Neetel Inside ニートノベル
表紙

愛しの彼女は大魔王!?
愛しの彼女はお嬢様!?

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 一.愛しの彼女はお嬢様!?

「僕と、付き合って下さい!」
 その声は、夕暮れのオレンジが照らす図書室に、盛大に響き渡った。
 声の主は柚代(ゆずしろ)橙也(とうや)、高校一年生。
 生まれて初めての愛の告白に、今、彼の心臓はばっくばっく、と音を立てて暴れまわっていた。
 その告白を聞いているのは、今この場には一人しかいない。
 彼女は読みかけの本を机の上に広げたまま、無表情に隣に立つ彼を見上げた。
 オレンジの光が彼女の顔を、長い黒髪を染めあげる。
 目があったまま、数秒間の沈黙。彼女との間の沈黙には慣れているはずだが、さすがに状況が状況である。
 YES? or NO?
 その答えが彼女の口から出るまでは、橙也のこの胸の鼓動は収まりそうにはなかった。
 じっと見つめ合ったまま、さらに何秒経っただろうか。背中側、図書室の入口のドアが開く音がして、橙也は飛び上らんばかりに驚いた。慌てて彼女の対面、さっきまで自分が座っていた椅子に腰を下ろすと、視線は机の上の開いたままにしていた本に。いかにも読んでいます!という様子で、首を左右に動かした。
 実際のところ不自然きわまりないのだが、入ってきた男子生徒はそんな橙也になど目もくれず、離れた席に腰を下ろして、予習を始めたようである。
 かた、と近くで音がして、橙也はそちらに視線を向けた。
 対面に座った彼女が立ち上がるところだった。
 目の前で広げていた本を手に取り、カウンターへと向かう。
 橙也はその後ろ姿を視線で追った。
 当然、まだ彼の心臓は絶賛暴れまわり中である。いつもの彼女の、そのゆったりとした動きが、今の橙也にとっては通常の一〇倍ほどの長さにも感じられるのだった。
 バーコードを読み取るぴぴっ、という電子音。貸出しの手続きを済ませてようやく戻ってきた彼女の顔を見上げると、彼女はそのまま机の上に置いていたバッグを手に取り、自分が座っていた椅子を机に戻した。
「あ、あの…」
 極めて小さな声で彼女に問いかける。
「行こう」
 呟くような声。いつもとなんら変わらぬ調子でそう言うと、彼女はくるり、と方向を変えて、出口に向かう。
 腰まで届くほど長く伸びた髪が、彼女の体の動きに追従するようにふわ、と躍った。オレンジの光を受けた髪の毛の一本一本が、まるでそれ自体が光を放っているかのように美しく輝く。
「は、はい…!」
 元あった場所に読んでいた本を戻し、橙也はすでに出口近くまで歩を進めていた彼女の背中を追いかけた。
 ひと気のなくなった廊下を無言で歩く。ときおり金属バットの硬質な音が響くのが、今の橙也にとっては大きな救いであった。
 依然爆音イベント継続開催中の心臓を押さえつけながら、昇降口を出る。
「あ、あの、大善寺(だいぜんじ)さん…」
 いい加減辛抱たまらずかけた声も、スルー。
 彼女の後ろを、彼女のペースに合わせてゆっくりと歩く。
 結局、校門の前まで、彼女は口を開くことは無かった。
 いつもならば、ここで別れるところである。しかし、今日は違った。
 校門を出るなりくるり、と振り返ると、彼女―大善寺(だいぜんじ)まお―は六分二五秒ぶりに口を開いた。
「来て」
「…へ?」
 橙也を見上げて、注意していなければ聞き取れないくらいの声量でそう一言だけ言うと、三秒ほど彼に真っ直ぐな視線を向けてから、まおは歩きだした。
「あ、あの…」
 橙也のこれに対する返答はない。背中を向け、すたすた、と歩いていく。
 このままでは距離が開く一方なので、ひとまず橙也は彼女を追いかけることにした。なにしろ、まださっきの返事を聞いていないのである。どのみちこのまま帰るつもりはなかった。
 帰り道とは逆方向に歩を進めて、まおの隣に追いつくと、そこからは彼女のスピードに合わせて歩き出した。
 隣を歩くまおを、ゆっくりと視線だけで見下ろす。身長差と顔にかかった前髪のせいで、横顔ははっきりとは見えない。ただ、普段通りの無表情であることは間違いないようだった。

