人のいなくなった学校というのは、古今東西、怪しげなモノが出るものだ。
所謂、七不思議――陰の落ちた階段は段数に誤差が表れるし、音楽室の偉大な作曲家はアイコンタクトを求めてくるし、人体模型はアスリートの真似事をするし、女子トイレにはおかっぱ頭の幼女が居を構えていたりする。男子トイレだったら色々とあぶないぞ、と思わず心配してしまうような話だけれど。
あれ? よく考えてみたら七つもないじゃないか。
まあ、そこらへんの足りてないポイントは、この中学校の欠陥の多さに比例しているのかもしれない。ここまでボロい校舎には、いくら怪奇でもあまり棲みつきたくないだろう。
それか――あるいは。
目の前の少女が――残りを、一手に引き受けているのかもしれない。
目の前。
正確には、超至近距離。
「ん……ふぁ、あむっ……ちゅぷ……じゅる……んんっ」
目と鼻の先で、いたいけな女の子が小さな口を目一杯使って、淫靡な響きを奏でている。
…………。
オーケイ、分かった、状況を説明しよう。
僕はまだ前途を閉ざされるには早すぎる。
僕は市立中に通う二年生で、彼女は数ある同級生の中の一人だ。僕らは、週に二日か三日ぐらいはこうやって黄昏時の教室に残り、僕が椅子にもたれた状態で、彼女はそこに正面から重なるようにして、チュッパチャップスを舐めても出ないような音を出している。
……何のフォローにもならなかったな。
チュッパチャップスだってそこまで音が出る訳じゃないし。
まあ、いいや。結局、秘め事であることに変わりはないのだから――と。
彼女は気が済んだらしい。「今日はもういいの?」と聞くと、「うん」と言葉少なにこくりと頷いて、そっと身体を引き剥がした。その口元には、まだ僕の若々しい体液が残っていたので指摘すると、彼女は少し恥ずかしそうにハンカチで綺麗に拭った。
僕は、はだけていたシャツを羽織り直してから学ランのボタンを留め、対して彼女は、セーラーのリボンを巻いた後は、億劫だったのか、いつもの二つのおさげは作らずに適当に髪を縛っていた。
そして、真っ白なマスクを耳にかけた――ところで教室のドアが開いた。
「んん? 一目散(いちもくさん)とアルノちゃん、何やってんの?」
突然の闖入者は、クラスメイトの井原(いはら)だった。体操服を着ているところから見ると、部活の合間にやってきたらしい。ロッカーを漁っている姿からは、僕らの関係を疑っている気配は感じられないが、何も答えないというのはどうしたって怪しいので、
「別に。たまたま教室で一緒になっただけだよ」
「ふうん」
部活動に参加していない僕らが、こんな時間まで学校にいる理由は聞かないんだよな。そういうところで能天気というか、善良というか、とにかくありがたい奴である。そんな井原は、じゃーねー、と手を振りながら教室を出ていった。……いや、あいつ、手ぶらできて手ぶらで帰っていったぞ。何がしたかったんだ、さすがは井原。
彼女が去って急に静かになったと思ったら、横から忍び笑いが聞こえた。マスクを介してもなお、澄んだ音色のそれは、アルノと呼ばれた少女のものだ(一応言っておくが、名がカタカナでも純正の日本人である)。
「どうしたの」
「井原ちゃんって、面白いよね」
「あー、疑うことを知らないんだ、きっと」
「ちがう、そうじゃなくって」
「え?」
「手ぶらできて、手ぶらで帰ってった……」
やっぱりそこか。
彼女のツボは、どうやら普通らしい。普通に――人間らしい。
それは、ふと感じた時に安心できることなのかもれないけど。それで平穏無事を信じられたなら、錯覚できたなら、幸せなことかもしれないけど。
残念ながら――僕は、彼女から逃げることを考えていたりする。
だって、彼女。
人じゃないんだもの。
◇
アルノ。
無傷堂(むしょうどう)家のアルノさん。
