菜瑠は、自分のベッドで泣いていた。
布団で隠されてはいるものの、菜瑠は上半身裸の状態だった。
同時に俺も半裸の状態で菜瑠を見下ろしていた。
「ひどいよ、お兄ちゃん……」
菜瑠はすすり泣きながら呟いた。
ツンと鼻をつく独特の臭いに、辺り一面に撒き散らされた白い液体。
どうみても事後です、本当にありがとうございました。
……と言いたいところだけど、そうでは無い。
説明するためには、少し歴史を遡らなければならない。
時間は2時間ほど前、菜瑠が玄関先で泣き始めたあたりに戻る。
菜瑠が玄関先で静かに泣いているのを、俺はただ見つめるしかできなかった。
ときおり喉がしゃくり上がる音にはっとさせられる以外は、ずっと違うことを考えていた。
今後菜瑠とどういう風に接していけばいいのだろう……。
母も居なくなり父も長期の海外出張に行っている今、菜瑠は俺の唯一の家族なのだ。
接しないと言うわけにはいかないのだ。
気が付くと、菜瑠の目からこぼれる涙と同じように空からしとしと雨が降り始めていた。
俺は慌てて家に上がり洗濯物を救助したが、菜瑠をほったらかしにしていたのを思い出した。
さっきよりも一層慌てて玄関先まで向かったら、妹はすでにシャワーを浴びたみたいになっていた。
菜瑠の白い服が濡れて、水色のブラジャーが透けてみえていた。
俺は図らずも興奮した。
「おい、風邪ひくぞ」
菜瑠は無言だった。
代わりに雨がアスファルトを叩く音だけが返事をしてくれた。
「おい」
俺は仕方なく外へ出て、妹を物理的に動かそうとした。
その瞬間、妹は俺を引きずり倒して上に乗っかった。
マウントポジションという奴である。
「だって」
泣き疲れて掠れた声で叫ぶ。
「だって、お兄ちゃんやめろって言うもん!絶対言うもん!」
雨とは違って暖かい雫がぽたりと俺の頬に落ちる。
「お兄ちゃん、私が死ぬから今やってることやめろって言うもん!」
何だ、そんなことだったのか。
俺は合点がいった。
お母さんが死んだから超個体変異体に近づくのを止めろと言われると、菜瑠は思ってたのだ。
俺が持ってるであろうそんな考えにダダをこねて、外でぐずぐずと泣いていたのだ。
「そんなことねぇよ」
「え」
「お前は」
俺もひっ、と何故か胸をつまらせてしまう。じわっと鼻の奥が熱くなる。
この歳になってもらい泣きかよ。恥ずかしいな。
「お前はお母さんの敵を討ってるんだろう。だから大丈夫、やっちまえ。俺に構わないでさ。ヒーローだったらこれくらいの障害で挫けないよな?」
菜瑠は信じられないといった目つきで俺を見てくる。
「ほんとにいいの?」
「嘘なんかつかねぇよ」
「ごめんね、黙っててごめんね」
んーっと言って、菜瑠は俺に抱きついてくる。罪滅ぼしのつもりだろうか。
と言うか、こいつはころころと表情を変えるな。さっきまで泣いてたくせに。
くっついていると、菜瑠のふわっとした匂いがして、菜瑠もやっぱり女の子なんだなと俺に思い知らせる。
同時に服が雨で濡れていて、身体のフォルムがいつも以上にくっきりと分かってしまう。
と、俺は菜瑠の左腕に切り傷があることに気付く。
「おい、お前これどうしたんだよ」
俺は菜瑠の腕を掴んで、菜瑠自身に見せた。
「別に大した傷じゃないじゃん」
「ばっか、お前女の子が傷なんか作っちゃダメだって」
俺は菜瑠の幸せなマウントから抜け出して、家に引っ張りいれた。
「ちょ、ちょっとやめてよ!」
妹が突然俺から離れようとして、進行方向と逆に引っ張る。
その瞬間、俺は不意な方向から力が加えられ倒れる。
「うぉお……あっ」
「イタっ」
最後のあっというのは不意な事故が自分に発生してることに気が付いたからである。
イタっというのは、菜瑠が俺に怪我している左腕を掴まれたからである。
と言うのは、自分の右手が菜瑠の左手を押さえつけて押し倒している状況になっていたからである。
「……」
一瞬、時が止まった。
俺はすぐに思考回路を回復させ、飛びのくように菜瑠から離れた。
菜瑠は服についたホコリをはたくマネをしながら立ち上がり、
「構わんよ」
とのたまった。