 大善寺まおは二年生。橙也から見れば一年先輩にあたる。
 彼女の存在に気がついたのは、入学してまだ間もない頃である。
 放課後の図書室で、一人静かに本を読む彼女を見つけたのがきっかけだった。
 初めは、ただなんとなくだったように思う。橙也の周囲にはいない、彼女のまとうどこか独特な雰囲気が気になって、彼女の顔が見える少し離れた位置に座って、彼女を眺めた。
 次の日も、その次の日も、彼女は同じ場所で本を読んでいた。
 二週間ほど経ってからだろうか、その日彼女が手にした本の表紙に見覚えがあって、橙也は思い切って彼女に話しかけてみることにした。
「それ、面白いですよね」
 ゆっくりと本から視線を上げて、まおは斜め前に腰を下ろした橙也に視線を向けた。
「まだ分からない」
「え、あ、すみません…」
 それだけ告げてまた本に視線を戻したまおだったが、ページをめくり、もう一度、彼女は口を開いた。
「全部読んでみないと」
「は、はい!絶対面白いと思います。」
 やや興奮気味に叫んだことに気づき、慌てて口をつぐんだ。
 ぱたん、と本を閉じる音が聞こえて、橙也は視線を上げた。壁の時計が示すのは六時。一時間ほど経っていることになる。
「面白くなってきた」
「あ、良かったです!」
 バッグに本を閉まって立ち上がろうとするまおに、なにかもう一言話しかけようと、頭をフル回転させて、橙也は尋ねた。
「あの、毎日来てますけど、本、お好きなんですか?」
 無表情に見下ろされて、自分の口からでた言葉が、あまりにも当たり前すぎることに気がつき、橙也は顔から火が出そうになった。
「あなただって」
「え…」
「毎日いる」
 けれど、数秒挟んで彼女が口にした言葉の予想外さに、そんなことはどうでもよくなってしまっていた。
 気づいてくれていた。
 それが無性にうれしくて、知らず、橙也は立ちあがっていた。
「あの、明日もここにいますか?」
 数秒橙也の目を眺めてから、小さくこくん、と頷いた彼女の背中を見送って、橙也は心の中で思いっきりガッツポーズをしたのだった。
 以来、少しずつではあるが、放課後の図書室で橙也はまおと話をするようになった。
 相変わらず彼女は無口で無表情だったが、それは彼女の性格であるようだった。橙也は特に気にしなかったし、それ以上に、彼女と話す時間を楽しみにしていた。
 彼女に抱く感情が恋心に変わるのに、それほど時間はかからなかったわけである。

「あのう、大善寺さん、そろそろその、なんていうかですね…」
 さらに一〇分ほど、無言の時間が過ぎた。さすがに心臓の方は幾分か落ち着いてはきたものの、それでもこの状況は精神衛生上非常によろしくない。
 機械のようなペースで隣を歩くまおを見下ろして声をかけるが、その動作はわずかもぶれることがない。
 橙也はまおに聞こえないように、一度小さくため息をついた。
(そうだよなぁ、僕なんて別に、大して顔がいいわけでもないし、大善寺さんとつり合うわけないよなぁ…)
 時間が空くにつれて、すっかり意気消沈してしまった様子の橙也である。
 客観的に見れば、確かに橙也はずば抜けて顔がいいわけでもなければ、身長も男子の中で見れば中くらいである。あたりさわりの無い表現を探すとするならば、並よりは上、特徴が無いのが特徴、といったところか。
 一方、まおはと言えば、ぱっちりと開いた目が特徴的な美人である。やや顔立ちに幼さは残るものの、どこか憂いを帯びたような表情や、長く伸ばした髪がそれを補い、彼女を大人びて見せていた。
 月とスッポン、とまでは言わないが、まあ、エベレストとその辺の山、と言ったところか。
 つり合いがとれているとは、確かに言い難い。
 次第に頭が下がり、負のオーラが彼の周りを取り巻き始めた、そのときだった。
「柚代(ゆずしろ)くん」
 呼び止められて、橙也は振り返った。
 いつの間にか、まおが後ろに立ち止まっていた。
「は、はい!」
「ここ」
「へ…?」
 見れば、まおが立ち止まったのは、何やら大きな門の前だった。
 橙也はまおの隣まで戻ると、その門を見上げた。三メートルほどはあるだろうか。花が絡み合う形に細工の彫られた黒い金属の門。
「あの、ここは…?」
