Neetel Inside 文芸新都
表紙

暇つぶし
彼女は銀の弾丸

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 この世に生を受けてからおよそ百五十年、私は初めて運命というものを感じ取った。
 初めて彼女を見たのは、急遽足りなくなった日用品を買うため、夜中に近所のコンビニエンスストアへ行ったときだった。
 入り口ですれ違っただけなのに、私は彼女の姿とほのかに漂ったシャンプーの香りを脳に刻み込んでいた。
 腰まで伸びた艶のある黒髪に透き通った白い素肌。完璧な造形と言わざるを得ない整った顔立ちは、化粧をしていなくても十分すぎるほどに美しかった。タンクトップの下から存在を強く主張する胸に、くびれからでん部にかけての鮮やかなライン。モデルのようにすらりと伸びた長い足。ここに来た目的を完全に忘れるほど、私の脳内は彼女の姿と香りで埋め尽くされていた。
 しかし、私はまだこの時点では彼女に恋心を抱いてはいなかった。伊達に百年以上生きてはいない。一目見ただけで心を奪われるような精神はとうの昔に置いてきた。
 だが、良い意味で強烈な容姿が私の心を揺さぶったのは事実であった。

 翌日から私は彼女と幾度となく遭遇するようになった。私はとある事情により陽が完全に落ちてから行動を開始する、所謂夜型の生活を送っている。つまり一般人とはズレた時間帯に外出しているのだ。そのような条件下で偶然の遭遇を重ねれば、誰だって運命というものを感じてしまう。たとえ百五十年生きてきた私だとしてもだ。
 それに、純粋に人という存在そのものが恋しかったというのもあるだろう。人としての寿命を超えてもなお生きながらえ、陽の光を浴びることを許されない身体になってから、私は積極的に人と接するということをしなくなった。
 仲良くなっても、どうせみんな私よりも早く死んでしまう。それにこの世界には私のような夜の住人を狙う狩人もいる。彼らに見つからないよう、ひっそりと生きていく必要もあったから。
 しばらくすると、彼女を見かけるたびに声をかけたい衝動に襲われるようになった。だけど、勇気がない。自信がない。どう話しかければいいのかが分からない。だから私は何も行動を起こすことができなかった。

「最近よくお会いしますね」
 彼女からそう声をかけられたときは心臓が飛び出るかと思った。
 場所は近所のコンビニ。彼女と初めて会った場所だ。その日、私は普段読まないような雑誌を立ち読みしながら彼女が来るのを期待して待っていた。
 時刻は深夜一時。私以外の客など皆無で、こんな時間に偶然会うことを期待してるなんて馬鹿げている、と普通なら思うだろう。だが実際何度も会っている。その日も期待通り会うことができた。
 彼女はレジで会計を済ますと、出口に向かわず雑誌のコーナーへと歩み寄り、私に微笑みながら声をかけた。
 私は動揺してすぐに返事をすることができなかった。少し間が空いてからやっと「そうですね」と返すことができたが、気まずさと羞恥心で顔に熱がこもるのが分かった。
 そんな私を、彼女は馬鹿にすることなく真っ直ぐに見つめていた。胸の鼓動が高まる。この感覚は何年ぶりなのだろうか。私は記憶を遡ろうとして、すぐにやめた。どうせ覚えていない、無駄なことだ。
「夜型の人なんですね」
「あなたこそ」
「わたしは今学校が夏休みですから」
 彼女は学生だった。大人びた外見からして大学生だと私は予想した。
「大学生?」
「はい、一年生です。この春こっちに引越してきまして」
「一人暮らしかい?」
「そうです。あなたの住んでるマンションのすぐ近くですよ」
 私は目を丸くして驚いた。
「昨日たまたま見かけて。バス停のすぐ傍にあるマンションであってますよね?」
「ああ、うん。あってるよ」
「何回も会うと、どうしても意識しちゃって」
 その一言で私の胸に嬉しさがこみ上げてくるのが分かった。彼女も私を意識している。私の胸の鼓動を加速させるのには十分すぎることだ。
 私は何気ない会話を続けた後、彼女をマンションへと送り届けた。そして私自身も自宅へと戻ると、興奮冷めやらぬままに彼女との会話を延々と思い出し、そのたびににやにやと笑っていた。
 はたから見れば気持ち悪い顔をしていたに違いない。しかしこんな笑い方をしたのは百数年ぶりのことだった。私はまだこんな表情もできる。私はまだ枯れていなかった。

