【Assassin Girl】 Act.1 Encounter of fate
国許真哉は退屈を感じていた。
同じ事を繰り返し繰り返し続ける毎日。
平日は学校で勉強をして、それ以外は本を読むか友人と遊びに行く毎日。
当たり障りの無い在り来たりな毎日は、刺激を求める年頃には余りにも平凡で平和過ぎた。
かといって、犯罪に手を染める程幼稚でも馬鹿でもない。
此の退屈な毎日を如何にかしたいが、如何にも出来ないのが現状だった。
否、真哉だけではない。
恐らく日本という国に住まう人間の殆どが、真哉と同じような退屈を感じているだろう。
法に守られた自由と平等と平和という名の鎖は、日本に居る人間全てを束縛している。
自由があるなら何故義務教育なんて物があり、勉強したくない人間にまで勉学を強いるのか。
平等があるなら何故政治家は色々な事が許され、国民は税に苦しまなければ成らないのか。
平和があるなら何故人々は餓えや病気、殺人や強姦といった犯罪に脅えなければならないのか。
謳われた言葉は全て偽りで、全て虚像である事を、真哉は理解している。
否、皆心の底では同じ事を理解しているのだろうが、其れを言う事が出来ないのだ。
何時の時代も真実は揉み消され、そして真実を訴える者もまた非難されてきた。
力を持たない真実は、力を持った偽りに何時だって虐げられてきたのだから。
それでも真哉は、此の退屈が無くなれば良いと思う。
運命の日が来るまでは。
其の日、名古屋―真哉が住んでいるのは小牧市だが―は真夏日だと、朝のニュースが伝えた。
事実、まだ六月だと言うのに朝から茹だる様な暑さが続いており、真哉は夏服を出す破目になった。
雨の日は偶に肌寒い日がある為、夏服は七月から出したかったのだが止むを得なかった。
兎に角酷く暑く、夏服でも気だるい気持ちになって仕方が無い。
女子は男子に向かって、上着を脱いだり出来るしシャツだから楽だとか涼しそうだと言うが、そうでもない。
素肌にカシャツを着る訳にはいかないから、中に別のシャツを着なければならない。
それに女子はスカートだが、男子は勿論ズボンであるから、余計に暑い。
稀に体操服とハーフパンツという、体育時の格好でいる男子も居るが、真哉は流石に出来なかった。
黒いシャツの上にブレザーのシャツを着て、深緑の地に黒チェックののズボンと白い靴下、運動靴を履く。
茹だる様な太陽の陽の下、真哉は学校が指定した通学路を歩いていく。
家から学校は然程遠くない為普段は自転車を使わないが、今日ばかりは自転車を使うべきだったと後悔する。
漕いだ後暑いが、暑い外に長く居るよりはずっとマシなように思えた。
勿論、どちらにせよ暑いのだから五十歩百歩といった所だろうが。
そんな事を考えながら歩いていると、ふと、背中を強く押される感触がした。
何事かとふと後ろを振り返るとほぼ同時に、車のクラクションの音が辺りに響き渡る。
真哉の身体は車道へと投げ出されており、クラクションは其れによるものだが、最早その時には抗う術は無かった。
こういう時テレビや本ではよく、スローモーションの様に時が鈍く感じるというが、そんな事は無かった。
車が自分に迫っているというよりは、自分が車の前に身を投げ出してしまったと、理解する事は出来ない。
理解するよりも早く、体を何かの力によって強く後方へと引かれた。
其れと同時に、直ぐ目の前に車が走り去っていくのを、身体は感じたが頭で理解出来なかった。
ただただ、真哉は力によって引き戻され、そして呆然と前を見ていた。
数秒後、漸く自分が車に轢かれそうになった事を、頭が理解する。