「忍びねえな」
俺は土下座した。
菜瑠は俺の頭に足を乗せた。靴下が濡れていて気持ち悪い。
「下僕よ、お風呂は沸かしてあるのかい?」
「沸かしてございます、お嬢様」
「じゃあ、入ってくるからのぞかないでね」
そう言うと、俺の身体を踏んでいって脱衣所に入っていった。
「もっと踏んでくださいお嬢様ぁ」
「死ね!変態妹にも欲情する魔!」
菜瑠は罵ると、脱衣所のドアを勢い良く閉めた。
俺はしばらくの間土下座の態勢だったが、少しすると脱衣所から衣擦れの音がし始めた。
いたたまれなくなった俺は、自分の部屋に戻った。
電気をつけると部屋の蛍光灯が切れかけていて、時おり独特の点滅をしていた。
俺は薄暗い蛍光灯を眺めながら、ベッドでその手に残った菜瑠の左腕の感覚を思い出していた。
「あんなに細いんだな」
ぽつりと呟いた独り言は、部屋の中で反響した。
あんな細い腕が、小さいからだが日本を守ってるだなんて……。
未だに信じ切れていないところもあった。
菜瑠がカシミアだなんて、冗談だろと思う瞬間もあった。
でもやはり、証拠がたんたんと妹がカシミアなんだと言うことを告げていた。
嘘のような本当の話だった。
「俺は何をしてやれるんだろう」
迷いにゆれた独り言は、部屋の中に反響しなかった。
反響しなかった音の余韻を確かめつつ、俺はまぶたのトバリを下ろしていった……。
とその時、廊下に足音が聞こえたので、俺は飛び起きて部屋の扉を開けた。
菜瑠は、ピンクの寝巻き姿でそこに居た。そして睨んだ。
「何必死に扉開けてるの?」
「必死になんか開けてねーよ!」
思わず突っ込んでしまった。
だけど、菜瑠は風呂に入る前よりは元気そうだ。
この前聞いた話によると、日本人には水に流す精神があるらしい。
お風呂に入って、いらない心は水に流したのだろうか。
そしてふと気付く。
「そういえばお前薬塗った?」
「へ?」
「左腕だよ」
菜瑠は自分の左腕を少し見つめて、さっと背後に隠した。
「……塗った」
「今の沈黙は絶対塗ってないだろ」
「塗ったもん!」
「分かった、分かった。今すぐオロナイン持ってきてやるから」
「~~~っ!!」
菜瑠は悔しそうに廊下で地団駄を踏んだ。
よほど塗られるのがイヤみたいだ。
もしくは自分が信じてもらえないからだろうか。まあどっちでもいい。
リビングから薬箱を探すのは難航したが、何とか軟膏を見つけることができた。
急いで廊下へ戻ったが、菜瑠の姿を確認することはできなかった。
仕方なく俺は、菜瑠の部屋まで軟膏を届けてやることにした。
めんどくさい、と思いつつも菜瑠のために動いてやってる自分がいる。
この気持ちは何だろう。兄妹愛だろうか。
たどり着くと、普段開いている部屋の扉は堅く閉ざされていた。
「なる」と書かれた古びた木の看板が、窓から吹くゆるい風で揺れていた。
俺がドアをノックするとややあって、「いいよ」と中から声があった。
ドアを押し開けると、菜瑠はピンクのシーツがかかったベッドの上に座っていた。
「ほらよ」
俺は薬を投げ渡すと、菜瑠は慌てて手を出したが間に合わず落としてしまった。
「もー、ちゃんと渡してよ」
菜瑠は横着にも、足の指で軟膏を挟んで拾った。
左腕に塗り始めると、しみるらしく顔をしかめた。
「何で見てるの?早く戻れよ」
背中も怪我をしてるらしく、服に手をかけようとする寸前に言われた。
俺はまだ軟膏を投げた位置から動いていなかった。
「いや、背中は見にくいから塗ってあげようかな、って」
「そんな変態親切心いらないから帰れよ」
俺はカチンと来た。ちなみに、人は図星を突かれるとカチンと来るらしい。
「いや、俺は塗るね!間違いなく背中に塗るね!」
俺は手をうねうねさせ(イメージは触手)、菜瑠に近づいていった。
「ちょ、キモっ!やめていらないからうにゃぁあああああ」
俺は菜瑠をベッドに組み伏せて、うつぶせに寝かせる。
あれ、この体勢さっきとデジャヴ……。
俺は服をまくし上げると、軟膏を手に取った。
「塗って塗って、塗り込んでやるぜ!」
俺は傷口に鋭く塗りこみ始めた……!
