Neetel Inside 文芸新都
表紙

黄昏スーサイド
偽物ハピネス

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「ねぇ、ヒッチコック?」
「なに?」
「私達付き合いだしてからどれくらい経つでしょう?」
 覚えていなかった。
 記憶を辿り、ぼんやりと過去を思い返そうとするが、待ちきれなかったのか、彼女と出会ったころの事を思い出す前に「一年」と言い、全裸姿の彼女がベッドで横になっていた彼に飛びついてきた。
「今日でちょうど一年なんだよ」
「あぁ、そうだったね」
「もう、ヒッチコックどうでもいいと思ってるでしょ」
「そんな事ないよ」
 まだ完全に覚醒をしないまま、おぼろげな手つきで彼女の肌に触れながら彼女が言わんとしている事に先回りして答える。
「なにか、お祝いでもしようか。せっかくの記念日に」
「本当?」
 本当もなにもそうしたいのは自分なのに。いつものようにヒッチコックはどこかで呆れるように思いながら「うん」と答えるとベッドの縁に腰掛けた。
「やったぁ、嬉しいな」
 そうはしゃいでいるたところでテーブルに置かれていたヒッチコックの携帯電話が着信を告げた。彼よりも先に立ち上がりそれを取ると彼に断る事もなくディスプレイを覗き込む。彼が浮気をした事などこれまで一度もなかったが、やはり気にはなるようだったが、そこに表示されていたのは今までに何度か見た事がある男の名前で、彼女は少なからずほっとし――同時に自分の行いに苦笑を覚え――、彼に向かって「はい」と差し出した。
 無言のまま受け取り、同じようにディスプレイを見る。余りかけてくる相手もいないし、今かけてきている相手も随分と久しぶりだった。
「はい?」
『よう、元気か?』
「元気だよ。どうかした?」
『いや、特になにかあるって訳でもないが。久しぶりにちょっと会わないかと思ってな』
「君が僕を呼び出す時は、大抵いい事か悪い事が起こった時だろう、鶫」
 そう言うと、受話器の向こう側から小さな笑い声が聞こえた。
『まぁ、ちょっとした予定がキャンセルになったりして退屈してるんだよ、今日ちょっと出てこれないか?』
「今日?」
 ちらりと彼女の方を見やった。ベッドから起き上がった彼女は冷蔵庫から飲み物を取り出しながらテレビをつけようとしていて、こちらの話をあまり聞いてはいないようだ。
 ヒッチコックは、やれやれと言うように吐息を零したが「昼だったら少しは時間を作れる」と返す。
『そうか。じゃあ、昼飯でも一緒に食べよう。家まで迎えに行くよ。今もあのキャバ嬢と一緒に住んでるんだろう?』
「あぁ、じゃあ着いたらまた連絡して」
『分かった、後でな』
 それを聞くとそのまま無言で通話を切り、ヒッチコックは彼女に声をかけた。
「ちょっと出掛ける事になった。お祝いは夜からでいいかな」
「え? なんで?」
「相手が僕に会いたいらしくてね」
 隠すつもりもなく、正直にそう答え、彼女は予想通りすぐに不機嫌そうな表情を浮かべた。持っていたチャンネルを床に放り投げてこちらへと近づいてくると「先に私とお祝いするって決めたじゃん!」と吐き捨てるように彼を睨みつけた。
「ちゃんとお祝いもするよ。そんなに遅くなるわけじゃない」
「嫌よ、断って他の日にすればいいじゃない。記念日は今日しかないんだよ? それなのに他の人のところに行くなんて酷い。ヒッチコックは私の事大事じゃないの?」
「大事だよ」
「じゃあ、今日はずっと私といてよ」
「もう行くと言ってしまった。今から無理と言う訳にも――」
 パン。
 あくまで穏やかだったヒッチコックの言葉は、それでも彼女の平手打ちによって遮られていた。
 それは既に慣れた痛みだが、彼女の掌が頬に触れる直前無意識で目を閉じていた。その直後に訪れた音と痛みを、彼は無言の中で受け流し、再び目を開くと、口元を歪ませている彼女がどん、と彼の肩を見計らっていたかのように押し込んできた。
「言えばいいじゃん。無理だって」
「……そんなに怒らないでほしい」
「怒るわよ! ねぇ、ヒッチコック、私あなたの彼女なんだよ? ねぇ、彼女って一番大切な存在でしょ? だったら私を一番に優先して? 私とその人、あなたにとってどっちが大事なの? 私でしょ? だったら、今日くらい私だけを見てくれたっていいじゃない」
 その様子には確かに怒気が含まれている。しかし同時に悲壮感も漂っていた。彼女の目元の片方が吊りあがり、もう片方は半眼の左右非対称のその表情は、まるで自分自身のコントロールを失って、バランスを崩して落下していく紙飛行機のようにも思えた。
「分かってるよ」
「なにを?」
「君が一番大事な存在だと言う事」
「じゃあ……」
「君がそうやって悲しくなる事を、僕だって理解していない訳じゃない」ヒッチコックは彼女の言葉を遮るようにして続ける。「君が僕を必要としてくれている事も分かっている。僕も君の事を必要だと思っているしね。きっと今の僕達は幸せだとも思ってる」
「……あ」
 彼女の頬に手を伸ばし触れた。その感触が強張ったものから、緩みへと変わっていくのを感じ取りながら、彼はふと思う。
 自分は一体なにを言っているのだろう。そして彼女はどのような理解と納得と、満足を得ているのだろう。
「ヒッチコック」
「なに?」
「ごめんなさい……叩いたりしちゃって、私ちょっと寂しくなっちゃって」
「いいよ。君が悪い訳じゃない」
「でも……」
「気にしないで」
 そっと彼女の唇に自分のそれを重ね合わせた。微かに零れる吐息は穏やかで、それを証明するように彼女の腕が背中へと回された。
 もう彼女の中の怒りは消えたらしい。いつも彼女は些細な事でキレては、すぐに平静を取り戻す。
 だがその平静を取り戻しているのはヒッチコックではない。それは紛れもない彼女自身であり、そしてその平静へと道筋を作り出しているのは、和解でも、共感でも、理解でもなく、罪悪感だ。
 当然彼女自身がそれに気が付いている訳もない。いつからか、殴っているのではなく、殴らせられていると言う変化がもたされていると言う事を。
 二人の間にあるのは、感情の共有でも、相互の補完でもなんでもない、ただの一方的な許しであり、実際はなんの前進もしていないのに、意味のない安堵を得ていると言う事でしかなかった。
 もし、彼女が彼に対し、冷静な見方が出来たなら、他の誰かと比較する事ができたなら、その違和感に気付く事が出来たのかもしれない。なんにでも易々と許しを与えてしまうと言う人間関係と言うものは、実のところ、相手の事などどうでもいいと思っているからこそそう出来てしまうのだと言う事を、ほんの少しでも我が身を振り返る事が出来たなら気が付けたかもしれない。
 だが今の彼女はどうしようもなく生まれてきてしまう自己否定によって、それに気付く事は出来なかったし、そんな自分の姿に「悪くない」と否定してくれるヒッチコックに、どうしようもないほど、依存しきっていた。
「すぐに帰るよ、ちょっとだけ待っていて」
「うん、分かった」
 ヒッチコックは彼女から離れ洗面所に向かった。蛇口を捻り、何度か冷たい水で顔を洗うと、水を出しっぱなしのままガラスに映る自分と視線を合わせる。
 濡れた前髪が頬に張り付き、その隙間から見えるその眼差しに向けて呟く。
(……君は間違っていない。間違っているのは僕なんだろう)
 相変わらずの生気のない目だった。しかしそこに迷いのようなものは欠片もない。
 きっと、彼女は当然の事を言っているのだろう。決してそれが不条理な言い分などではない筈だ。恋人として間違った選択をしているのは自分で、その事を責められるのは仕方のない事なのだ。だが、それはもう二人の間では成立しない。
 彼女が自分を殴り、恍惚を覚えている限りは。
 恍惚しながら、罪の意識を同時に抱えていく限りは。
 プラスと、マイナス。
 そう言っていた女がいた。
 今の彼女も、きっとマイナスなのだろう。自分といる限り。そしてそのマイナスに、自分のマイナスを掛ける事によって、偽りのプラスを生み出して安心している。
(だけど彼女は、僕の事をシェルダンと呼んだあの女とは違う)

     

