Neetel Inside 文芸新都
表紙

暇つぶし
とある小説家の現実逃避

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 先手必勝!
 私は手垢と雑菌まみれのキーボードを掴むと、ニヤニヤと薄汚い笑みを浮かべる奴の顔面に全力で叩きつけた。
 鈍い音が鳴る。奴は鼻と口から血を垂れ流して大きくよろめいた。隙だらけだ。容赦はしない。
 私はパソコンのモニターを両手で持ち上げると、顔を押さえている奴の頭に思い切り振りおろした。
 先ほどよりも大きな音。これは効いたぞ。奴の足はガクガクと震えている。少し小突いただけで倒れそうだ。
 というわけで、私は右足を上げると渾身の力を込めて奴の土手っ腹を蹴り飛ばして……否、小突いてやった。
 面白いくらい簡単に、奴は吹き飛んで数メートル先に仰向けで倒れた。右手は顔を、左手は腹部を押さえている。
 これで終わると思うなよ!
 大きく跳躍すると、私は奴の腹の上に着地した。苦しそうなうめき声が上がる。いい声で鳴くじゃないか。
 私はそのままマウントポジションを取ると、にたりと笑う。奴の顔が恐怖で引きつる。これからされることを悟ったようだ。
 拳を握る。素人がそのまま殴ると拳を痛めやすいらしいが、今の私には関係ない。
 右拳を振り下ろす。奴の顔がゆがむ。左拳を振り下ろす。奴の顔がひしゃげる。
 何度も何度も繰り返していると、必死にがードしようともがいていた両腕がぐったりとしたまま動かなくなっていた。奴の目に光がない。
 勝った! 私は勝利した!
 例えようのない解放感と高揚感。私は右腕を天に突き上げて雄たけびを上げた。
 私はとうとう奴を、〆切を倒したのだった!


 ……。
 …………。
 ……………………はあ。
 時間ってやつはこういうときに限ってあっという間に過ぎていく。つい先ほどまで一を差していた長針が今では十二に差しかかろうとしている。無駄にした時間はおよそ一時間。
 マウントを取ってからのフルボッコ殴りまクリスティ状態で時間を食ってしまったのだろうか。思えばそうとう殴り続けていた気がする。
 しかし脳内の妄想世界と現実の時間の流れの違いにはいつも驚かされる。つい先ほどの〆切を擬人化していたぶるだけの妄想で一時間弱だ。
 妄想中はとても楽しかったし気持ち良かったが、今ではそんな気持ちは雲散霧消。どこにも残っちゃいない。
 再び大きなため息をつくと、目を逸らしたい現実を映しているパソコンのモニターと再び向き合った。
 画面内にはテキストエディタ。本来ならぎっしり打ち込まれているはずの文字が、そこには一つもなかった。真っ白である。
 一応小説家である私は、このテキストエディタの中に物語を綴るのが当面の仕事なのだが、どうにもうまくいかない。物語が、アイデアがまったくもって浮かばないのである。
 まあ、そんな簡単に浮かべば星の数ほどいる世の中の小説家は誰も苦労しないのだが、現在の私は簡単に浮かんでくれなければ困る状況にいるのである。
 先ほど脳内で完膚なきまでに叩きつぶした〆切糞野郎だ。現実世界の奴は現在進行形で私を追い詰めている。一秒一秒、じりじりと。
 〆切は明日。しかしテキストエディタは真っ白。幸い書かなければいけないのは短編なのだが、それでも厳しいことに変わりはない。
 とある文芸誌に載せる短編だ。小説家としては鳴かず飛ばずの私に入ってきた久々の仕事である。断るわけにはいかなかった。この話を持ちかけられたときは、短編を一作くらいならと余裕な態度を見せて承諾した。まだ記憶に新しい。
 だが現実は違った。余裕なんてかけらもなかった。
 私は小説家ではあるが、それはあくまで副業。普段は会社勤めの冴えないサラリーマン。つまり兼業作家なのだ。
 本業の方がこれまた忙しく、残業との戦いを繰り返していた。帰宅しても風呂に入って即就寝。起きたらすぐに会社へ向かう。ここ最近はそんな毎日だった。
 こんな生活なのだから執筆に時間を割くことができなかった。幸い休日出勤はなかったが、二日間程度の休息では仕事の疲れを癒すのに精いっぱいで小説を書く気力などなかったのだ。
 その結果、残業の疲れを癒しきれないまま私は今パソコンの前で鎮座している。正直言って書きたくない。だからと言って放棄するわけにはいかない。
 ああ……辛い。どうして私は小説家になったのだろう。デビューしたのは五年ほど前だったか。
 妄想好きな性格が転じて小説を書くようになり、いつのまにかプロになっていた。アマチュア時代やデビューしたての頃は小説を書くのがとても楽しかった。
 一度、あの頃の気持ちを思い出してみるべきではないだろうか。
 私は静かに目を閉じる。
 あの頃は、自分が脳内で楽しんでいる妄想をありったけぶつけて小説を書いていた。それがたまらなく楽しかったのだ。
 もう一度、妄想をぶつけてみるべきではないか。楽しい妄想を、全力で。
 そう考えた瞬間、私の脳内で奴がむくりと立ち上がった。〆切の糞野郎だ。俺ともう一度戦おうというのか。
 いいだろう。先ほど以上に完膚なきまでに叩き潰してやる。今の私の妄想力をなめるなよ。
 戦いが始まる――――――戦いが終わる。妄想終了。再び奴を潰してやった。もう二度と起き上がれぬほどに。
 楽しかった。気持ちよかった。最高だった。先ほどの戦い以上の達成感。やはり妄想は楽しい。