それには応えず、まおは門の左下にあるボタンを押した。ほどなくして、それに付いているらしいスピーカーから声が漏れる。
『お帰りなさいませ』
 どうやらインターフォンだったようだ。女性の声が流れると、門の一端、人が通れる程度の大きさになった部分が、勝手に奥に向かって開いていく。
通用門らしい、と橙也は理解した。
「友人を連れて来ています。お茶の準備をお願いします」
『かしこまりました』
 それで、やりとりは終わったようである。
 まおはもう一度橙也に視線を向けると、
「来て」
 それだけ言って、通用門をくぐり、中へ入って行った。
「だ、大善寺さん」
 まおを追って門をくぐった橙也は、目の前に現れた光景に息を飲んだ。
 右も左も、広い芝生が広がっていた。
 夕陽に染められた芝生が風に揺れている。左右それぞれに一〇〇メートルほどは奥行きがあるのではないだろうか。その先にも、それぞれ大きな建物が見える。
 何よりも驚いたのは、正面、まおが向かっていく先にある豪邸である。
 そう、豪邸というのはこの家のためにある表現なんじゃないかと、橙也は思った。
 左右対称のその姿は、歴史の教科書で見た宮殿を彷彿とさせた。
 その真っ白な壁といい、尖塔がところどころについた薄緑の屋根といい、遠くから見ても分かる、柱の一本一本に施された緻密な細工といい、およそここが日本であることを忘れさせるだけの姿を、目の前の豪邸はしていたのだ。
 後ろから小さくきい、という音がして、橙也は我に返った。
 振り返ると、通用門がさっき勝手に開いたときと同様に、閉まっていくところであった。
 改めて正面に目をやると、すでにまおは二〇メートルも先を歩いていた。慌てて駆け出し、彼女に追いつく。しかし、今度は隣に並ぶことはせず、彼女のやや右後ろについて、橙也は恐る恐る尋ねた。
「あの、ここってひょっとして、大善寺さんのお家なんですか…?」
 その質問に、まおは足を止めた。橙也もそれに合わせて立ち止まる。
 いつもよりもわずかに早いと橙也には感じられる速度で、まおは彼を見上げた。心なしか、その目は普段の彼女のそれよりも若干大きめに開かれているように、橙也には見えた。
 けれど、まおはやはり無言のまま、数秒橙也の顔を眺めてからこくん、と頷くと、再び豪邸に向けて歩き出した。
 つかず離れずのスピードで追う橙也の胸は、再び鼓動を早くしていた。
(い、いきなりお呼ばれ、ってこと…?にしたってこんな豪邸だなんて、聞いてないよ…)
 家に呼ばれたくらいであるから、当然悪い返事ではないのだろうということは分かる。けれど、この巨大な建物が彼女の家だなんて…。
 立派な髭をたくわえ、バスローブに身を包んだ厳格そうな父親と、三角形のメガネをかけたやけにつり目の母親が現れる様を想像して、橙也は身を震わせた。
 しかし発想がなんとも陳腐である。
 さっきからずっと目の前にあるように錯覚していた大善寺家であったが、門を入ってから二分ほど歩いて、ようやく文字通り、橙也はその目の前にたどり着いていた。
 見上げると、首が痛い。高さで言えば、三階建ての学校よりもあるのではないだろうか。
 その巨大さとは裏腹に、小さな―それでも一般家庭のものよりは当然大きい―木の扉に、まおが手をかけた。両開きのその扉がゆっくりと手前に向かって開いていく。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
 よく通る低い声が扉の奥から聞こえてきた。
 無意識に頭を低くしながらまおに続いて扉をくぐると、すぐ脇に立っていた、黒いスーツの初老の男性が、橙也に向って丁寧に頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
「お、お邪魔します…」
 反射的に、彼に向って頭を下げる。
「柳(やなぎ)、お茶の準備は?」
「はい、整っているようでございます」
 いつも通りの低い、小さな声ではあるが、こういったやり取りが染みついているということを感じさせる凛とした響きがあった。
「ご案内いたします」
「いえ、結構です。代わりに、わたしの部屋へ運んでいただくように伝えてください」
「かしこまりました」