車は少し離れた所で漸く停まり、運転席からスーツを着た男が出てきては、慌てて駆け寄ってくる。
「大丈夫かい!? 歩行者用のは赤だったのに、急に…いや、本当にすまない。け、怪我は無いかい?」
スーツ姿の男は酷く動揺し、微かに裏返り震えた声で真哉に尋ねる。
其れは当然だ。
危うく自身は人を轢き殺してしまう所だったのだし、轢いてしまうと確信していたからだ。
真哉自身、今にして思えばよく轢かれなかったものだと、自分で自分が生きていると言う事実を不思議がっていた。
そして二人の思惑を良い意味で裏切ったのは、今も地面に腰を抜かしている真哉の腰を抱く一人の少女だった。
毛先が緩やかに内側にカーブした背中の中程まである漆黒の髪に、長い睫に縁取られた漆黒の大きな瞳。
細い眉や小さな鼻、膨らんだ小さな桜色の唇や透き通るような白い肌に、小柄で華奢だが出るべき所は出ている。
見た目には分からない乳房の柔らかさを背中に感じながら、改めて、自身がこの少女によって命拾いした事を理解する。
真哉は未だ腰を抱いて離さない少女の細い腕を見下ろした後、ゆっくりと振り返る。
小柄で華奢な体に相応しい幼い顔立ちだが、同年代の少女には無い神秘的な何かを感じ、顔を戻す。
「…あ、大丈夫です。怪我も有りません。別に通報もしませんから、どうぞ、出勤して下さい。会社遅れますよ」
「え? あ、あぁ…い、いいのかい?」
「結果として実害は無いですから」
気分的には寿命が数年程縮まったような気分だったが、実害とは言えないだろう。
第一この運転手には何の罪も無い事を、真哉は理解していた。
そう、自分は背中を押されたのだ。
其れもからかったり、振り向かせる為の其れではなく、確実な意思を持って強く押されたのだ。
だが今は其れを追及するよりも、まず、運転手の男を気遣う。
一番の犠牲者と言っても良いだろうからだ。
男は暫し困惑していたが、真哉の言葉に押され何度か頭を下げた後、急ぎ足で車へと戻り発進させた。
改めて、真哉は溜息を零す。
「…あの、もう良いんですが」
そして、未だに自分の腰を抱いたまま後ろに座っている少女に、声を掛ける。
助けて貰ったとはいえ、流石に恥ずかしくなってきた。
少女はその言葉に小さく頷くと、腰から腕を離して立ち上がり真哉の前に移動すると、手を差し伸べる。
真哉は其れを取り何とか抜けた腰に無理を言って立ち上がり、深い安堵の溜息を吐いた。
少女はジッと真哉を見上げてから、小さく唇を開く。
「…気を付けて下さい。でも、此れからは大丈夫です」
その声はあまりに小さく、目の前に居た真哉でさえ聞き取るのはやっとの事だった。
少女は其れだけを告げると、両手を体の前に重ね、深くお辞儀をしてから踵を返し歩いていった。
その小さな身体は、深緑のブレザーに、深緑の地に黒チェックのミニのプリーツスカート、そして紺色のハイソックスとローファに包まれており、その制服は自身の通う高校の女子制服の其れだと、今更になって気付く。
去っていく少女の背中と、揺れる黒髪を見詰めていると、次は肩に衝撃を感じた。
と言っても、それは強く押すのではなく、強引に引っ張り振り向かせる力の其れだった。
「ちょっと真哉! アンタ大丈夫なの!? ホントに怪我ない訳!?」
自身の肩を強く掴んで振り向かせたのは、何時の間にか出来ていた野次馬から出てきたらしい一人の少女。
背は真哉と同じくらいで、淡い茶色の腰まで届くポニーテールと、少し日焼けした肌が少女の活発さを物語っている。
少女は真哉の隣に住んでいる所謂隣人であり、そして真哉の同い年の幼馴染の美作祭だった。
祭はオロオロとしながら、まだチラホラと野次馬が残っている状況にも関わらず、真哉の体を撫でて無傷を確認する。
