ト キ ナ
終
二〇〇六年。
春。
国道からそれると、とたんにあたりは静かになった。大きな公園沿いの道。開け放ったハイエースの窓から、春のふんわりと温かい空気が入ってくる。
かつてあの高校に転入した日の空気も、確かこんなふうだった。そう回想して、年をとったものだと茎也は苦笑してしまう。二十六歳にもなれば、よくあることかもしれないが。
運転席の濱口靖夫が言った。
「ったくよお、おやっさんに感謝しろよ。オメーひとりの私用のために、車一台貸してくれてんだからよ。あと、運転手してやってる俺にはおやっさん以上に感謝しろよ」
「ああ、感謝してるさ」
「誠意がこもってねーなぁ」
「いちゃもんつけるなよ。本当に感謝してるよ……社長には」
「俺がいねーぞ俺が」くっくっと笑ってから、思い出したようにつづけた。「そういえば、歩美あてにこんな葉書がきてたのを勝手に持ってきたぜ」
作業服の胸ポケットから一枚の葉書をとり出す。
その薬指には、細いリングがはめられている。
濱口靖夫と吉田歩美は、成人式を迎える前に結婚していた。濱口いわく、なんとなくそうなってしまったらしい。とはいっても彼らの生活は充実したもので、五歳になる息子とは茎也も面識があり、たまに遊び相手になったりしてやっている。彼は背の高い茎也のことを遊具かなにかだと思っているらしく、いつも肩車を要求してくるのだった。
差し出された葉書を見て、茎也は薄く笑った。
「……どうせおまえにはきてねーんだろ?」煙草を潰しながら濱口は言う。
「ああ、こんな葉書、俺には届くべきじゃないんだよ」
差出人の名前には加瀬未来と丸っこい字で書いてある。裏をめくってみると『もうすぐ生まれそうでーす』というカラフルな文字と一緒に、加瀬太一とお腹の膨らんだ未来が並んでソファに座っている写真がプリントしてあった。この手の込みようは彼女らしい。
これだけ見ればただの手紙みたいだが、端のほうにちゃんと書いてあるのは『同窓会のお知らせ』というものだった。三年五組の生徒であった歩美には届いているが、茎也には届いていない。いや、実際はなかば行方をくらますかたちで転居し、届かないようにしたのだ。嶋原茎也など、卒業アルバムの中にしかいないみたいに。まっさらの状態から新しいスタートを切るためだった。
ただ、葉書を見ていると、自然と昔の記憶がよみがえってくる。雪の降る夜のことや、そのあとのことが網膜に再生されていく。
季菜が逮捕されたあとの三学期は、けして思い出したいものじゃなかった。
連続殺人犯が高校三年生の少女であったことは、いちおうニュースになったが、誘木をはじめとする政府機関の介入によって、全体像すら紹介されずに風化していった。
とはいえ三学期に入るころには、不退院季菜が犯人であることは、公然の事実として全校に広がっていた。刺された腹部の回復に時間を要したため、茎也が登校できるようになったのは二月のはじめだったが、どうせならもっと長く入院していたかったと思った。誰もが凶悪殺人犯の恋人である茎也を避けるようになり、ヒソヒソと喋る生徒の視線を全身に感じた。ときどき、誰の仕業かはわからないが、『おまえは殺人鬼と一緒』だとか『人殺しとエッチしましたごめんなさい』と書かれた紙が、机や下駄箱に貼られていたりした。
それでも、奈緒希はできるだけふつうに接しようと努力してくれ、濱口も、アウトロー同士がつるんだところで問題ないだろうと付き合いをつづけてくれた。
また――聞いた話によれば、加瀬は茎也を刺したことを告白したらしかった。中退はまぬがれなかったが、事件が季菜に関係していたので、誘木の暗躍により極力秘匿されたようだった。現にこうやって未来と素敵な家庭を築いているのだから、気にかける必要はないだろう。
卒業式では、桜の下で輪をつくる生徒たちの中で、茎也はひとりぼっちだった。けれど、寂しいとも悲しいとも思わなかった。目の前の世界に別れを告げるには、これぐらいのお膳立ては必要だと思っていた。
そんなときに、誘木から季菜の処遇が不定期刑であることを知らされた。その経緯はまるでわからなかったが、まともな裁判を経ていないであろうことは予想できた。特殊の中でも最高位で特殊なケースなのだから、当然だろう。だが、現代では重荷以外のなにものでもない護国十家の異端児を、体よく処分できる機会を政府が最大限に活用しなかったのは、誘木の尽力があったからなのかもしれない。真相は藪の中だし、試しに礼を言ったところで、彼から色よい返事が返ってくるとは思わなかったけれど。
とにかく――それを受けて、茎也は働きはじめた。
高校卒業程度で雇ってくれるところは限られていたが、濱口の父親の伝手(つて)で、とある工務店に彼とともに就職することになったのだった。
茎也は未来を見すえて、いつか訪れる再会を心の糧にしてストイックに働きつづけた。季菜の存在を隠し、なおかつ女性の紹介はいっさい受けつけなかったので、濱口以外の同僚からは無欲の変人と笑われたが、気にはならなかった。
そういった時間の中、夏に休みがとれれば、茎也は列車を乗り継いで暮東までいった。町は開発の波に晒されることはなく、いつも変わらない夏の匂いがしていた。
そこで茎也がすることは毎回同じだった。
最初にむかうのは北野の家。叔母の多恵に挨拶して、奈緒希の話などを聞く。彼女は京都の大学に進学して、今は出版社に勤めているらしい。電話をしても、彼女が話すのは仕事のことばかりで、いることはいるらしいのだが、「彼氏の話をしてくれないの」と多恵はいつも頬を膨らませている。