「それから、あれ(・・)を」
 言いながらまおが靴を脱ぎ、段差を上がる。これには一拍置いてから、柳と呼ばれた男はもう一度、「かしこまりました」と頭を下げた。
 橙也もそれに続いて、用意されていたスリッパに履き替えると、彼女のあとに続いた。後ろを見ると、柳が頭を下げているところだった。
 立派な絨毯が敷かれた幅二メートルほどの廊下を歩く。部屋と部屋の間に一つづつ設置されたライトに目をやり、この黄色の輝きは、まさか金じゃあるまいな、なんてことを考えていたところで、前を歩いていたまおが立ち止まったので、橙也もそれにならった。
「あのぅ…」
 進行方向左側の扉を開けて、部屋に入っていくまおに、橙也も続く。
 部屋にはすでに照明がついており、中は相当の広さのある洋間だった。天井も高く、かなりの開放感がある。
 物はほとんどない。正面に両開きの大きな窓が二つ。さらにその間には、ベランダに出るためのものだろう、同じく両開きの、高さ二メートルほどのガラス張りのドアが一つ。その前に、部屋の大きさを考えると控えめすぎるほどの大きさの丸いテーブルと、椅子が二脚置かれていた。それからグランドピアノが一台。
以上がこの部屋に置かれたものの全てである。
 後ろ手に入ってきた扉を閉めながら部屋を見渡していると、まおは入って右側の方に向かって歩いていく。その先には、木製のドアがあった。
 そのドアの柄に手を掛けて、まおは振り返った。
「座っていて」
 それだけ言うと、部屋の中に消えた。
 ただ突っ立っていてもしょうがないので、橙也は言われた通り、二つしかない椅子の内の一方に座ることにする。
 椅子を引いてから、床に座ってろという意味かも…。なんてことを一瞬想像して、首を振った。
(いくらなんでも、それはないよね…)
 とりあえず腰を下ろすも、落ち着かない。背筋はぴん、と伸び、足はしっかりと閉じられ、手は膝の上である。
 それほど熱くはないはずなのに、掌はじっとりと汗で湿っていた。せめて上着を脱ごうかとも考えたものの、ハンガーは見当たらない。かといって、背もたれにかけるのもはばかられた。
 仕方がないので上着を脱ぐのは諦めて、気を紛らわすために首だけを動かして外を眺めた。
 もう七時近いとはいえ、外にはまだわずかに明るい。
 橙也はこんな時間に女性の家にお呼ばれしていることの意味を考えた。
(やっぱりオッケーってことなんだろうか…。そういえばさっき、わたしの部屋にお茶を運んで欲しいとか言っていたような…)
 まおの部屋、という部分が強調され、急にまた鼓動が高まり始める。
 けれど同時に、さっき自分が想像した厳格そうな両親が現れることを考えると、違った意味で心臓が暴れ出すのであった。
 ひとまず、橙也は窓ガラスに映った自分の顔を見ながら、ぺたん、となった頭を幾分見栄えがするように手ぐしで整えた。
 二分ほど経って、かちゃ、という音が聞こえ、橙也は反射的に思いっきり背筋を伸ばした。
 けれど、それはさっき自分がくぐった扉ではなく、まおが入って行った奥の扉が開く音だった。
 一度はわずかに体の緊張を解いたものの、そこから出てきたまおを見て、橙也は目を丸くした。
 彼女の服装は、さっきまでの黒のブレザーではなく、白のワンピースだったのである。
 細く、白い腕が、ノースリーブの肩口から真っ直ぐに伸びる。裾は膝よりもやや上、制服のスカートよりは長いものの、それでもそこから伸びる足は、服の色と相まって、普段見る彼女のそれよりも余計に艶めかしく映った。
 何よりも目についたのが、その存在を主張する胸である。
 いつものブラウスとブレザーが、薄い衣服に変わったことで、その形をはっきりと伝えていた。
 上品に開いた首元も、橙也からすれば非常に目のやり場に困ることになる。
 結果、ひとまず彼は、こちらに向かってくるまおの、顔のななめ上あたりに目をやることにした。
 まおが対面の椅子に腰を下ろすと、ほぼ同時に、今度は入ってきた方の扉がノックされた。
「どうぞ」
 いつもよりも数倍大きな声で、まおは扉の向こうにそう告げた。
 扉が開くと、洋エプロン姿の女性が一度頭を下げ、銀色の台車を押して部屋に入ってきた。
