本屋にマイ脚立なんてものを持ってくる奇妙な人間がいるわけがないのだ。

 厚さが一〇センチほどある図鑑を含めて計四冊の本を買い神谷は店からでてきた。でてくるなり茶色の紙袋をあけると、なかから買ったばかりの図鑑を取りだし読み始めた。
 そして、そのまま――本を読んだまま歩き出した神谷の少し後方で悲鳴があがった。女性の悲鳴だった。
 ひったくりだ。二〇歳前後の若い男。深くかぶった帽子から金髪がこぼれている。その男が女性の鞄を奪ったのだ。
 男はちいさなナイフをふりかざし、あたりに怒鳴り散らし威嚇する。すると買い物にきていた人たちはさっと道の中央をあけ、その光景は海をわったモーゼのようだ。
 とうぜん誰も逃げる男を捕まえようとするものなどいなかった。そうすることが当然のように道を彼にゆずるのだった。ただひとり。神谷玄人をのぞいて。
 といっても彼が道をゆずらないのはひったくり犯を捕まえようなんていう勇猛かつ善良な理由じゃあない。
 ほら、いるだろう? 夢中になると周りの声が聞こえなくなってしまうタイプの人間。彼もそうなのだ。本を読み始めると没頭してしまうのだ。ひったくりの怒声も被害者の悲鳴も野次馬共のささやきもいっさいがっさい蚊帳の外に追いやってしまうのだ。
 だから、譲るも譲らないもない。そもそも道を開けろと怒鳴る男の声が聞こえていないのだから。
 ひったくりの男が神谷に迫る。が、その声は彼には届かない。男は苛立たしげに神谷を突き飛ばしていった。
 不意の衝撃。少なくとも神谷にとってはその男の行動は不意であった。本は彼の手をはなれ宙を舞う。神谷は体勢を崩し花屋の前の植木鉢につっこんだ。受身をとることもできず無様に転んだ彼は並んだ鉢をぶちまける。それに遅れて分厚い本が白い顔を開いて、こぼれた土の上に落ちた。
 神谷は身を起こすと急いで本のところまで駆け寄った。それから前方を走る自分を突き飛ばした男を見た。いや、買ったばかりの本を汚しくさった男を睨みつけた。が、それだけ。その瞳は静かに怒りをたたえてはいるが、なにもしない。
本を拾い上げてかぶった土をはらい、倒してしまったプランターを元に戻していく。
 しかし異変は起きる。彼の起こした鉢植えのひとつ。そのひとつの蔦が伸びる。異常に急激に。その蔦はまるで意志があるかのように、蛇のように地面を這い、ひったくりの男のもとへ伸びていった。
 男の足を絡めとる。その瞬間、男はバランスを崩し、顔からタイル張りの地面に落ちた。
 神谷はそれを見て口の端を微かに持ち上げた。それから何事もなかったかのように歩き出した。さきほどと同じように図鑑『つる植物・あし植物』を読みながら。

 もちろん神谷はすっ転んだ犯人を取り押さえるようなことはしなかった。しかし、その犯人はすぐに警察の御用となった。
 それを神谷が知ったのは朝の食卓のことであったが、すでに犯人のことなど忘れていた。
「見てみて! ここ」と、新聞の指ししめされたところを見れば、神谷の通う軽子坂高校の生徒がでていた。
見出しには「高校チャンプ。ひったくりをKO」などと書かれている。
  つい先日、人工島でひったくり事件が起きた。
多くの人が買い物を楽しむショッピングモールで起きたそれは、ほんの一〇分足らずで解決に至った。
女性から鞄を奪い、逃走する犯人が商店街の出口に近づいた所で、勇敢な少年が立ちふさがった。
少年に対し威嚇する犯人。その手にはナイフが。しかし、少年はそれに臆することなく踏み込んだ。ナイフを持つその手をすり抜け、懐に入ると一撃。少年の拳は犯人の腹部をとらえた。
その一撃で犯人は悶絶。駆けつけた警官はうずくまる犯人を取り押さえ一件落着。