「ふあ……ぁ」
 退屈に降伏したかのように、教室で清春は大きな欠伸を零した。
 教壇では先程から黒板の方ばかり見てこちらに背中を向けている教師が神経質に何度もチョークを黒板に叩くような音が鳴っている。
「なぁ、透」
 そう、近くの席で同じように締りのない顔をしている彼に声をかけた。
「なんだよ?」
「日曜日バイト休みなんだけど遊びにいかねぇ?」
「あー、ちょっと日曜無理だわ」
 教師に目をつけられない程度の小声だったが、彼はどことなく上機嫌の様子で断りを入れてきた。
「なに、なんかあんの?」
「いや、あのさぁ」
 もったいぶるようにニヤニヤしている。清春は訝しむように眉根を寄せたが、その様子を見ると秘密にすると言うよりは、詳しく聞いてほしそうな様子なので突っ込んでみると、だらしなく鼻を伸ばし「デートすんだよ」と言ってきた。
「はぁ? デート? 誰と?」
「違うクラスの女子と。最近話すようになったんだけどさ、なんかトントン拍子で上手く進んじゃってさ」
 照れるように頭をかく彼の様子に呆れてしまう。とは言え少々羨ましい話でもあった。
「マジかよー。俺に内緒で楽しそうな事やってんじゃねーよ、裏切り者」
「わりぃ、その子結構可愛くてさぁ。俺も結構本気で狙ってんだよ」
「なんだよ、もしかして告る気か?」
「分かんねえけど、その日いい感じだったらするかもしれねー」
「ちぇ、うまく行ったら紹介しろよな」
 そう言うと同時にことん、と近くでなにかが落ちる音がした。あまり大きなものではなさそうだが、教室全体に響いたらしく清春はふと視線を落とすと足元に携帯電話が落ちており、どうやらこれが落ちた音らしいと思いながらそれを拾い上げた。
 ストラップもなにも着いていない簡素なものだった。その行動を見咎めた教師が彼のものだと勘違いしたようで「おい、須藤授業中に携帯弄るんじゃないぞ」と内心はどうでもいいように言ってきて、自分の物ではない、と反論しかけたもののそうするのも面倒くさくなり「すいません」と軽く謝ると、それ以上は言ってこず、再び黒板に向き直った。
「……あの」
「あ?」
 教師の態度に軽く舌打ちをしたところで後ろの席にいた茜に声をかけられ振り向いた。彼女に声をかけられるなんて珍しくて清春は間の抜けた声を思わず出したが、すぐにその理由が今持っているこの携帯電話の事だと思い至る。
「あ、これお前の?」
「……うん」
「そっか、ほい」
「……ありがと」
「おう」
 単語だけで行われたような会話で、携帯電話を受け取ると彼女はもう自分に用はないと言うようにそれを机の中にしまうと視線を机の上のノートへと落としてしまった。清春はなんだか中途半端な状態で放り出されたような感覚を覚えたが、彼女の方はそうでもないようで、戸惑いながら、のろのろと視線を前へと戻す。
(……もうちょっと会話のキャッチボールってもんをだな)
 とは言っても、彼自身彼女とそれ以上の会話をしても盛り上がるような気はしなかったし、彼女との距離感を思うと妥当なものなのかもしれなかった。彼にとって麻生茜と言うキャラクターは地味で、なにを考えているのか分からない根暗で、勉強はできてもつまらない女だった。それでもふと、こうやって勉強のためだけに学校に来ているような女でも、授業中に携帯電話を弄っていたりするらしい、と簡単な感想で締めくくると再び透へと向き直った。
「で、そいつ名前なんつーの」
「神楽直子」
「直子」
 どこかで聞いた名前だと思うが思い出せなかった。それほど珍しい名前でもなかったし、まさか、あの日コンビニで崇と共に万引きをしていた女と一緒だと言う事など、どれだけ深く考え込んでも想像出来る訳もない。
 そうしている内に授業の終了を告げるチャイムが鳴り、教師が出て行くと教室の元々緩んでいた空気がさらにだらけたものになり、清春は眠気を誤魔化すように背伸びをした。
 窓の外には晴れ空が広がり、教室に注がれる陽射しが心地よく、彼はぐるぐると首を回しながらふと運動場の方へと視線を落とすと、そこに重役出勤と言うような足取りでやってきている怜の姿を見かけた。彼女は運動場の真ん中を横断しながら、いつものように携帯電話を片手に弄っていたが、ふとなにを思ったのかこちらの教室を見上げてきた。距離のため目が合ったかどうかもよくは分からない。彼女のほうもすぐに視線を落としたため、そもそも自分に気がついていたかどうかも曖昧だった。
「ったく」
 あの女も茜とタイプは違えどなにを考えているのか分からない。昨日のまたどこかの男と遊んで夜更かしして寝過ごしでもしたのだろうか。しばらくして教室へとやってきた彼女は、周囲の視線などお構いなしと言った感じで早々に机にその身をつっぷしてしまう。
 いつもの様子。そしていつものように彼は、彼女は一体なにをしに学校に来ているのだろうと思う。
 そして、嫌々来ている学校ではなく、彼女が能動的に向かっている場所があると言うのならそこはどれだけ彼女にとって楽しい場所なのだろう。もし叶うなら――好奇心として――そんな姿の彼女を見てみたいとも思う。
 それとも、彼女はどこにいても、あのままなのだろうか。一体、どんな出来事があれば彼女の心に機微が見られるのだろう。
(……まぁ、別に俺もなんもねーけどさ)
 なんの変哲もない一日を終え、また同じ日常を繰り返す事。
 彼にとってそれは当然で、もしかするとそうなる事を望んですらいるかもしれない。それでも、いつか自分にとっていつもと違う一日がやってくる事は避けられないのだろう。その時、それは自らが望んだものとしていられる事が出来るだろうか。それともやはり無力さの中で流されるままの末に辿り着いただけの場所だろうか。
(……バカらし)
 思春期の産物かよ、と彼は自分の中のもやもやをそんなふうに鼻で笑ってしまう事にした。
 自分が特別ななにかでない事は、悔やむ事ではない。それは歓迎するべき事で、特別と言う名前は優れていると言う事でも、憧れるようなものでもなく、単なる異質だと彼は思う。
 叶いもしない夢や願望を抱く事がなくても、平凡に囲まれても、人は幸せに生きていく。
 大多数の人間がそうするように。


「春日さんって夢とかあります?」
「夢?」
「はい、山田さんはどうっすか? なんか将来の目標とかあります?」
 清春がそう二人に尋ねたのは、店内から客の姿が一人としてなくなった頃だ。誰もいない店内は自分達以外の時間が全て止まってしまったかのようで、スピーカーの音がなければまるで世界中にいるのは最早彼らだけしか残っていないと思い込んでしまいそうですらあった。
 そんな中でふと思いついたような彼の言葉に、太郎は緩慢に振り向く。
「う、うーん、どうだろう。急に言われても、大した事は思い浮かばないかな。春日さんはなにかあります?」
 誤魔化すように彼に問いかけるが、いつものように世俗事には全く関心がないように超然と、
「僕は別にそういうものはないね」
 と答えるのみだった。
「そうっすか。まぁ、そんなもんっすよね」
 太郎はそう言いながら溜め息を吐くその様子を見ておやっと思う。まるでそう答えてくれた事に喜んでいるようで、しかしそれだけと言い切ることは出来ないようにも見えた。
 まるで夢や希望なんて抱く事が間違いなのだとでも言うように。
(……あぁ、彼はきっと他人じゃなくて自分の事を見つめているんだろうか?)
 太郎はなんとなく彼が遠回りに口にした悩みに触れたように思う。
 彼はきっと自分の内面に葛藤をしているのだろう。その気持ちは太郎にも痛いほど分かる。
 自分は一体どうして生きているのだろう? 生きている理由をなにに見出せばいいのだろう? それは自分もずっと考えていた。それこそ今の清春よりも若くから、そして今に至るまで解消される事なく渦巻いている。それゆえ、今の彼を「須藤君くらいの年頃の子ってそういう事考えたりする事あるもんだよ。でもそういうのって時間が経つと解決していくものだと思うよ」とは気安く言う事は出来なかった。
「須藤君はなにかないのかな? 高校を卒業したらしたい事とか」
「ないっすね。俺マジで適当な奴なんですよね。今までもなんか気がついたらこんな事になってた、みたいな感じで来てたし」
「そ、そうなんだ」
 そうっすよ、と返しながら、目の前で大して労働もしていないのに額に汗をかいている太郎をしばらく見つめた。以前店長が言っていた事を思い出す。高校中退後、職歴もなく数年間空白の履歴を持つ男。そんな男にそんな事を聞いても、望むような答えなど到底期待出来たものではないのかもしれない。そもそもこんなところで働いている時点で堕落していると言ってもいいのではないだろうか。
 黙りこんだ太郎から春日へと視線を移すと、話は聞いていたようで視線が重なり合った。
 彼も、同じなのだろうか。
 そこに疑問を挟もうとしている自分がいるのは確かだった。
 瀬名春日と山田太郎。
 二人が今までどんな人生を歩んできたのかと言う事など知りもしない。だがその紆余曲折を経て今彼らは同じ場所に存在している。無論それ以外の事では相違点はあるだろうし、むしろ似通っていないものの方が圧倒的に多いはずではある。しかし、今の自分にとっては、彼らを自分の定義に当てはめるなら、職場の同僚としての見方が最も適していて、そうして見ていると、やはり彼らは自分の中で同程度の存在と言う事になってしまう。
「春日さん、ずっとここで働くわけじゃないでしょ? その内またどっか他の会社に就職とかするでしょう? そういう時、春日さんどんなふうに次を探すんですか?」
「別に、特別取り上げるようなものはないね」
「でも、やっぱある筈じゃないですか。自分がやってみたいと思う事とか。新しく始めてみたいと思う事とか、そういう方向性みたいなのあるでしょ?」
「いや、ないね」
 息を吸って吐くと言うような迷いのない調子だった。
 まるで突き放されたようで清春はたじろいだ。なら、春日さん別にここでずっと働いてもいいって事ですか?
(……春日さんは、そうなんだろうな)
 その様子を見ながら太郎は、自分が思う事を彼に伝えるべきかどうか迷っていた。
 実のところ、ある意味では自分はもう夢を叶えていると言う事を。そしてそれはここで働く事によって得られたものであると言う事を。
 自分は、きっとクズだった。
 母が倒れた日。その時まで自分は自分の殻に閉じこもり、辛い事があれば逃げ回っていただけのどうしようもない人間で、それに苦しさを覚えながら、それ以上に自分の事で苦しんでいる人がいると言う事に目を逸らしてもいた。
 そして今の自分は、どうして生きているのか、と言う事に悩み続ける日々を脱却したと言う事。
 確かに自分はこれでもまだ世間からは褒められるとは言えないフリーターだ。そんな自分をだらしないと嘲笑う人がいるかもしれない。だが、その自分を認めてくれる人もいる。どうでもいい嘲笑うだけの他人ではない、いつも自分を見守ってくれていた人達が。それだけで、自分は殆どの望みを手に入れたような気すらする。
 大言壮語のように、時に人は夢と言う言葉を口にする。だがそれは本当の望みではない。
 だが、それを彼に伝えたところで聞き入れてもらう事が出来るだろうか。あなたの言っている事は正しいと頷く事が出来るだろうか。そんな矮小な人間がやっと手にした温もりなどは自分が望んだものではないと拒否されやしないだろうか。
 見つけられないのではなく、見失っている彼に。以前の自分は、果たしてその言葉を受け入れることが出来るだろうか。
(……そして僕はまだ今の自分にそこまでの自信がない。彼に聞き入れてもらえなかった時、それでも彼にそうだと言えるほどのものを、僕はまだ……)
 そう思いぐっと彼が歯噛みした時、来客を歓迎するように自動ドアが開けられた。太郎は条件反射のように「いらっしゃいませ」と言い、清春がそれを追いかけるように声をあげたが、そこから入ってきた人物を見て太郎はあっと声をあげた。
「あ、前はどうも」
 ショッピングモールでマグカップを買った時に対応をしてくれた彼女だった。あの時と違いラフな格好をしているが、笑うと目が細くなる癖は変わらず、太郎はそうして見つめられる事に恥ずかしさを覚え目を逸らしてしまう。
「よ」
「やぁ」
「春日君、もうすぐバイト終わるんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、ついでだからここで酒買って家行っていい?」
「いいよ」
 奈菜はそれを確認すると、彼が終わるのを待たずして籠を手に取った。自分の分と春日の分もまとめて持ってくる。中を見てみると、自分の好みをちゃんと選んでくれているようだった。
「清春君、元気?」
「あー、ぼちぼちっすね」
 春日が商品を手に取っている間に、既に顔見知りになっていた彼に声をかけた。なんだか元気がないようだ、と首をかしげ「どうしたの?」と尋ねたが、歯切れの悪い返事ばかりを返してくる。
「なによ、もう」
「いや、大した事じゃないんですよ」
「……奈菜に聞いてみたらどうかな」
「え?」
 既に袋に詰め終わった春日が、そう声をかけてきた。そうしながら料金を告げ、奈菜から紙幣を受け取りながら続ける。
「多分、君が聞きたい事を一番分かってるのは彼女だと思うよ」
「なに、なんの話なの?」
「夢について聞きたいそうだ」
「夢? 寝るときに見るあれ?」
「違うよ、彼が言ってるのはそっちの夢じゃない」
 分かっているくせにわざととぼけたように言う彼女に肩をすくめて見せる。彼女は「あ、やっぱり?」と言い返す。清春はその様子を見て困ったように頭をかいたが、そう促されたのもあり尋ねてみようという気になった。
「あの、奈菜さん夢とかってあります? こう、自分はこうなりたいんだ、的な感じで」
「私? うん、あるよ」
 迷いのない即答。
「マジっすか? どんな夢っすか、それ。俺そういうの聞きたいんですけど」
「幸せに過ごす事」
 また即答。そしてえらく抽象的なその言葉に清春は「いや、そういうんじゃなくてもっと具体的なのがいいんすけど」と食い下がろうとするが、彼女にきょとんと言う顔で見つめられ清春はなにか自分は間違った事を言っているのだろうか、と自分に問いかけるがやはり正しい答えは浮かんでは来なかった。
「えー? それで充分じゃない? 幸せに過ごす事が一番でしょ? 自分がやりたい事やって、毎日を楽しく過ごせたら、それこそ夢みたいな暮らしじゃない」
「でも、そうやって幸せになるためには、なにかしないとだめでしょ? だから俺、そうするためにはなにをしたらいいのかなって」
「それ、なんか順番間違ってない?」
「え?」
「自分がしたい事をするために、なにかをしないといけないっておかしいんじゃない? それとも清春君がやりたい事ってそんなに大げさなものなの? お金が凄く必要とか、友達が一杯必要とか? そういう事だったら確かにちょっと大変だけど私の場合はそんなに他の事必要としないからなー」
 うーんと唸りながら腕組みをする奈菜の様子に、清春は自分もどう言えばいいのか分からなくなっていた。
 もし、彼女の言う事が正しいのなら。
 自分は一体なにが欲しいのだろう。どうして夢を見ようとしているのだろう。
 もしかするとそれは他人が見ている夢を羨ましいと思っていただけで、無理やり自分もそうなりたいと思っていただけではないのか。自分は夢を見たかったのではなく、夢を持っている自分と言うものを誰かに見てもらいたかっただけなのだろうか。
「まぁ、清春君位の年頃の子って、そういうので悩んじゃうものよね」
「そうっすかね」
「そうそう。私もそんなんだった気がする。でもさ、正直さ、今の時点でも満足できるものって幾らでもあると思うよ。些細な幸せとかっていう奴。私はそういう時間を持てるだけで――庶民的な女でしょ、私って――結構幸せなんだよね」
「……やっぱ」
「うん?」
「やりたい事素直にやった方がいいっすかね」
「そりゃそうだよ」
「……そうっすよね」
 清春は、もう一度「そうっすよね」と呟いた。