野次馬の中から聞こえる微かな笑い声に、真哉は慌てて祭の手を払う。
「止めろって! 大丈夫だから、怪我して無いから!」
「ホント? ホントに大丈夫なのね!? …良かったぁ」
心の底から安堵したように、体と顔から力が抜けて口元が綻ぶ祭。
そんな祭を見て、真哉は深い溜息を吐く。
そして、ゆっくりと踵を返して、改めて自身も登校を再開する。
そんな真哉の横を、祭が同じ位の歩調で歩いていく。
序に言えば真哉の背は180cmあり、詰まり真哉が小さいのではなく、祭が女子にしては大きいのである。
だがそのスレンダーな身体は、先程真哉を助けた少女とは違った、明るい魅力がある。
其の為に、一緒に歩いていると幼馴染とはいえ、真哉も男子達の嫉妬と恨みに交じった目で見られる。
とは言っても、矢張り幼馴染である為その様な視線には慣れてしまったので、今更気にする事も無いが。
「それにしても、ホント危なかったねぇ…あたし、ビックリしちゃったもん」
「俺だって未だに信じられないっての…」
自分が生きているいう事もそうだが、死にかけた理由が事故ではなく何者かの意思によるものという事がだ。
確かにあの時自分は、誰かに強く背中を押されたのだという確信が、今更になって根強く芽生える。
だからと言って今更犯人を捜す事は出来ないし、何でもない普通の登校風景の中だ。
目撃者が居るとも思えないし、居たとしても恐らく子供で、警察が真面目に付き合ってくれるとも思えなかった。
自分の事ではないのに未だ興奮の収まらない祭を横目に、真哉は唯一人で考えるしかなかった。
だがふと、少女の言った言葉を思い出した。
≪此れからは大丈夫≫…――その言葉が意味する事を、今の真哉は理解できないでいる。
もうこんな事が起きないなら起きないに越した事は無いのだが、何か引っ掛かるのだ。
だがその疑問さえ解消できず、真哉と祭は、高校に無事辿り着いたのである。
Assassin Gir
第一章:始まりと契約
【Assassin Girl】 Act.2 Killed reason
「よぉ真哉! さっき車に轢かれかけたんだって? 災難だったなぁ!!」
玄関から入り下駄箱に手を掛けた瞬間、強く背中を叩かれながら耳元で大声を上げられた。
辺りに響き渡るその豪快な声は、声量に似合わない酷く綺麗なソプラノだった。
声を上げたのは白いシャツに黒いスキニーパンツというラフな格好に、さらに白衣を羽織った女だった。
白衣を着ていても分かる女性らしいボディラインに、短く切った黒い髪、そして凛々しくも美しい顔立ちは男女問わず魅了するが、その性格は先程の一声で大体把握できるであろう。
女性は此の高校の女性保健医で、其れと同時に真哉の古くからの知り合いである。
知り合いといっても親戚などではなく、母親の中学時代からの親友だと言う話を、小さい頃から聞かされている。
事実、真哉の幼少時から家に遊びに来ては、大人しい母親や寡黙な父親を巻き込んで飲み会をしていた。
真哉にとっては唯の厄介なオバサンでしかない其の女性は、名を津軽美里という。
美里は人目も憚らず豪快に笑いながら、真哉の背中を叩いている。
男子と女子の羨望と嫉妬の眼差しが、真哉に注がれる。
「…アンタ、其れが保健医の言う言葉かよ」
「あぁ? なんだぁ、私に説教かい? 何なら此処で、アンタのガキの頃のはずかしー事を、暴露してやっても良いんだよ」
其れこそ、幼馴染の祭でも知らないような恥かしい出来事を言われそうで、真哉は口を閉ざした。
此の人なら本当にやりかねない、と思ったからである。