「ちょ、やめてよお兄ちゃん!この変態!変態!死ね!早速死……ぁぁぁぁあああああ!痛い!しみてるしみてるひぃぃいいい!」
菜瑠は俺の下で断末魔を上げている。
俺は必要以上に軟膏をすり込んでいく。
「どうした!もっといい声で鳴けよ!」
「ああぁぁああああ、痛いですぅぅううう!ひっぐ、えっゆぅううう!背中ちぎれちゃいますぅ!お兄ちゃんので背中ちぎれちゃいますぅううう!」
と、ここまでが今までの回想である。
ノリノリで背中ちぎれちゃいますぅ、とか言ってた割には真剣に痛かったらしく、涙目で布団にくるまってると言うことだ。
「ひどいよ、お兄ちゃん……」
菜瑠はすすり泣きながら呟いた。
ツンと鼻をつく消毒臭に、辺り一面に撒き散らされたオロナインの残骸。
ある意味事後ではある。
「塗り終わったんなら出てってよぅ」
菜瑠はビシッと扉を指すとうぅっと再びすすり泣きはじめた。
まあ、菜瑠が元気になったことだしいいかな。
俺はすごすごと自分の部屋へ退いていった。
次の日、俺は早起きして菜瑠と俺の弁当を作っていた。
食事当番は1週間ごとに行われる家事ジャンケンにより決められる。
今週は食事と掃除が俺、洗濯が菜瑠である。
ちなみにこの中では、ボタンを押して吊るしてたたむだけの洗濯が一番楽だ。
俺は重労働系を2つも抱えているので、早く今週が終わらないかなと思っている。
レンジで温めたから揚げを取り出すと、両方の弁当箱に盛り付けた。
これで弁当作りは終了である。しかし弁当のふたはまだ閉めない。
何故なら、あったかいご飯にすぐふたをすると弁当全体の痛みが早くなってしまうからである。
こんな朝から暑い日はなおさらである。
しかし、菜瑠が未だに起きてくる気配が無い。
俺は気になって、菜瑠の部屋に向かった。
「あ、菜瑠!」
菜瑠は部屋の中央でポ~ッと立っていた。
なんとなく精気が無いような……。
「どうしたんだ?なるー?」
俺は菜瑠の前で手を振ったが反応が無かった。
真剣にこいつやばいんじゃないか、と思ったら次の瞬間力尽きたように床に倒れた。
「おい!大丈夫か!?」
俺は慌てて菜瑠を助け起こし、ようやく菜瑠の身体が火照っていることに気付く。
おでこに手を当てると火傷しそうな位――それは言い過ぎかもしれないが、通常より熱かった。
とにかく、菜瑠をベッドに寝かせ俺は急いで氷枕と体温計を取りに行った。
昨日雨のにずっと打たれてたのが原因なのだろうか?
それとも気を張ってたのが途切れたから?
どちらにせよ、菜瑠が風邪をひくなんて珍しい。俺はそう思った。
部屋に戻ってきた後、俺は菜瑠に失礼して服をはだけさせ、脇に体温計を挟んだ。
最近の温度計は一瞬で計ることができるらしいが、家の温度計は昔懐かし水銀温度計である。
水銀温度計とは、熱で膨張する水銀で温度を測るもので、だいたい測り終わるのに3分ほどかかる。
俺はその間、まだかまだかと焦っていた。病気の人を見ると誰であれ少し心が苦しい。
少し時間が経って温度計を見ると38.5度ぐらいを指していた。
水銀温度計はあんまり正確に測れない点も特徴である。
鼻水やせきは出てないから、風邪では無いのか?
どっちにしろ、結局休ませなければならないと思った俺は、菜瑠の担任と自分の担任にそれぞれ電話をかけることにした。
はっと目を覚ますと、すでに2時半を過ぎていた。
どうやら妹の部屋で寝落ちしてしまったようである。
近くには土鍋に残ったおかゆと、空になった弁当箱がおいてあった。
菜瑠の先ほどの辛そうな表情は消え、まだ熱はあるものの穏やかになりつつあった。
せっかくなので温度計で測ってみると、だいたい37度後半だった。
ほっ、と息をついていると、菜瑠が目覚めた。
「あれ、わたし……」
「お前朝倒れたんだよ。学校は休み取っておいた」
「……行かなきゃ」
菜瑠はふらふらと立ち上がり、クローゼットの引き戸に手をかけた。
「どこにだよ!」
「岩手」
「いわて?」
ちなみに俺にも菜瑠にも、岩手に所縁(ゆかり)は無い。
「何で岩手なんだよ」
「超個体変異体が出てるから」
菜瑠はクローゼットを押し開けて、中からカシミアの衣装を取り出した。
嘘だろ、と思いつつ携帯の超個体変異体出没情報のページを開いた。
やはり超個体変異体は岩手で出てきたようだ。
つまり、岩手まで超個体変異体を倒しに行かなきゃの「行かなきゃ」だったのだ。
「行ってくる」
菜瑠は俺の気がつかない間に普通の服からカシミアの服へ着替え終わっていた。
そして、クラウ・ソラスを胸の中央に押し当て、何やら唱え始めた。
俺は止めようとした。が、できなかった。
俺や菜瑠のエゴよりももっと大事なものがあるからだ。
それは皆の命や財産だ。
菜瑠はヒーローだ、魔法少女だと持てはやされている。けど違う。
結局菜瑠は人の為に、自分の病んだ身体をひっぱ叩いて戦ってる奴隷なのだ。
休みの許されないコンビニ店員なのだ。
こんな菜瑠を、誰が今まで菜瑠として褒めてやった?