(……いいな、あんなふうに正直に自分が思う事を言えて)
 太郎はまるで眩しいものを見るように彼女の事を見つめた。彼女が言っている事は、まさに自分が言いたくて、言えなかった事で、それをなんの引け目もなく口に出来る彼女の事を羨ましいと思う。
(……ダメだな、僕は。格好悪い)
 そう思いながら歩いているとズボンの裾が踵に引っかかり躓くようになった。慌ててバランスを取る。今までのものよりも若干裾が長い、新しく買ったばかりのそれを恨めしく見ながらも、そのズボンを見た清春が「お、ズボン買ったんすか? いいじゃないっすか。前のやつより全然いいっすよ。これからどんどんもっと格好良い奴買いましょうよ」と褒めてくれた事を思い出し、我慢する事にする。
 格好良いか。ズボンくらいでどうにかなるもんでもないと思うんだけどな。
(……よし、決めた)
 格好良いを目指そう。自分なりの、格好良いを。
 あの彼女のように。自分の思っている事を恥ずかしがらずに言えるような格好良い男を目指そう。
 そこに辿り着くまでの道程は果てしなく遠い気もするけれど。
 僕の次の夢は、それにしよう。
 新しい夢が生まれる。一つの夢が叶う事によって。
 きっと、その夢が叶うまで、苦しむ事があるかもしれない。悲しむ事があるかもしれない。逃げ出したくなるかもしれない。
 だけど、その不幸も、いつか幸せへと変わる時がきっと来る。
 なぜなら、今、彼は幸せだから。

     

 まだ生きていたとは思わなかった、と言うと、鶫はもしかするとお前の方が先に死ぬかもしれない、と冗談にしてはあまり笑えない返しをしたが、ヒッチコックはもしかすると本当にそうなるかもしれない、と思えた。彼が生きている事を幸せと言うべきか、それとも不幸だと言うべきなのかは分からない。これから生きていく上で、彼がある日、もう俺は死ぬなんていわない、生き続ける、なんて事を言い出す気はなかったが、こうやって出会うと、彼はいつでも今を楽しんでいるようだった。
 彼との付き合いも一年以上になる。と言っても最近はろくに顔を合わせる事もなかった。彼と初めて出会ったのは夜の繁華街だった。そこで当時鶫はキャバクラで働いておりその日スカウトを兼ねたキャッチのために外をうろついていた。
 いつものようにやる気を感じさせない態度で彼は行きかっているサラリーマンや見た目の派手そうな女に適当に声をかけていたが、その時通りがかったのがヒッチコックだった。どうやら一人のようだと目をつけていつものように話しかけたが、反応はそっけないもので早々に諦めると、彼は正面にあったコンビニへと入っていった。鶫は先程のそっけない態度からもう彼の事は気にかけない事にしたが、数分で出てきた彼は買ったらしいペットボトルの蓋を開けると置かれてあるベンチに腰を下ろしぼんやりと足を投げ出した。
 待ち合わせでもしているのだろう、と鶫もそんな彼の事を放っておいたのだが、一時間程してふと見ると先程と変わらず座っている彼がおり、それからもしばらくは動きそうにない様子の彼にふと興味が沸き、そちらへとふらふらと近づいていった。
「よう、待ち合わせでもすっぽかされたのか?」
「…………」
 声をかけられた事が意外だったのか、少し間を置いてから彼は顔を上げた。しかし自分に向けられているのだと気付いても、それを訝しむようでもなく、なんの変化もない能面のような表情を崩す事はなかった。鶫はおかしな奴だな、と思いながらも断りもせず彼の隣に腰を下ろすと、ズボンのポケットから煙草を取り出した。どうせ彼の仕事ぶりを見に来るものなどいる筈がないので時折彼はこうやって休憩を挟む事にしていた。
「綺麗な顔してるな、もてるだろ」
「そうでもない」
 ろくに自己紹介もないまま切り出したが、彼もそれに抵抗を覚えるようではなく、淡々と答えてきた。返事が返ってくるとは思っておらず、無視されると思っていた鶫だが、反応があった事で改めて彼の顔をまじまじと見つめた。男でも見惚れてしまうような造作をしていたが本人はそういう事に無頓着なのか髪はただ伸ばしているだけで、服もしわくちゃで安物だという事はすぐに分かった。
 勿体無い奴だな、そう思いながらしかし彼を見ていると仕方ない事かもしれないと、鶫は判断する。
「お前、もしかして同業者?」
「いや」
「あれか、無職か。ニートって奴か」
「そうだね」
「なんだったら知り合いにホストがいるんだが、紹介してやろうか? お前ならそれなりに稼げるだろう。まぁ、今みたいな態度じゃトップには到底なれないだろうが」
「遠慮しておくよ」
「そうか。まぁ、一つだけ言っておくとここで野垂れ死ぬのは勘弁してくれ。店の前で死なれると縁起が悪いだろ」
 煙草を地面に放り投げると、すぐ傍を歩いていたサラリーマンがしかめ面を浮かべた。見せ付けるように彼は靴の裏で煙草を踏みにじると無言のまま歩き去っていく。その背中姿をしばらく見送って、隣に座っていた彼が始めてこちらへと視線を寄せた事に気がついた。
「どうしてそう思う?」
「思う、と言うか分かるんだよ。死にたがってる奴とか、死んでもいい、そんな事を考えている奴の事が」
 珍しいものでも見るような、そんな目をしている。
 死ぬなら死ぬでしょうがない。そんなふうに思っているようだった。
「まぁ、別に今すぐ死ぬつもりじゃあないようだし、死に場所くらいちゃんと考えた方がいいと思うぜ」
「……まるで自分の事のように言うね」
「あぁ、俺はお前と違って能動的な自殺志願者だからな。無様に死ぬなんて耐えられないんだ」
「そう」
 まるで興味がないと言うように答えるが、拒否するような素振りは感じられなかった。だがはたとそれ以上ろくに話す事がないと言う事に気がつき、彼の方を見ると残り少なくなったジュースをちびちびと口に運んでおり、鶫はその間に二本目を取り出そうとしたが、そうしている彼に声がかけられた。
「あれ? 鶫君なにしてんの?」
「あぁ、綾香さん、今から出勤?」
「うん、そっちさぼり?」
「はは、ホール長には黙っておいてくれます?」
 店で働いているキャバ嬢の一人だった。彼女は「えー、どうしようかなぁ」とにやにやと笑ったが、そこで鶫の隣にもう一人いる事にその時気がついたようだった。
「友達?」
 そう聞かれ、鶫は振り向く様子のない彼に代わり「そうなんですよ。ちょっと久しぶりに会ったんで話し込んじゃって」と言い訳をする事にした。彼女は「へー、そうなんだ」としばらくまじまじ彼の様子を見ていたが、鶫はわざとらしく時計に目をやり「ほら、早く行かないと遅刻になりますよ」とベンチから立ち上がり、彼女を促した。さっさと歩き出してしまう彼に彼女は反抗的な声を出したものの、諦めたように付いて来たが、エレベーターに二人で入ったところで、
「ねぇねぇ、鶫君、さっきの人格好良くない?」
 と弾んだ声をあげた。
「あぁ、そうですね」
「彼女とかいるの?」
「どうでしょう」
「友達でしょ?」
「そうですけど、久しぶりに会ったんで」
「ねぇ、鶫君」
「なんですか?」
「今度あの人連れて遊びに行こうよ。名前なんて言うの?」
 勝手に盛り上がっている彼女に苦笑しながら「考えておきます」と言ったものの、名前どころか、今日初めて会っただけなのだが、と思うものの、適当に誤魔化しておけばいいし、彼女もしばらくすれば忘れるだろう、とたかをくくっていた。
 そうしてそれからは店内でホール仕事をこなしていたのだが、やがて帰る時間になり、再び外へと出てきた時、彼はつい「お」と間抜けな声をあげる事になってしまった。
「…………」
 そこには数時間前と変わらない様子でベンチに腰掛けていた彼がいた。先程よりも人の姿が少なくなり、繁華街の中では異質な健康的な光を放っているコンビニの蛍光灯に照らされている彼の姿は同じように異質で、なにとも相容れないようにぽつんとそこで浮き上がっていた。
「おい」
「…………」
 先程のように彼は声をかけていた。彼は再びゆっくりと――まるで初対面のように――こちらを無言で見返したが、鶫はそんな彼に構わず携帯電話を取り出していた。
「さっき声かけてきた子がお前の事気に入ったらしいんだ。名前と番号教えてくれ」
「……君は」
「ん?」
「それでなにかメリットがあるのか?」
「お前を紹介したら上に俺の事をよく言ってくれるらしい。あと俺にも女を紹介してくれるそうだ」
「そう」
 緩慢に彼も電話を取り出した。
 後日、鶫は彼女にその番号を伝えた。それからしばらくして二人が付き合う事になったと言う事を聞かされるのだが、その頃から彼女の様子が以前と変わってきている事に鶫は気がついた。
 以前の彼女は明るいが、どちらかと言うと引っ込み思案で臆病なところがあったのだが、それが最近は堂々とするようになったし、あくまで不快感を感じない程度に自分を前面に押し出すようにもなっていった。恋愛をする事で仕事に支障が出るかもしれないとの疑念もあったが、その逆で彼女は以前よりも売り上げを伸ばし、客からも「なにが変わったのかよく分からないけど、前より輝いて見える」とまで言われていた。
「一体、彼女になにをしたんだ?」
 ある日、鶫は彼と二人で会った時にそう尋ねてみた事がある。
 そうして返ってきた言葉は、淡々としたものだった。
「別に。ただ、僕を殴っているだけだ」
 彼女は自分が正しいと思えるようになっただけだ、と。