無傷堂アルノ。
僕が彼女に出会ったのは、初めて同じクラスになってから数ヶ月が過ぎた、ある雨の日だった。いや、語彙的には出会ったというのはクラス替えの時なのかもしれないけど、僕が言いたいのは――彼女という個の存在に出遭った、ということだ。
その日、僕は日直なんていう七面倒くさい仕事を終えて、皆より半刻遅れの帰路についていたところだった。しとしとと――そう、四十四十と雨が降っていた。
そして僕は、彼女に出遭った。
彼女は道端に立ち尽くして、じっと田んぼの畦道を見下ろしていた。灰色の空の下で、彼女の差す傘の赤色は鮮やかに濡れていた。正直な話――その時、僕は話しかけるべきかどうか迷っていた。同じクラスになってまだ間もないとはいえ、クラスメイトの女の子を無視して後ろを通り過ぎるというのは、致命傷的に気まずい。そうしてしまったら、今後一年間はまともに話ができそうになかった。彼女は違っても、僕は引きずるのだ。
なので。
「やあ、無傷堂……さん」
声をかけると、彼女は今気付いたという風に顔を上げる。その表情は――まあ、先制攻撃は失敗に終わったみたいだった。彼女はいつも、インフルエンザの季節とか関係なしに、春夏秋冬、まるでそれが制服の一部であるかのようにマスクを着用している(らしい)ので、目ぐらいしか見えるところはないのだけれど、おおむね理解はできた。
「あ、その、同じクラスの一目散、一目散逃道(にげみち)だけど、知ってる?」
「うん、知ってるよ。席、遠いけどね」
「えっと、こんなところで何してたの?」
質問に、彼女は言葉で答えなかった。その代わりに、視線をさっきのところに戻したので、僕は彼女に近づいて同じ辺りに目を落としてみた。さぞかし珍妙な物体が転がっているのかと思いきや――なんてことはない、そこにいたのは一匹の蛙だった。
「これ、蛙だよね」
「…………」
返事がない、どうしよう。
蛙で話を膨らませられるほど、僕は博識でもなければ、話術に長けている訳でもないぞ。
「もしかして、めちゃくちゃ珍しいヤツとか?」
「普通の、トノサマガエル」
その通りでした。どっからどう見てもトノサマガエルです。
僕は頭を抱えたくなったが、よくよく考えてみれば、どうして彼女はこんなことをしているのだろう、という疑問に突き当たった。蛙好きなのだろうか、とも考えたが、その眼差しは動物を愛でるような代物ではなく、むしろ淡々とした、ともすれば捕食者のような耽々とした、色をしている。
まるで蛇に睨まれた蛙――というより、蛙を睨む蛇だ。
蛇。
「あー、そっかそっか。無傷堂って、蛇だったんだ?」
渾身のボケのつもりだった。
これで続かなければ、泣きながら帰るつもりだった。
だが――彼女は。
「よく分かったね、一目散くん」
と言った。あっさりと、こともなげに。
ボケをボケで返された――と衝撃を受けかけた僕だったが、しかし彼女の様子を見ると単純にそうとは言いきれない、何とも言えない気持ちになった、何も言えない気持ちになった――彼女は、真剣な口調で法螺を吹いているのかもしれなかったし、なおざりな言葉で真実を述べているのかもしれなかった。
だがそこは、その時は、長年培ってきた常識を総動員して――冗句冗談戯言嘘無駄口御巫山戯虚偽笑談の類だと思うことにした。
まあ、結果的には、それは大いなる勘違いだった訳だけど。
先に言ってしまうと、無傷堂アルノは蛇だった。
ヘミの転――蛇。長虫。朽縄。うわばみ。
彼女は、蛟(みずち)の仲間だと言っていたような気もする。
だが、僕が頭に詰めることができたのはそこまでで、後のゴコクなんとかという雑穀米みたいな名前の括りのことはてんで分からなかったけれど――差しあたって、そんな荒唐無稽な話を語るには、そして僕が彼女と放課後の教室で一見いかがわしいようでいかがわしくない行為(食べられるラー油みたいだ)に興じている理由を釈明させてもらうには、あの雨の日から少し経った夜のことを話さなければならないだろう。