大の男を簡単に沈めたこの少年はなんとボクシングの高校チャンピオン、斎藤利樹くんだった――。
 
「知っている人?」
 その問いに神谷は首を横に振った。
「そんなことより早く食べないと。時間」

「すこしいいかい?」
 島の北西に位置する青葉区はいわゆる普通の教育施設が集まっている。公立校ももちろんのこと、公立よりもすこしばかり見てくれがいいだけの私立校が幼等部から高等部までよりどりみどりの中流階級御用達の区画。
 その中でもいっそう平凡で、いっそう非凡な軽子坂高校。神谷の通う高校だ。といっても時は放課後である。
 昇降口から校門まで続くすこし傾斜のついた右曲りの道。その右手には国内ではうまくても海外に行けば通用しない日本人選手のありようを体現するかのような地元では強豪サッカー部員たちが狭いんだか、広いんだがわからない中途半端なグラウンドに汗を染みこませるのに一生懸命になっている。左手には島ができたときにどこかから持ってきた桜の木が等間隔に植わっている。告白の名所にはなっていないが、その木の下に悪魔だか幽霊だかがでると生徒たちの間ではよく話に昇っている。
 そんな校門までの道程で神谷は声をかけられたのだが、声の主を一瞥するとそれが見知った人物ではなかったので無視した。
「ちょっと。キミに言ったんだけどさあ、キミに」
 季節外れのウィンドブレイカーを着た、髪を短く刈り上げた男は無視されたことにめげずにもう一度、神谷に声をかけた。
神谷は足をとめてもう一度、芝生頭を見た。ウィンドブレイカーの襟元からのぞく軽高指定の体育ジャージの色から三年生であることがわかる。格好からもわかるように服の上からでもわかるがっしりとした肉体はスポーツをしているだろうと推測できる。それでも顔は悪くないのでスポーツマンという属性とあいまって女に好かれそうではある。が、顔に張り付いた笑顔が神谷は気に食わなかった。
彼に上級生の知り合いはいなかった。心の中で首をかしげ、一歩後ろに下がった。
「俺のこと知らないかい?」
神谷の警戒を読んでとって、男は風の吹かない笑顔で言う。街角のキャッチセールスのような臭い笑顔でもなく、さんぴん悪役の下卑た笑顔でもなく、メシア様の透き通るような笑顔でも、真悪の誇りある笑顔でもない、中途半端な笑顔だった。
その微妙さが神谷をさらに一歩下がらせた。敵味方の区別が明確であり、自分の内側の存在でないならば異物として処理する。そういう彼の性格がとらせた行動であった。
「有名なんだけどさあ。これでもさ」
 さきほどより柔和な笑みを作って男が言う。
 ちょうどその時、女子生徒の集団が脇を通った。きーきーと甲高い声をだしながら斉藤に手をふっている。彼が手をふりかえすとキーキー声は一段とうるさくなった。
 斉藤は神谷を振りかって「ほらね」としたり顔で言う。
 しかし、有名だからといって警戒しないというのは馬鹿のすることだ。有名人の詐欺話なんてものは腐るほどあるし、それを装った詐欺話はその倍はある。そうだというのに大抵の人間は馬鹿なのだ。
 だからそういう馬鹿を相手取るならば効果のあった言葉であろうが、あいにく神谷はそこまで馬鹿ではなかったし、単純に有名人という存在に疎かった。そういう風評に詳しくない人種だった。誰と誰が付き合っているとか、あの芸能人がどうだとか空っぽの頭に詰め込んでいる人種とは種をことにしていた。
 それでも一応、相手の質問に対して考える素振りをしてみせるのは感情を逆撫でるのはよくないように思えたからだ。
 まあ、それでもとうぜんのことで初めてあった目の前の人間の名前などわかるはずもなく、口をつぐむ意外なかった。
 そういう態度の神谷に少し呆れた顔をしながらも芝生頭こと、
「斉藤俊樹だ」
 は自己紹介した。