「まだ死のうとしているの?」
 以前と比べると少しだけ口数が増えてきた――それでも無言になる時は多々ある――ヒッチコックがそう尋ねてきたものの、答えは分かっているようでもあった。
「実は最近失敗した」
「また君のせい?」
「またもくそも、いつも俺がなにかしている訳じゃない。今回も他の面子が勝手に揉めてお流れになったってだけだ」
「例のサイトか」
 二人はつい先程遅めの昼食を終え、少し距離のある駐車場に停めた車へ向かい並んで歩いていた。雑踏の中で彼の小さい声は掻き消されそうだが、不思議とそうなる事はなく、耳元へといつもちゃんと届いた。
 まぁな、と返すとヒッチコックはなにか思うところがあったのかしばらく考える素振りをしたあと、
「その集まりに高校生はいた?」
 と尋ねてきた。鶫はあの時のメンバーの素性を詳しく聞いていた訳ではなかったが、やりとりや雰囲気から――一人は退学していたのだがそんな事知る由もない――神楽直子と皆藤崇は高校生だろうとあたりをつける。
「二人いたな」
「神楽直子と言う子はいなかった?」
「ん? いたが、お前知り合いなのか?」
 意外そうにそう聞き返していた。彼に知り合いがいて、しかもそれが女子高生だと言うのは存外だった。
「妹なんだ、僕の」
「妹? あの子が?」
 彼が頷くのを見て、鶫は奇妙な偶然にしばらく言葉を失っていた。沈黙が訪れ、その中で彼は彼女の事を思い返す。そう言われれば、どことなく面影を感じない事もなかったが、それでも性格は対照的のようにも思える。
(……いや、根本的なところでは一緒なのかもしれない)
 生への渇望が欠けている、と言う事。それを思えば、他の精神の方向性がどこへ向いていようと結局二人は似ている、と言える。
 立ち位置も、行き先も、そして彼らが見ている景色も変わらない。例えそこに至る道のりが重なる事はなくても。そう、それはまるで果てしない地平線を見れば多少の立ち位置に変わりはないと言うように。
「そうか、失敗したのか」
 彼がぽつりと呟いた。
「安心したか? 妹が死ななくて」
「そうだね。彼女が死のうとするのならそれはしょうがない事だけど、生きているならそれはそれでほっとしもするね」
 しかし、そうして生き延びた彼女に、彼がなにかを言う事はないように思えた。
「なぁ、ヒッチコック」
「なに?」
「お前達はどうしてそういう人生を送る事になったんだろうな」
「さぁ」
「他の生き方があったかもしれないなんて考えないか?」
「考えた事もないよ」
 赤信号につかまり歩みが止まった。ヒッチコックはいつものように前だけを見つめ、そしてどこも見ていないようであった。
「僕の両親は僕達が小さい頃離婚したんだ」
「へえ」
「離婚の原因は父さんの暴力だった。母さんも、僕も直子もよく殴られたよ。その頃の母さんはいつも泣いていた。どうしようもないと言うように。そう思っていたのは父さんもだったんだろう。他に方法を見つける事が出来なかった。殴る事でしか自分の存在を証明出来ないし、殴られる以外の方法で存在を証明させられる方法もなかった」
 大通りに面している交差点のせいか、信号は中々切り替わらない。
「少なくとも僕と直子はそう思っていた。そしてやがてそれに限界が来て離婚する事になった。母さんは再婚し、新しい父親が出来た。いい父親だったと思うよ。だけど上手くはいかなかった。母さんはすこしおかしくなっていたし、最終的に僕は家を追い出される事になった。直子もしばらく家を出ていたようだけど、今は一緒に暮らしているらしい。でも相変わらず上手くはいっていないようだ。家を出た僕はしばらくふらふらとして、ある女と暮らす事になった。彼女は自分の事をヒッチコックと名乗り、僕の事をシェルダンと呼んだ」
 その事は以前鶫も聞いた事がある。自分を偽り続けたその女は、やがて彼によって安定と言う不安定をもたらされる事になる。
「そして今は綾香が僕の傍にいて、相も変わらず僕の事を殴っている。傍から見ると異常なものと映るのかもしれないけどね、僕自身は、特に問題があるとも思わない。きっと人生というものは変えようと思えば変えられるものなんだと僕は思うよ。でも、それは変えようと思わなければ叶わない事だし、今を嫌っていなければその必要もない事なんだろう。そして僕は今までの自分に疑問を抱いた事はなかった。親の事も、直子の事も、彼らの意思がそうさせているのなら、僕はそれでいいと思う」
「そうか」
 どうも意味のない質問をしてしまったようだ、と鶫は首を軽く回した。
 他の生き方を考える事など意味のない事だというのは、なにより自分が証明しているではないか、と言う事に気がついたからだ。
 ようやく信号が青になり、歩き出そうとヒッチコックは足を出した。
 だがすぐ傍にいたらしい女子高生が携帯を弄っていたからか信号に気がついておらず、腕が軽く当たると彼女は「いた」と反射的に声を出していた。
「すいません」
 ヒッチコックも反射的にそう答えた。交通量が多く、あまり彼女の様子を伺いはしなかったが、一瞬睨みつけるような表情を浮かべた彼女は、しかし彼を見ると「え? あ……」と歯切れの悪い言葉を並べただけで、既に歩き出していたためその姿はすぐに見えなくなってしまった。
「どうする、これから?」
「そろそろ帰るよ。彼女に夜には帰ると言っているから」
「出掛けるのか?」
「今日、一周年なんだそうだ。記念日だからなにかしたいらしい」
 まるで他人事のようにそう答える。
「あぁ、そうか。もう一年になるのか」
「僕も彼女とこんなに長く付き合うとは思っていなかった」
「本気でそれ言ってるか? あの子、お前がいないと気が狂いそうなほどお前に依存してるだろう」
「そうだね」
 駐車場に辿り着き、助手席に座りながらヒッチコックは溜め息を零した。それが憂鬱だと言っているようで鶫は思わずフォローめいた事を口にする。
「まぁ、彼女も幸せそうだしいいんじゃないか」
「幸せ、か。彼女は本当に幸せなんだろうか」
「お前と付き合いだす前よりは幸せなんじゃないか? 前よりも明るくなったし、いい変化をしている」
「それが偽りだったとしても、そう言えるだろうか」
「偽り?」
「そう」
 そう会話をしながら鶫はエンジンをかけた。車が動き出すとヒッチコックは窓を開け、そこに手を置き頬を乗せた。
 感じる風に彼は目を細めながら、それでも前をじっと見ている。
「彼女は変化しているんじゃないよ。ただ、ずれていっているだけだ。僕と一緒にいるために本当の自分に蓋をして、紛い物の自分を自分だと言い聞かせているだけなんだよ」
「それを変化と言うんじゃないか」
「さっきも言ったけど自分が望まない限り、変化なんてする必要はないものなんだよ。きっと彼女はこう言うだろう。僕といたいから、そのために変わるんだと。でもね、それは本当にいい事なんだろうか。僕と彼女の間にあるものは本当に愛情なんだろうか。彼女はその愛情を守ろうとしているんだろうか。きっとそうじゃないんだよ。彼女が守っているのは、僕でも、自分でもなく周りだ。彼女はなにより周りが自分を愛してくれる事を願っている。そのために自分を偽ってでもね。君が言っている事は確かなんだろう。僕と付き合うようになってから彼女は変わった。その変化によって周りは今まで以上に彼女に好意を向ける事になった。でも、その数ある好意のうちの幾つが本当に彼女が欲しがっているものなんだろう。彼女は自分で気がついていないけれど、その視界は空っぽな「好意」と言う靄のようなものに塞がれてなにも見えなくなってしまっているんだと思うよ。本当に彼女が欲しいものは、今、彼女の周りには一つとしてない。彼女はずっと勘違いをしているんだ。今の自分は恵まれていて、欲しいものを手に入れていると。だけど実際はそうじゃない。彼女はなにより大事なものを失ってしまっている。自分と言う存在を見失ってしまっている。そして、その一番の理由は僕だ」
「だがお前が彼女になにかを強制している訳じゃないだろう? むしろお前は彼女に好きなように殴られたりされているばかりでそれは彼女の意思そのものじゃないか」
「彼女が殴るのは僕だけだ」
「そうだな」
「だから本当はその行為自体が間違っているんだよ。僕を殴る必要なんてないんだ。本当に愛しているならね。彼女が望む恋愛がそんなものだなんてありえないだろう? もっと違う形の恋愛があるはずだ。だけど彼女はそうしようとはしない。鶫、君なら分かるだろう。どれだけ表面が明るくなっても、彼女の生気とでも言うものが以前より弱くなっている事を。彼女は袋小路に入り込んでしまっているんだよ。偽りの幸せに囲まれて、そしてそれから放り出されてしまう事に怯えて。僕がいなくなる事でそれを維持出来なくなると言う事に」
 返事はしなかった。久しぶりに見た彼女の姿が彼の云う通りだったからだ。
「僕がしているのは要するに彼女の全てを認めると言う事だ。そこに善悪の概念はない。そして彼女は自分の負の面を全て僕にぶつける。僕はそれを受け止める。自分のマイナスとも言える部分が相手に不快感を与えないと言う事はとても気楽なんだよ。他の人達はそうはいかないし、皆プラスの面を過剰に相手に見せようとしては疲労感に襲われる。でもね、それが正しい事だと思うんだ。人は誰かに認めてもらうためにはプラスの事をしようとするものだし、マイナス面を隠したり減らそうとするものなんだよ。でも僕といる事で彼女はそうじゃなくなる。彼女は僕と言う存在に安心しきってとめどなくマイナスを吐き出し、僕がそれを認める事によって、彼女は自分を許すし、心に余裕が出来る。余裕が出来れば周りに明るくする事も出来るようになる。だけどそれは全て僕がいるから成り立つ事であり、そして、僕がしているのは彼女のマイナス面を受け止めて吸収しているのではなく、ただ受け流しているだけだから、彼女はいつまでも自分に疑問を抱く事もないし、間違っていると言う事にも気がつかない」
「間違っている?」
「彼女は元々プラスの人間なんだろう。それが僕といる事でマイナスに陥っている。今僕を失えば、彼女は矛先を失って自分の感情のコントロールの仕方を失ってしまうはずだよ。僕以外の人に対してのプラスすら今となっては僕と言う存在を通して生まれたもので、彼女は自分の存在を主張するやり方を忘れてしまっている事に気がつくだろうね」
 ヒッチコックはやれやれ、と言うように深く溜め息を零した。
「本当はプラスもマイナスも皆同じように存在していて、同じように分かち合っていくはずなんだよ。そんな事は以前の彼女も分かっていたはずなのに、それを忘れてしまった今の彼女は、そう、不幸だ」
「なら、今からでも別れたほうがいいって事か」
 そう尋ねると、彼は横か縦か判断しかねる角度で首を振って見せた。
 それは彼の言葉に対してではなく、自分に向けられているようでもある。
「利用、という表現をするなら、それは彼女じゃなくて僕の方なんだ。あの日、もし鶫と出会っていなければ、僕は野垂れ死んでいたかもしれない。誰かに拾われた可能性もあるかもしれないけど、僕の命をあの時永らえさせたのは間違いなく彼女だった」
 彼女の表情を思い浮かべる。そうしようとすると浮かぶのはいつもなんの感情ももっていない能面のようなものばかりだった。彼は、彼女が笑っている表情も、悲しんでいる表情も、思い返す事が殆ど出来ないでいる。
「彼女が僕を殴り、それに快感を覚えている間、僕も彼女を削っているんだよ、彼女の精神とか言うものを。彼女は僕を手放さない事に必死だ。そして僕は彼女がいる限り、生きる事に苦労しない。そう、どちらかと言うと傷ついているのは彼女なんだ。それも簡単には消えないような傷がね。ねぇ、鶫、僕はただ殴らせるだけで、彼女の全てを奪っているんだよ。幸せなのは彼女じゃない。僕だ」
 それが幸せなのか。
 そう尋ねたところで、彼はそれを迷う事無く、肯定するのだろう。生きる事、生活する事、物を得る事、性を抱く事。
 彼は手にしている。そして彼女が忘れた時として人はそれを「狡賢い」と言い「卑怯だ」と罵るくせに、誰もがそうしている他人への愛想をはっきりと持ち合わせ、今彼にその醜い部分をひけらかしている。きっと彼が彼女にそれを告げる事はないと言う事を見越して。
 彼女が待っているマンションへと戻り、ヒッチコックは「じゃあ、また」と手を挙げた。
 その後ろ姿が見えなくなるまで鶫は見送ると、黒いパッケージから煙草を一本取り出した。
 いいんじゃないか? 自分が有意義に生きられるならそれで。
 それだけを思い、短くなった煙草を灰皿に押し付けたところで彼はマンションから遠ざかっていった。バックミラーに写るマンションを見ながら、数時間後の二人の事を想像し、苦笑する。
(ヒッチコック、お前は考えすぎなんだよ。誰が幸せか、不幸かなんて他人が考える必要なないんだ。例え、他人がそいつの事を間違っていると言っても、本人がそれを幸せだと言うなら、それもまた正解なんだろう)
 そう、本当に不幸な人間は他にいる。
 それは、自分の事を不幸だと嘆いて、他の誰かがなにを言っても。それを全て否定し、それしか見えなくなっている人間だ。