まあ。
世の中学生がそうであるように、その夜、僕は街をほっつき歩いていた。家から逃げてきたのだ。その経緯は個人情報なので控えとくとして、ちなみに、僕の通知表は五段階評価で三画までの漢数字で占められていたりする。
駅前の雑踏の中に見覚えのある姿を見つけたのは、そんな時だった。
確信が持てるほど網膜に焼きつけていた訳ではなかったが、なんとなくその後ろ姿は――無傷堂アルノに、似ているような気がした。そんな気がしただけで、本来なら足を止めることはないのだけど、どうしても僕が注意せざるをえなかったのは――その隣に、というかべったりと密着して、サラリーマン風のおっさんがいることだった。
父親――にしては、彼女を見る目が粘着質で、なんというか……分かりやすい。さっさと下校した筈の無傷堂が、未だに制服を着ているというのも気になった。
学校での、ちょっとした噂話を思い出す――面白おかしく囁かれる、噂。
それは、彼女が大人にお金をもらってチョメチョメなことをしている、所謂、援助交際をしているという内容だった。彼女のイメージからあまりにもかけ離れているため、僕はまるっきり信じてこなかったけれど、だからこそ、実際に見てしまったというのはリアルに辛い。
火のないところに煙は立たないと言うべきだろうか――噂の生まれるところには、確かにその根拠となる事象が存在する、ということなのかもしれない。
そうこうしている内に、ビッチ(仮定)の無傷堂と憎きおっさんは路地裏の方へと消えていった。そちらは光が届かなくて、誰もいない――誰にも邪魔されることのない空間だ。
「……………………」
ショックすぎてしばらく放心状態だったが、たっぷり五分ほどしてから、僕は歩き出した。
路地裏の方へ。
……いや、決して無傷堂のあられもない姿が見たいだとか、ただ単にそういうスネークじみた行為(この場合は皮肉にしかならない)に興奮していたとか、不純な動機があるのではなくて、僕の思い違いっていう可能性もあるし、もし本当だったとしても、ここは外道に堕ちたクラスメイトに一喝入れて、学生の本分に目覚めさせてやりたいという仁義や使命感に突き動かされているのであって――と。
その時。
僕は、見てしまった。僕は――視てしまった。
薄暗闇。
ビルとビルの間の奥の奥、大きなダストボックスの側で。
彼女が――おっさんの首筋に、かぶりついているのを。
おっさんは気を失っているのか、ぐったりと天を仰いだそいつの首肉に、無傷堂アルノはむしゃぶりついていた――じゅるじゅると、血を、啜っていた。
旬のスイカを貪るように。
……ああ、スイカ食べたいなあ。
と。
軽く現実逃避していた僕の存在に気付いたのか、彼女は柔らかい身体を活かして――まるで蛇のように――おっさんに跨っていたが、こちらに首を回してきた。
率直な感想を言わせてもらうと、行儀の悪い子どもがナポリタンを食べたように血液に塗れたその唇は、ハリウッド級にグロテスクだった。
しかし、心の底から引きながらも、その反面、僕の動悸は激しかった。
それは――恋、と錯覚してしまうくらいに。
つり橋効果ってやつか。
「あー……無傷堂さ、こんなところで何やってんの?」
何もかもが無茶苦茶すぎて、ひとつひとつが破茶滅茶すぎて、逆に間の抜けたことしか聞けない。しかも、ある意味ノーグッドな直球どストライクの問いかけだった――が、無傷堂はあの雨の日と変わらずに、あっさりと、こともなげに言ったのだった。
「だって、私――蛇だから」
あれ? 一目散くんは知ってなかったっけ?
いや……というより、蛇って血を吸うもんなの?