 それからも彼女と会うたびに会話を重ね、より親密な関係になっていった。自身のことを語り合い、意気投合し、気づけば互いの家を訪問しあうような仲になっていた。
 逢瀬を重ねるたびに、私は彼女に陶酔していった。四六時中彼女のことばかり考えてしまう。頭が正常に働かないのだ。
 例えるならば、彼女は銀の弾丸。何気ない言葉が、仕草が、表情が、私の心や脳髄を撃ち抜き、溶かしていく。彼女に魅せられた私にその弾丸を防ぐ術などない。会えば会うほど彼女は好意的になり、弾丸はさらに威力が高まる。
 友達以上恋人未満、いつだったかテレビで聞いた言葉が綺麗に当てはまるような状態だった。

 また、その頃から、自然と彼女の首筋に目が行くようになっていた。美しく白いそれに自身の獣のような歯をたて、そこからあふれ出る鮮血を一滴もこぼすことなく、この舌で、喉で、身体で、魂で味わい、己の糧にしたい。そんな醜い衝動が私の身体を駆け巡るようになっていた。
 彼女との関係を壊したくない。ただその一心が、逃れられない性――人間の三大欲求にも匹敵する私の吸血欲を必死に押さえ込んでいたのだ。
 そして同時に、彼女に対して恋慕の情を抱いていることに気づいた。否、本当はもっと前から気づいていた。ただ気づかないふりをしていただけだ。
 だが、自分の気持ちと向き合うべきだと思った。そして吸血衝動を抑えたまま、彼女と一緒にいてもいいのか、私は悩んだ。悩み続けた。
 そもそも彼女は普通の人間である。夜の怪物である私と相容れることがあってはならないのではないか。このままではいつか必ず内にある怪物としての自分に負け、彼女を傷つけてしまう。
 このまま彼女と縁を切る――いくつかある選択肢の中の一つ。恐らく私にとって最善の選択肢とは言えない。だが彼女にとって、この選択肢の先にある未来は、いくつかある選択肢の先の未来の中でも最善のものになりえるかもしれない。
 彼女のためを思うなら……。私は彼女と縁を切る覚悟を決めた。
 ちょうど今日は彼女の家で会う約束をしていた。その時に行ってしまおう。もう君とは会えないと。この決心が揺るいでしまう前に。私はそう思いながら、家を出た。
 彼女の部屋に入ったとき、私はとても落ち着きがなく、そわそわしていたと思う。なんとか簡単な挨拶を済ませると、どこか遠くに逃げようとした覚悟を捕まえて、話を切り出そうとした。だが、先手を取ったのは彼女だった。
 大事な話があるの。そう言って彼女は私に想定外の言葉を繰り出した。
「好きです。わたしでよかったら、付き合ってください」
 身体が硬直。なんとか捕まえていた覚悟が私の手をすり抜けて逃げ出し、あっという間に遠くへ行ってしまった。
 彼女は頬を赤らめながら、小さく震えていた。この瞬間、私の頭に残された選択肢はたった一つだけだった。
「私でいいのなら、喜んで」
 こうして私と彼女は恋人同士になった。