     

「え? あ……」
 驚いてなにも言えなくなった怜に男は「すいません」とだけ言い残すと、すぐに雑踏の中にその姿を紛れさせてしまった。
(……春日君に似てたな)
 どこが、と言われると自分でもよく分からなかった。肩がぶつかっただけでまじまじと見た訳でもなく、それでも一瞬こちらを振り向いた男から感じた雰囲気のようなものがそう思わせていた。
 言葉を失っている間に既に男を見つける事は出来なくなり、ふとなにか声をかければよかった、と後悔の念がよぎるが、かと言って見知らぬ男になにを話せばいいと言うのか。
(……春日君だったら良かったのに)
 そうだったら、自分でも気付かぬうちに彼の胸に飛び込んでいたかもしれない。
 近辺に住んでいると言う事はあの日聞かされていた。ならば偶然肩をぶつける相手が彼に似た誰かではなく、本人であってもいいと思うのに。そう思うが、そんな偶然はあの日から今まで起こっていない。しかしよくよく考えてみると、彼じゃなくても偶然意図もしない再会と言うものを彼女が体験した事は殆どなかった。
 もしかすると、今まで性行為を交わした男とどこかで擦違った事もあったのかもしれない。
 しかし、彼女がその相手に気が付く事はなかったし、向こうから声をかけられる事もなかった。
 きっと相手は出来の悪いドラマのような感触の中を生きているからだろう、と彼女は思う。
 その日限りのフィクションは、そこで完結させられるのだ。そうして終わった物語は心の奥底にある本棚のような場所へと仕舞い込まれ埃を被っていくだけのものとなる。再びそれに触れようとする事はないだろう。そうすれば、彼らの中のノンフィクションに本来の道筋とは違う筋書きを作る事になってしまう。
 自分はきっと名もないエキストラの一人のようなものとして消化されていく。
(まぁ、私だって会いたいとか思う訳じゃないし)
 恨むような事ではなかった。
 ただ、その誰か達には帰るべき世界があるのだと思うと羨ましいと言う気になる。
 携帯電話の時計を見ると、バイトが始まる時間まで僅かだった。いつもギリギリに到着する彼女は、月に数回数分遅れの遅刻をする事もあり、そういう時は店長である和寿に「数分くらい早く来れるだろ?」と小言を言われる事がお決まりになっている。
 ふと彼との昨日のやり取りを思い出した。浮気に気付いたかもしれないからしばらく距離を置こうと言う事。
 その事自体はどうでもよかったし、その事で別れる事になってもなんの問題もないのだが、若干ナーバスになっていた事を思い出す。今日遅刻をすると八つ当たりのように怒られるかもしれない。彼はそういうタイプだ。
(まぁ、それならそれでいっか)
 そうなったところで、なにがどうなる訳でもない。
 そうしバイト先の居酒屋に辿り着いたが、やはり勤務時間の数分遅れとなっていた。
 駐車場をぐるりと回り鍵のかかっていない裏口から入る。厨房と繋がっているそこは普段から社員達の声が飛び交っているのだが、その様子が普段と違う事に気がつき彼女はおや、と首を傾げた。そこには見慣れない数人のどうやら社員らしい数人の男達が――今日来たばかりで勝手が分かっていないらしく――忙しなく料理に追われていた。
 その内の一人が彼女に気がついた。彼は「ちょっと」と和寿の部下として働いている赤井と言う男に声をかけると、乱暴に首を彼女の方へと振って見せた。彼は「はい」と丁寧な――どうやら彼よりも上の立場の人間らしい――返事をするとこちらへと近づいてきた。
「此花さん、遅刻はダメだって」
「ごめん。それよりあの人達、誰?」
「その事なんだけど、ちょっと来て」
 彼はそれだけ言うとさっさと歩き出した。その沈鬱な表情に戸惑うが、休憩室に向かっているようで素直についていく。ふと厨房を見回したが、和寿の姿を見つける事が出来なかった。
(なんだろ?)
 今日は休みの予定ではなかった筈だが、どうやらホールにもいないようだった。
 休憩室へとやってくると赤井が「そこ座って」と言い、自分もテーブルを挟んで向かい合う位置に座る。ここで彼女はなんだかおかしい、と言う違和感が、どうやらなにかあったようだ、と言う確信に変わった。まさか遅刻の事でこんな風にかしこまる訳もない。
(和寿、なんかあったのかな)
 それしかないだろう、と彼女はあたりをつけた。急な病欠程度では、わざわざ他店舗の社員が数人もやってくるなんて事はありえない。だがそうなると、彼が店に顔を出さない理由が彼女には一つしか思い浮かばない。
 やはり浮気がばれて、その事でなにか問題が生じたのだろうか。仕事を休む事になる程だからよっぽど大事になっているのかもしれない。もしかすると、その浮気相手は同じ職場の人間だと言う事が会社にも伝わっているのかもしれない。
(あっちゃぁ、やばいなぁ)
 もう赤井もその浮気相手が自分だと言う事に気がついているのだろうか。そう思っていると、休憩室のドアが開かれた。入ってきたのは彼女と同じバイトの女の子だ。その物音で思わず振り向いた怜は、普段は快活でお喋りが大好きな彼女が今日は打って変わって青ざめた顔をしている事に面食らった。彼女も、休憩室に怜がいる事に気が付くとはっとしてこちらへと近づいてきた。
「……怜ちゃん、あの、店長が」
「え?」
「ちょ、ちょっと」
 赤井が慌てた様子で彼女を遮ろうとする。怜は彼女が言おうとしている事は赤井がこれから口にしようとしている事と同じなのだと気が付く。しかしそれがなんなのかは分からない。そしてきっと彼女は自分の中でだけで封じ込めておく事はもう出来なかったのだろう。そのために勤務中だと言うのにこうやって裏まで引っ込んできた。その彼女は制止の言葉を聞こえているはずだが一度動き出したそれはもう自分で求めようがないと言うように、続きを告げた。
「死んだって」
「え?」と先程と同じ言葉をもう一度口にした。
 しかしその言葉は先程のものに比べると随分とすっからかんな質量で、まるで自分が口にしたとは信じられないような余りにも軽い響きだった。
 空白が生まれる。一瞬にして、信じられないような速度で広がる空白。
「嘘」
 また吐き出される空っぽの質量。
「……き、昨日仕事が終わってから、家に帰って……家に帰って、それから……それから」
 言い切らぬうちに、それ以上の言葉を続けられなくなったのか、言葉にする事で内に閉じ込めようとしていた感情が溢れ出したのか、彼女の目が潤み、言葉は途切れ途切れになっていった。そんな彼女に赤井が「もういいから。後は俺が説明しておくから」と気遣うように彼女の背に手を置き、テーブルの上に置かれていたティッシュを渡す。彼女はそれを目に当てながら、肩を震わせて出て行ってしまった。
「その、そういう事なんだ」
 丸まったティッシュをテーブルの端に置きながらそう切り出してきた。怜はそのすこし湿った紙切れをじっと見つめながら「死んだって、なんで?」と言う。
「……言いにくいんだけど店長奥さんいただろう? その、奥さんがね、喧嘩をしたらしくて、それで」
「……奥さんが、殺したの?」
「……うん、そうなんだ」
 ティッシュが小さく揺れた。その振動がテーブルの揺れだと言う事に気が付き、そしてテーブルが揺れたのは自分の手が震えているからだと言う事にも気が付いた。
 死んだ。昨日、確かにいた男が。会話をして、セックスをして、嘘か本当かもあやふやなくせに真顔で愛していると言った男。その男が、今はもうこの世にいない。
「な……なんで」
「詳しい事はまだ分かっていないんだけど――」
 まだなにか喋っているようだったが、怜はもう上手く聞き取る事が出来ずにいる。
 きっと、私のせいだ。
 どうやら自分と彼との関係はまだ誰も知らないようだ。なら、他の誰もなぜこのような事になったかと言う事など分かりはしないだろう。自分を除いては。
 彼が死のうと言う意思を持ち自殺をしたのではなく。
 なにかの過ちの延長線上に彼が存在し不慮の事故死をしたのではなく。
 彼は、殺されたのだ。他人の明確な殺意によって。
 そして、その殺意は――
「……うっ」