私〝達〟が珍しいみたい。
ふうん。
――という具合で。
やはり通知表は嘘を吐かないみたいで、僕は馬鹿みたいに納得してしまったのだった。
それから彼女は、僕にマスクを取って口腔内を見せてくれた。
彼女の遠つ祖(とおつおや)は〝霧生洞〟という名の大蛇の妖怪らしく、糸切り歯はそれはもう鋭く尖っており、細い舌先は微妙に裂けていた。合点がいったのはその時で、つまり、普段の彼女はマスクで人外の証明を隠しているみたいだった。
無傷堂は、たまに例のおっさんみたいな人を引っかけては、血を吸って楽しんでいるらしい。彼女にとって人の血は、麻薬や覚せい剤ほどにはいかないにしても、一種の嗜みみたいなものだと言った。まあ、英国のジェントルメンが葉巻を吹かすのと似たものと思ってくれて構わない。そう思えれば、の話だけど。
霧生洞――無傷堂。
朽縄の――少女。
血を吸う蛇。
と、まあ。
こんな、声を上げて取り乱してしまってもおかしくない話を、僕がとりあえずは平気に語っていられるのは――僕も無傷堂(ひと)のことを言えない家系に属しているから、というのが念頭にある訳なのだけど、それとこれとじゃやっぱり違うのかもしれない。
いや、そんなことは現実問題どうでもいいとして。
これまでの流れから分かるとおり――無傷堂は僕に、血を吸わせてほしい、とお願いしてきた。僕はすんなりと彼女を受け入れられたし、彼女としてもやはり中年のドロドロ血液(喉に引っかかるのだそうだ)よりも、若人の生き血を吸いたいらしかった。
という訳で。
僕は了承した、してしまった。
何故かって、ノリで生きてるナウでヤングな中学生である。友人の多くない僕だが、決してノリが悪い訳ではないのだ。勿論、勢いだけで大切な血を提供する筈もなく、若干の下心があったことを認めなければならない。この年代というのは、本人達が望む望まないにかかわらず、男子と女子の間に性差以上の隔たりができてしまう。勿論、どこにだって例外は存在するけど、例外ありきとさえ思えてしまうけど。そんな不毛地帯で、元々女子との磁場が弱い僕にとって、無傷堂のお願いは願ってもないチャンスだった。腐っても男子中学生である僕は、女子とお近づきになりたいという願望を、バタフライナイフがごとくひそかに隠し持っていたのだ。ことさら厳密に、彼女を人間の女子ではなく、爬虫類のメスだと見なしても、だ。メス……悪い響きじゃないな……。
長くなってしまった。
申し訳ない。実はこれは、正当化を目論んだちょっとした言い訳である。
全く、後悔が先に立ってくれたらどんなによかったか。クララ並みに立つのが遅すぎる。
最初は火遊び気分で、ちょろっと舐めさせただけだった。味見というべきか。それで、その時の無傷堂の舌遣いといったらもう……ではなく、問題は彼女の方だった。
やみつきになってしまったのだ。文字通り――病み、憑き、である
どうやら僕の血は、彼女の舌の好みに合致してしまったみたいだった。それからというもの彼女の吸血行為はエスカレートしていき、それでも彼女自身、貧血になるかならないかの安全な量で加減してくれているみたいだけれど、もう現在では冒頭の『ん……ふぁ、あむっ……ちゅぷ……じゅる……んんっ』に至っている訳である。
それで――僕が後悔しているのは、そういった過程で物言わぬ血液のウォータークーラー(ん? それはブラッドクーラーか?)に徹していた筈の自分が、ずるずると彼女に引きずられてしまっていることだった……さっきの、問題は彼女の方、というのは訂正しよう。僕にも不問とはいかない責任がある。
体内から血が吸い出されていく感覚が近頃では快感に変わりつつあったり、そんな風に異常な関係に身を任せていることがさほど疑問に感じなくなってきたり――つまるところ、真人間だと思っていた自分が、どんどんダメになっていく。
それが――怖い。
怖い。
でも、だから、僕は逃げたいのだ。
責任放棄は十四歳の得意技である。
◇
とはいっても。
今日までなかなか具体的な案は見つからず、僕と無傷堂は並んで帰途についていた。実のところ井原とのニアミスは、僕としてはかなりヒヤリとしたのだが、彼女は何とも思っていないみたいだった。そういえば、僕が彼女の吸血行為を目撃した時も、焦りみたいなものは全然見られなかったな。
根が真面目、ではなく――根がいい加減。アバウト。
僕もそうなれれば、楽なんだろうか。
でもまあ、楽――か。
「無傷堂ってさ、不便とかしてないの?」
「? どういうこと」
「こう、ずっとマスクし続けて、自分のこと隠し続けて、さ」