 そうだ、今の戦いを綴ろう。今の妄想をぶつけよう。
 死に絶えていた創作意欲が息を吹き返す。私は熱が冷めないうちにキーボードを叩き続ける。小気味の良い音が静かな室内に響く。
 第一稿はあっという間に書き上がった。先ほどの妄想を元にした短編、擬人化した〆切の話。中々面白いものが書けたのではないか、という自負。まあ書きあげた直後は誰だってそう思う。このまま一晩寝かし、明日起きたらちゃちゃっと推敲して担当編集にメールで送るとしよう。
 ああ、疲れた。もう夜も遅い。ゆっくりと寝ることにしよう。私はパソコンをシャットダウンする。
 翌日、私は推敲を終えて無事原稿を担当に送った。現実でも〆切を打ち倒したのだ。実にすがすがしい気分だった。
 それから少しして、私の書いた短編が載った文芸誌が発売された。本屋に寄るとついつい立ち読みしてしまう。自分の書いた小説が形になっているのを見るのはいつだって気分がいい。
 本業の方も落ち着き始めて残業もかなり少なくなった。今では身体的にも精神的にも健康な生活を送っている。
 そんなある日、嬉しい知らせが担当編集から届いた。
 私の書いた短編がかなり好評だというのだ。文芸誌の少し硬い雰囲気を無視した破天荒な内容が読者に受けたとのこと。
 さらには、その文芸誌で連載をしないかという話も舞い込んできた。鳴かず飛ばずだった小説家人生にも明るい光が見えてきた。
 私はそれに二つ返事で承諾した。大変なことかもしれないが、今回のように妄想を全力でぶつければ、きっと問題はないはずだ。
 そしていつかは、ベストセラー作家に。そんなことを夢見て――






 ……。
 …………。
 ……………………はあ。
 やっぱり時間が経つのは早い。気づけば日付が変わっている。
 そうだよ、今の話はもちろん妄想だ。私のおめでたい脳みそが生み出した作り話だ。
 どこからどこまで? 〆切糞野郎を叩きつぶした妄想を小説にしたところから全部だ。そして私の目の前にある真っ白なテキストエディタが現実ってわけである。
 デビューしてからも妄想をそのまんま形にした小説を書いて、その結果が鳴かず飛ばずの現状なのだ。同じやり方でうまくいくわけがない。
 追い詰められて火事場の馬鹿力的な何かが目覚めるわけでもなく、いつも通り意味のない妄想に逃げる。だんだん自分に悲しくなってきた。
 さて、私はどうするべきか。
 答えは一つ。諦めるしかない。
 今から徹夜したって面白い短編が書けるわけない。そもそも私は遅筆なんだ。無理無理。絶対無理。
 今日はもう寝た方がいいかもしれない。それがいい。そうしよう。
 私はパソコンをシャットダウンすると、静かに布団にもぐりこむ。
 明日……いや、今日か。担当になんてメールを送るか、目を瞑ってゆっくり考えよう。短編を考えるのは無理でも都合の良い言い訳くらいならきっと思いつくさ。きっと、ね。






 終

       

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