 メイドさん、というのだろうか。二〇代半ばくらいかと思われるその女性は、極めて丁寧な手つきで紅茶を注ぎ、二人の前に音もなく並べた。最後にティーポットを、これも全く音をさせることなくテーブルに乗せると、もう一度頭を下げて、退室して行った。
 その様子を目で追っていた橙也だったが、正面からかちゃ、という音がして顔を向けた。まおがカップを手に取って口につけているところだった。
「い、いただきます…」
 それを見て、橙也も一言断ってから口に運ぶ。ものすごく香りがいいことは分かったが、正直紅茶なんて飲み慣れていないものだから、味がどうなのかなんてことは全く分からない。
 加えて、このカップの値段を想像し、壊さないように飲むことに神経を集中させなければならなかった。
「どう?」
 カップを置いたまおが尋ねる。なるべく首から下に目がいかないようにしながら、答えた。
「は、はい。おいしいです!」
「よかった」
 また、無言。彼女の方もカップを手にするわけではないので、なんとなく橙也も二口(ふたくち)目をつけづらくなってしまった。
結果、無音。
 とうとう堪え切れなくなって、橙也は口を開いた。
「あのぅ、ここが、大善寺さんのお部屋なんですか…?」
 まおは小さくうなずいてから、口を開いた。
「ここが来客用、あっちが―」
 着替えて出てきた扉を指差す。
「―私室」
「な、なるほど」
 とりあえずそちらに目をやってうなずく。
 入ってみたかった気はするが、どことなくいい匂いのしそうなその部屋を想像して、小さく首を振る。こんな格好のまおといたら間違いなく耐えられないだろう。
何にって、それはまぁ、色々である。
 ひとまず、これ以上沈黙が続くことを回避するために、橙也は他にも質問をしてみることにした。
「あの、なんていうか、失礼かとは思うんですけど、大善寺さんのお家って、何をしてらっしゃるんですか…?」
 この質問に、まおは今度こそ、ほんの一瞬ではあったが、それと分かるくらいに目を丸くした。
「柚代くん」
「は、はい?」
「本当に、知らないの?」
 それきり特に表情は変わらないのだが、一瞬彼女が目を見開いた様子が気になって、橙也は口ごもった。
 そんなに有名な家だということなのだろうか…。
「え、いや、その……。はい、すみません」
 そう言って俯いた橙也だったが、まおは小さく左右に、首を振った。
「いい」
「え?」
 そう言って、またカップを口に運んだまおだったが、その直前、橙也には、彼女の口元が僅かに上がったように見えた。
 それを見て、橙也もカップを口に運ぶ。口の中を紅茶で湿らせると、軽く息を吸い込んだ。
(よし、今度こそ、答えを聞こう…!)
 そう決心をしてカップを置き、口を開こうとしたところで、再度扉がノックされる音がした。
「は、はい!」
 勢いでそんなことを叫んでしまう。
 まおが一度橙也の顔を眺めた。そのあと彼女が「どうぞ」と返事をすると、これに応じて扉が開いた。
 部屋に入って頭を下げたのは、先ほどの柳と呼ばれた男だった。
 右手に銀色のアタッシュケースを持って、柳はテーブルに近づいてきた。
 目の前に立つ彼を見上げると、思った以上に大きかった。一八〇センチくらいはあるだろうか。さっきは白髪の混じり始めた頭から初老と判断したが、しっかりと伸びた背筋によって、四〇代前半くらいのようにも見える。
 柳はもう一度頭を下げてから、手に持ったアタッシュケースをテーブルからやや離れた床に置くと、退室して行った。
 これがおそらく、先ほどまおが「あれ」と言っていたものだろう。中身が何か気になるところではあったが、橙也はひとまず、先ほど出しかけた言葉を口にするのが優先と考えた。
 改めて、軽く息を吸い込んだ橙也だったが、けれど今度はまおに言葉を遮られてしまった。
「これを持って行って」
 顔は橙也に向けたままだが、「これ」というのが当然床に置かれたアタッシュケースであることは分かる。けれど、これがなんだと言うのか。
「さっきの答えだけど」
「え…?」
「さっきの、学校での、あなたの言葉に対する答えのこと」
「あ、はい!」
 思いがけず、まおの方からその話題を振ってきたことに驚いて、橙也は背筋を伸ばした。