 私は激しく自己嫌悪した。
 結局のところ、私は自分のことしか考えていないのだ。彼女を傷つけてしまうことが目に見えているにも関わらず、目先の幸福な時間を選択した。決して長続きはしないであろう時間。
 実際、彼女と恋人同士として過ごす甘いひと時は百数年の人生の中でもひときわ輝いていた。
 長年の間、人との接触を自ら拒絶していた反動もあったと思う。彼女と縁を切る、こんな選択肢など最初から存在しなかったかのように私は振る舞い、彼女に溺れ、そして溶かされていった。彼女は銀の弾丸なのだ。
 恋人になればいずれは肉体的な繋がりあいを持つことになる。いくら私が人間ではなかろうとそれは例外ではない。
 深夜にも関わらず灯りをつけないまま、私は彼女の身体を愛撫していた。
「私の身体が見えてるみたい」
 彼女は私の愛撫に対し、そう漏らした。事実、私は灯りのない部屋でも彼女の姿を見ることができる。夜の住人であるが故の暗視能力。手探りではなく的確に彼女の性感帯に触れていく。
 一瞬、不審に思われていないかと考えたが、彼女の艶やかな裸体を前に冷静に思考する力は失われ、男としての本能に従って愛撫を続けた。
 乳房を撫でるように手のひらで包み込み――常人以上の怪力を持つため、なるべく強く触れないよう心がけていた――顔を彼女に近づけて口付けを交わした。しばらく舌を絡め合うと、私は唇を離す。そして舌だけを彼女の口元から首筋を通って胸元までなぞろうと頭を下げ――動きを止めた。
 やはり抗えないのか。とうとう限界まで高まった吸血衝動が私を襲った。脳から全身に伝わる命令。その美しい首筋に噛み付き、満たされるまで鮮血を啜れと。
「どうしたの?」
 急に動きを止め、小刻みに震える私に彼女が声をかけた。限界は近い。
 それはとっさの判断だった。私は左手の人差し指を握ると、渾身の力をこめてへし折った。
 激しい痛みに呻く。だが痛覚を走り抜けた衝撃は吸血衝動を一時的に押さえ込むことに成功した。だがあくまで一時的だ。私はそのまま中指から小指までを順番にへし折り、痛みにもだえた。
「どうしたの!?」
 彼女は暗くて私が何をしたかのか分からなかったのだろう。だが指を折ったときの音は聞こえたようだ。彼女は心配そうに私に触れた。まずい、そう思い私は彼女の手を払いのけると、ベッドから飛びのいて距離を開けた。
「すまない」
 その一言をなんとか喉から搾り出す。早くこの場から離れなければならない。
 私は服も着ずに彼女の部屋から飛び出した。彼女の声が遠くなる。だが振り返らずに――正確には振り返ることができなかった――夜の街を駆けて行く。怪物としてのポテンシャルを最大限に発揮し、自動車にも匹敵する速さで私はどこか身を隠せる場所を求めた。
 自宅に戻るわけには行かなかった。すぐに彼女に見つかってしまうから。屋根があり、不法侵入しても気づかれない、そういう場所が好ましかった。
 夜が明ける前に身を隠さねばならない。タイムリミットは数時間。冷静な思考能力を失った状態ではいくら速く動けようと、条件に合う場所をなかなか見つけられることができなかった。
 皮膚がひりひりと痛み始めた頃に、ようやく人気のない廃工場を見つけることができた。間一髪だ。
 私はただそこでひたすら衝動が収まるのを待った。利きすぎる鼻が彼女の残り香に過敏に反応し、落ち着くまでにかなりの時間を要した。
 次第に思考能力が戻り、様々な考えが巡りだした。
 選択肢はもう一つしか残されていない。私はもうためらわない。彼女を愛しているから。
 そもそも最初に覚悟を決めた時点でしっかりと縁を切るべきだったのだ。吸血衝動があるにも関わらず恋人になり、性行為に及ぼうとした。このような状況になるのは目に見えていたはずだ。絶対に彼女の血を吸ってはならないのに。自分はなんて愚かなのだ。でも、なぜ? なぜ彼女の血を吸ってはいけないのか。彼女が傷つくから。それは肉体的に? それとも精神的に? 両方だ。でも肉体的につく傷は些細なものだ。でも精神的に大きな傷を負ってしまう。どうして? 自分の恋人が怪物だったという事実を突きつけられるから。では、もし彼女がそれを受け入れてくれたら?
 ……受け入れてくれたら、どうなるのだろうか。吸血衝動を抑えることなく、吸血鬼として彼女と生きていくことになるのか。
 まさに、私にとって理想的な未来。新たに生まれた、一抹の希望。
 やはり私は自分のことしか考えていない。
 私はゆっくりと立ち上がると、廃工場から外に出た。真っ暗な空。
 彼女と離れたくない。

