僕とスクール水着の出逢いは、生まれ故郷である兵庫県伊丹市のスイミングスクールに通い始めたときでもなければ、母の実家に引っ越して間もなく、家族で海水浴場に行ったときでもない。
もちろんそのときにスクール水着を着用していた女性がいなかったというわけではなく(そもそもスイミングスクールに通う同年代の女子はみんなスクール水着を着ていた)、僕は「信奉対象としての」スクール水着との出逢いが前述の時期ではないと言っただけである。
とはいえ、僕とスクール水着との出逢いは鮮烈なものではなく、むしろあっさりとしたものであった。しかしその出逢いは、僕の中に変わらず存在し続けていた価値観をものの見事に書き換え、僕の心に静かな感動と興奮をもたらしてくれたことはまず間違いない。
今となっては恥ずべきことのように思うが、僕は長らくスクール水着の魅力に気付いてはいなかった。その奇跡の着衣がいかに尊く愛らしいものであるか、僕は知らぬまま少年時代の大半を過ごしてきてしまった。これはすなわち、輝かしき青春の日々を自ら幾分か色褪せたものにしていたのと同義である。なぜならば、僕がスクール水着に対して何の感情も抱いていなかった時期(そう、崇拝心どころか漠然とした好感すらも)こそが、スクール水着を愛する者にとって最も恵まれた時代だからである。
その時代こそが小学生時代だと言えば、多くの方は同意してくださると思う。
そう、自らがこの国における初等教育の対象となる六年間こそが、スクール水着を何の恥も衒いも躊躇いも、あるいは周囲の反発もなく愛せる時期なのだ。
その理由としては、多くの小学校で体育の時間を使用して実施される水泳の授業が挙げられる。これは中学・高校でも実施されることのある単元ではあるが、その実施率は小学に比べ明らかに低い。そもそも水泳に用いるプール自体が存在しない学校もあるのだ。これは小学校にも言えることではあるものの、それでも小学校のほうがプールの普及率及び水泳授業の実施率が高いのは紛れも無い事実である。
また、水泳の授業に関して言えば、中学・高校においては、多くの生徒が思春期を迎えているという理由によって、男女別の授業となる割合が高いことも無視できない。しかもその場合、女子が水泳を行っている間、男子はグラウンドや体育館で普段通りの体育を行うこととなるが、そこからではスクール水着を身に纏った少女達の姿を鮮明に捉え、そして見続けることは困難である。すぐに教師に注意されるか、それどころか元々プール周辺には茂みや木などの遮蔽物が存在し、我々男子の視界を制限している可能性も高いのだ。これは恐らくは女子が男子の好奇と色欲の眼差しに晒されることを避けようという学校側の配慮によるものだと思われるが、ここにも戦後、日本において急速に進行しつつある女性至上主義とも取れる過剰なフェミニズム、いわゆる『女尊男卑』の精神は露骨に表れている。
そのことに関しては別の機会に詳しく語らせていただくとして、体育の授業中にプールで戯れる女子達の動向を窺う行為(これを僕は『垣間見』と呼んでいる)は前述の理由に加え、女子がプールに入ることによってそもそも首から下はほとんど見えなくなるという制約が生じるため思うような成果が上がらないことが多い。
それに対し小学時代は、異性に対する意識がまだ完全には芽生えていない生徒が多いということもあって水泳の授業も男女混合で行われる場合が多い。ゆえに男子は女子を、より正確に言えばスクール水着を着た女子を、思う存分観察することが可能なのである。そればかりか、同じプールで泳ぐことを義務付けられている以上、その奇跡の布の感触に直に触れることすら場合によっては可能である。これは中学・高校においても男女合同水泳受業制を採用している学校の生徒ならば可能だが、そのようなシチュエーションでその年頃の女性に我々男性陣が迂闊に触れると、一方的に罵倒されセクハラ扱いされ、その後の校内及び地域内における社会的地位すら喪失してしまう危険性も孕んでいる(ただし、男子からは英雄呼ばわりされ持て囃される場合も多い。また、ゲームやアニメの影響を強く受けている二次元至上主義者の中には、プールにおいて男子が女子に触れた場合、最初は抵抗・拒絶されるものの、諦めなければ向こうからこちらを誘惑するに至るという主張をする者もいるが、現実的に考えてそのような展開に発展する可能性は皆無に等しいだろう。そしてもし万一そのような展開に発展したとしても、そんな軽々しく淫らな女性に我々は容易く心を奪われるべきではなく、またそのような女性には神聖なるスクール水着を着用する権利を与えるべきではない)。