真哉は自身の肩を持ちニヤニヤと口元に卑しい笑みを浮かべている美里を一度睨んでから、下駄箱から上履きを取り出しそれに履き替えると、直ぐに歩き始める。
美里は腕を離してニヤニヤと笑いながら、勉強頑張れよ、と残し保健室へと去っていく。
其れを聞きながら不満そうな表情で階段を上がろうとする真哉に、今まで黙っていた祭が困ったような笑顔で言う。
「ほら、あの…美里ちゃんも、心配してるんだって」
「…そうだと良いけど」
祭の言葉に冷めた声を返しながら、二人で階段を昇っていく。
真哉や祭達一年生は、校舎の三階にクラス教室が存在している。
三階まで昇り切ると、真哉は左方向へ、祭は右方向へ分かれて行く。
真哉は一年五組で、祭は一年二組である為だ。
祭は教室に向かう前に一度真哉の方へ振り返ると、手を振って笑みを浮かべてみせる。
「じゃぁね、真哉。お昼休みに」
「あぁ…授業中居眠りして教師に怒られるなよ」
「そ、それは真哉でしょ!」
意地悪な笑みを浮かべて意地悪な事を言う真哉に、祭は顔を真っ赤にして否定する。
それから、祭は怒った様子で―本当はそれほど怒ってないのを、真哉は知っているが―教室へ向かった。
祭が教室に行ったのを見届けた後、真哉も踵を返して教室に向かう。
三階廊下一番奥にある教室に着くと、扉を開けて教室に入る。
瞬間、首に腕を回され強引に引き寄せられた挙句、頭を強く何度も小突かれる。
「いででで…!!」
「てめぇー! 今日も俺達のマドンナである祭ちゃんとイチャつきやがってー!!」
そう云いながら絶えず頭を小突いているのは、クラスメイトであり小学生からの付き合いである、親友の山田辰巳だった。
浅黒い肌に短く切った黒い髪は、如何にもスポーツに携わる男といった感じだ。
それなりに整った容姿をしているのだが、如何せん彼は祭にぞっこんで、その上ヘタレなので、彼女いない歴=年齢という非常に不運で悲しい男である。
彼に出来る事は、毎朝一緒に登校している真哉の頭を小突き、真哉の親友という立場から祭と一緒にいる事くらいだ。
「だ、だから…アイツとは別に恋人でもなんでも…」
「恋人じゃないからこそだ!」
そして辰巳いわく、恋人でもないのに一緒に登下校したりお昼を食べたり遊んだり出来るのは、恋人になるより光栄な事らしく、だからこそ真哉は毎朝毎朝欠かさず小突かれる運命にあるのだという。
確かに、唯の幼馴染というだけで、辰巳を含め他の男子とは違う接し方をされるのだ。
辰巳達から見れば、自身はどれ程羨ましい場所に立っているのか、と考えると抵抗出来ない。
辰巳が漸くストレスを発散させ終え小突く事を止めれば、真哉はやっと解放される。
小突かれて痛む頭を撫でながら、真哉は自身の席―窓側一番後ろという特等席だ―に向かい、机に鞄を置いた。
机の中に勉強用具を突っ込んで居ると、辰巳が真哉の前の席の椅子にドカリと反対向きに座る。
言っておくと、彼の席は中央列一番前である為、その席は別の生徒の席である。
だがそんな事を気にしていない辰巳は、背凭れを抱くように腕を組みながら、真哉を見上げる。
「そういえばよ、今日転校生が来るんだってよぉ」
「…へぇ。男? 女?」
「女子だって、男子が騒いで女子がガッカリしてんよ」
そういう辰巳は騒いでもガッカリもしておらず、ただ転校生が来ると言う事実を、楽しみにしている様子だった。
彼は祭一筋らしく、決して他の女子に目移りするような事は無かった。
その点では立派としか言いようが無いだろうが、報われないのもまた事実である。
真哉はといえば、別段気にした様子もなく、空になった鞄を後ろのロッカーに仕舞う。
彼の頭の中では矢張り、絶えず登校時の出来事が廻っており、転校生に構う暇は無かったのだ。