誰が今までカシミアの中身を褒めてやった?
結局人が見ているのはきぐるみで、中で働いている人を見ていない。
けど俺は菜瑠を知っている。だから。
「菜瑠」
呼びかけに、菜瑠は目線だけで応じる。
「頑張れよ」
俺はただこんなことしかできない。
だけど、菜瑠はいつも以上に元気いっぱいうなずいて、にっと笑った。
俺は急に目眩を感じ、治った頃にはもう菜瑠の姿を確認することができなかった。
「行ったか」
俺はドラえもんが未来に帰った時ののび太並みのむなしさでそう語り、土鍋をかたしにリビングに戻った。
最近のドアチャイムは「ピンポーン」などマヌケな音を出さない。うちのインターホンもそうだ。
テンテンティー、テンテンティーと奇妙な電子音で、俺は菜瑠のベッドで目を覚ました。
そして、何故俺は菜瑠のベッドで寝てたのか甚だ疑問に感じたが、思い出せない。
ただベッドの周辺にうち捨てられたブラジャー(Bカップ)達と、くすっと丸まったティッシュが全てを物語ってる気がしないでもない。
とにかく俺はパンツとズボンを穿いて、急いで玄関に向かった。
覗き窓から外を見てみると、長髪のイケメンが心配そうにうろうろしていた。
俺は安心して、ドアを開けた。
「おう、広信。お前元気そうやんけ」
イケメン、いや智之はネイチャーな関西弁で話しかけてくる。
俺はこいつとよくつるんでいて、イケメンなのに女みたいに心配性でビビりなのが特徴だ。
あと、久々に名前で呼ばれた気がする……。
「いや、菜瑠の看病をしててな」
「菜瑠って妹のことか。お前が看病せなあかんほど、重病やったんかいな」
俺は確かに、とかぶりを振る。
「でも菜瑠が無理しようとしてたからな」
「そんなんほっとけよ。お前はシスコンか」
それは否定できない。
なぜなら、俺は菜瑠のことが好きだからだ。
ただし、恋愛的な意味ではなく、家族的な意味で、だ。
「否定できないな、いろいろ」
「軽くひくわ。あ、これ今日のプリント」
智之は教科別にきちんと分類されているファイルから、ふせんの貼ってあるプリントを取り出した。
ふせんはおそらく俺に渡すように貼っておいたのだろう。
どこまで几帳面なんだ、俺のほうが軽くひいた。
「ありがとうな」
「気にすんなよ、じゃあの」
智之は立ててあったマウンテンバイクにさっと乗って、手を俺に振りながら行ってしまった。
かなり早い帰宅だ、何かあったんだろうか。
俺は自分の部屋に戻り、プリントを机に置くと、再び眠たくなってきた。
「ふぁ~っ。寝るか」
俺は誰にともなく寝る宣言をし、そのままベッドに寝転がった。
今頃菜瑠はどうしてるんだろう。そろそろ帰ってくるのかな。
菜瑠が帰ってきたら、今日は豪勢な食事にしようか。
その後菜瑠とお風呂とか入ったりして、いや無いな。
菜瑠も嫌がるし、俺も地味にいやだからな。
だけど、菜瑠のブラジャー姿が見れるのはいいかもしれないな。
お風呂入って。
裸よりも。
ブラジャー。
「ああっ!」
寝かけてた俺は、菜瑠の部屋にブラジャーが散乱していたことをすごい勢いで思い出す。
慌てて部屋に向かうが、すでに遅かった。
菜瑠は今日の朝と同じように部屋の中心で突っ立っていた。
しかし、今回は違う。とてつもないオーラが、波動が彼女の背後でゆらめいている……!
「おい、歯ぁ食い縛れやぁぁああああ!!」
菜瑠は俺の懐に最速で飛び込んできて、強烈な一撃を。
-Continued on "Justice"-