 それを聞いて神谷はなにか引っ掛かりを感じる。そう。今朝読んだ新聞に載っていた名前だ。ひったくりを捕まえたお手柄高校生の名前だ。
 しかし、そのひとがなぜ自分に用があるのか、というのは見当のつくことではなかった。
 斉藤が神谷をじっと見ている。その視線に窮屈さを感じて顔をそらした。
「名前は?」
 名乗られたのなら名乗り返すのが常識とは言わなくともふつうのことである。そうだから斉藤は神谷をじっと見ていたのだ。いっこうに名前を言おうとしない彼を。
 しかし、彼には彼なりの名乗らない理由がある。まず第一に相手は知らない人間である。いくら同じ高校に通っていようが、ボクシングのチャンピオンだろうがそれは何の保証にもならない。
 第二に目の前の男は不自然なのだ。急に現れて話しかけてくる。そういう輩に不用意に名前を教えようという気には神谷はなれなかった。
 黙っている神谷に対して斉藤は軽く舌打ちをしてみせた。脅しである。一見すればそういう行動に屈しそうなタイプである神谷だが、それを意にも介さない。
 どころか、それで気分を害したかのように斉藤に背を向けて歩き出した。逃げるための口実にしたのだ。
 斉藤は肩をすくめる。
「まあ、待てよ。神谷玄人くん」
 ぴくりと神谷の歩みがとまる。ゆっくりと。ゆっくりと振り返る。
 名前はいっていない。しかし、知られている。そうならばそこには確実に意思が存在する。歓迎したくない意思が。
「ボクシング部見学していくかい?」
 あいかわらず薄らべったい笑顔で、しかし余裕を交えつつ斉藤は言った。
「……ええ。そうですね。そうしようと思っていたんです」

     

 神谷が連れてこられたのは校舎の裏にある小さなプレハブ小屋だった。割れた窓ガラスはガムテープでとめられているし、屋根には小さな穴があいていて、そこから雨水が漏ってくる。それはとてもチャンピオンの練習している場所とは思えないみすぼらしいものだった。
 その小さなプレハブ小屋はほとんどリングだけでいっぱいになっている。鉄骨製の土台の上に板を並べ、クッションを敷き、キャンバスで覆った四角形のリング。四隅には柱が立てられ、それぞれの柱の間に四本のロープが張られている。ボクシングのリングだ。みすぼらしいプレハブではあるが、練習試合なら問題なさそうな上等なリングだった。
 リングに占領されていない床にはサンドバッグだとか名称のよくわからないトレーニング機器が散らばっており、右側の壁には縄跳びがいくつもかかっている。入口から奥の壁にはいくつもの賞状が飾られ、それと同じくらいの数のトロフィーがガラスケースの中で輝いていた。
 その部室の中から斉藤が手招きしている。すでに逃げるという選択肢はなくなった。進まなければならない。
 神谷は警戒しつつプレハブの中に入った。その様子を見て斉藤は笑う。
「こういうの初めてだろう? まあ、見てってよ。なんならシャドーでも見るかい?」
 斉藤がそう言ったからではないが、神谷はリングのほうに近づいた。青色の柱に触れてみる。思ったより硬いな、それくらいしか感想はでてこなかった。
 シャドーを始めた斉藤をそのまま眺める。斉藤が余裕の振る舞いを見せるのは自分のテリトリーに引き込んだという安心感がそうさせるのだろう。
 さすがにチャンピオンといったところかその拳のスピードは目を凝らして見ていないと見失ってしまうほどだった。
 初めこそ興味深そうに眺めていた神谷であったが、本当に部活の見学にきたわけではないのだ。
「まだやるんですか? そういうこと見せるために呼んだんじゃあないんでしょう」
「ん? せっかちか。それじゃあ女は喜ばないってさあ、教わってないのかい」