真哉は席に座ると、目の前で考え込んでいる真哉に目を丸めて不思議そうにしている辰巳を見る。
「…なぁ、俺って殺されるほど恨み持たれてんのか?」
その質問はあまりに突飛で、聞かれた辰巳は目を大きく見開いて心底驚いてしまう。
だが決して笑う事は無く、背を真っ直ぐに伸ばして腕組みをし、首を傾げて考え込み始める。
そして、彼の出した結論はこうだ。
「無い…とは言い切れねぇんじゃねぇ?」
その言葉に、真哉は眉を顰める。
だが、辰巳は構わず続ける。
「だってよ、お前祭ちゃんだけじゃなくて、保健医の津軽先生とも親しいじゃん? て事は、敵が多いわけよ」
「…敵?」
「祭ちゃんと津軽先生を慕う奴らだよ。俺だって祭ちゃんが好きだから、お前の事はすっげ羨ましいし」
「…そんな事で殺されるのか?」
真哉の訝しげな瞳と言葉に、辰巳はうーん、と唸り声を上げてまた首を傾げる。
「…確かに、俺だったら殺しはしねぇよ。でもさ、其れは俺がお前の良い所を知っている親友だからなんだよ」
何時に無く考え込んでいる様子で、辰巳は思っている事を声にする。
「でも、敵はいっぱい居るんだぞ。全員がお前の親友や友人って訳じゃねぇ。つまり、お前を知らない人間からしてみればお前は、二人の女を侍らしているナンパで嫌な男って思われてる可能性が高いっつぅ訳」
「…そう、だな。俺を知らない人間なら、そう思っても仕方が無いか…」
辰巳にしては珍しく考えた言葉に、真哉は深く頷く。
客観的に見れば確かに、自分は嫌な人間に見えなくも無い。
其れこそ、二人のどちらかに酷く入れ込んでいる人間なら、尚更だ。
「…でも、誤解で殺されるなんて堪らねぇっつの」
真哉は深い溜息を吐きながら机に突っ伏す。
そんな真哉を見ながら、未だ質問の理由が分からない辰巳は首を傾げる。
それから少し考えた後、ニカッと白い歯を見せて笑い、真哉の髪をワシャワシャと乱すように頭を強く乱暴に撫でる。
「まぁまぁ、んな事で殺されるんだったら今頃芸能人なんていねぇって! 殺されないにしても、虐められそうってんなら俺が庇ってやっから、そう深く気に為さんなよ!!」
一見事情の知らない人間がお気楽に言っているだけの言葉だったが、真哉は酷くそれに救われる気分だった。
辰巳の言葉に嘘偽りが無く、そして自分を慰める為に精一杯な事を、親友だからこそ真哉は分かっている。
だが、頭を撫でられるのはいただけない。
高校生の男同士で頭を撫でたりするのは、いただけない。
「…いてぇ」
小さく呟くと、辰巳は笑いながら謝って手を離した。
そうだ、気にしていたって仕方が無い。
真哉はそう思えば口元に笑みを浮かべて、それから、調子に乗り始めた辰巳の頭を強く殴ったのだった。
やがて校内にチャイムの音がスピーカから鳴り響き、扉からクラス担任の男性教師が入ってくる。
教室はやがて、束の間の静けさに包まれた。
「よぉ真哉! さっき車に轢かれかけたんだって? 災難だったなぁ!!」
玄関から入り下駄箱に手を掛けた瞬間、強く背中を叩かれながら耳元で大声を上げられた。
辺りに響き渡るその豪快な声は、声量に似合わない酷く綺麗なソプラノだった。
声を上げたのは白いシャツに黒いスキニーパンツというラフな格好に、さらに白衣を羽織った女だった。
白衣を着ていても分かる女性らしいボディラインに、短く切った黒い髪、そして凛々しくも美しい顔立ちは男女問わず魅了するが、その性格は先程の一声で大体把握できるであろう。
女性は此の高校の女性保健医で、其れと同時に真哉の古くからの知り合いである。
知り合いといっても親戚などではなく、母親の中学時代からの親友だと言う話を、小さい頃から聞かされている。
