Neetel Inside 文芸新都
表紙

ト キ ナ
二/奇形螺旋

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      (八)


 深夜。
 自転の関係上、太陽は不在。
 ひとりの男が、鉄道路線の上をゆっくりと歩いている。年のころは二十代のなかばだろうか。痩せぎみのからだを包むものは、黒のシャツとパンツで統一している。反対に顔色は非常に薄く、黄色人種とは思えないほどの白皙(はくせき)だ。
 男がふいに顔を上げた。その造形は西洋風で整ってはいるが、それはどこか欺瞞(ぎまん)に満ちたものだった。笑おうにも笑い損ない、泣こうにも泣き損なってしまったみたいな、危うげな顔つきだった。
 彼は思う――月が、綺麗だ。
 泡の海、静かの海、蛇の海、既知の海、雨の海、賢者の海、嵐の大洋。
 それらに思いを馳せながら、彼はレールの上を道化がごとく歩く――と、くるりとからだを反転させたところで、彼は線路上に横たわる物体を見つけ、はたと思い出した。
 ――イケナイ、イケナイ。こんな大事なことを忘れてしまうなんてドウカシテル。
 男は赤ん坊をあやすときのように、それに近づく。
「いやあ、わるいわるい。デートをほっぽり出すなんて最低だよなあ」
 横たわっていたのは、女性だった。衣服が破れて、傷が見え隠れしている。
 男は、彼女の脂汗で湿った頭髪を数回撫でた。彼女は、まるで恋人が触れているようなその優しすぎる手つきに、音もなく身震いする。背後からいきなり襲ってきたこの男の、真意がまったくわからなかった。しかし、一方的な被害者が被害者の考えを推し量るなど土台無理な話だというのも、また事実だ。
 男は女性のバッグをたぐり寄せ、手を突っ込んだ。まさぐっているうちに、この女性の脳みそもハンドミキサーで同じようにしたい、と男は思ったが、自身のこの魅力的かつクリエイティブでオリジナリティ溢れる発想は、今は留めておくべきだと思いとどまった。
 なにも、今日することじゃない。
 なにせ、今日はその日じゃない。
 彼は定期入れを取り出し、目当ての品であるそれを、頭上にかざして見る。現在は変わり果ててはいるが、利発そうな笑顔の顔写真とは一致している。
 「××学院大学○○学部△△学科二年、河本綾美(こうもとあやみ)さん。感じたとおり、率直に実直に愚直に答えてください。とーっても大事なことですから」
 今はどんな気持ちですか? ――と彼は問うた。
 しかし女性は答えない。いや、答えられる状態じゃない。布で口を縛られ、逃げ出さないようにゲートボールの杭みたいなもので四肢と脇腹を地面に縫いつけられているのだ。それは昆虫の標本と似ていた。違うのは、それを実行に移すだけの精神の差だ。
 枕木に染み込んだ出血量は、生命力の限界を表している。女性にとって、今はすべてが虚ろだった。しかし、うんともすんとも言わない彼女に業を煮やしたのか――
「どうなんですかー、教えろって言ってんですよー」
 ――と、脇腹を貫通していた杭をぐいぐいと揺さぶった。容赦なく肉がえぐられ、真っ赤な血液がぷしゅっぷしゅっと噴き出す。くつわの隙間から「むうう、んうぅ」と苦悶の声がもれて、透明な涙がこぼれた。
「ま、口もまともに聞けないってのはわかってたけどさあ」ぽつりと真顔で告げたあと、男は甲高い哄笑を上げた。きゃあきゃあ、と悲鳴みたいな悦びを謳った。
「しっかし、教えてくれねえとわかんねえよなあ」ひとしきり笑うと、男はフェンスのむこうの暗闇のほうに顔を回した。「……なあ、あんたもそう思うだろ?」
 当然のことながら、無音がひっそりと返事をする。
 だが、すると――黒い人影が浮かび上がり、男は唇を曲げた。
「こんな時間になにやってんだ? 高みの見物か?」
 彼はフェンスに歩み寄り、鼻先でキスをして、長い舌で唾液を金網に塗りつけた。同じく舐め上げるようにして視線を人影に這わすが、彼か彼女かは動じるそぶりも見せない。一応の隔壁があるとはいえ、男の奇怪さに少しぐらい鼻白んでもいいはずなのに。
「ふぅん? なんかあんたオモシロいな。名前は?」
 人影はなにも言わない。腕を組んで電信柱に寄りかかっているさまは、退屈な劇場映画を見ているようだった。
「だんまりかよ。ま、礼儀としたらこっちがさきに名乗るべきか。握手は……望むべくもないわな。右手なら敵意、左手なら悪意、両手なら害意。ジョーシキだよな」
「…………」
「俺は“Arrow(弓矢)”って覚えておいてくれりゃいいぜ」
 それだけ言うと、男は人間の標本のもとへと戻っていった。その背中は、人影に通報する気がないことを理解している――いや、直感している。生物が臭いによって同族を認識するのに近い。つまり、彼は人影に対して親近感めいたものを抱いているらしかった。
 じゃり、じゃり、と革靴が近づくにつれて、女子大生の表情に恐怖がよみがえる。
 男はその横にしゃがみ込むと、布のくつわを解いてやった。
「で、もう一回聞くけど。今はどんな気分なんだ? できるだけこう、具体的に教えてほしいんだけどさ。うん、つーことでイタイとかクルシイとかはちょっとなしで頼みます。あんた大学生なんだから、プレゼンとかやるでしょ。あ、だからといって小難しい単語とか並べんなよ? 俺、学ねえんだから」にこりと笑った。
「あ、う……」女子大生はやっとのことで発声に到達する。悲しみと悔しさが綯い交ぜになった声だった。「どう、して……どうして……こん、な……」
「は? どうしてって、どうして。質問してんのは俺なんだけどな」
 男は本当に困った顔をする。それはまるで、彼女の悲痛な叫びが聞いたこともない他言語であるかのような反応だった。
 なにも通じなかった――彼女の最後の力を振りしぼった結果が、これだった。なにがおかしくなってしまったのだろう。なにがおかしくしてしまったのだろう。もはや声を出す気力はなかった。視界がぼやけていくのを感じる。
「……マジで答えねえのかよ。なんだよ、もういいよ」
 やがて諦めたらしく、男は女子大生に背をむけた。軽々とフェンスを乗り越え、アスファルトに着地する。ふと横を見やると――いまだに人影はそこにいた。
 男は無作法な見物人をせせら笑った。
「あんたも物数奇(ものずき)だな。そんなことしてると、いつかえらい目に遭うぜ」
 その口ぶりは、線路に置き去りにされた女子大生のことなどすでに忘れてしまっているかのようだった。現在の興味の対象は、目の前の何者かだ――しかし。
「……わかったわかった」
 すぐに人影から目をそらして、男は夜道を歩きはじめた。あまりに人影が無視を決め込むので、つまらなく感じたのかもしれない。あるいは――見つめ合うことで、彼我のあいだになにかを感じとったのかもしれなかった。
 それでも、気がつくところがあったのだろう。男は振り返る。
 ちょうどそのとき、線路の遠くむこうにぽつんとふたつの光の点が見えた。私鉄の回送列車だ。光は徐々に大きくなり、迫りくる車輪の回転音とともに闇を払いのける。そして光が走ったと思ったときには、すでに車両が流れるさましか見えなかった。
 どひゅ、となにか塊を跳ね飛ばす音が轟音にまぎれて消えていく。
「なあ、人影さん」男は言う。「最後にひとつ、教えてくれよ」
 その瞬間、車窓からの明かりに人影が淡く照らし出された。
 確認できるのは――
 男の顔が歪む。その形は笑み。
 列車が走り去ると、遅れて風が生まれて顔を叩く。
 そのため数秒目を閉じたあと、彼は問うた。

