Neetel Inside ニートノベル
表紙

ぱんちら・ぱにっく/性春狂騒曲
ぱんちら・ぱにっくⅡ

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 僕の視覚に生じた大事件とはつまり、体育館から張り出している渡り廊下の手摺りにもたれた、一人の女生徒が視界に写ったというそのことだった。くっきりぽっかりと、そこにだけピントがあったような、他の総てが白くぼやけてしまったような、そういう印象があった。
 その女生徒はただのありきたりな人物ではないと確信できた。
 通行人Aでも村人Bでもモブでは決してない(もちろんモブ・ノリオでもない)。固有名詞つき人物紹介つきの対象aだ。一目見れば誰でも、しばし彼女に視線を留めずにはいられないだろうことは万人が承服するところであろう。
 モネの筆による婦人像のような、愛らしい顔立ちだった。とはいえもちろん彼女の顔が印象派の技法によって描かれているわけではもちろん、ない。ただの比喩である。そこは誤解なさらないで頂きたい。いくら素晴らしい光景でも、現実世界が点描で描かれていたりすることはまずない。
 しかし、僕にはそのように見えたこともまた事実である。彼女の周囲の空間は、まるで特別な光で照らされたように、達人の絵筆で表現されているかのように、一種異様な緊迫感と荘厳さを持って僕の目に写った。
 賢明にして博覧強記たる読者諸兄なら、「散歩・日傘の女」というモネの絵を当然ご存知だろうと思う。僕はあまりよく知らない。知らないのだが、この時僕は、その絵を強く意識した。
 去年中学校の社会見学の一環として訪れた、印象派展でただ一度だけその絵の実物を見たことがある。僕はモネの素晴らしい絵筆の冴えに感激し、神がこのような才能を彼らにお与えになったことを感謝しながら、三秒でその絵の前を通り過ぎた。お土産にはアルチンなんとかという画家が描いた野菜人間の絵葉書を買った。
 印象派なんかに興味はなかったのだ。もっと言うなら、美術そのものに興味がなかった。感動するほど美しいものなんか、あるはずがないと思っていた。
 しかし今ではその立場を転換せざるを得ないことは明らかであるようだった。確かに、この世に絶対的な美というものは、存在する。それはしかも、今、目の前にある。「散歩・日傘の女」は僕の脳裏に映し出されていた。目の前の光景とオーバーラップするように。
 もちろん背景は違うし、彼女も白いドレスなんかまとっていない。背景は薄汚れた体育館で、彼女はグレーの可愛らしいが地味なブレザーの制服を着用している。それでもなお、青空に爽やかに映える白い雲と、彼女の持つ底知れない魅力によって、その光景は名画のごとき感動を僕に与えたのである。
 僕のかいわれ大根な意志が、この時ばかりは桜島大根となった。その胴回り、ギネス級である。簡単には折れないし、大根おろしにすれば甘味があっておいしい。秋刀魚と一緒にいただきたいが、残念なことに今は春で秋刀魚の旬ではない。後半年遅ければよかったのだが、そうすると目の前の好機をみすみす逃がすことになってしまっていたので結果オーライといえるが我ながら何を言っているのだかよくわからない。
 僕は矢も盾もたまらず駆け出して、渡り廊下へと伸びる階段を昇った。その階段が、僕にはダンテがウェルギウスに導かれて上った天国への梯子に思えたといっても過言ではない。
 昇り切ると彼女はまだ手摺りにもたれてぼんやりとしていた。その姿はどこか儚げで、まるで世界の終わりか何かを待っているように見えた。ブリジット・バルドーのような高貴なけだるさがその全身から発散されている。
 なるべく平常を装って彼女に近づいた。口笛を吹いて、ああ退屈だ退屈だなどとつぶやきながら、雲雀が松の枝ではなく楡の枝を選択したというほどの意味もないと言うようなような調子で、彼女の隣に並んだ。そして横目でこのオードリー・ヘプバーンやクレタ・ガルボに勝るとも劣らない僕のファム・ファタールを観察した。
 彼女が僕と同じ学年であるのは、制服の胸元にあるリボンの色を見れば分かる。
 長い髪は真っ黒で、クロテンの毛皮のような艶やかさがある。体躯は小柄ながら、節々から女性らしいラインがのぞいている。しかし全体としてはまだ幼く、満開となる一歩手前の桜のようだった。
 往々にして、物事は最盛の一歩手前が最も美しい。最後の一筆を残すばかりとなった絵画のような、最後の一振りを待つ彫刻のような、最後のの一小節を残した音楽のような。素晴らしい芸術品だと言うほかなかった。
 いつまでも見つめていたかった。しかし、そんなことをしては即刻不気味がられて、何か用ですか? ていうか何で生きているんですか? 酸素がもったいなので呼吸するのやめてくださいと言われてしまうに違いない。あくまで不信感を与えない程度に、控えめに、さらりと、ねっとりと、しつこく、じっくりと……
「何か用ですか?」
 どうやら彼女は沈没船の鼠並に勘が利くようだった。僕の細心の注意にも拘わらず、彼女は僕の邪な思いを嗅ぎ付けてしまったようだった。
 惚れて五分で失恋などという事態は三代先まで語り継がれてしまうこと間違いないので、口からでまかせを言うことにした。
「や、僕もいつもここから下を見ているので」
「そうだったんですか」