事実、真哉の幼少時から家に遊びに来ては、大人しい母親や寡黙な父親を巻き込んで飲み会をしていた。
真哉にとっては唯の厄介なオバサンでしかない其の女性は、名を津軽美里という。
美里は人目も憚らず豪快に笑いながら、真哉の背中を叩いている。
男子と女子の羨望と嫉妬の眼差しが、真哉に注がれる。
「…アンタ、其れが保健医の言う言葉かよ」
「あぁ? なんだぁ、私に説教かい? 何なら此処で、アンタのガキの頃のはずかしー事を、暴露してやっても良いんだよ」
其れこそ、幼馴染の祭でも知らないような恥かしい出来事を言われそうで、真哉は口を閉ざした。
此の人なら本当にやりかねない、と思ったからである。
真哉は自身の肩を持ちニヤニヤと口元に卑しい笑みを浮かべている美里を一度睨んでから、下駄箱から上履きを取り出しそれに履き替えると、直ぐに歩き始める。
美里は腕を離してニヤニヤと笑いながら、勉強頑張れよ、と残し保健室へと去っていく。
其れを聞きながら不満そうな表情で階段を上がろうとする真哉に、今まで黙っていた祭が困ったような笑顔で言う。
「ほら、あの…美里ちゃんも、心配してるんだって」
「…そうだと良いけど」
祭の言葉に冷めた声を返しながら、二人で階段を昇っていく。
真哉や祭達一年生は、校舎の三階にクラス教室が存在している。
三階まで昇り切ると、真哉は左方向へ、祭は右方向へ分かれて行く。
真哉は一年五組で、祭は一年二組である為だ。
祭は教室に向かう前に一度真哉の方へ振り返ると、手を振って笑みを浮かべてみせる。
「じゃぁね、真哉。お昼休みに」
「あぁ…授業中居眠りして教師に怒られるなよ」
「そ、それは真哉でしょ!」
意地悪な笑みを浮かべて意地悪な事を言う真哉に、祭は顔を真っ赤にして否定する。
それから、祭は怒った様子で―本当はそれほど怒ってないのを、真哉は知っているが―教室へ向かった。
祭が教室に行ったのを見届けた後、真哉も踵を返して教室に向かう。
三階廊下一番奥にある教室に着くと、扉を開けて教室に入る。
瞬間、首に腕を回され強引に引き寄せられた挙句、頭を強く何度も小突かれる。
「いででで…!!」
「てめぇー! 今日も俺達のマドンナである祭ちゃんとイチャつきやがってー!!」
そう云いながら絶えず頭を小突いているのは、クラスメイトであり小学生からの付き合いである、親友の山田辰巳だった。
浅黒い肌に短く切った黒い髪は、如何にもスポーツに携わる男といった感じだ。
それなりに整った容姿をしているのだが、如何せん彼は祭にぞっこんで、その上ヘタレなので、彼女いない歴=年齢という非常に不運で悲しい男である。
彼に出来る事は、毎朝一緒に登校している真哉の頭を小突き、真哉の親友という立場から祭と一緒にいる事くらいだ。
「だ、だから…アイツとは別に恋人でもなんでも…」
「恋人じゃないからこそだ!」
そして辰巳いわく、恋人でもないのに一緒に登下校したりお昼を食べたり遊んだり出来るのは、恋人になるより光栄な事らしく、だからこそ真哉は毎朝毎朝欠かさず小突かれる運命にあるのだという。
確かに、唯の幼馴染というだけで、辰巳を含め他の男子とは違う接し方をされるのだ。
辰巳達から見れば、自身はどれ程羨ましい場所に立っているのか、と考えると抵抗出来ない。
辰巳が漸くストレスを発散させ終え小突く事を止めれば、真哉はやっと解放される。
小突かれて痛む頭を撫でながら、真哉は自身の席―窓側一番後ろという特等席だ―に向かい、机に鞄を置いた。
机の中に勉強用具を突っ込んで居ると、辰巳が真哉の前の席の椅子にドカリと反対向きに座る。
言っておくと、彼の席は中央列一番前である為、その席は別の生徒の席である。