北野家を辞したあとは、共同墓地へ。田邊やほかの被害者に祈りを捧げる。
最後に訪ねるのは夷越山だった。獣道を上っていき、不退院の屋敷へと足を踏み入れる。すると着物を着た女性が奥からやってきて「いらっしゃい」とかすかに目を細めて言う。
挨拶をしにいくというのなら、多恵のところだけでは足りなかった。なぜなら、不退院四辻という女性にも、茎也はとても世話になったのだから。
季菜の逮捕後、四辻は家督を分家に譲ったらしい。そもそもそれ自体は前から話が進んでいたみたいで、一番厄介だったその正当な理由が“後継者の不在”というかたちで取りまとめられ、本家としての地位はほとんど零落し――そして、代わりといってはなんだけれど、誘木征嗣が屋敷に住みはじめた。その理由はわからないが、彼女が孤独に苛まれずに済んだことは、素直に喜べるものだった。
夕方になり屋敷を出ると、茎也は山のとある場所にいった。
天狗の腰かけ――茎也は四阿に座って、ぼんやりと空を見上げていた。その時間は、雪の夜に命を落とした少女の墓参りというよりは、逢瀬に近かった。
遠い夏の――幼き逢瀬。
蝉時雨に聞き入っていると、風が時を渡っていくような気がした。
そうしてふと浅い眠りから覚めると、目の前に――ひょっこりと着物姿の金髪赤眼の女の子が現れるのだ。カランコロンと下駄を鳴らしながらやってきて、小さな朱鷺菜は、小枝で地面に絵を描いて遊んでいたり、木の実を拾ってきて岩の上に並べたり、どこにでも咲いているような花をじっと眺めていたりした。彼女は、ずっとひとりで遊んでいた。悲しい顔ひとつ、楽しい顔ひとつせずに。そして太陽が沈んでいくと、彼女のからだは失われていく光に呼応するかのように透けていき、消えてしまうのだった――最後に茎也のほうを見て、不思議そうな顔を残して。
茎也はその姿を見ながら、いつしか思うようになっていた――彼女が間際に言った運命は、けっして嘘にはならなかったのだと。
ふたりがはじめて出会ったとき、互いにどこかで会ったような感覚を抱いた。それが惹かれ合う理由のひとつになっていたことは間違いがなくて、やはり、朱鷺菜の導きだと思わざるをえなかった。あの夏の思い出が、茎也の封印した記憶の中で、季菜の潜在的に共有した記憶の中で、そうさせたのだと思う。もしかしたら朱鷺菜がいなければ、ふたりはすれ違ったままで、同級生ですらない赤の他人として終わっていたかもしれない。
だから、言うなればそれは――彼女は運命だったと。
朱鷺菜という少女自体が、存在そのものが、茎也と季菜の運命だったのだと。
そう思えてしかたがないのだ。
(朱鷺菜……ときちゃん)
茎也は作業服の胸元から、小さな巾着袋をとり出した。常に首から紐でぶら下げているその中には――暗い星のような微妙な輝きを放つ小石が入っている。
彼女はこの未来を許してくれるのだろうか。いや、きっと大丈夫だ。なぜなら――ふたりが結婚する条件は、あの雪の夜に満たされてしまったのだから。
夕立の最中、彼女に伝えられた条件。
――そうだな……もし、おまえが――
小石を握りしめた。忘れまいと誓った、小学生だったころと同じように。
「ここらへんでいいか?」濱口が言う。
顔を上げて、茎也は頷いた。「ありがとう、おろしてくれ」
ハイエースは広い一本道の脇に停車する。アスファルトに足を下ろすと、運転席から濱口が身を乗り出してきて言った。ともに働くようになってから知った。彼はこんな優しい顔もするのだ。「嶋原……おまえらはこれからなんだからな。ちょっとくらい出遅れてもいいじゃねえか。これから、なんだってできるんだからさ」
「……ああ」
「んじゃ、あとで報告期待してるぜ」濱口は満足そうに煙草に火をつけて、ハイエースを発進させた。銀色の車体はすぐに小さくなって見えなくなる。
桜並木から、花びらがはらはらと舞い落ちてきていた。そのむこうに佇んでいるのは、高い塀に囲まれた施設だ。ガードレールに腰かけ、茎也は呟く。
「これから……だよな」
これまで茎也と季菜の空白のあいだに、桜は八回散った。
そして今日、九回目の桜が舞う中――彼女は帰ってくる。
朱鷺菜と出会って八年、季菜と出会って八年――トキナと出会って十六年だ。
しばらくして施設の出入り口に動きがあり、茎也は腰を浮かせた。
中から女が出てきたのだ。質素ながらも春らしい装い。鞄を両手に提げている。彼女はくるりと身を翻して、付き添ってきた看守の女性にゆっくりと頭を下げた――その際に肩から滑り落ちた髪が光を弾く。
不退院季菜。
かつての黒い翳りは時の流れに洗い落とされ、本来の金紗の輝きがそこにはあった。最初は心細そうに左右を見ていた季菜だったが、近づいてくる茎也の姿を認めると、ふんわりと笑みをこぼした。年をとったというよりは、大人びたと形容するほうが適切だろうか。
ただ――彼女には八年前の後遺症とでもいうべき、危うげな気配がかすかに感じられた。
でも、だから、目指すのだ。
治癒ではない根治を。
今ではない未来を。
「季菜」小さな右手をとる。
「茎也くん」大きな左手をとる。
そして茎也が荷物を引きとり、ふたりは桜舞う一本道を歩いていく。
その頭上を、どこの籠から逃げ出してきたのか、一羽の金糸雀が舞った。
――ト キ ナ〈完〉――