「ええ、そりゃもう、僕は中庭観察にかけてはエキスパートと言っても過言ではないくらいで」
 彼女の眉が不審げにひそめられる。
「それで何でわたしのことをじろじろ見てたんですか?」
 しどろもどろになりながらも、無理矢理に言葉をつないだ。
「いや、この穴場を知っている人が外にもいたなんてと思って」
 すると彼女の顔がぱっと華やいだ。
「そうだったんですか。よく見えますからね、ここは」
「そうそう、ここはよく見え……って、え?」
 何かがよく見えるらしかった。彼女は僕の顔を見た。きらきらと輝く瞳がまともにぶつかる。
「同好の士が見つかって嬉しいです」
「はは、そうですね、僕も嬉しいです」
 なんだかよく分からなかったが、とりあえず話を合わせておくことにした。
 ふと見ると彼女の手には白紙の入部申込書が握られていた。
「あなたも部活動が決まらないのですか?」
「ええ。どうやらわたしのやりたい部活動はないようで。ですから、もう自分でつくって仕舞おうかと思って。でも、一人では部活動どころか、同好会の設立もできないみたいで……」
 情熱的な炎と物憂げな水が、天使の風貌からちらりちらりと見え隠れする。僕は、この美しい少女は内面もまた素晴らしいに違いないと確信を抱いた。
「そんなに夢中になれるものがあるんですね」
「ええ、とても好きなんです」
 その好きなものとは一体何であるか、僕が問おうとした時だった。風が吹いた。眼下を歩んでいた女子生徒のスカートが、炎に吹き上げられた灰のごとく舞い上がる。
 彼女の手が動き、そしてしまわれた。目にも留まらぬ早業だった。しかし、僕は見た。
「すばらしいわ」
 美しき彼女は神業のごとき手さばきで写真撮影を敢行していたのだ。
 不覚にも己が下着をフィルムに定着されてしまった女生徒は、しかしその事実には気づいていないようで、あたりを見回し、頭上に不審な男がいるのを認め、そいつのことを鬼のような形相で一睨みした。
 正面から見たその女生徒は随分と整った顔をしている。しかし今その美しい瞳はまるで酒呑童子かアッティラか、というような殺意がこもっているように思えて、に僕はほとんど死にそうになる。しかし、もし目を逸らせば敵はすぐさまその隙をつき、我この場で命失うべしと僕はかいわれ大根の心を奮い立たせて、その視線を正面から受け止め続けた。すると彼女は奇妙な形に顔を歪めて、立ち去っていった。後で殺す、と決意したのかもしれないと思い、僕は尻のあたりに涼しいものを感じる。
「どうかしました?」
「いや、なんでも」
「建物の配置の関係で、ちょうどあそこで風が強くなるんです」
 彼女は中庭を指さし、その空力学的特性について嬉々として語っている。
「あ、失礼。エキスパートのあなたでしたらそんなこととっくにご存じですよね」
 彼女はばつが悪そうに顔を赤らめた。僕はそれを見て、桃の花が咲いたと勘違いした。桃の実はいつ生るのだろうかと期待した。でもよく見れば、それは桃の花ではなく彼女の顔だったので驚いた。
「ぱんちらはですね」
 彼女は遠くを見つめて、滑らかに語り出した。自信を持っている証拠だった。それは例えようもないほど美しい声だった。この声を聞いたら船が難破するに違いないので、後で海に近づいてはいけないと注意することを堅く決意した。
「隠されたる神秘と、その一瞬の侵犯。それがエロスの普遍的構造です。そしてぱんちらはそのもっとも端的な現出なのです。どうです、すばらしいと思いませんか?」
「はい、とってもすばらしいです」
 その僕の言葉は、自説を述べ終えた美しき弁論家の満足そうな笑顔に対してだった。
 風がまたつよく吹いた。僕らの立つ渡り廊下にも、その手は伸びる。その瞬間僕は急に、足元に二十五セント玉が落ちているような気がして、視線を落とした。そしてがっかりした。二十五セント玉は落ちてなかったし、不思議なことに彼女のスカートはどんな風にもちらりとゆらめくばかりで、その中身は一ミリたりとも表に現れようとはしないのだった。鋼線でも入ってるのかもしれない。
 彼女はうっとりした目でカメラを懐にしまい、それから僕の方に振り向いた。
「もしよろしければ、協力していただけませんかしら? 同好会の設立には、最低でも二人必要なんです」
「ええ、喜んで」
 返事はしたものの僕の心はここにあらず、彼女のスカートをこっそり普通のと取り替えればいいのかしら、とギリシア哲学の命題を考えていた。
「あ、そうそう。申し遅れました。わたしの名前は神山カミコです」
「僕は戌井イヌです。どうぞよろしく」
 そしてがっちり握手をかわした。彼女の手は猫みたいに小さくて、温たかだった。
 天にも昇る心地だった。僕は彼女を守る楯となろう。敵を討つ剣となろう。
 彼女は僕の手を両手で握りなおして、いたずらっぽく笑った。
「これでぱんちら同好会設立のための人員が揃いました」
 カミコのその姿は、感動的なまでにかわいらしかった。僕は熱に浮かされたように呟いた。
「がんばりましょう、がんばります」
 とりあえずは同好会設立の申請をして、運営費をもらおう。
(次回予告――優等民族たるドイツ人とドイツ国家社会主義労働者党、マタ・ハリ、完全犯罪)

       

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