だがそんな事を気にしていない辰巳は、背凭れを抱くように腕を組みながら、真哉を見上げる。
「そういえばよ、今日転校生が来るんだってよぉ」
「…へぇ。男? 女?」
「女子だって、男子が騒いで女子がガッカリしてんよ」
そういう辰巳は騒いでもガッカリもしておらず、ただ転校生が来ると言う事実を、楽しみにしている様子だった。
彼は祭一筋らしく、決して他の女子に目移りするような事は無かった。
その点では立派としか言いようが無いだろうが、報われないのもまた事実である。
真哉はといえば、別段気にした様子もなく、空になった鞄を後ろのロッカーに仕舞う。
彼の頭の中では矢張り、絶えず登校時の出来事が廻っており、転校生に構う暇は無かったのだ。
真哉は席に座ると、目の前で考え込んでいる真哉に目を丸めて不思議そうにしている辰巳を見る。
「…なぁ、俺って殺されるほど恨み持たれてんのか?」
その質問はあまりに突飛で、聞かれた辰巳は目を大きく見開いて心底驚いてしまう。
だが決して笑う事は無く、背を真っ直ぐに伸ばして腕組みをし、首を傾げて考え込み始める。
そして、彼の出した結論はこうだ。
「無い…とは言い切れねぇんじゃねぇ?」
その言葉に、真哉は眉を顰める。
だが、辰巳は構わず続ける。
「だってよ、お前祭ちゃんだけじゃなくて、保健医の津軽先生とも親しいじゃん? て事は、敵が多いわけよ」
「…敵?」
「祭ちゃんと津軽先生を慕う奴らだよ。俺だって祭ちゃんが好きだから、お前の事はすっげ羨ましいし」
「…そんな事で殺されるのか?」
真哉の訝しげな瞳と言葉に、辰巳はうーん、と唸り声を上げてまた首を傾げる。
「…確かに、俺だったら殺しはしねぇよ。でもさ、其れは俺がお前の良い所を知っている親友だからなんだよ」
何時に無く考え込んでいる様子で、辰巳は思っている事を声にする。
「でも、敵はいっぱい居るんだぞ。全員がお前の親友や友人って訳じゃねぇ。つまり、お前を知らない人間からしてみればお前は、二人の女を侍らしているナンパで嫌な男って思われてる可能性が高いっつぅ訳」
「…そう、だな。俺を知らない人間なら、そう思っても仕方が無いか…」
辰巳にしては珍しく考えた言葉に、真哉は深く頷く。
客観的に見れば確かに、自分は嫌な人間に見えなくも無い。
其れこそ、二人のどちらかに酷く入れ込んでいる人間なら、尚更だ。
「…でも、誤解で殺されるなんて堪らねぇっつの」
真哉は深い溜息を吐きながら机に突っ伏す。
そんな真哉を見ながら、未だ質問の理由が分からない辰巳は首を傾げる。
それから少し考えた後、ニカッと白い歯を見せて笑い、真哉の髪をワシャワシャと乱すように頭を強く乱暴に撫でる。
「まぁまぁ、んな事で殺されるんだったら今頃芸能人なんていねぇって! 殺されないにしても、虐められそうってんなら俺が庇ってやっから、そう深く気に為さんなよ!!」
一見事情の知らない人間がお気楽に言っているだけの言葉だったが、真哉は酷くそれに救われる気分だった。
辰巳の言葉に嘘偽りが無く、そして自分を慰める為に精一杯な事を、親友だからこそ真哉は分かっている。
だが、頭を撫でられるのはいただけない。
高校生の男同士で頭を撫でたりするのは、いただけない。
「…いてぇ」
小さく呟くと、辰巳は笑いながら謝って手を離した。
そうだ、気にしていたって仕方が無い。
真哉はそう思えば口元に笑みを浮かべて、それから、調子に乗り始めた辰巳の頭を強く殴ったのだった。
やがて校内にチャイムの音がスピーカから鳴り響き、扉からクラス担任の男性教師が入ってくる。
教室はやがて、束の間の静けさに包まれた。