 ぐにゃりと腹の底が歪んだような、唐突な痛みに襲われ、彼女はテーブルに座ったまま倒れ込むようにその身を崩した。その痛みは全身へと広がり、今度は逆に中心へと戻ろうとするように、がくがくとまず足先と手元が震えだした。やがてそれが全てへと至ると、彼女はそれから逃れようとするように、テーブルに蹲っているその姿勢のまま両手で頭を抱えた。
 不規則で荒い自分の呼吸とシンクロする心音が警鐘のように鳴り響いて、耳を塞いでも、その音からは逃れられない。
「こ、此花さん!?」
 彼女の変調に仰天した赤井が立ち上がり、彼女に駆け寄り手を伸ばそうとした。
 だが、それが触れる前に、
「触らないで!」
 絶叫と共に振り払われていた。
 嘘だ。
 彼女は反芻する。
 嘘だ。
 殺されたなんて、嘘だ。だって、そうじゃないと、そうじゃないと――
「……けほっ」
 吐き出されたように出たのはその嗚咽だけに収まらず、彼女は嘔吐をしていた。テーブルにびしゃりとひろがった殆ど液状のそれは顔を近づけていた彼女の頬に跳ね返って纏わりついた。つんとした酸味混じったその臭いに混乱した頭が更にかき混ぜられる。
 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
 バランスを失い椅子から彼女は転げ落ちた。手を付く事も出来ず、頭を強く打ち付けてしまい、再び嘔吐をする。
 なにも見えない。
 嘔吐は止まらない。横たわり、吐瀉物に塗れながら、彼女は一体なにが自分をここまで追い込めるのか、うっすらとその正体に触れようとしていた。


「……あ」


 恐い。
 涙が流れた。
 そして、彼女はそのいつ消えるかもしれない恐怖を生み出したのは自分であると言う事に気が付いた。
 嘘じゃ、ない。
 その殺意は、自分にも向けられているものだと言う事。
 自分は殺されても仕方のない存在として、生きていたという事。そして――
(ママ……ママ、私……春日君)
 私は、寂しい人間。
 私は、寂しいのが嫌い。
 だから、誰かを求めてしまう。
 だけど、私は寂しい人間。

     

「なにかあったの? 清春君」
「さぁ、元々将来を不安視してたようではあるけど」
 バイトを終え、アパートへと二人で帰る途中訪ねられ首を傾げる。
 そうとしか言いようがなかったのでそう答えると奈菜もそれ以上追求はしてこなかった。
 手にしているビニール袋の中でアルコールの缶が音を立てる。いつもよりその量が多く、どうやらなにかあったのは清春だけではないらしい、と勝手に想像する。
「そちらこそなにかあったの? いつもより飲む気みたいじゃないか」
「あー、まぁ、色々とね」
 言葉にするのも面倒くさい。そのような素振り。
 街灯に照らされた夜道の中で彼女の影が後ろから前へと後退し、ゆっくりその形を大きくしていった。その長く伸びた彼女の腕がふらふらと揺れた。
「春日君っていいよね」
「なにが?」
「一人で生きられるのって羨ましい」
「慣れれば難しい事じゃない」
「君はそれに慣れる練習とかしたわけじゃないじゃない」
 元々あなたはそういう人間だったんでしょう。
 そう言われると否定も出来ず、そうすると彼はかけるべき言葉がなかった。
「一人で生きたいの?」
「どうかなぁ、本心はずっと一人でいるのは無理だと思う。だから誰かと一緒にいるんだけど、時々面倒になっちゃうのよね。あー、もうつまらないから全員とお別れしちゃいたい、誰とも話したくないって」
「そんなのは誰でも思う事だろう。正直、君が僕を羨ましく思うのもないものねだりみたいなもので、実際そうなってみるときっとそれはそれで苦痛だと思う。君はきっと、誰かといる方が性にあっている」
「自分でもそう思う」
 分かりきった事だ。お互いがそのように思い、それ以上その事について話す事に意味はないと言うようだった。
「私我侭なんだよね」
「そうかな」
「うん、多分他の人より結構」
「まぁ、どんな性格でもそれを好んでくれる相手はそれなりにいるものさ」
「そうねぇ、私もてるもんね」
 そう冗談めいて言うものの彼はそれに「そうだね」といつもの返事をするだけだった。物足りなく感じるものの、彼の場合適当な返事と言うよりも、本当にそう思っていてその台詞以外は持ち合わせていないのかもしれない。
(私より変わってる人だよね、ほんと)
 そんなふうに思い、アパートまで戻ってくると、そのまま彼の部屋に行こうとしたが、ふと自分の部屋の玄関前に人が立っており、よく見る必要もなく、それが杏里だと言う事に気がついた。彼女もすぐにこちらに気がつくと、髪を揺らしながらこちらへと駆け寄ってくる。
「どうしたの? 急に来るなんて」
「えへへ、ちょっとビックリさせようと思って」
 悪びれる様子もなくそう言って舌を出した。急にやってきた事にまるで彼女はこちらが驚きこそすれ不快に思う事などないだろう、と確信をしているようで奈菜はそこにほんの少し苛立ちを覚える。
「コンビニ行ってたんですか?」
 杏里は並んで立っている二人を見る。そこに少し怒っていると言うようなニュアンスが含まれており、奈菜は「偶然春日君のバイトが終わる時間だったから一緒に帰る事にしたの」と言い訳をした。袋は一つだけでそれを自分は持っておらず、杏里はまだ納得していないようだったが、それ以上追及はしてこなかった。
「じゃあ、春日君バイバイ」
「うん」
 さりげなくそう言うと、彼は話に合わせてくれたようで杏里に軽い挨拶をすると自分の部屋へとさっさと戻っていってしまった。彼の事だから今日買った自分の酒は残しておいてくれるだろう。
「部屋入る?」
「はい」
 やれやれ、と諦めたように愚痴りながら部屋へ招き入れる。冷蔵庫を開けると、ペットボトルの紅茶とジュースしか飲み物がなく、溜め息を零しながら二つのグラスに紅茶を入れるとテーブルへと置いた。
「連絡してくれればよかったのに」
「連絡したら意味ないじゃないですか」
 私だって用事があるの。
 そう言いたかったが、その事情を説明しても彼女はきっと理解してくれないだろう。
 テレビをつける。ドラマが流れており杏里とそれを見ていたがあまり面白いとは思えなかった。以前からこのドラマを見ていたらしい彼女が説明をしてくれるものの、それは右から左へと素通りしていく。
(だったら家で一人で見てたらいいのに)
 むくりと怠惰な自分が起き上がってこようとしていた。こうしてテレビを見るのも、彼女と言葉を交わす事も面倒くさい。喉が少し乾いてもテーブルのうえに置かれたグラスまで手を伸ばすのも億劫だった。
 なんとかそんな自分を誤魔化そうと無理やり紅茶を飲み干す。それでも倦怠感は抜け切らず彼女はベッドに寝転がった。
「奈菜さん、眠たいの?」
「ううん、そうじゃないんだけどちょっとだるくて」
「ふうん」
 天井のライトが眩しくて手で視界を塞いだ。そうしてみると不思議に瞼が重く感じるようになり目を閉じる。
 このまま眠ってしまおうか。そう思ったのだが、ふとベッドに重みが加えられた事に気がついた。その重みはゆっくりとこちらへと近づいてくる。
 唇を重ねられ、腕をずらす。ドラマはまだ続いているようだったが見えるのはこちらを見下ろして微笑んでいる杏里だけだった。
 目が合うと同時に舌を入れられ、思わず声が漏れる。
 好きなだけ嘗め回されながら、杏里の手が服に伸び、胸元までたくし上げられた。白光の下に乳房がさらけ出され、ようやく彼女が唇を離す。
「ちょっと」
「あは、たまには私が責めるのもいいじゃないですか?」
 寝転がった奈菜に馬乗りになり杏里が楽しそうにこちらを見る。
 全然、よくないんだけど。
 喉元まで出掛かった台詞をなんとか押さえる。
 その無言を了承と受け取ったらしく、杏里が胸元へと顔を埋めた。
 その愛撫は少し強引で、そして愛しさがこもっている。
 だけど、うっとうしい。
(……ねば、いい)
 気に入らない。今、彼女の全てが気に入らない。
 突然尋ねてきた事も。春日との関係に不満を覗かせる事も。セックスの主導権を握られる事も。
 愛しているからそれは全ていい事なのだと勘違いしているその間抜けな思考も。
(死ねばいいのに)
 そう思いながら、奈菜は杏里の舌が身体を這う度に、甘い声を漏らした。
 そうして、彼女の指が下へと伸びていこうとする中、いつもよりそこが濡れていない事に彼女が気付かなければいいけれど、と思う。