妖魔の末裔――異端は、基本的に、本来的に、人と交わることはない。彼女が送っている学校生活というものは、言わば、硝子の向こう側に手を伸ばすようなものだ。どれほど漸近していこうとも、平行線同士は指一本触れずに時を流れていく。
無粋な問いかと思ったけど、無傷堂は気にした風でもなく、
「いっぱいあるよ、些細なことだけど」
「へえ」
「給食の時はできるだけ口閉じなきゃいけないし、体育は出づらいし――マスクして思いっきり走ってたら変でしょ――、夏は息が籠もって熱いし、普通の医者にはいけないし」
べろ出して、とか言うものな。そういえば、健康診断の日はこの子休んでいたっけ。
「この先の人生も、みんなのようには歩めないし」
「…………」
些細な――こと、ね。
アバウトだなあ。
「蛇はつらいよ」
「寅さんならぬ蛇さんか」
干支でシリーズとかできそうだ。
「渥美清」
「お、知ってるじゃん」
「アツミ&キヨシ」
「稀代の名俳優を売れないデュエットみたいに分けるな」
「結構毛だらけ猫灰だらけ、おしりの周りは」
「クソだらけ」
「む」
言わせねえ。それを言っちゃあおしめーよ。ていうか、少しぐらい躊躇してくれ。
しかし、蛇――彼女はそう言うけど、実際どこまでが蛇なんだろう。牙からは毒が出せるみたいだし、舌も本気を出せばもうちょっと伸ばせるらしいが、彼女にそれ以上の部分があるとは思えない。冬が苦手っていうのは、設定に忠実なのかもしれないけど。
「そういやさ、一つ聞いてもいいか」
「なに」
「やっぱ無傷堂ってさ、タマゴ産むの?」
爬虫類的な意味で。
「…………………………」
無傷堂は、とても素敵なジト目で僕を見てくれた。
きゅうしょにあたった。こうかはばつぐんだ。
いや、割と真面目な質問のつもりだったんだけどな……。
「……一目散くんて、そういうのが好きなんだ?」
「え? 確かに、ウミガメの産卵は応援してあげたくなるな」
そう返すと、無傷堂は疑わしそうに僕を見上げてから、ほうっと息を吐いた。
「別に、そこは普通だよ」
「あー、つまり」
「普通におなかが大きくなって、普通に赤ちゃん産みますよ」
「さいですか……」
僕達は違う――だが。
それは、彼女と僕の間にほとんど外見的差異がないことを考えてみれば、当然だった――ただ、似ているということは、どこかが決定的に違うということなのだろうけど。
タマゴが割れて赤ん坊が出てくる光景ってのも、にわかには想像できないしな。つーか怖いぞ、それ……。どこぞのエイリアンと同じじゃないか。僕は無傷堂の養分になるのか。
と。
無傷堂は仕返しをするつもりなのか、「じゃあ今度は私が一目散くんに質問」と人差し指を立ててきた。そして、その指の先をゆっくりと僕の顔に向けてきて――指差して。
「きみって、本当に人間?」
と言った。
唐突に――前々から用意していたように。
……そこは一応、黙っておくことにする。
「一目散って苗字、珍しいよね」
「そうかな」
「珍しいっていうより――普通はない」
それから長い間が空いて、僕はようやく、盛大な溜息を一発吐いた。
やはりというか何というか、彼女には感づかれていたか。
しかたがない……前言撤回。
僕が無傷堂と平気でいられる理由――現実問題、それは全くどうでもよくない。
似ているということは、どこかが決定的に違うということ――それは、僕にも該当する。
そう、僕達は違う。
僕達が違う。
日本中、もっと、世界中を探せば、血眼になって調査をすれば、それは案外何百件だって出てきてしまうものなのかもしれないが――僕の家系は、幾星霜も前から誰一人として、その血を継ぐ者は例外なく、天命以外で死んだことがない。
事故、自然災害、病気、人災。自殺、でさえも。
その全てから、一目散家は〝逃れて〟きた――まあ、でも、それが絶対的にプラスに働く要素ではないみたいで、祖父さんは戦友の死に顔ばかりを見せつけられ続けて気が狂いかけたっていう話だし、母さんは修学旅行でのバス転落事故のたった一人の生存者になり、今でも時々どうしようもなく泣きたくなるらしい。それを教えてくれた父さんは外からの婿養子なので、そういう、血が引き起こす特殊な経験はないのだけれど、そういえば小さい頃、泣きじゃくる母さんが父さんの腕に狂っている画を見たことがあるような気がする。
……ということを、無傷堂に打ち明けてみると、
「運命線の書き換え、か……もしかしたら、件(くだん)の枝分かれかも」
指を顎にかけて、何やら小難しいことを呟いていたが――正直なところを申し上げると、僕の血筋が彼女のような正統な物怪と同じ類のものであるかは、分からない、というのが本音である。〝たまたま〟そういう道を歩んでいるだけで、超常の力など持ち合わせていない可能性だってあるのだ。その種の関わりを仄めかす資料がないのだから、どうしようもない。