 今日何度目か分からない心臓の高鳴りを感じたまま、次の言葉を待つ。
 数秒の間があって、けれど、その先に続いたのは、YESでもNOでもなかった。
「わたしには、答えるための権利がない」
「へ?」
 無表情のままそう言った彼女の顔を、橙也は五秒ほど眺めた。
(権利が、ない?どういう意味だ…)
 その言葉の意味をさらに一〇秒ほど考えて、それでもやはりよく分からなかったので口を開いた。
「あの―」
「だから、頑張って」
 そう言って、再び橙也の言葉を遮ると、まおは立ち上がった。
「柳」
 声をかけると、すぐに扉が開き、柳が入ってきた。
 「あ、あの」と声をかける橙也をよそに、まおは「お送りして」と柳に告げた。
「かしこまりました。どうぞ、こちらへ」
 柳に手で出口を示されて、橙也は渋々立ち上がった。再度アタッシュケースを持ち、先を歩く柳に、まおが続く。橙也はその後ろを小さくなりながら歩いた。
 前を歩くまおの長い髪が静かに揺れる。
 見事な黒と、ワンピースの白とのコントラストに、今さらながら気がついた。
 玄関の中央に、橙也の靴は置かれていた。まおはサンダルに履き替えて降りる。
 扉を開けた柳に続くと、目の前には黒い車が停まっていた。柳が後ろのドアを開け、目でうなずいた。「どうぞお乗りください」ということだろう。
 橙也は、斜め後ろにいるまおに、一度視線を向けた。
「また、九時に」
「え?」
 それ以上の返答はなかった。仕方なく、「さようなら」と頭を下げると、橙也は車に乗り込んだ。
 中のシートまで真っ黒である。座ると、体がずぶ、と沈み込んだ。前面の窓ごしに、車の先端についた銀色のシンボルマークが目に入る。円の中にVの字を配したものである。高級車だということが分かった。
運転席のドアが開き、柳が乗り込んできた。アタッシュケースを丁寧に助手席に置き、エンジンをかける。
橙也は背後を振り返った。まおはまだそこに立っていた。もう一度、軽く頭を下げると、車が動き出した。
正面の門が、ゆっくりと、左右同時に手前に開いていく。ごごごごご、といった低い音が聞こえてくるようであった。
「あの、すみません、送っていただいて」
「いえ、お嬢様の大事なお客様ですから」
「あ、そうだ、僕の家ですが…」
「失礼ながら、お調べさせていただきました」
「それは…、わざわざすみません」
「いえ」
口調は丁寧なのだが、どこかよそよそしい態度。こういうものなのだろうかと橙也は考える。
それきり、車内は無言になった。エンジンの音は響いているが、それでもどこか気まずいことには変わりない。橙也は思い切って、さっきの質問を柳にしてみることにした。
「あの、柳、さん?」
「はい」
 柳はバックミラーに視線を向けた。
「失礼かとは思うんですけど、大善寺さんのお家は、その、何をしてらっしゃるのでしょうか…?」
「え?」
 ミラー越しに、柳の目が見開かれるのが分かった。
「ああ、いや、大変失礼いたしました」
 元通りの調子で、柳はそう謝罪した。
「その、大善寺さんにも聞いてみたのですが、教えてもらえなかったというか、なんというか…」
 一度ミラー越しの視線を外し、「ふむ…」と呟くと、柳は言った。
「お嬢様がお話にならなかったのであれば、申し訳ございませんが、私(わたくし)の口からはお話しいたしかねます」
「そうですか…」
「ひょっとして、こちらのケースのこともお聞きになっていらっしゃいませんか?」
「ええ…」
「なるほど…」
 また、柳は何か考える様子である。
「ご説明をさせていただくんでしたな。申し訳ございません」
「いえ、それは構わないのですが…。ただ、その…」
 どこを聞くべきか一瞬迷ってから、橙也は言った。
「そうだ、頑張って、と言われたんですが、何か、頑張るようなものが入っているんですか?」
 これに柳は、先ほど以上に目を丸くした。
「お嬢様がそのようにおっしゃられたのですか?」
 口調にも、どこか興奮したような様子が混ざっていた。
「え、ええ」
「…そうですか」
 その一言だけだったが、そこにはどこかさっきまでのよそよそしさが抜けているように、橙也には感じられた。
「あのぅ…?」
「ああ、申し訳ございません。けれど、やはりこれ以上は」