     

 嫌な予感は往々にしてあたるものだ、と茜は思っている。むしろその言葉はほぼ確信に近い事をそれでも和らげようとして生まれた表現なのかもしれないとも。
 彼女はネットで前日近所で起こったと言う殺人事件のニュースを何度も見返している。
 ――○○日、夫である松本和寿さんを殺害したとして妻である松本恵子容疑者が自首した。容疑者は「包丁で刺した」と容疑を認めている。彼女の供述に基づき、自宅にて松本和寿さんの遺体が発見された。遺体には背中に刺された傷があり失血死と見られる。
 ――容疑者は「夫婦生活がうまく行っていなかった」と話している。
(……まさかそんな)
 松本恵子、と言う名前を反芻する。
 チャットルームは先程から設けていたが、やってくるのはどうでもいいような相手ばかりで、彼女が待ちわびている「恵子」は一向に姿を現さない。
 きっと忙しいのだろう。そう自分に言い聞かせようとする。
 だが昨日彼女が豹変し、言葉をかけるよりも早く落ちてしまった時の事を思い出すと、そうやって湧き上がる疑念に彼女は首を横に振る事が出来なかった。
(……まさかあの恵子さんが、この松本恵子なんだろうか?)
 ディスプレイ上のカーソルが小刻みに揺れ、茜は自分の右手が震えている事に気がついた。
 あのあと、彼女になにがあったのだろう。
 もしかすると彼女に辛い出来事があったのかもしれない。目を覆いたくなる程悲惨な仕打ちを、この松本和寿と言う男から受けたのかもしれない。その末に殺害と言う結果に至ったのかもしれない。
 全てが想像だ。
 そして茜にはそれが正解かどうかを確かめる術すらない。
 あんなに色んな事を話してきたのに。誰よりも心を開いていたのに。
 結局この松本恵子がいつも話していた恵子かどうかと言う事すら、彼女には判断する事が出来ないのだった。
(……そんな訳ない。あの恵子さんが人殺しなんてする訳がないんだから)
 あの恵子さん。
 一体恵子さんは何者だったのだろう。
 私にとって何者だったのだろう。
 彼女にとって、私は何者だったのだろう?
 そう考えるとチャットルームに人がやってきた。彼女は期待したが、そこに表示された名前は恵子ではなかった。彼女はうな垂れながらも、明るく挨拶をしてくる相手に「こんにちはー」と返事をする。
 ――こんにちはー、茜ちゃん、元気?
 ――うん、まぁまぁ、かな。
 嘘だ。だけど、本当の事を言っても相手に伝わる訳がない。
 ――そういえば、茜ちゃんちの近くで殺人事件があったんだってね。
 ――そうみたいだね。
 ――妻が夫を殺したんだって。怖いよねぇ。うまく行ってないなら離婚すればいいのに。
 ――私もそう思う。
 ――掲示板でも言われてたけど、ホントバカな事件だよ。世の中危ない奴が多いけど、多分この夫婦両方とも頭おかしかったんじゃない?
 ――
 ――茜ちゃん?
 ――あ、ごめん。
 ――どしたの?
 ――なんでもない(笑)。本当世の中変な人が多いよね。
 ふと以前から思っていた事を思い出す。
 最近思ったのはどんな時だったろうか。そうだ、あの時、自分は此花怜を見ていた。
 生きる価値がないのは、彼女のような人だろうか、私のような人だろうか。
 今、その答えを知った気がする。
 価値がないのは、私だ。
 ――だよね、まぁ、俺達一般人には関係ないけど
 ――落ちる
 パソコンの電源を落とす。
 パソコンにさしてあるLANケーブルを抜き取り、床へと放り投げた。
 無意味。無意味。無意味。
 自分の言葉にはなんの価値もない。本音も嘘もきっと相手に届く事もない。そして誰もそんなものを望む事もない。やつらが望むのはただ自分にとっての都合のいいものだけで、そしてそのやり取りを私以上に上手くできる奴らはこの世界には腐るほど存在しているのだ。
「……この世界は腐っている」
 そして、私も腐っている。
 あぁ、なんという皮肉だろうか。
 声をあげて笑い出したかった。壁の向こうに届くほど大きな声で。
 出てきたのは結局、乾いたかすれた音。
 あぁ、私とは、恵子とは、その他の無数の見えない誰か達とは。
 現実の距離以上に、心が近づく事など一度もなかった。
 そしてもしも。
 今まで考えないようにしていたそれを彼女は今はっきりと自認する。
 私の彼女を思いやったはずの嘘が、彼女にとって殺意へと還元するようなものになったのだとしたら。
 私の存在は彼女にとって害だったのかもしれない。
 やがて今度は泣き出したくなってきた。そこには悲しさがあるはずなのに、今のそんな自分の事を滑稽だと冷ややかに見る自分も同時に存在している。
 一人きりで行う感情表現はとても豊かじゃないか。誰の前でも、パソコンの前でもまるで機械の一部になって相手に合わしているだけの時よりも。
 そうだ、私は機械だ。
 私はきっとパソコンの延長線上にあるメモリやCPUと同じ「麻生茜」と言う部品の一つなのだ。
 そして今、その部品が接続を絶つ事になんの問題があると言うのだろう。
 世界には幾らでも代替品が存在する。
 そして不要になった私は、もうなんの価値もない。
 機械としてしか生きてこなかったこの私にはもう、生きる価値など、とうの昔から、なかった。

     