ただ――僕が彼女を、彼女が僕を、別段の障害なくすんなりと、驚くほどにすっぽりと、それこそパズルのピースのように受け入れられたのは、そういった繋がりがあるのかもしれなかったし、お得意の〝たまたま〟が炸裂しただけなのかもしれなかった。
って。
「…………」
かもしれないかもしれないって。
全くもう、本当に溜息が出る。
前言撤回の撤回――現実問題、どうでもいいや。
アバウト最高。
「……無傷堂さ」と開口すると、彼女は顎から指を落としてこちらを見た。
「そこまで考えなくてもいいと思うよ」
僕が人間かどうか――それは本当に大事なことなのだろうか? 確かに、その如何はほとんどの立場からして重要なことなのだろうけど、最低限、僕は屁の屁のカッパだと言いたい。だって――類が友を呼ぼうが、凸と凹であろうが、そんなことは関係ないように思えるからだ。現にこうして無傷堂と並んで歩いていることが、この上なく饒舌な真実に思えるからだ。
……逃げることを考えている奴の言葉とは思えないが、あえて僕は言わせてもらおう、何にだって矛盾はつきものだ、と。
矛盾――食い違い。
心の迷い。
つり橋効果、か。
「だめ」
そんな僕の粗末な思考を断ち切ったのは、無傷堂の発した二文字の言葉だった。
見れば、彼女にはどこかご立腹の感がある。
「どうでもいいなんてこと、ない」
「はあ……」
大雑把なんだか、そうじゃないんだか。
まあ――それだけ、彼女が真剣に求めているのかもしれないけど。
平行線同士は、指一本触れずに流れていく――そういうことならば。
と、その時。
買い物帰りの主婦や会社員の中に混じって――交じって、女の人とすれ違った。
女の人は右手にスーパーの袋を提げて、左手を幼い女の子と繋いでいた。娘だろうか、幼稚園に入りたてぐらいであろう女の子の髪の毛は、キューティクルが光る明るい栗色で――
「うわあ、綺麗な人だな……」
思わず振り返って見ていると、横から無傷堂が口を挟んできた。
「でも、一目散くんは無理だよね」
「それは、まあ、そうだろうね。残念だ」
「あの年齢だと、犯罪になっちゃうもん」
「そっち!? 僕そっちなの!? 小さい女の子見て『綺麗な人だな……』ってそういう対象で見てたの!?」
「一目散くんにしてみれば、もう立派な大人の女性だもんね」
「そんな趣味はないし、目覚めるにしても早すぎないかそれ!? 性に目覚めた途端にクラスの女子とかそっちのけで幼女に走るのか僕は!? 僕が言ったのは、隣の金髪の女の人の方! 子どもがいるってことはもう結婚してるだろうからって、そういう意味で頷いたのに!」
しかし、僕の必死の否定などどこ吹く風で、無傷堂は金髪の女の人の背中を見続けていた――いや、睨み続けていた。どことなく警戒心が滲み出ている感じだ。そして、そうしている理由が分からずにいると、彼女はふいっと前を向いて歩き出してしまった。
半歩遅れて追いついた僕は、図らずも彼女の独り言を耳にする。
「この町って、集まりやすいのかな」
「え、何が?」
「……別に。どうでもいいことだよ」
「はぁん……?」
どうでもよくない、どうでもいい――本当に、どっちなんだか。
分からない。
無傷堂アルノ。
本当に――分からないよなあ。
と。
「あ、猫ちゃん」
今の集まる集まらないは、何の含みもなくどうでもいいことだったらしい。僕と無傷堂の前に、尻尾にワイヤーでも入れたのかと思うほどシュッとした白い猫が姿を現した、その時点で、すでに無傷堂は嬉々として駆け寄りだしていた。
にゃーご、と鳴くその猫に僕は見覚えがあった。いつからか知らないが、近所に流れてきた野良猫で、とにかく人によく懐くので、隣のおばさんとかにユキという名で可愛がられている。僕自身は触れ合ったことはないけれど、きっと無傷堂にもおとなしく抱かれることだろう――
なんて。
思ったけれど。
無傷堂が手を伸ばすと、白猫はいつもの耳触りのよい声で鳴く――ようなことせず、危機察知の本能が働いたかのように――近づいてくる少女が内包する異形の影に気付いたかのように――しゅたたっと横に跳んだ。逃げた。
そして。
あろうことか、無傷堂は白猫を追っかけて車道に身を乗り出した。猫が車に轢かれることを懸念したのか、単に猫と遊びたかっただけなのか、はたまた他のことか――その意図は分からないが、とにかく彼女は道路に出た。
何の注意もせずに。
その事実だけで――結果を予知するには十分だった。
彼女の右手には、耳を砕くような走行音と共に迫りくる大型トラック。
いやいやいや! こういう展開はいくらなんでもベタすぎてこないと思ってたのに!