「――kawaisouって、なんだ?」

 まぶたを開く。もうそこには、男以外に誰ひとりとしていなかった。

                  ◇

 七月に入っても、太陽が空の主役となるのはまだ少し先のようだった。
 嶋原茎也は頬杖をかたむけて、窓の外を流れる雲を眺めながら、四時限目の終了を待っていた。湿気でじめじめしていて、集中できない。そんな中でおこなう古文の授業は、風雅な平安貴族の暮らしに怒りすら覚えてしまうのだった。
 昼休みに入ると、加瀬が声をかけてきた。
「嶋原ぁー。メシ食おうぜー」
「了解」茎也は席を離れて、加瀬や田邊の机に合流する――しかしその途中で、からだが座っている女生徒の肩にぶつかった。
「あ、悪い」
 そう謝ったが、ぶつかられた本人――宮内は黙ったままで、顔も上げない。
 びくともしないように見えて、小刻みに震えているようにも見えて、どちらにせよ顔色が悪いようだったけれど、彼女の友人が近づいてくるのを察して、彼はそっとしておくことにした。本当に体調が優れないのなら、心配は彼女たちがしてくれるだろう。
 そんなことを考えながら、弁当箱のふたを開ける。中身は、白米も含めてすべて昨日の残りものだった。これから夏が深まってくると、衛生管理が気にかかる――なんて、すっかり所帯じみてしまったなと自嘲ぎみに笑う。
 すると加瀬が言ってきた。「おい嶋原。笑うところじゃないぞ」
「え?」
「せっかく、お前らを涼しくしてやろうと俺が怪談話してやってんのによ」
 全然きづかなかった。茎也はとりあえず合わせておいた。
「ああ、そうだったな。で、それでどうなったんだ?」
 加瀬はごほんと空咳をしてからつづけた。
「そう……そしたらさ、俺ずっと寝言で言ってたらしいんだ――眠れない、って」
「いや、どこが怪談だよ! 全然涼しくなんねーよ!」田邊が突っ込む。
「えっ!? 今のが怖くないの!?」加瀬が心底びっくりしたような顔で言った「ここは叫ぶところだろうがよ、キャアアアって」
 ――そのときだった。
「キャアアアッ!」
 本物の悲鳴が響き渡って、はっと茎也たちは音源のほうを振りむいた。

     

      (九)


 床にはプラスチック製の弁当箱が転がっていた。無残にも中身がまろび出ている。
 教室の真ん中――とある机の周りに、数人の女子が立ち上がって、あるいは中腰のまま凍りついていた。彼女たちの動揺した眼差しは、一点に集中している。それに誘導され、茎也をはじめとする教室中の視線がそこに落とし込まれる。
 それは、ひとり座ったまま俯いて震えている少女。
 それは、先刻茎也がぶつかってしまった女子生徒。
 宮内。
 彼女は、泣いていた。
 誰にでも気さくに接し、茎也にもよく話しかけてきてくれる。笑顔はいつも元気一杯で、みんなに可愛がられているクラスのマスコット的存在――そんな、この教室で最も涙から縁遠そうな生徒が、息をするのさえ苦しそうに涙を流していた。
 状況から判断するに、彼女が自ら弁当を弾き落としたみたいで、それは「どうして?」という疑問を引き出すものだったが、それを考える暇はなかった。
「うッ……ぷ」
 突然――宮内が腰を曲げたかと思うと、口をふさいでいた手の隙間から、白濁した液体があふれ出した。びちゃびちゃと机の上に広がり、表面張力を失った部分は彼女のスカートに、さらには床に垂れ落ちた。それはまたたく間に、周囲に異臭を放っていく。
 腐った牛乳のようなという形容句を持つ、吐瀉物独特の臭いを。
「う、うわっ、くせえ! 宮内が吐いた!」
 誰かが言ったその言葉で、静まり返っていた教室が鳴動した。
「嘘でしょっ?」
「おいおい、なにやってんだよ!」
 宮内から露骨に身を引きながら、生徒たちは口々に勝手なことを言う。だが、茎也はなにも言わず、ただ彼女の姿を凝視していた――否、そうすることしかできなかった。
(これはいったい、なんだ?)
 宮内はたったひとりで嗚咽を噛み殺そうともがいていた。
 まるでシーソーゲーム――蒼白の頬に涙を落とすまいとすれば、喉を焼くような胃液の感覚とともに吐き気がせり上がってくる。それをむりやり飲み込むと、逆に押し出されるみたいに涙が込み上げてくるのだ。どうしようもない。
「えっ、ぎ、ひうえ……ッ! あ、ぐ、えぇ……ッ!」
 確実に異常事態だ。
 もうこれ以上は――と、茎也が一歩踏み出したときだった。
「宮内っ」
 彼を押しのけて宮内に駆け寄る人の姿があった。クラス委員の沼田だ。
「ねえ、なにやってるのよみんな!? 雑巾とかティッシュ持ってきてちょうだい!」彼女は宮内の背中に手を置いたあと、周りをにらみつけるように見回して叫ぶ。いつものお澄まし顔の面影はどこにもなかった。「早く! 委員長命令だから!」
 怒号に弾かれて、ことのなりゆきを見守っていた、というより傍観者に徹していた生徒の数人が教室を出た。むろん、むかう先は洗面所だろう。
 沼田は嘔吐物を気にする様子もなく、真新しいハンカチで宮内の涙や口周りに付着した液体を優しく拭きとる。だが直後に、また少し吐いた。ブラウスに飛沫が跳ねるが、それでも彼女はより強く宮内を抱きとめる。それはきっと、クラス委員だからという責務や義務ではなく、同じ部活の仲間であり親友だからこその行動なのだろう。
「うっ……」
 沼田の介抱が功を奏したのか、いまだに顔色に危うさを残すものの、徐々に宮内の吐き気に治まる気配が見えた。やっとそのときになって、自分に具体的な被害がやってこないことを察知して、遠巻きに見ていた女子たちがちょっとずつ集いはじめる。「大丈夫、大丈夫だからね」と宮内を保健室に連れていこうとする沼田の背を追うが、彼女はするどく振り返ると言い放った。
「悪いけど、あなたたちは教室のほうを頼める?」


 その後。
 宮内が凄まじい吐き気に襲われた理由が判明することとなった。
 彼女は、この日の登校中。
 となりの池寄町からはじまり、現在は暮東の町にもその足音を響かせている例の連続通り魔殺人事件の犯行現場を通りかかってしまった――見てしまったらしい。
 人の死体を。人の、殺されたからだを。
 事件の発覚からまだ一時間も経っておらず、水色のビニルシートもなければ、警戒色のキープアウトも不十分な事件現場は、通行人にしてみればただの人だかりにしか見えなかったことだろう。なんだろう、と彼女は軽い気持ちで近づいていったという。
 そして、そこで宮内は知った。知ってしまった――本物のフィクションを。
 生身の目で見た他殺体はまるで嘘のようで、それゆえ常軌を逸した現実味があった。
 とたん、猛烈な意識の捻転――宮内はからだの中身すべてがぐるぐると渦を巻くのを感じた。内臓の位置が入れ代わり立ち代わり、神経の接続が切り替わりすり替わる。そんな感覚を必死に我慢して、彼女はそこから逃げ出し学校にむかった。
 幸い、一息のあいだしか見なかったおかげでそこまで脳裏に焼きついていなかったし、クラスメイトの顔を見て安心したから、彼女はそのまま午前中をすごした……それがいけなかったのかもしれない。いや、たとえ保健室で休んでいたとしても、もっと、自宅に帰って安静にしていたとしても、結果は変わらなかっただろう。
 その引き金は、場所や時間ではなく、ものだったのだから。
 弁当――なまもの。
 それを見て、他殺体がフラッシュバックしたのだろう。視界から振り払っても止まらなかったに違いない。油断もなにもなく、彼女は確かな映像と、いまだかつてない凶暴な吐き気と闘わなければならなくなってしまったのである。そしてそれは、ひとりの少女を犯すには十分すぎる代物だった。
 だから、あれは事実――あらがう術もなく、彼女は犯されたのだろう。
 かくして。
 真昼の騒動は本末を得たわけだが。
「ひでえよ。これで今月に入って三件目だぜ? 二ヶ月前のと同じやつだとすると五件目。いったいどんな怪物だってんだ。森の熊さんが人里に下りてきてんじゃねえのか?」
 さすがに臭いは消えないものの、なんとか授業ができるまでに復元させた教室で、加瀬が悪態をついた。田邊が腕を組みながら話を引き継ぐ。
「最近いきなり数が増えたよな。警察も後手後手らしい。しかもよ、その犯人の目的ってのがよくわからないらしいぜ? サラリーマン、女子大生、男の子、主婦……老若男女問わず手にかけてやがる。別に恨みつらみがあるようじゃないし、被害者にはっきりとした共通項があるわけでもないんだとよ。まあ、被害者が全員血の通った人間ってのが共通点っていやあ共通点だわな。つまるところ、愉快犯の線が一番濃いらしい」
「ふうん……というか、なんでそんな入り込んだところまで知ってるんだ? ニュースでも言ってなかったぞ、そんなこと」茎也は言った。
 そこで田邊は声を潜めた。加瀬と茎也以外には聞こえないようにする。
「……あんま言いたくねえけどさ、俺の兄貴が警察の人間なんだよ。んで、食事んときに愚痴みたいにけっこう重要な情報をぽろぽろもらしてくんだわ、あいつ。まったく、そんなんでよくもまあやっていけるよって思うんだけどな」
 家庭内で留めておけばいいものを、それをここまで広めてしまう田邊もたいがいだと、茎也は若干感じるのだが――今はそんなことをいちいち考えている場合ではなかった。
 今もなお、宮内は保健室のベッドの上に小さなからだを横たえている。沼田もまだ戻ってきていない。同級生たちの意識も、容易に転換できているとは言えなかった。
 茎也は思う。
 一目見ただけで、人を犯す。
 そんな光景をつくり出したのは、いったいどこの誰なのだろう、と。


 とはいえ、名探偵でもなんでもない一介の高校生に事件解決の鍵が天から与えられるわけもなく、町全体が漠然とした不安を抱えながら時はすぎて――七月の第二金曜日。
 夕刻のころ、茎也は美術室にいた。
 カンバスの上に絵の具を塗りたくっていく。美術部員でも絵描きが趣味でもない茎也が筆を持つ理由があるとすればひとつ――居残りだった。
 芸術科目として、音楽と美術を選択させられたのだ。人前で歌を披露するなど到底できないと感じた彼は、背に腹はかえられぬと美術のほうを選んだのだが、そもそも美的センスにどこか欠陥があるらしい。ちゃんと課題はこなしているから、美術で落第という前世の業みたいな事態にはならないだろうが、教師の顔色をうかがえば並の成績は望めまい。ちなみに、奈緒希たちは音楽を選択し、教師の覚えもいいらしい。羨ましいかぎりだ。
「嶋原、調子はどうよ」
 田邊のやる気のない声が聞こえる。彼もまた居残りを強制させられていた。
「いいや、これがなかなか難しい」
「なに描いてんの?」
「黒猫」
「嫌な絵だなぁ、おい!」
「よく家の前にいるんだから、しかたがない」
「さらりと怖いこと言うなよ! 絶対おまえろくな目に遭わねえぞ!」
「まあ……確かに」
 ――確かに言われるまでもなく。
 八年前から、ろくな目には遭っていないけれど。
 けれど――きっとこれからは、ろくな目に遭えると思う。
 不退院季菜。
 その少女に出会って、彼は救われたといっても過言ではないのだから。
 彼は気づいていない。季菜が彼と出会って変わりはじめた、普通の女の子らしくなったのと同じように、彼もまた季菜と出会ったことによって、表情に本来の豊かさがよみがえってきたということに――そう、それを救いと呼ばずしてなんと呼べばいいのだろうか。
 ふと顔を上げ窓の外を見る。夜の帳が下りかけている。
 掛時計の短針は七時を指そうとしていた。
 茎也ははっとした。いつの間にか“約束”の時間がすぐそこまできている。
 彼が荷物をまとめはじめるのを見て、田邊が言った。「今日はもう終わるか? 校門まで一緒にいこうぜ……って、なに? 急ぎの用でもあんの?」
「ん……まあ」
 わずかに言いよどんでから、茎也ははぐらかしつつ肯定した。
 これは誰にも言っていないことだが――今日の夕食は、先日スーパーで約束したとおり季菜が振る舞いにきてくれるのだ。一緒に下校したり、昼食を中庭のベンチで並んでとるくらいのことはしていたのだが、どうにもそれでは芸がないと思っていたし、しかもふだんは奥手というか受け身な彼女からの申し出である。嬉しくないはずがない。
 約束の時刻は、午後七時。
 今から家に帰ってぎりぎりか、最悪、制服のままで応対することになるかもしれない。
 美術室を出て薄暗い廊下を歩いていると、田邊が思い出したように口を開いた。
「そういやあさ、嶋原」
「ん?」
「おまえの彼女――まあ、不退院のことなんだけど」
「なんだ、言ってくれよ」
「あいつってさ、叔父貴とかいる?」
 茎也は眉根を寄せた。それは――ちょっとわからない。季菜の家のことについては、まるで素人というより無知な赤子に等しい。彼女を語る上ではどうしても不安をもたらすことだけれど、それにしてもなんだって、田邊はそんな質問をしてくるのか。
「いや、よくわかんないよな」彼は違和感をもてあますように言った。「今朝、学校の近くでさ、変な兄ちゃんに声かけられたんだよ」
「……それが、季菜とどう関係してるんだ?」
 茎也が聞くと、田邊はばつが悪そうに答えた。申し訳なさそうにとも。
「いや、そいつがさ――『君、ここらへんの高校の生徒だよね? その、髪の毛が金色の女の子知らないかい? ああ、俺はその子の叔父さんなんだけど、久しぶりに会おうと思ったら、ここらへんのことよく覚えてなくてさ』――って言ったんだ。それって、不退院のことだろ? 思わず西浦の生徒だって教えちゃったんだよ」
 ――なにか、とても嫌な予感がする。
 その男は、本当に虚言でもなんでもなく彼女の叔父なのかもしれない。こんなものは、とるに足らない思いすごしなのかもしれない。なにも知らない自分に邪推する権利はないし、根拠もなければ実証すらできない――が、不吉なイメージが胸に這い上がってくる。
 さっきの黒猫の話ではないけれど。
「……季菜」
「? なにか言ったか?」
 田邊の言葉が耳に入る前に、茎也は走り出していた。
「悪い! 用事があるから先に帰る!」
「あっ、おいっ」
 昇降口から夜空の下に出て、茎也は迷わず自分の住まいをめざした。季菜がどの地点にいるかわからない以上、約束の場所にいったほうが合流できる可能性が格段に高いからだ。
 駆ける。駆ける。
 全力で疾駆する。
 願わくば。
 家の塀に寄り添って、自分の姿を見つけたら、待ってたよって笑ってくれ。
 ――季菜。


 同時刻。
 不退院季菜は人気のない夜道を歩いていた。
 スーパーでの買い物に時間をかけすぎてしまったので、制服から着替えることはできなかったけれど、そのぶん選りすぐりの食材がレジ袋につまっているはずだ。
(ついに、茎也くんのお家にお邪魔するんだ……)
 失礼のない振舞い方だったり、レシピの確認だったり、なるべく当たり障りのないのことを考えようとするが――初の訪問で羽根のついた思考はどうしても“その後”のことへ飛んでいってしまう。さすがに、食事を振舞ってはいさようなら、なんてことにはならないと思う。世間一般の女子高生とは一線を画す彼女でも、さすがに年相応の知識は有しているわけで、思春期真っ只中の頭はモザイク多用のイメージがあふれていって……。
 季菜はぶんぶんと首を振った。
(……考えるのはよそう)
 ――と。

「見ぃ――――――――――――――つけた」

 足音。
 びくりと肩を震わせて季菜が振りむいた先には、ひとりの男がいた。服装は漆を塗ったような黒色だが、しかしそれとは対照的に、肌は色白という度合いを超えている。
 男は季菜の前に立ち、少し驚いたような、怪訝そうな顔をした。
「あっれー? あんた、なにかちげえなあ」
「え? ……な、なんですか」
 男は、季菜をじっと見つめる。品定めするかのように、獣が同種の真偽を見抜こうとするかのように。そして軽く舌打ちしたかと思うと、するりと背中のベルトに挟まれていた、あるものを引き抜いた。
「つまんねえ……なんなんだよ、おい」
 銀色の輝きを連れ従える凶器――ナイフ。
「ひっ……」
 ようやく季菜が己の状況を把握したときには、すでに明暗は決していた。
「納得いかねえけど、しかたがないよなあ」
 男は、ナイフをいとも簡単に振りかざした。
「じゃあな。黄泉路にゃイキやすくしてやるよ」
 そう嘘吹いて。
 垂直に、振り下ろす。

「ぃ――――、――――――ゃ」

 肉を断つ音色は、静かだ。

     

      (十)


 季菜、と。
 そう叫んで小路に躍り出た茎也は、その先に彼女を発見した。
 ただし、彼女はうずくまっていた。膝をつき両腕で胸を抱きかかえるようにして、びくともしないのが逆に不安を煽って――それはまるで、ただの肉塊みたいで。
 それはまるで、死んでいるみたいで。
「と……季菜、季菜、季菜」
 茎也はおぼつかない足取りで、その矮躯に近づく。
 そのむこうに怪しげな男がいたとしても、その混濁した眼差しがあきらかに季菜にむけられていたとしても、それがどんな人物で、なんのためにここにいて――彼女にどんなことをしたのかなんて、気にならない。
 いや、気にしてはいけなかった。男の手にはナイフが握られていて、その刃先には――血がべっとりとついているだなんて、考えてはいけなかった。理解してはいけなかった。認めてしまえば、この光景(げんじつ)から逃れられないから――でも。
 また失ってしまうのか、俺は。
 大切な人が消え去っていくのを、見せつけられなければならないのか。母を、父を、祖父を亡くして、それでもなお恋人でさえも失わなければならないのか。
 それはあまりにも――不条理じゃないか。
 どうして。
 どうして、季菜は動かないのだろう。どうして、男は笑っているのだろう。下賤よろしく片頬をただれたように歪めて、突っ立っているのだろう――立ったままのなのだろう? 目の前に目撃者がいるのに、なぜ襲ってこない? そう、どうして、彼女があの男に襲撃されたというのなら、やつと自分たちのあいだに距離がある――?

 その瞬間――大気が渦を巻いた。

「く……ッ!」
 彼女を中心として波紋のように波濤のようになにか圧力が生まれ、それにともない筆舌に尽くしがたい違和感が全身を飲み込んでいく――その感覚を、茎也は知っていた。
 社会科準備室のときと同じ。
 あの不可思議な体験と同じ。
 だが――あのときと違うのは、季菜がゆらりと立ち上がったということ。
 そして。
 茎也のほうを、ゆっくりと振り返ったということ。
 目の当たりにした季菜の顔を見て――彼は茫然と呟いた。
「……誰だ、おまえは……?」
 いつもの薄茶色の澄んだ眼差しはそこにはなかった。
 彼女の眼窩(がんか)にはめ込まれていたのは、血を吸ったように輝く真紅の瞳だった。
 ――赤/い/眼。
 ――金/紗/の/髪。
 その眼光を認識した瞬間、茎也は凄まじい頭痛に見舞われた。「あぎぃいいい」まさか頭痛で情けなく悲鳴を上げる日がくるとは思っていなかったが――鈍痛激痛疼痛圧痛、そのどれにも属さないような、あるいはそのすべてを混ぜ合わせたような、未体験の痛みが丸い頭蓋の中で飛び散る。歯を食いしばって、茎也は再度訊ねた。
「おまえは、誰なんだ……」
 すると、季菜は小さく口を開いた――そのとき。
 きゃあきゃあ、と不快な笑い声がそれをさえぎった。茎也は、それが例の男の発したものだと気づくのに数秒を要し、それからようやく直視する。
 しかし、彼を眼中に入れずに男は言った。「すげえすげえ、回避おみごと。なあなあ覚えてるか? 俺だよ、“Arrow”だよ。一時はどうなることかと思ってたけど、無事再見(ツァイツェン)できてうれしいぜ、金髪ちゃん。もしかして会いにきてくれたのかな?」
「…………」
「そのだんまり、やっぱ痺れるう」
 男がなにを言っても、季菜は返さない。茎也の角度からはその表情は見られないが、きっとそこにはなにもない。左肩のブラウスが切り裂かれて血が滲んでいる――男につけられた傷だろう――のが見えるが、彼女は痛みをおくびにも出さなかった。想像の域を出ないが、それはふつうの高校生が我慢できるレベルの痛みではないはずなのに。
 ふつう――ふつうなら、の話で。
 彼女の目は常人にはない色をしているけれど。
(いや、今考えることはそれじゃないか……)
 茎也は季菜から目線を逸らし、男を見た。不思議と頭痛は干潮している。
 ひとまず季菜を背中にかばう位置に出た。彼女が季菜と酷似していて、彼女と推定できる以上、身を挺してでも守らなければならない。見たところ、相手の身長は茎也よりも低い。刃物相手に身長差の優位性が働くかどうかもわからないが、立ちむかうしかないと思う。これでも生い立ち上、それなりの場数は踏んできているつもりだ。
「おまえ、例の連続通り魔殺人事件の……」
 他の憶測を立てる必要はない――間違いなく、あの男は巷(ちまた)を恐怖のどん底に陥れている張本人だろう。五人もの人間をたったひとりで殺害した、説明不要の異常者だ。
 男は笑った。「あー、なんだかそんな誤った報道がされてるみたいだね。まったく、マスコミもとんでもない連中ばかりだよ。俺はそんなんじゃないってのに、なあ?」
「……どういうことだ」
「通り魔なんて低俗なもんじゃないってことだよ。もっと高尚な――言うなれば、探求者」
 探求者? 探し求める者? なにを言っているんだ、この男は。
「ふざけるな……」
「いやいや、少年。俺は大真面目さ。暇さえありゃ頭抱えてるんだぜ……ああ、そうだ。キミにもいちおう聞いておこうかな――kawaisouってなんだい? わかるかい?」
「は……?」
 kawaisouってあの、かわいそう? 漢字に変換すると、可哀想?
 ますますわけがわからない。そんな感情――たとえば、近ごろのように人が無残に殺されてしまった事実を聞いたときとか、例を挙げたらきりがない。読んで文字のごとく、哀しく想う可き、人として当たり前の感覚だろう。
 すると――「ガキのころから敬遠されててさ」男はつまらなそうに語りはじめた。「親友はおろか、友だちと呼べるやつだってひとりもいなかった。それで、小学生のときだったかな。どうして遊んでくれないんだって聞いたら、連中は口をそろえてこう言うんだよ。意地悪だから、すぐ人を傷つけて、歯止めが利かないから。しまいには先生に、『kawaisouだと思わないの?』なんて言われる始末だ。さも当然のように責めてきてよ、こっちはあんたの言うこと全然わかんないってのにさ。俺はそんな先生の目が嫌いで、三角定規で刺しちまったんだけどな。三十度のほうで。すぐ転勤したよ。事故ってことで片づけられちまったけど」
 茎也は絶句するしかない。信じがたい話だった。
「そんなこんなで俺は一念発起したわけよ。二十年近くもわからなかったkawaisouの意味を理解するために。命の重みってやつの意義を解明するために――それはまあ考えてみたら、とても素晴らしいことじゃあないか!」
「それは、そんなものは人を殺す理由にならないっ」
「なに言ってんだよ。殺人以外に研究材料なんかあるわけないだろ。人の命の重みを知るためには、人を殺して実感するしか道はないんだよ。脈打つ血肉をその手で奪って、感じとるしかないんだよ、少年。それも、kawaisouだと思うために、出来るだけ惨たらしい“らしい”殺し方じゃないと、駄目だ。探求者たるもの究極を求めないと、駄目だ」
「……………」
 ガリ、と――口内の奥で、エナメル質が削れる音を聞いた。
 もう限界だ。
 この男がこんな真剣に、それこそ本物の学者のように弁舌滑らかに繰り出す私説の内容なんて一片もわからないし、わかりたくもない。よしんばそれに賛同する人間がいたとしても、茎也はそいつを認めるわけにはいかない――けれど。
 それにしても、この男の喋り、というか話には不可解な点が多い。
『可哀想』だとか『命の重み』なんてものは、経験の中で折り合いをつけて、最も自分に適した用法や定義を模索していくべき感覚ではないのか? 現に茎也は、不幸を見聞きすれば人並みに同情するし、できれば助けてあげたいと思う。命というものはなによりも大切だと感じるし、安易に人を殺してしまっていいはずがない。
 程度の差こそあれ、これらはやはり――人として当たり前にあるべきもの。
 しかし。
 その感情を知りたいと男は言った。
 経験したことがないと男は含めた――ということは、まさか。

「反社会性人格障害」

 いきなり後ろから、機械的な声が聞こえた。
 誰かと思い振り返る――季菜だ。
「痾(やまい)に臥さず、病(やまい)に立つか――なかなかの狂生だ」
「……季菜?」純粋に、なにを言っているのだろうと思った。彼女は眼の色もふだんと違えば、表情のつくり方から口調や声質まですべてが変わっていた。やはり茎也としては、その変化はどうしても気になってしまうものだが、今は目をつぶるしかない。
「ほかには、精神病質。俗な呼称だが、サイコパス。自覚がないのも治療していないのもむべなるかな。ああ、いや、治療しようとはしているのか。荒療治ですらない、とてもおかしな方法で――とはいえ、きさまは立派な病人だよ」
 それも亜種と言うか、さらに破滅的なものだろうが。そう、彼女は付言して一歩前に進み出る。「どういうことだ?」と茎也が訊ねると、季菜は一瞥もくれずに答えた。
「症状はいわく――ひとつ、欺瞞的な態度をとる。ふたつ、異常に怒りやすく攻撃性が高い……まあ、簡単に特徴づけるのなら、『良心がない』と言えばいいのかな」
 良心。
 是非判断。正邪判別。その礎。
 人として当然の感情――それがない。
 いや、もっと正確な表現をあげつらってみるならば、『良心がない』という無情非情の代名詞などではなく、良心を持ち合わせていないのだ。
 本来、良心を持たないという人間は存在しない。たとえどんな悪党でも、良心を捨て去ることはできない。皮相には表われず埃の一片ほどしかないとしても、それは『ある』のである――しかし、その『ありえない無』に生じたひとつの例外が、あの男
 彼は、良心という概念を無視しているのではなく、知らない。
 かわいそうと思わないのではない。思えない――だからkawaisou。
 それは他国語に似た響きをもって、彼の中に。
 命の重みがわかっていないのではない。命の重みが、わかりえない。
 それは他宗教に似た理論をもって、彼の中に。
 ゆえに、どれほど探求しようとも、それは不可能であり背理であり――はじめから実現される見込みのない、空虚な願望なのだ。ないものねだりでしかないのだ。
「どうでもいいけどさあ」男は笑った。「そのややこしい解説は俺の研究に役立つの?」
「もちろん」
 季菜もまた唇を歪めて、さらに一歩前進する。
 押しのけられた茎也には、彼女の行動が理解できなかった――ここは一刻も早く逃げて、警察に通報するなりして身の安全を確保しなければならない局面のはず。携帯電話なる文明の利器がこの世にはあるらしいのだけれど、田舎の平凡な高校生の自分たちには望むべくもないので、それが一般的思考の当然の帰結だ――それなのに、彼女は前をむく。
「待て」茎也は季菜の肩に手を伸ばした。
 だが、いとも簡単に払われる。
 そして――その手に握られている物体を見て、彼は驚愕した。
「そ、れは……」
 鋏。
 そこにあったのは黒い鋏だった。
 知っている。社会化準備室で季菜の鞄を開けたおりに発見したものだ。そのときの茎也の直感はどうやら的中していたようで、その特異な形状の柄を、彼女はあたかも短刀みたいに握っていた。その使用方法が元より正しいとでも言うように、手に馴染んでいた。
 あきらかに市販品じゃない。
 あきらかに世俗的じゃない。
 あきらかにまともじゃない――両面刃の裁断具。
「通報なんかしなくていい」
 先ほどの茎也の考えを見透かしたかのように、季菜が低い声で言った。
「こいつは、私が仕留めよう」
「…………」
 茎也はもう、なにを発言することもできなくなっていた。別に従う必要のない言葉のはずなのに、彼には、ただただ季菜の小さな背中を見つめることしか残されていなかった。
 自分はいったいなにを見ているのだろう? ――確かなことは、これが夢でも幻でもないということ。殺人鬼と季菜が対峙しているということ。
「不幸せ――不仕合わせだな、きさまも――私も」
「んん? どういう意味だい」男は首をかしげる。
「殺人鬼と言うから、観賞しにいってやったのに。“あれは”とんだ物見遊山だったようだ」
 茎也には、なにを言っているのかまるでわからない。
 彼女はつまらなそうにつづけた――きさまは道化だ、と。
「意味がない。狂人が殺人を犯したところで、それはまったく正しい流れだ。正常な人間性があることで、殺人に僻事(ひがごと)が組み込まれる。異は異を。正は正を。それぞれ同一直線上でことに及ばないことには、それは食肉と変わらない。人が魚肉鶏肉豚肉牛肉を食べるのと、人肉嗜食との違いは言うまでもないだろう?」
 ――もし。
「もし、きさまが目的を違わなければ、捻じ曲がらずにすんだだろうな。だが、きさまは見失ってしまった。凶行を繰り返すうちに、探求殺人ではなく、殺人探求となってしまったんだ――だから、道化だ。とてもつまらない役者だよ、きさまは」
「ご高説どうもありがとさん。でも、どうしてそんなことが言えるんだい?」
 男は聞くが、返ってきた答えは「見ればわかる」という実にシンプルなものだった。逆に、見ればわかってしまうような、そんな非常識な見解ができてしまうような感性に、複雑怪奇なものを茎也は受けとってしまうけれど。
「まあ、そんなの当たりでもハズレでもどっちでもいいけどさ」男はナイフを季菜に突きつけた。「兎にも角にも、はじめようぜ金髪ちゃん。線路の脇で一目見たときから、あんたのことが気になってね。ほかのやつを殺しててもうわの空になっちまうし、一日八時間しか眠れなかったよ。きっと、これは恋なんだ」
「恋?」茎也は思わず口をはさんでしまった。
「そうだぜ少年。横恋慕するようで悪いけど」
「悪いなんてもんじゃないが……どうして季菜なんだ」
 同類だからだよ――と男は言った。
「たとえばキミは雑草に恋をするかい? 虫に恋をするかい? しないよね。するとしたら同じ人間だろう? そういうことさ。俺は今まで恋なんてしてこなかったけど、金髪ちゃんは違った。一緒のフィールドにいることを確信したんだ」
「…………」
「だから気になってね。、ヤリたくて殺りたくて、うずうずする。金髪ちゃんはいったいどんな鳴き声で、俺の得物(ブツ)を受け入れてくれるのかなんて、想像しちゃう」
 茎也は純粋な嫌悪を抱いた。その一方で、そんな屈辱的な言葉を浴びせられてもなお、季菜は男を見すえて黙っていた。怒りで声も出ないというわけでもないらしい。
「さあて、ドキドキ人間爆弾処理のお時間だ。赤の配線、青の配線、どちらがお気に召すかな? 俺としちゃあ、ぷしゅーっと赤いほうが綺麗に爆発してホレボレしちゃうんだけどなあ」男は舌で、ナイフに付着している季菜の血を一滴残さずきれいに舐めとった。
「どっちでも構わない」
 季菜は腰に手を当てて、胸を反らして眠たそうに目をつむる。そして、鋏を動かして調子を確かめてから、心底どうでもよさそうにぽつりとこぼした。
「どうでもいい――きさまの死に方なんて」
 それが、合図だった。

     

      (十一)


 両者の踏みきりは完璧だった。
 季菜は一度下方に鋏を薙いで、すぐさま男との距離を零(ゼロ)に肉薄させる。
 鉄と鉄が弾き合う激しい音が聞こえ、それが鳴り止まぬうちに新しい金属音が矢継ぎ早に生まれては消えて、生まれては消えていく――ガキキキガガキ、とまるで切削機械が稼動しているように非日常が響き渡る。
 月明かりだけが頼りなので、はじめは茎也はなにが起きているのか、なにがどうなってそんな音が奏でられるのか、まったくと言っていいほど把握できていなかった。
 かろうじて、男のナイフの動きが流線として視認できる。しかし季菜のほうはといえば、空手で渡り合っているようにしか見えなかった――いや、たぶんそれは。
「あーあー、ずるいぜ。狡いぜ。そのための黒色かよっ」男が笑いながら言う。
 そう、彼女の鋏は夜の色に溶け込んでいた。暗夜にまぎれ、相手に間合いを簡単に読ませないのだ――が、しかしそれでも、男はうまく対応し順応し呼応していた。
 男が踏み出した。ナイフの刃先を、彼女は顔の前で食い止める。
 数秒のつばぜり合いのあと、拍子抜けするぐらいパッとからだを離した男から、前触れもなく鋭い前蹴りが季菜を襲った。プッ、とブラウスのボタンが飛んだ――それを間一髪で胴をねじりかわしきる。その際に生じた遠心力に逆らわず、そのままくるりと一回転して、めいっぱい溜め込んだ運動エネルギーを利用し、男の胸に鋏を突き出す。
 だが、男はすでにそこにはいない。
 下。
 彼は伸ばした足を戻さず、他方の足を折って一気に腰を落としたのだ。チッ、と頭髪が削がれた――その頭上を、鋏の突端が通りすぎる。そして、男は地面につけた腕の力だけで下半身を浮かせ、曲芸師がごとく全身のバネを使って季菜に足払いをしかけた。
 命中し、彼女の小柄な体躯が宙に浮く。
「季菜っ」茎也は声を上げた。
 しかし、彼女は瞬時に手をついて体勢を立て直し、意趣返しと見ればいいのだろうか、中腰の男の膝を狙って蹴りを繰り出す。なにをしようにも予備動作のいる絶妙なタイミング――それを男はなんとバック転をして避け、そのまま数回繰り返して距離をとった。
 茎也は素直に驚くしかない。なにが、それなりの場数を踏んできているつもりだ。あのとき男に突っ込んでいたら、今ごろ自分は血を流して路傍に倒れていたに違いない。
 すべてが――常識外。範囲外。規格外。
 思えば。
 良心がない、と季菜は言った。
 それはつまり極端な話――人を傷つけた記憶を繋ぎ止めておくはずの、罪悪感というものが根源的に存在しないということ。だから、彼にとってそういう記憶は、昨日なにを食べたか、昨夜見た夢はどんな内容だったのか、というような日常の些事と同価値で、取るに足らない短期記憶と同質なのかもしれない。
 そう、それはきっと――人を殺した記憶でさえも。
 そんなことはあるはずないと、あっちゃいけないことだと、茎也は受け入れるのを拒絶しようとするが、その推論が真実味を帯びていくのもまた感じる。
 だって――この男は異常だ。
 そう思うと、彼のばかげた運動能力のことも不思議と腑に落ちる。
『火事場の馬鹿力』という諺がある――危機的状況に陥ると、人間の脳みそは箍(たが)が外れて、ふだんは三分の一しか使われていない本来の能力を発揮するという話だけれど。
 この場合、危機的状況と良心がない事実は、イコールで結ばれるのかもしれない――本来的な制限がなく、無意識的な“ストップ”の介入する余地がないのだから、季菜は彼の病気の症状を亜種で破滅的だと寸評したが、ならばあの男は、その定義にも収まりきらない重症患者だということだろうか。
(とはいっても……いや、それよりも)
 それよりも、それ以上に、茎也を混乱させる要素があった。
 この局面において、なによりも信じがたいこと――それは、季菜が、そんな化け物の猛攻をすべてこともなげに凌いでいることだった。
「楽しいね、最高だね、天国だね、金髪ちゃんっ」
 互角――いや、互角以上の戦いを彼女は演じていた。
 ……わからない。あれは、あの女は、本当に季菜なのか? 虫も殺せない、逆に虫に殺されそうなほど優しくか弱い彼女なのか?
 と――終わりは、唐突にやってきた。
 その刹那、横一閃。
 男のナイフが季菜の顔にせまる――が、「つまらない」と彼女は瞬息のあいだに身を後方にのけぞらせて、それを避ける。表情に余裕すら浮かべて、鼻で笑う。
「命の重み、か」
 男の懐はがら空きになり、その顔からはじめて愉悦が散る。
「あきれた――」今度は瞬発力によって身を起こし、ゆらりと顔を男に近づけて、それこそ息が鼻先に吹きかかるほどの至近距離で、彼女は言った。「――そんな“軽そう”に得物を振るうきさまに、命の“重み”がわかるはずがないだろう?」
 妖艶に、ともすれば娼婦のように。
 彼女は――緋色の瞳で男を見すえた。
「…………ッ!?」
 それは、懐まで潜り込んでおきながら、なにもせずただ自分を弄るだけの少女に対する怒りだったのか。それとも単に切羽つまっただけだったのか――ともかく。
「う、おおおおおおあああああああッ!」
 常人のように狂いながら、男はナイフを振り上げる。
 そこに季菜が動いた。「見苦しい」
 鋏――その本来あるべき使用法。
 高速で滑空してくる刃の根元を、黒い二股がはさみ込む。
 激しい金属音の果てにしっかりと受け止め、刀身をくわえてけっして離さない。そしてそのまま、からだごと手首とひじを思いっきり捻じきり――鍬形虫が敵を捻じ伏せるように、頑強なやっとこのように、力任せに男の手からナイフを弾き落とした。
 ゴキリという音が聞こえ、茎也は直感的に知る――男の右手は完全にいかれた。
 男の顔面から血の気がいっせいに引く。あとずさる余裕もない男を季菜はすばやく組み伏せた。そして鋏の柄の穴に指をとおし、ひゅんひゅんひゅんと器用に回転させたあと持ちなおして、彼の首に鋏の先端をさしむける。彼女は息すら上がっていなかった。
「わからないなら、教えてやる」
 ――kawaisouというのは、きさまのことだ。
 そんな科白(せりふ)を最後に決着はついたらしく、茎也は季菜に歩み寄ろうとした。何時間もこの立ち回りを見ていたような気がするし、せいぜい十数分くらいの出来事だったような気もする――だが、やっとのことで茎也がほっと胸を撫で下ろそうとした、そのとき、発作的な不安に彼は駆られた。彼女の言葉がよみがえる。
 どうでもいい、きさまの死に方なんて。
 死に方。
 殺され方――殺し方。
 見れば、季菜は冷めた表情を変えることなく、男の喉元に刃先を押し当てていて――気づいた直後にはもう叫んでいた。
「やめろっ!」
 そいつを、殺すな――その声は夜空に吸い込まれていったが、季菜の耳にはちゃんと届いたはずだ。その証拠に、彼女はゆっくりと茎也に振りむいた。なんの思いもにじませないで、ただただ無機質な瞳で彼を見つめる。
 そんな静けさの中に、小刻みな音が生まれた。
「……どうして、どうしてだよ……」
 男――“Arrow”が、熱におかされたように呟いた。不安定な眼差しを虚空に泳がせたまま、彼はそこにない光景を、すべて目の前にあった光景を、見ているみたいだった。笑おうにも笑い損ない、泣こうにも泣き損なってしまったあとみたいな、危うげな顔つきが崩れていく――けれどそれゆえに、そこには欺瞞はひとつもなかった。
「みんな、教えてよ……どうして“ぼく”だけ、違うんだ……」

 ちょきん、と。
 へんなおと。

 いきなりだった。
 季菜は男の喉を、まるで耳障りだと言うように――開封した。
「なっ」茎也は目を見開く。
 血潮が飛び散り、ぱたぱたと彼女の顔やブラウスを着色する。茎也は驚愕のあまり声が出なかった――やめろと言った、俺の言葉が全く聞き入れられないなんて!
 とにかく、これは危険だ。この状況は危険すぎる。これでは、どちらが加害者でどちらが被害者なのかわからない――いや、こんなもの、ひと目見ただけで金髪の少女のほうが異常だとたいていの人なら感じるはずだ。ともすれば、彼女を連続通り魔殺人事件の犯人だと誤解しかねない。それはなんとしても避けなければならない。
 男は喉を押さえて、痙攣しはじめた。しかし手のひらは出血の抑止力にならない。
 このままだと――でも。
 茎也は「ちくしょう」とうめいて、季菜に駆け寄った。
「と、季菜!」
 ひとまずここから離れよう。そう念じて、彼女を後ろから抱え込んでむりやり立ち上がらせる。小柄なからだは、思いのほか簡単に持ち上がった。とても――軽い。それは茎也が知っている軽さで、間違いなく彼女が季菜であることを証明していた。
 茎也は季菜の手をとって走り出す。
 幸運なことに、こんな状況でもふだんどおりに筋肉は動いてくれる。しかも、冷静な部分もある程度は残っていてくれたようだ。季菜のボストンバッグと、食材のつまったスーパーのレジ袋を拾い上げた。証拠隠滅には、とりあえずこれぐらいしかできることはない。
(ちくしょう、なにがどうなってるんだっ)
 あてもなく。
 どこかに辿り着くまで、死にものぐるいで彼は走りつづける。なにも言わずに連れられて走る季菜のその目は、かたく繋がれた、自分と彼の手をじっと見ていた。

