Neetel Inside 文芸新都
表紙

泥辺五郎短編集
「殺されたヒョウのいる檻の中で」(珠玉のショートショート企画参加作品)

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 静か過ぎるヒョウ舎に入ると血溜まりの中でリルが倒れていた。動かないリルだが、近づけば飛び上がって僕の首筋に噛みついてきそうな気がして、足を踏み出せなくなった。餌の生肉を放り投げると血が跳ねた。リルは鼻をひくつかせもせず、足も動かさず、興奮する様子もない。死んでいるのだ、死んでしまったのだ。これまでにも数多くの動物の死に触れてきたが、ここまで盛大に血を吐いて死んだ個体はいなかった。病気の兆候もなかったのに、突然大量に吐血する理由もわからなかった。恐る恐るリルに近づき、手袋を嵌めた手で血の出所を探ると、喉に鋭利な刃物で切り裂かれたような傷口があった。病死ではなく、殺されたのだ。
 仲間には皆先立たれ、自身老い先短い身であったリルがどうして殺されなければならなかったのか。血はまだあたたかかった。リルの瞼は閉じられていた。本来のヒョウ舎担当である倉浜さんに電話をかけると、
「俺が殺したよ」とこちらから聞く前に白状された。
「倉浜さん、リルが殺されてます!」
 犯人が分かってしまった後だが、叫びたかった僕は聞こえなかった振りをした。
「俺が、殺したんだ、リルを、今朝、さっき、お前が来る前に、ナイフで、甘えてくるリルの喉を掻ききって。血を流して苦しがるリルを抱きしめて、だけど牙を剥いて一瞬凶暴な目つきになったリルからは、飛び退いて。動かなくなった、リルの、瞼を閉じて、出ていったんだ」
 一語一語はっきりと、噛んで含めるように言う倉浜さんの野太い声からは、嘘は言っていないことが伝わってきた。そもそもリルを直接刃物で殺せるくらいに近寄れるのは、倉浜さん以外にはいないのだ。仮に部外者がリルを殺す目的を持って檻に侵入したとしても、殺されるのは侵入者の方だろう。長年かけて築き上げてきた信頼関係と愛情がなければ、いくら年老いた相手とはいえ、銃なしで猛獣を屠ることなんて出来るものではない。
 いくら親しんでいようと、どんな理由があろうと、ライオンやトラでないからといっても、直接猛獣と対峙してはいけない。これは動物園の鉄の掟だ。守れない者には注意や解雇といった処分より先に、命を奪う牙が、爪が、襲いかかる。それでも、僕が動物園で働き出した頃には既に倉浜さんはリルを犬猫のように扱い、リルも倉浜さんを襲うようなことはなかった。お互い種を超えて慈しみ合う夫婦のようでもあった。
「なんで殺したんですか」
 血を指で掬い取って舐めてみる。血の味は人もヒョウもあまり変わらない。ヒョウの皮を被って倉浜さんが隠れているんじゃないかと、リルの腹を探る。生あたたかい身体に触れていると、再び、襲われるのじゃないかという恐怖が蘇ってきた。倉浜さんの声は受話器越しに聞こえている。リルの中には死んだリルしか入っていない。
「昔、女を、殺したんだ」
 痩せたリルのアバラを撫でる。尾を手で持って振る。生きていた頃のリルには近付けなかったのに、死んでしまうと弄んでしまう自分を発見する。
「美人じゃなかったが、どうしようもなく好きだった。初めて付き合った女だった。身寄りのない女で、俺なんかを頼りにしてくれた、人に頼られることなんて初めてだったし、嬉しかったし、愛していた」
 牙の先端に軽く触れるくらいでは血は流れない。強く押してみる。指先の皮膚が少し裂け、血が滲み出してくる。リルの血を混ぜれば僕も速く走れるだろうか。
「だけどその頃の俺はまだ若かったから、いつまでも父親兼兄貴兼保護者面をしていられるわけじゃなかった。俺なんかよりもずっとその女に優しくする奴が現われて、女は俺の元から去っていこうとした」
「それで、リルみたいに殺したんですか」
「殺して、埋めた。山奥に運んで穴を掘って放り込んだ。だけど悲しい女で、いなくなっても、誰にも探されなかった。新しく出来た男も、寂しがり屋の彼女を少しからかっただけだったんだ。俺以外に彼女を必要としている人間なんていなかった。きっといまだに発見されていない。行方不明になったことすら俺以外の奴の記憶に残っていないんだろうな」
「それとリルを殺したことと何の関係があるんですか」
「仲間のいなくなったリルを親身に世話する振りをしながら、俺は殺されたかったんだ。でもリルは予想以上に俺に懐いてくれて、俺を愛してくれて、俺を頼ってくれた。俺が殺した女みたいに」
 リルの身体の下にランボーナイフを見つける。血を拭うと、まだまだ何十体もの獣を屠れそうな気味悪い輝きが現われた。
「倉浜さんがその女の人を殺したのって何年前ですか」
「ちょうど今のお前くらいの年齢だよ」
「とっくに時効じゃないですか。そんなことを今に持ち込まないでください。動物にあたらないでください」
 ははっ、と倉浜さんは、人やリルを殺したことなど忘れたように愉快そうに笑う。
「今俺がそっちに行って騒いだらさ、リル殺しをおまえのせいに出来ないかな」
「リルに殺せるほど近付けるのは倉浜さんぐらいだって、みんな知ってますよ」
「俺さあ、やっぱりクビかな」
「園長に事情を説明すればどうですか。このまま後は死ぬだけのリルを見ているのが忍びなかったとか嘘ついて」
「そっちにナイフ忘れたみたいだけど、ある?」
「あります」
「それ結構高かったから、取りに行っていい?」
「倉浜さん、俺のこと好きですか?」
「嫌いだよ、生意気だし、言うこと聞かないし、今だって説教するし」
「とにかく自首してくださいね。昔のことはどうでもいいですから、リルのことを」
 電話が切れた。冷たくなってきたリルから離れ、ナイフを構えて、突いたり振り下ろしたりしながら、倉浜さんを待つ。
 俺は倉浜さんのこと、結構好きなんだよな。まずいなあ。
 わざとらしいくらい派手な足音が響いてくる。檻までの扉を二つ開ける音がする。ヒョウ舎の檻に入ってきた倉浜さんは、首を異様に後ろに反らし、さあここだと言わんばかりに首筋を僕に向けて、
「ようようようようようようよう」
と言いながら早足で近づいてきた。

(了)

       

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