 斉藤はあたりに視線を走らせて、壁にかかったグローブを見つけるとそれを神谷に放り投げた。
 斉藤はロープをくぐってリングにあがる。赤コーナーを背もたれにして、ジェスチャーで神谷にもそうするように促した。
 神谷はため息をついてから対になる青コーナーへあがる。
「こいつは重要なことなんだがさあ。キミはここに見学にきたんだよなあ。うん、確かにそういったさ。そうだろう?」
 神谷は黙ったまま答えない。
「だからこれはいわゆる体験入部ってやつで、いじめたいってわけじゃあないんだよ。そこは多分、先生方もわかってくれると思うんだ。うん」
 それは言い訳を確認していた。チャンピオンであるから体裁を気にするのは当然のことなのだろう。さきほどのシャドーもどうやらそのためだったらしい。
 誰が二人を見ているというわけではないが、ただの嘘と真実を混じえた嘘ではパワーが違う。信じさせるパワーだ。
 だから、そのためには滑稽でも言い訳は必要だった。
「つまり気に食わない下級生を理由をつけて殴りたい。そういうことですか?」
 体験入部のスパーリングにかこつけて気に食わない相手を痛めつけたい。そう思っているのだと神谷は判断した。だから、痛いのは嫌だな。とか、謝って済ませてもらえないだろうか、なんてことを考える。が、それらは見当はずれだ。
「そうじゃない。そうじゃないけど普通はさあ。こういう時もっと怯えるものだろう? 殴られるってわかっているのに。痛めつけられるってさあ。どうしてあっけらかんと冷静なわけだ。いや、そこは素晴らしいさ。冷静はボクシングには重要だからさ。ほんと。違う形で出会ってたらね、友達になれたかもね」
 神谷は心のなかで「冗談!」と唾棄して言った。
 ふっと斉藤は顔をあげた。
「でもさ!」
 拳を顔の前で合わせ、背を丸めて突っ込んでくる。それは一瞬の出来事で神谷が対応しようと動き始めた頃には既に斉藤はその懐まで入ってきていた。彼の言葉の意味を考えさせる時間などは与えてくれなかった。
 右のジャブが神谷のがら空きの顔をとらえた。左頬に鋭い痛みを感じたと思ったその瞬間、右方向からの攻撃に頭が揺れる。左のフックだ。さらに斉藤は左右一発ずつ打ち込む。
 神谷がガードをあげる。今度は逆にそのせいでがら空きになった腹へ拳を打ち込む。神谷の体はくの字に曲がり、落ちてきた頭に斉藤は容赦なく左のアッパーをはなった。
「がはっ」
 唾液と胃液の混合物をマットのぶちまけ、神谷の体は後方にのけぞった。マットの上に倒れそうになり、彼は後ろに足を差し出し、よろめきながら二、三歩後退しつつ、どうにか体勢を立て直した。
「汚いなあ、リングにさあ!」
 しかし、そんな彼に休息の間を斉藤は与えちゃくれない。
 斉藤はステップして距離を詰めると、足を軽く前に踏み出し、顎の前で構えた拳を一直線に打ち込む。体のひねりは入れない。ただ出すだけの拳。捻転を入れないので速いだけの威力のない拳なのだが、威力があるだとか、ないだとかの話はお互い鍛え上げた体のボクサーである時であり、ただの高校生の神谷にはそのパンチでも十二分の効果があった。
 さらに斉藤は拳を休めることなく出し続ける。相手がただの素人の神谷でも油断はしない。いや、神谷だから全力で。下に。格が下の人間などとは思わない。
 幹を切り裂く大振りはいらないのだ。安全に確実に外皮を削ぐ一撃を重ねていく。斉藤は決して舐めず、油断せず、慎重に。渾身の一撃が必要なのは削ぎ落した幹が折れる直前だけ。それまでは削ぐだけ。
神谷は視界が狭くなっていく中で、あることに気がついた。
 六発で一回なのだ。繰り出される斉藤の拳は六発打つと一瞬の間ができる。慎重にと思う一方で、早く勝負を決めたい斉藤の攻撃は単調なものになっていたのだ。