なお、『垣間見』で中途半端な成果しか上がらず、そこから生じる焦りと荒立ち、そして妄想から更衣室に監視カメラを設置する、あるいは直接覗き込もうという愚行に走る者もいるが、これもまた失敗に終わる可能性が高い。
独自の調査によると、女子は男子よりは同性に対する異種感・抵抗感は少ないらしいが(ゆえに休み時間、同性愛と見紛うほどにやたらと密着し合う女子達が多く見られるわけである)、それでも大多数の生徒が腰部どころか胸部すらタオルで終始隠し続けたまま着替えを行うのだという。ゆえに高いリスクを払ってまでカメラの設置及び撤去、あるいは直接的に覗きを行った者が得られる利益は、案外乏しいことが多い。それにそれ以前に、僕はそのような愚行に走る男子は真のスクール水着愛好者ではないと思っている。
スクール水着を愛する者はすなわち着衣としてのスクール水着を評価し、スクール水着を身に付けている女性を崇めるわけであり、スクール水着を脱いだ後の一糸纏わぬ丸裸にしか興味を持てない者は、この高度な性的嗜好(あるいは性的志向)を理解するに足らない愚か者ということである。
誤解されないよう言っておくと、僕は女性の全裸を全否定しているわけではない。そこに魅力や価値があるのは事実だし、スクール水着を愛する者も、スクール水着の内側を想像する楽しみというのは常に持っているのである。僕が言っておきたいのは、生身への興味関心がスクール水着そのものへの想いを上回ってしまったとき、その者はスクール水着愛好家として失格の烙印を押されてしまうということである。
だいぶ話が逸れたが、つまり、それらの問題点が生じない小学時代こそが、スクール水着を愛する者にとっての春であるということだ。中学生や高校生では許されなくても、小学生ならば許されることも多い。
だが僕は、その貴重な小学時代にスクール水着への興味を抱いてはいなかった。もちろん、スクール水着の対極に位置付けられるあの芸術性の欠片もない低俗な着衣であるところのビキニ水着になど微塵も興味を抱いてはいなかったが、なぜ僕はあの頃はまだスクール水着の魅力に気付いてはいなかったのかと考えると、今でも当時の自分を責める気持ちが溢れ出してくるのだ。その後結局中学にはプール自体が存在しなかったため同級生のスクール水着姿を拝むことはできず(海水浴場でビキニは見たがそんなものに意味はない)、高校生になった今は、プールこそ存在するものの水泳授業における男女別制度が大きな障害となって立ちはだかり、僕は同級生のスクール水着姿を見るどころか、自分の学校の指定スクール水着のデザインすら知らないままである。これは非常に残念なことだ。
僕がこの『スクール水着の優位性』の執筆を始めたのは、まだスクール水着の素晴らしさに気付いていない人々が後々になってスクール水着に目醒めることで僕と同じ後悔を味わうことのないよう、今のうちにスクール水着が秘めた数々の魅力に気付いてもらうためであり、スクール水着への愛を主張するも受け入れられず、肩身の狭い思いをしている同胞たちにそれでもなお愛を貫く自信と勇気を与えるためである。
第一章『スクール水着の変化の歴史』ではスクール水着の誕生から今日に至るまでの変遷を順を追って説明する。
第二章『ビキニ水着に対するスクール水着の優位性』においてはビキニ水着とスクール水着を比較検証することで、スクール水着がいかに優れているか、またそれに対しビキニ水着がいかに劣っているかを実証する。
第三章『萌えジャンルとしてのスクール水着』では、二次元・三次元問わず「萌え」の対象とされることの多いスクール水着に関して、なぜこれほどまでに愛されるのかを考察する。
第四章『アンチスクール水着という思想に対する考察』においては、スクール水着を快く思わない、あるいは拒否感・嫌悪感を感じるという人々の思考原理を探る。
そして終章『スクール水着の未来』においてスクール水着が今後どうなっていくのかを論じた上で、この一連の論説を締め括ろうと思う。
最後になるが、『スクール水着の優位性』は正直あまり人に薦めないほうがいい。
スクール水着を愛する気持ちを強く確かに持ち、それが原因で人間関係が動揺し瓦解するリスクを負うことを覚悟できる者だけが、勇気を持って布教活動を行ってもらえればそれでいい。