「はい…」
「ですが、開けていただければすぐにご理解いただけるかと思います」
「…分かりました」

 車は橙也の家、ごくごく普通の一戸建て住宅の前に止まった。柳にドアを開けてもらい、降りる。
七時半、空はすでに暗い。間もなく夏も入口かというところだが、空気はまだわずかに冷たかった。
助手席から柳がアタッシュケースを取り出し、両手で丁寧に橙也に差し出した。受け取ると、ずっしりと重い。
「それでは今夜九時に」
「はぁ…、ありがとうございました」
 柳は一言、まおと同じく九時という言葉を残し、去って行った。
街灯の光を受けて黒く輝くボディが、角を曲がって見えなくなるまで見送ってから、橙也は玄関のドアを開けた。
 一度アタッシュケースを部屋に置いてからリビングに降りる。
すでに夕食は済んでいるようだった。台所のテーブルには一人分のおかずが並び、ラップが掛けられていた。
「あ、おにいお帰りー」
「ただいま」
 隣のリビングでテレビを見ていた妹に応じる。
「遅かったから先食べちゃったよ。ご飯とみそ汁、自分でよそってね」
「うん、ありがとう」
 再度テレビに顔を向ける妹に礼を言って、言われた通り、ご飯とみそ汁をよそう。
 目の前に並ぶおかずは、すべて彼の妹が作ったものである。両親ともに帰りが遅くなることの多い柚代家では、彼女が食事の担当をすることが多い。
 そのため、小学六年生の彼女に、橙也は頭が上がらないこともしばしばであった。
 おかずはほうれん草のおひたしと魚の煮付け。馴れたものである。
 極めて日本的な食事。これが、彼にとっての日常。
 もそもそ、と口を動かしながら、さっきまで自分がいた空間を思い出す。
 なんとも非現実的な空間だったものである。
(すごいところだったなぁ…)
 このリビングの数倍広いまおの部屋を思い返して、橙也はそんなことを考えた。
「ごちそうさま」
「おそまつさまー」
 テレビに顔をむけたままそう言う妹に背中を向けて、皿と茶碗を洗うと、橙也は部屋に戻った。
 上着とワイシャツをハンガーにかけてから、クローゼットの中から適当なトレーナーを取り出して袖を通す。
 ベッドを背もたれにしてあぐらをかき、机の前に置いたアタッシュケースを近くに引き寄せた。
 重厚な金属製のそれをゆっくりと開くと、中にはウレタンの緩衝材に包まれて、なにやら厚みのあるメガネのようなものが入っていた。
 しかし、耳にかける部分はあるが、レンズはなく、本来レンズになっている部分は、三センチほどの厚みのあるプラスチックか何かの素材によって出来ていた。
「なんだこれ…」
 柳は開ければすぐに理解できる、というようなことを言っていたが、少なくとも橙也には、見ただけでこれが何なのか、判断することはできなかった。
 持ち上げてみると、数本のコードが追従してきた。その先端には、直径二センチほどの吸盤のようなものが付いている。
 重さはそれほどない。試しにかけてみると、顔にあたる部分の周囲は、ゴムのような素材で出来ていることが分かった。顔の形にぴったりと覆われ、真っ暗で何も見えなくなる。
 外して、今度はアタッシュケースの中に目をやると、上蓋(うわぶた)にはさまった薄い紙が目に入った。解説書だろうか。
 丁寧にメガネのような物を一度床に置くと、その紙を抜き取った。
 A4サイズの紙に、図が載っていた。メガネをかけた人の絵である。その人物の頭には、例の吸盤が張り付いていた。丁寧に場所も説明されている。
「これを、張り付けるのか」
 試しにひとつ、つまんで頭に持っていくと、それは髪の毛越しにも関わらず、しっかりと張り付いた。同じように残りも済ませると、再度解説書に顔を落とす。
「それから…」
 スイッチを入れる、ということらしい。見れば確かに、側面には小さなボタンが付いていた。
 解説はそれだけである。
 もう一度メガネをかけると、橙也は手探りでボタンを押しこんだ。
「うわっ!」
 かちっ、というボタンを押しこむ感覚があった直後、急に眼前に強烈な光が満ち、橙也はたまらず、目をとじた。

       

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