 自宅に戻ると、彼女がいた。合鍵で入って、昨夜からずっと私のことを待っていたらしい。私の姿を見るや否や、勢いよく抱きついてきた。
「心配したんだから」
 彼女は目に涙を浮かべながらそう言った。
「……すまない」
 彼女の匂いが鼻腔をくすぐる。胸の感触が本能を刺激する。収まった吸血衝動が、再び現れる。そう長くは持たない。
「大事な話があるんだ」
 彼女の身体を引き離すと、私はその場にしゃがみこむ。彼女も頷き、その場に座った。
「ずっと隠していたことがある。今それを打ち明けようと思う」
 私の表情を見て察したのか、彼女は背筋を伸ばした。さあ、言おう。

 全てを告白した後、彼女は悲しそうな顔をしながら少しうつむいていた。
 嘘みたいな話を最後まで彼女は真剣に聞いてくれた。決して笑い飛ばしたりすることなく。化物としての私と正面から向き合ってくれているような感じがして嬉しかった。
 今はただ、返事を待つことしかできない。彼女を信じるだけ。
 しばらくして、彼女は顔をあげて言った。
「正直に言うとね、ちょっとショック。……ううん、ちょっとなんてものじゃない。だけど……」
 彼女は立ち上がると、私のもとに歩み寄り、抱きしめてくれた。
「それでも私は、あなたが好き」
 夜の怪物である私を肯定する一言。私も彼女を抱き返した。
「……好きでした」
 耳元でささやかれる過去形の一言。それと同時に背中に激痛が走った。
 刃物――おそらくナイフ――で背中を刺された。傷口が焼けるように痛み、そこを中心にして身体が溶けていくような感覚――否、実際に溶けていた。
 銀製……か。
 私はその場に崩れ落ちた。

 ――――わずかな時間。一瞬と言ってもいい。
 これが走馬灯か、というのが感想だ。死が目前に迫っているのに、のんきにそんなことを考える。
 それにしても、百五十年生きて最後に思い出すことが全て彼女に関することだとは思わなかった。それだけ私は彼女に陶酔していた。愛していた。
 だが、私はその彼女に殺された。どうしてだろう。私たちは愛し合っていたはずなのに。
「任務完了」
 彼女は冷たく、そう呟いた。力を振り絞って首を動かし、見上げる。彼女も私を見下ろしていた。
 なんということだろう。彼女は狩人だった。人類と相容れぬ怪物を殺めるハンター。
 私は見事に騙されたわけである。彼女の色仕掛けにまんまとかかり、骨抜きにされた哀れな獲物。例える必要もない、まさに彼女は銀の弾丸。見事に私を撃ち抜いた。
「全部……嘘だったのか」
 むなしかった。全ての葛藤が無駄だった。こんなに生き生きとしたのは久々だったのになあ。
「私は本当のことを口にしなかっただけ」
 彼女が言う。
「だから、今まであなたに言った言葉は嘘じゃない。そしてこれからも、嘘を言うつもりはない」
 どういうことだろう。朦朧とする意識の中、私は必死に考えた。
「あなたが自分から正体を言わなければ、私からは何もしなかった」
 彼女の手が震えている。そういうことか。
「あの夜、そのまま私の血を吸ってくれてよかった」
 彼女は私に背を向ける。そのままゆっくりと玄関へ向かって歩いていく。そして玄関の手前で立ち止まった。
「さようなら。私はあなたを愛してました」
 ああ……。やはり彼女は彼女だ。殺されたのに好きになってよかったと思ってしまう。素敵な日々だった。幸せだった。
 彼女は銀の弾丸。
 私は身も心も溶かされる。

       

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