 神谷は一、二、と頭の中で殴られた回数を数える。そして六回目の拳が神谷の顔をとらえると同時に、彼は右に大きくスライドした。一瞬の間だが、その間を狙われた斉藤の次の一撃は空を切った。
「避けたあ!?」
声を漏らすと同時に斉藤はステップバックした。動揺から距離をおいたのだ。
 神谷は斉藤をみた。その目には衝撃的なものが飛び込んできた。攻撃が、斉藤の一方的な暴力が始まってから神谷が斉藤の全体像を見るのはこれが最初であった。拳の動き、肩の動き、足の動き、部分的に注視していた分、全体をみることを怠っていた。
神谷は息を呑む。その全身を見て。
 腕が生えている。それは誰でもそうだ。しかし、そうではなく。多いのだ。その数が多いのだ。両肩口から二本ずつ余計に生えている。斉藤の腕は六本あった。
 驚いた表情を作る神谷に気づいた斉藤は言う。
「驚くこたあないだろうさあ! きみだってあんだろうが」
 斉藤には力があった。不思議な力が。人には見えない四本の腕。繊細なボクサーの筋肉をあしらった腕だ。それが斉藤俊樹の能力。
 彼と対戦したものが試合のあとにこう語ったそうだ。「一発殴られたと思ったらもう三発殴られている。おそろしく速いんだ」と。
 そのおそろしく速いパンチの正体がこれ。本物の腕に沿わせてくりだす幻の二本の腕。彼らのような才能のない人間にはこの腕は見えない。だから、異形には気付けない。ただはるかに強いという事実に恐怖するしかなかった。
 そして、その不思議な力は神谷にもあった。
「俺は見たぜ。あの薄汚ねえ愚図をすっ転ばせたところをさあ。見たんだぜ!」
 あの日、ひったくりを捕まえた斉藤は野次馬の中から見ていた。神谷が男を転ばせたところを。神谷が触れた鉢植えから伸びるつたを。神谷の不思議な力を。
 それゆえに斉藤は神谷を侮ることはなかった。自分と同じような力を持っているのだから。たとえ、その見た目がひ弱そうであっても、それは関係の無いことである。
 そして、その神谷の持つ力を警戒しているからこそ早々に決着をつけたいと斉藤は思っていた。
「植物を操る力みたいだけどさあ、ここには草なんかないぜえ、部屋の中だもんな。だからよおさあ、俺の六本の腕に大人しく殴られててくれないか? なあ」
 斉藤は神谷が不思議な力を持っている。ただそれだけの理由で襲ってきたのだ。
斉藤は同じ不思議な力を持つものに異常な敵愾心をもっていた。
 玉座に座ることができるのは常に一人、ただ一人だけである。それも選ばれた力あるものでなければならない。
 一人だから人心は集まるのだ。一人だからひれ伏すのだ。一人だけだからこそ王者でいられるのだ。対等な存在はいらない。いてはならない。
斉藤が玉座に座り、特別な存在であり続けるために、他の能ある者は邪魔なのだ。
 その力でチャンピオンという玉座まで駆け上がった彼にとって、同じ力は彼の目には玉座を奪い取る敵にしか映らないのだ。
たとえ相手にそんな気はさらさらなくとも排除する。それが斉藤のやり方。
「……それならそうだと早く言ってくれればよかったんですよ。そうしたら僕だって覚悟を決められるんだ」
 もう殴られ、削りに削られてぼろぼろだというのに神谷の声には力があった。
「僕はね。僕はあなたなんてどうでもいいんですよ。ボクシングなんて野蛮なスポーツには興味もない。僕はあなたの敵になるつもりなんてないんです。
でもね、あなたが僕の敵になるって言うのなら、それなら結末は最悪までいこうじゃあないか」
 神谷はゆっくりと青ポストによりかかるように腰をおろした。体力が、立っていられるだけの体力がもうなかった。