「!?」
勘弁してくれ。
沖縄の方じゃ蛇は食べられるみたいだが、挽き肉はさすがにどうかと思う。
無傷堂アルノ。
確かに、君はいい加減だけど――身の危険に対してもアバウトになるなよなあ!!
運命線の書き換えだとか、何だとか、そんなもの。
無理に決まってるだろう――
――次に目を開けた時には、三途の川原のごつごつした石の感触が背中にある訳でもなく、普通にコンクリートの平たく硬い感触があった。西日が直接目に入って眩しい。その眩しさから逃れるように視線を横に投げると――無傷堂の顔があった。
いつもと変わらない、ぼんやりとした眼差し。
いや、少しぐらい心配してくれてもいいと思うんだけどな……。
どうやら――僕らは助かったらしい。
たぶん僕は、咄嗟に無傷堂を引っ張ったのだろう。辺りを見ると、トラックが電柱や対向車に衝突してるだとか白猫の死体が横たわっているだとか悲惨な光景はなく、現在の状況としては、僕と無傷堂が歩道の上に重なって寝転がっているだけみたいだった。
地味に恥ずかしい。
と。
「びっくりしちゃった」
無傷堂が言った。
「まさか一目散くんが下着の中に手を突っこませてくるなんて」
「そんな『どさくさに紛れて』みたいな気持ちで君を助けたんじゃない!」
「私の手をトランクスの中に」
「僕が君の手を自分のパンツの中に誘ったのかよ! あの一瞬で、逆にすごいよ!」
「え? うん、その、あれって……なんで?」
「いきなりリアルトーンに戻るのやめてもらえませんか!? そして、あれって何!? 僕のパンツの中で何が起きてたの!?」
つうか冗談じゃない……筈がないよな?
いや……どうして僕が今日トランクスだって……あれ?
まあ。
そうこうしている内に通りすがりの人がぽつぽつと現れてきて、パンツパンツと叫んでいるのが本格的に恥ずかしくなってきたので、僕は話を切り替えるように大きく咳払いをし、それから無傷堂に笑いかけた。苦笑っぽくなってしまったかもしれないけど。
「しかし……ほんとに逃げられるもんなんだな。一目散の面目躍如ってところかな」
「ううん、違うよ」
僕が改めて視線を寄越すと、無傷堂はマスクの上からでも分かるくらい、にこりと微笑んで、
「一目散くんは立ち向かったんだよ。私を助けるために、ね」
「………………」
立ち向かった――か。
僕が言葉に詰まると、無傷堂は「怪我してる」と囁き、そっとマスクを下ろして、僕の頬に滲んでいた小さな擦り傷を二又に分かれた舌の先で舐めた。くすぐったいその刺激は、本当に傷を気遣ってくれているのではなく、どちらかというと僕の反応を見て遊んでいるみたいだった。
ヒソヒソと声が聞こえる。
……他の人々に僕らがどう見えているのかは知らないが、少なくとも僕には、女の子が同い年の男子に乗っかっているだけのようには思えなかった。
巻きつかれている――ぐるぐると、ぎちぎちと。
蛇に、巻きつかれている。
……まずいなあ、これ。
当分は――この蛇から逃げられそうにない。
それでも願わくば。
どうか、このドキドキがつり橋効果であってほしい、と思った。