 まだ、生きている。
 崇は暗澹とそう思った。
 あの集団自殺に失敗し、直子と関係を経ってからしばらく経った。
「……くそ」
 思わず出る毒づきが自分に向けられている事は分かっていた。一体自分はなにをしているのだろう。そんな風に思っても、それに対しての返事はなかった。どうにも頭が回らない。いつもなにも考えずぼうっとしているばかりで、そして常に倦怠感に襲われてなにをするのも億劫になってしまう。
 ベッドから身を起こし床に足を投げ出すと、落ちていたスナック菓子の袋の不愉快な感触に触れる。中身は既に空っぽで、ぐしゃっと音を立てて沈んだ。爪先でそれを払いのける。見渡すと床はゴミだらけだった。
 起こしかけていた体を再び寝転がらせる。汚れた部屋にうんざりし、それを掃除しようと言う気にもなれなかった。
(……死ななきゃ)
 天井の滲んだ染みを見つめながら、再びその事を考えた。
 ある日は首を吊って死のうと考え、またある日は駅で線路に飛び込もうと思い、違う日には高い場所から飛び降りればいい、と。
 だがそうやって想像の中で自分を幾ら殺しても、現実の自分はこうやって部屋に閉じこもっているだけだった。
 そうして悶々とし続け、やがて襲われる眠気の中「今日は諦めよう。明日死ねばいい。明日は死ねる」と自分に言い聞かせると言う事を繰り返している。
(……なんでもいいんだ。死ねればなんでもいい。今この天井が落ちてきて俺を押し潰してくれたっていい。道を歩いていて、知らない誰かが身勝手な理由で殺してくれても俺はそいつに感謝できる)
 まだ眠くなるには時間がかかりそうだった。
(俺は、死にたい)
 そう思っていると携帯電話が鳴った。
 はっとする。近頃音を立てていなかったそれが急に鳴った事と、今の自分に連絡をしてくる相手がいると言う事の両方に驚いたような顔を浮かべる。だが緩慢な動作に手にしたものの、表示された番号は登録されたものでなく、彼は首を迷い一瞬逡巡したが、切れる気配のない着信音に負けるように、通話ボタンを押した。
「……はい?」
『崇君?』
「そうだけど、誰?」
『あぁ、やっぱり、まだ生きてたか』
 そう言われ、崇は動揺した。なぜ自分が死のうとしている事を知っているのだろう。そして「やっぱり」とはどう言う事なのか。
「……誰だよ」
 動揺を隠すよう、威嚇するようにそう言うがどうやらあまり効果はないようだった。小さな笑い声が聞こえ――聞かせない振りをしているくせに、そのくせちゃんと聞かせようとしているような――それも不快感を煽ってくる。
『俺だよ、覚えてないかな。集団自殺で集まっただろう? 堂本さんや神楽直子ちゃんと一緒に君も来てた』
「……あんた、あの時の」
 ようやく聞き覚えのある声だと言う事を思い出し、相手が誰だったのかを理解した。喫茶店で自分を殴り、見下ろしていた男。だが名前まではどうやっても思い出せなかった。
『直子ちゃんから番号聞いたんだが、元気そうでなによりだ』
「なんか用かよ」
『やけに喧嘩腰だな。俺に腹を立てていたなら謝るよ。前は殴って悪かった』
「そんな事はどうでもいい。用がないなら切るぞ」
『また人を集めようと思うんだが君はどうする?』
 本当に切ろうとしたのを悟ったからだろうか。鶫は呼吸する間すら持たせないようにそう簡潔に告げてきた。
『今度は確実に死ねると思う。堂本さんのように適当に集めたわけじゃない。参加すれば君は確実に死ねるだろう。どうだ?』
「……あんた、死ねないんじゃなかったっけ」
 確かそんな事を話していた事を思い出し、皮肉るようにそう言う。相手もそんなふうに言われるのは理解しているようで「まあな」と苦笑するのみだった。
『だが俺の事は放っておけばいい。前も、本当に死にたかった二人はちゃんと死んでいるだろう?』
「気持ち悪いくらいに親切だな。でも俺は参加しない。もうあんた達みたいな奴と絡むのはうんざりなんだ」
『うん? どう言う事かな? 俺達も君も、考えている事は同じだろう? 生きる事に幻滅して死にたいと思っているはずだ。それとも君はあれかな? まさか、俺達と自分は違う、なんて事を思っているのかな?』
 その台詞に崇はなぜか鼓動が早まるのを覚えた。その言葉はまるで蛇のようにに隙間を縫って触れられたくない場所へとスムーズに侵入しようとしてくるようだった。
 お前みたいな奴が俺のなにを分かるって言うんだ。
 そう言い返そうとするが、言葉にする事が出来ない。
『そうか、君は自分の事をそういう風に思っているのか。なる程。確かに前に会った時も、君はいつも上の空で俺達の話なんて聞いていないようだったが、そう言う事だったのか。要するに君は自殺願望を持っているくせに、そういうふうに同じような事を考えている人間と自分を重ね合わせる事が出来なかった訳だ』
「……うるさい」
『ん? なんだって?』
「うるせえ! 黙れよ! なにがいいてぇんだよ!!」
『さっさと死ねよ』
 もう聞いていられない。そう思い叫んだ。
 だが返ってきたその短い言葉は自分の声まで掻き消してしまっていた。
『お前みたいな奴に何人か会った事があるよ。そいつら全員「死にたい、死にたい」って言ってた。誰一人死んでないけどね』
「なんだって?」
『死ぬ気だけで死ねるなら苦労しないって事だ。お前らには根本的に欠けているものと、取り外せないものがある。勇気と恐怖だ、と言えば分かりやすいか』
 死ぬ勇気と、死への恐怖。
『お前、死ぬなんて簡単だと思っているだろ? 自分が本当にその気になれば今すぐにでも死ねるとか思っているだろう? 冗談じゃない。そんなもんで死ねるなら、この世に自殺する人間なんて一人もいなくなるだろうし、誰もがノーベル賞を貰うような教授様になれるし、メジャーリーグでホームラン王になってるだろう。まったく、そんな事がある訳がない。この世の殆どの人間が一度は考えている事の答えを俺が教えてやろうか? 命は軽いか重いか。そんな疑問馬鹿げている。軽い訳がない。そんな簡単なものであるはずがない。そう、命は重い。この世界のなによりも。そんなものをお前みたいな中途半端な考えの奴が捨てる事なんて出来る訳がない。安易に捨てられる命など存在しない』
「…………」
『なのになぜ、世界はこうも悩むのか。それは世の中お前のような奴が溢れているからだ。お前達はいつも事実と対面しようとすると途端に目を逸らそうとする。気付かない振りをしようとする。そうして言うんだよ。命なんてたいしたもんじゃないと。全くそれに俺はたいしたものだといつも思わされるよ。お前は本当の命の重さなど知りもしないと言うのに、悟ったような顔をして「死にたい、死にたい」と並べ立てる。なぁ、もしお前が本当に命の価値を知っているのなら、その重みがどれほどのもので、それを正確に理解している上で死にたいと言うのなら、今お前が生きているはずないんだ。さっさと死ねばいいんだよ。そうするべきだと言う事も分かっているはずだ』
「……俺は」
 なにか言え。
 なにも、言えない訳がない。奴に言い返せないなんて、そんな事あってはならない。
 俺は、死にたい。
 だって鈴が死んでしまった。俺の生きる理由だった彼女は、俺を置いて自殺してしまった。
 だからもう生きる理由とか意味がないんだ。だから俺も彼女を追って、彼女と同じように自殺するんだ。
 俺は。
『君には無理なんだよ。崇君。君は死ぬ事を怖がっているし、生きたいと思っている。俺には分かるんだよ』
「そんなわけない」
『君の事は直子ちゃんから聞いた。君に同情するところはある。だけどね、残念ながら君はその自殺をしたと言う女の子のあとを追う事は出来ないだろう。君が死に触れることはきっと出来ないだろう。そう、死ぬと言うのに万引きを同級生に見つかって恥を覚えているようじゃね。君は生きる事に執着しているのが似合っている』
「……死んでやるよ」
『ん? なん――』
 まだなにかを言っていたが、崇はそれを聞く事無く通話を終了させた。
 ふざけるな。
 頭が沸騰したように熱い。その熱はすぐに体中を駆け回る。
 死んでやる。俺は、死んでやる。
 ベッドから飛び降りて、駆け出すように部屋を飛び出す。
 向かった先は台所だった。運よく家には誰もいないようで、戸棚から彼は包丁を一振り取り上げた。ちゃんと研いでいないらしくその刃の輝きは鈍いものだったが、崇はそれを握り締め部屋へと戻ると、床に散らばったゴミを乱雑に払いのけ、空間を作ると、そこに膝をつく。
「……死ぬ……死んでやる! 俺は今すぐ死ぬんだ! 死んで鈴のところに行くんだ! 鈴に会えるならこんな命なんか、いらないんだよ!!」
 包丁を振り上げる。
 全身が痙攣したようにぶるぶると震え、眩暈を覚える。
 それでも、その振り上げた右手を、もう片方へと振り下ろそうと、その腕に力を込めて――
 力を込めて振り下ろそうと――
「ぐ、ぐぐ……!」
 ――なのに。
「ぐぐっ!」
 動かない。
 振り下ろせば終わるのに、そこからその腕は一向に振り下ろされようとしない。
 死にたいのに。動いてくれない。
「……なんでだよ!?」
 悲鳴をあげるように彼は叫んでいた。
「なんで俺は死ねないんだよ!? 死なせてくれよ!! なぁ!!」
 そうやって叫んでも、意思は抗おうとしている。
 彼の死への渇望に抗おうとしている。
 そしてその意思は他の誰でもない、彼の意思。
 死のうとする意思ではなくて、生きようとする彼の意思。
 震えが止まる。そしてそれと同時に脱力した右手が降ろされ、その手から包丁が解放された。
「……う、うう」
 死ねない。
 俺は、死ねない。
 死にたくないと、思っているから。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
 咆哮と共に涙が溢れる。
 気がついてしまった。
 あの男の言うとおり、自分は到底自らの命を奪う事など出来ないと言う事。その事実にずっと目を逸らしていた事。自分一人で死ぬ勇気を持てないからと、あの集団自殺に参加しようとしていた事。それが未遂に終わり、どうしようもなくなっていた事。
「ああ! あああ! っああ! ああああ!」
 頭を抱え込んで床に突っ伏しながら、崇は号泣し続ける。
 もう彼女には会えない。
 不幸に襲われ、恋焦がれた少女がこの世を去ってからの、少年の迷走に今終わりが告げられようとしている。
 たとえ、辿り着いたこの場所があの日から変わらない、なにもない虚空のままだとしても。
 どれくらいそうしていただろう。時の流れがおぼろげなものとなっていく中で、再び携帯電話が音を立てた。
「…………」
 一体、誰だろう。
 先程の男だろうか。やはり死んでいなかったと言う事を確認するためにかけてきたのだろうか。
 出るかどうかためらうものの、着信音が切れる様子はなかった。崇は強く舌打ちをし、携帯電話に手を伸ばす。あの男だったなら、せめて皮肉の一つでも返してやろう。そう思っていたのだが、表示を見て彼ははっとした。驚きながら通話ボタンを押す。
「……はい」
『お、やっと出た。出ないかと思ったじゃねーか』
「……なんだよ、なんか用かよ」崇は震える声でそう答える。「清春」
『あぁ、いや、別にこれといって用事があるわけじゃねーんだけどさ。つかなんかお前風邪でもひいた?』
「え? いや」
『なんか声かすれてないか?』
「あぁ、ちょっと、色々あって」
『そっか。なぁ、崇、ちょっと出てこいよ。今日じゃなくてもいいからさ。いつでもいいから。俺も他の奴らも、皆お前の事心配してんだよ。お前はそういうの迷惑かもしれないけどさ』
「……けどさ、俺」
『なんだったら俺がお前ん家行くよ。俺さ、色々考えたんだけどやっぱお前の事ほうっとけねーよ』
 元クラスメイト。その彼からの電話に胸の中からじわっとしたものが広がる。
 すぐにそれは全身へと至り、崇の頬に一筋の涙が流れる。
「……なぁ、清春」
『あん?』
「俺さ……自殺しようとしたんだよ」
『……バカやろ。そんな事すんじゃねーよ』
「……それしか思いつかなかったんだよ。鈴が自殺したのに、俺が生きてるのって鈴に悪い気がして……だから、俺、ずっと死のう死のうと思ってて」
 嗚咽が止まらない自分の声を清春は耳を澄ますように聞いてくれる。
「けど、俺死ねなくて。死ぬって事が怖くて。そうしている内にもうどうしたらいいか分からなくなっちまったんだよ」
『しょうがねーよ。お前が言いたい事分からない訳じゃねぇし』
 しょうがないってなんだよ。
 本当に俺が言いたい事分かってんのかよ。
 どうしてそんなふうに思うようになってしまったのだろう。
 きっと、彼は分かってくれているような気がした。命と同じように、その言葉は短くて、乱暴なものだけれど確かに重みがあった。
「なぁ、清春」
『おう』
「今度、会いに行くよ。これからどうなるか分からないけど」
『おう。大丈夫だよ。お前が一人で考えても無理だったら、俺らも一緒に考えてやるよ』
「……おう」


 最愛は死んだ。
 それでも生きられるだろうか。
 だって生きる事しか出来ない。
 もう世界に愛はないのだろうか。
 いいや、きっとそんな事はない。
 最愛は生きている。
 この世界から姿を消しても愛は残っている。
 世界のどこでもない、自分の中に。
 そう思う事が出来ればそれだけで世界は幸せ。

       

表紙

綾瀬 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha