Neetel Inside ニートノベル
表紙

ぱんちら・ぱにっく/性春狂騒曲
ぱんちら・ぱにっくⅠ

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 ぱんちらを見れるなら死すらいとわない。そう言った人がいた。
 僕はそれを聞いて、なんとも見上げた根性だと思った。
 その偉大にして親愛なる人物はぱんちらだけを求め続けて、求め続けて、求め続けて、あらゆる人のあらゆる場面のあらゆるぱんちらを収集し、総てを記録し保存し分類しつくすまで、この探求は終わらないと高らかに宣言した。
 僕はその神々しいまでの威厳に満ちた姿と、自信溢れる聖なる言葉にただただ感動するしかなかった。
 かつて歴史を動かしてきた偉人たちは皆、その他のあらゆることを二の次にして、自らの望むところを実現するべく邁進し続けた。そうして我々人類は発展してきた。ジーザス・クライスト、ウラジーミル・イリイチ・レーニン、釈迦、ユリウス・シーザー、マホメット、トーマス・アルヴァ・エジソン、ガリレオ・ガリレイ、毛沢東、チャールズ・ダーウィン、アレクサンドロス大王、ナポレオン・ボナパルト、ニコラウス・コペルニクス。ぱんちらのためなら死ねるといったこの人もまた、こうした偉人たちに並ぶべき巨大な器を備えているに違いないと思った。そして実際に、僕はその大器の片鱗を何度も目にした。
 ただ残念なことに、あるいは喜ばしいことに、もしくはよくわからないことに。
 その偉人足るべき人物はこれらの偉人とは共通しない、ある特殊な形質が――いや、そのことについて言及するのはまだ止しておこう。どうせすぐにわかることだ。
 さて、退屈なプロローグはこれまでにしておこう。その前に一つ付け加えておこう。このお話にはドラマチックなことは何もないし、スペクタクルもサスペンスも存在しない。ただ僕の重たい自意識が、まるで石のように、どこまでも落下したり、やがて地面にぶつかったり、また誰かに拾い上げられたりするだけのお話だ。傷だらけで恥だらけのお話だ。それでも何か、何ごとか、あなた方の目にかけるに値するなにものかが存在すると信じて、このお話を語る。
 それでは、物語のはじまりはじまり……

  ☆

 僕とその人物の出会いは、葉桜の茂りはじめる季節のことだった。それに先立つこと一月前、四月の高校入学の日を前にして、僕の瞳は若々しくきらきら輝き、黒曜石もかくやというほどだった。この両目を宝石商に売ればハイブリットカーくらいニコニコ現金払いで即決購入できてしまうことは間違いなかったが、まだ視力は惜しいのでやめておいた。しかし、視力が惜しくなくなった頃には瞳の輝きなど失われているのだという悲しい現実に僕の宝石からはらはら涙が落ちた。その涙は水晶のごとく光を乱反射して、さらに僕の瞳にきらきらを添える。もうきらきらしすぎて前が見えないと言ってもいいくらいだったがさすがにそれは嘘なのだった。
 なぜこれほどに僕の瞳が輝いていたかというと、ひとえに高校生活というものに対する期待のためである。門を開くように未来が開けて、薔薇色か黄金色かさもなくばどどめ色の世界が到来するに違いないと信じていたのだ。来るべき新世界がマストフューチャーでパラダイス銀河なのである。なんだか我ながらよくわからないが、それほどまでに僕は興奮していたのだ。思い返せば中学時代は一貫して目立つことはなかった。愛情も憎悪も歓喜も嫌悪も表明する機会を与えられず、いくつかの単語を喋りながら腰を振る植物のおもちゃと同等程度にしか扱われなかった。しかし今やそうした時代は過ぎ去り、新しい世界がやってくる。そして環境が変われば全て代わるはずだ。そう信じていた。
 だがその時の僕は気づいていなかった。いや、うすうす気づいてはいたが、認めようとしていなかった。
 すなわち、そういうことは全部、環境ではなく、僕自身に原因があるのだと。
 そんなこともわからずに、僕の瞳はきらきらと、ばかみたいに輝いていた。
 入学式を終え、クラス紹介、学校案内、教科説明等々の定められた手順を踏んで、僕たち新入生はこの私立エトワール学園というエル・ドラド(だと僕は思い込んでいた)について理解を深めていった。
 そうして、めくるめく新生活の日々は幻燈のように目の前を通り過ぎ、その渦中で翻弄されながら、一月がすぎた。気がつけばそろそろ高校生活三年間を規定する一大イベントの始まりだった。
 部活動選択期間である。
 我が高校では全校生徒が部活動や同好会活動に所属することになっている。もちろん適当な部に幽霊部員として所属して、この規則を回避することもできたが、大部分はいい機会だからと部活動という名の内燃機関で青春を燃やす。そして青春時代という巨大な歯車を稼動する。ごうごうと唸りをあげて、汗と涙となんだかよくわからない液体を撒き散らしながら機関は稼動して、卒業する頃に大きな満足感と未来への希望をもたらすのだ。、この大いなる運動に参加しないことはすなわち、広大な平原に一人取り残されるに等しい。そんな惨めなまねはごめんだった。
 中学の頃のような過ちは繰り返さないと誓ったのだ。
 部活動紹介の集会が挙行される日、僕ら新入生は、餌を与えられる豚みたいに、ぎゅうぎゅうに、いや、ぶたぶたに、体育館に詰め込まれて、そして僕達は餌を与えられる豚みたいに目をキラキラ輝かせて、これから始まる新たなる日々の前奏曲《プレリュード》を待ち望んでいた。まずはトッカータに校長の挨拶から始まり、そして生活指導の教諭によるアレグロ、コーダ、タンジェントがアンダンテでアルデンテ。念のために言っておくが、僕に音楽知識は皆無である。
 やがて各部の紹介が始まる。演壇で、入れかわり立ちかわり先輩方が自らの所属する部の利点と優位性について、保険外交員よりもわかりやすく説明していく。時には寸劇を交えたり、実演を挟んでみたりしながら。そうした独創性あふれる説明のいくつかは高尚すぎて理解に苦しむものもあった。たとえば、文藝部の紹介がそうであった。演壇に二人の男女が立ち、なにやら小芝居を始めたのだ。見た限りでは漫才と呼ばれる演技形式のようなのだが、彼らが口にする台詞は僕の常識と照らし合わせると、どうも漫才の必須要素とされる笑いには結び付かないように思える。真空みたいな静寂の中で繰り広げられるボケのようなものとツッコミのようなものの応酬は、一種異様な雰囲気を醸し出していて、そのうち僕ははたと、これは前衛演劇に違いないと気づく。文藝部が前衛演劇を行う理由は見当もつかないが、それも含めて前衛なのだろう。しかし残念ながら、僕にこの演劇を理解するだけの芸術的素養はなかったようだ。もしや自分だけがこの審美的挑戦に翻弄されているのではと不安になって、あたりを見回すと僕だけではなくみんなが一様にぽかんとアホ面を晒していた。素晴らしい前衛演劇を披露した先輩は、芸術を理解しない僕ら新入生に怒る素振りもなく、曖昧な薄笑いを浮かべて袖へと引っ込んで行った。敬服すべき人徳であるといえる。高校生にしてあれほどの難解な劇に挑戦するとは、恐るべき才能だと言うほかないが、一つだけ苦言を呈すなら、どこか僕が見ていないところでやって欲しかった。
 それからいくつもの部活動の興味深いパフォーマンスを目にして、僕は高校生というものの創造性と体力に感銘を受けていた。これから部活動を通してこの素晴らしい人達の一員になれるのかと心躍った。
 やがて集会は終わり、床には長机が並べられ、新入部員の受付が始まった。大勢の同級生たちが我先にと入部申込書片手に行列を形成していく。僕も負けじと目当ての部活動の列に並び――