それだというのに強気なのは自分の中で戦うにたる一本の芯ができたからだ。斉藤が自身に敵対する明確な理由を知ったということは神谷に力をあたえていた。
便利なものだし、必要な時には使うのだが、神谷は自分の力があまり好きではなかった。だから、人には知られたくないし、知られたのなら黙らせる覚悟はあった。
神谷には平穏に生きるための覚悟があった。ただこうしたい、ああしたいと言うだけではなく、こうするため、ああするために自分の力を使える意志を持っている。
「だから忠告しよう。もう。もうやめたほうがいい」
 斉藤は神谷の強い意志に気圧されていた。そして、無意識のうちに一歩。一歩退いていた。その事実に自身が驚愕した。追い詰めているはずの自分が、追い詰められているような気さえした。
 斉藤は頭をふり、疑念を払った。はったりにだまされることはない、と。死ぬから強気。弱いから狂気。
 頭を剃って、眉も剃って、ナリで威嚇する。そういう奴ほど弱い。そういう奴ほど窮地。ただ煙に巻くことしか考えていないのが筒抜け。神谷もそれと同じ類。虫の息だからできる行動。言葉で威嚇して、相手を降ろさせるだけの狂言。斉藤はそう判断を下した。
 そして、数瞬前の自分に怒りがわいた。あんなに安っぽいこけおどしに少しでも怯えてしまった自分に。王者の身で下賤の者の戯言に少しでも耳を傾けてしまったことに。
「俺の世界に! この島に! 俺以外の能力者など不要!」
 斉藤は雄叫びとともに振り下ろす。とどめの一撃を。決着の一撃を。
 拳が神谷の顔面の直前まで迫る。斉藤は確信した。神谷の両腕は力なく垂れたままで、反撃はおろか回避すらしようとしていない。やはりはったり。やはり虚言。と。
斉藤の拳は迫り、そして離れる。当たることなく。拳だけではない。斉藤自体が神谷から離れていく。倒れていく。
拳、めり込み、顎、粉砕。脳、揺れ、意識、とぶ。斉藤、沈む。
 一瞬の出来事だった。腕が、斉藤の神谷にむけて打ちおろした腕と交差するように伸びていった。その拳は完全に無防備だった斉藤の顎を正確にとらえ、意識を奪った。
 その拳の先、出どころは神谷ではなかった。故に斉藤は無防備。斉藤の拳が神谷に届く直前まで、確かに神谷に動きはなかった。両腕はだらしなくたれ、満身創痍。両の眼だけがぎらぎらとしていた。
 斉藤の拳があと五センチ先の神谷をとらえようとした、その刹那。斉藤に衝撃。彼には何が起きたのかわからず、そして何もわからぬまま意識は暗いほうへと落ちていった。
 斉藤を沈めたのは斉藤の拳。その出ところは神谷が寄りかかっていた柱。斉藤が鏡の前でシャドーをしたとき、神谷が触れていた青コーナー。
 神谷はゆらりと立ち上がった。
「……すでに。すでに貼りつけておいた。あなたの『殴る動作』をコピーして」
 神谷の能力。それは斉藤が勘違いしていた植物を操るなんてくだらないものではなかった。
「創造する、あらゆるものを。さっき見た、あんたの拳を創らせてもらった」
  神谷は用心していた、始めから。万が一に備えて、斉藤がシャドーで観せたパンチをコピーして、リングの柱に貼りつけておいた。
 斉藤の直感は正しかった。追い詰められていたのは斉藤の方。最初から、全て、思い通り。手の内。
 神谷はグローブをはずして、放り投げた。リングから降りて、プレハブを出ようとした時に後ろを振り返って言った。
「ああ、そうだ。気を付けたほうがいい。創った『拳』はさっきのひとつじゃあないからな」
 神谷は口の片端だけ持ち上げ、いやらしく笑いながら「まあ、聞こえてないだろうけど」と。
 神谷が去った後の部室に汚い悲鳴が響いていた。

       

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