 ――三十分後には、まだ入部手続きの列に囚われている同級生たちを尻目に、中庭でなにするでもなくぼんやりとしていた。
 体育館は二階建ての鉄筋コンクリート造りの建物の二階にあり、その一階は弓道場となっている。中庭はその裾野にあって、ここからでは体育館の様子はよく見えない。見上げても張り出した渡り廊下を歩む生徒達が見えるだけだった。
 空を見上げた。時々風があったが、基本的に雲もない良く晴れた静かな空だった。
 さて僕は、誰よりも早く意中の部活動を見初め、婚姻届を提出したわけでは、もちろんない。その逆である。三年間の高校生活の伴侶たるべき部活動をついに見定められずに、ただ途方にくれているだけであった。
 決して部活動に入る気がないわけではない。決意をしても、笑顔の国勢調査員みたいに新入生を次々と部員名簿に加えて行く先輩たちの前にいざ立つと、その不安が一気に実感を持って僕の手足を縛ってしまう。僕をテニスのプリンスにしてください、とか甲子園のマウンドで死にたいんです、とかボールはフレンド、とか言えなくなってしまうのだった。代わりに、もう少し考えてみます、などとほとんど聞き取れない声でごにょごにょと言ってその場を逃げ去ってしまうのだ。
 ぼんやりとした不安だけが僕の心にあった。すなわち、あんなに独創性と体力に満ちている人達に交じって、僕のような人間がひとかどの位置を占められるのかという不安であった。中学の頃は何もやらせてはもらえなかった。しかしそれは逆に、何かすることを期待されていなかった、ということでもある。もしこれから部活動に所属して、大勢と関わることになれば、そうはいかないだろう。そうした期待に晒されて、僕は一体何かができるのだろうか? ほんの三十分前までは、必ずやこの素晴らしい人たちの一員となり、輝かしい日々を手にいれるのだと決意していたというのに、かいわれ大根のごとき折れやすい意思なのであった。
 僕の意思がかいわれなら、肉体もまたかいわれである。そこもまた不安な点であった。もし体育系の部活動に所属して、僕の基礎体力が小学生児童並みであることが露呈したら、一体どうなるであろう。排斥されることも嫌だったし、気を使われて腫れ物のような扱いになるのも嫌だ。それならばこそ、体育系の部活動に所属し体力を養うべきではないかという忠告の声が聞こえるが、そういう方々は、うまくなってかられんしゅうする、というかの有名な野比氏の名言を知らないのであろうか。
 ……いや、心配には及ばない。もちろんわかっている。だから僕はダメなのだ。
 健全な肉体に健全な精神は宿るというが、僕の場合は肉体が不健全だから意志も薄弱になってしまったのか、それとも意志が薄弱だから肉体の研鑽を怠って不健全になってしまったのか、そんな疑問が浮かび、肉体と精神が責任のなすり合いをはじめる。しかし僕には分かっていた。この問いは、鶏が先か卵が先かと問うようなものなのだ。明確にどちらが原因というものではない。両方が原因であり結果でもあるのだ。心が弱いからこそ、身体が動かないのだ。身体が動かないから心も強くなれないのだ。堂々巡りなのだ。負の螺旋にとらわれてしまったのだ。落ちる石と同じだ。いくらもがいても、重力からは逃れられない。人間の心も同じことだ。一度重力に囚われれば、落ちるしかなくなる。つまり僕は弱すぎて、これ以上強くなることを望むことは絶望的に無理なのである。
 このようなことを臆面もなく表明するのは些か卑屈に過ぎると思われる向きもあるかもしれないが、これは揺るぎのない事実であり、すなわち僕は決して自己否定によって相対的に自分の地位を保全しようとしているわけではなく、ただ博物学者のごとき怜悧さと客観性を持って、僕という一つの現象を記述しているに過ぎないということを理解していただきたい。なんて理屈を考えること自体、人間失格の証明のようなものだった。
 ならば青春系の汗臭い部活ではなく、より緩やかな、和み系の部活に所属すればいいではないかと思われるかもしれない。しかし、そうはいかない。そうした部活で馴れ合うことは、積極的に僕が軟弱であると認めることに繋がる。プライドだけは高いかいわれなのだ。確かに僕はかいわれ大根だが、ブロッコリー・スプラウトよりは強いと思い込んでいるのだ。アホの極みである。
 肥大した自意識が重たくて、僕は頭を抱えた。その時、風が強く吹いた。思わぬ強風であった。散り損ねた桜がはらはらとここぞとばかりに舞い落ちた。あたりを見回してみると、どうやらこのあたりは建物の配置の関係上、ビル風のような仕組みで風が強まるらしい。
 呼び込みの声は少しずつ小さくなっていて、今ではもう僕の耳に届かない。どうやら入部申し込みの時間は終わってしまったようだ。総ては後のカーニバル。この流れに乗れなかった僕に残された道は、もはや誰も知るもののない部活動でひっそりと余生をすごすことのみ。盆栽部とかあるだろうか。そんなもの、望んじゃいなかったはずなのに。千恨万悔の念を持って、僕は体育館のほうを見上げた。
 その時だった。僕の視界に大事件が起こったのは――
(次回予告――クロード・モネ『散歩・日傘の女』、固有名詞つき人物紹介つきの対象a、桜島大根、二十五セント玉。次回へ続く……)

       

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