     

      (十二)


 旧花川公園。
 経験上「きゅうはながわ」と読んでしまいそうだが、「ふるはながわ」と読むことを、四月に町内を案内された際に、水木に言われたのを記憶に留めていた。茎也たちが逃げ込んだそこは、基本的に暮東ではよくあることだが、夜になると人の気配が失せていた。
「……はい。ですから、すぐにいってやってください。……いや、それじゃ」
 電話ボックスで茎也は、小路で男が倒れていることだけを手短に警察に知らせ、通報者の名前を聞き出そうとする相手の声をさえぎって、受話器を引っかけた。
 溜息をついて外に出る。そして右側のベンチを見た。
 電灯からぼんやりと降らされる光の中――季菜が腰を下ろしている。
 足を組んで、レジ袋の中身であるじゃがいもを手持ち無沙汰なふうに弄んでいる。こんなものでなにをするのか、と言うふうに。瞳の色が違っていても彼女は実際“季菜”に間違いないのだけれど――そんな、彼女の気持ちを侮蔑するような態度をされると、茎也は腹の虫のいどころが悪くなった。
 季菜がレジ袋にじゃがいもを戻しつつ、ぽつりと言う。「ご苦労なことだな。人情か。ただただ良心というのは、必要不可欠な厄介者だな。捨て置けばよかったものを。……まあ、男のあの様子じゃ、私たちのことをまともに話すことはできそうにないけどな」
 ――どうしようもなく、いかれさせてやった。
「あっ」確かにあの男に話されてしまえば終わりで、茎也は失策したと焦りかけたが、彼女の言葉に安心していいのかもよくわからず、結果出かかったなにかを飲み下すしかない。
 とはいえ――今はある意味チャンスだ。一連の事件のせいでうやむやになりかけた、というか問いただすことができなかった疑問をあきらかにすべきである。
 茎也は意を決して言った。
「おまえは……季菜は、いったい何者なんだ?」
 並外れた運動能力。
 冷たく急変した口調。
 そして――その、赤い瞳。
 何者か、と呟いてから季菜はベンチから立ち上がった。
「お前がばかみたいに呼んでいるトキナというのは、“あの子”……季菜のことだろう」
「なに?」
 彼女は――

「私は、朱鷺菜(ときな)」

 ――言うなれば、もうひとりの不退院季菜だった。
 それはつまり二重人格ということで、ひとつの肉体の中に二つのペルソナが宿っているという、通常なら存在するはずのない心の構造をさしていて。
 通常なら――だから、すなわち。
 精神異常者。
「そんなっ。おまえは季菜だけど、季菜じゃないっていうことなのか……?」
「言っている」理解力の乏しい子どもに嫌気がさしたときみたいに、彼女は答えた。
 それはにわかに信じられるものではない――が、それなら説明がつくとも思ってしまう。錯綜する情報をまとめるには、不自然を自然に納得するためには、その告白にすがるしかないのかもしれなかった。
 思えば。
 季菜の自意識の希薄さ、自己領域の窮屈さは、このことに起因していたのかもしれない。単純計算、これが自分だと胸を張って言える自我の容量は半分しかないのだから――とは想像してみるものの、とにもかくにも、自分の中に他の精神が棲みついているという事実は、小柄な少女には大きすぎたに相違ない。
 さらに、合点がいく。
 社会科準備室での奇妙な事件。
 あのとき目の前にいたのは、季菜ではなくて朱鷺菜だったのだろう。それでも、さきほどの彼女が覚醒した瞬間のも含め、あのおぞましい感覚はなんだったのかと疑問は残る。多重人格というだけでは、とうてい納得できるものではないのだが……。
「色々考えているみたいだな」朱鷺菜が言った。「なにが変わるわけでもないだろうに。あの男みたいに単純明快になったらどうだ。標的と決めたら、すぐに会いにきたぞ」
 茎也は顔を上げた。
「そういえば……おまえ。まさか、あの男と面識があったのか?」
“Arrow”は、そんなことを言っていたような気がする。
「なに、ただの興味本位だ。殺人鬼がいると聞いたから、あの子と“交代”して見物しに出かけただけだ。お前たちが檻の中の動物を見にいくのとどこに変わりがある?」
「なに言ってるんだ。そんな、同じなわけないだろう」
「同じさ。少なくとも私にとってはな。……まあ、そのときに少しばかり私の姿を見られてしまったから、目をつけられてしまったようだが。異質なものはすぐ的になるな。烏合の衆の目先も、人殺しの切っ先も。この髪はまだまだ捨てたもんじゃない」
「……とにかく、おまえのせいで季菜は襲われたっていうことなんだな。人格で明確に区分けされているのなら、おまえの意思と彼女の意思は全くの別もので」
「ああ、あの子はなにも知らないよ。私は彼女が寝入ったあとに、からだを借りただけだ」
 季菜があくびをしていたのを思い出す。茎也は怒りをあらわにした。
「そんな、ばかみたいな話があるか! おまえと季菜はひとつなんだろ。なんでわざわざ無茶苦茶なことをするんだ! 危険に陥れるだけだろう!」
「だから、興味本位。物見遊山。それにやつを返り討ちにする自信があった……あと、私たちはそこらの姉妹みたいに仲良くない。いや、それ以下だろうな。どこまでも果てしなく、それ以下」
 それは――どういう意味だろうか。
「でも、彼女は傷ついた。おまえはどうだか知らないけどな、季菜は」
「うるさい。傷を負ったのは私だ。あの子は気絶しただけ。その後の感覚は、痛みは、すべてて私のものだ」朱鷺菜は、苛ついてきているようだった。不満そうな目つきで茎也を睨(ね)め上げてくる。だが、茎也も負けず劣らず色めき立っていた。
「それでも、季菜の恐怖が帳消しになったわけじゃないっ。あの男だってあんなにする必要はなかったじゃないか、警察に突き出せば十分だったはずだ。そもそもな、おまえがなにもしなければよかったんだ。そうすれば季菜は襲われなかったのに! 結局おまえが――」
 そのつづきは発せられなかった。
「黙れ。唾を飛ばすな、顔につく」
 いきなり――鋏を口腔内に突っ込まれたからだ。
「か……ほ……ぁ」
 右の刃は頬の内側に、左の刃は頬の外側に、あてがわれている。
 圧倒的な異物感に身じろぎひとつできない。どうにか息をすることだけは許されているようだが――これは現実なのか? と舌先で確かめるように鋏をなぞってみると、鉄の錆びついた味を味蕾が教えてくれる。
「いっ……」つづいて似たような、けれどどこかが決定的に違った味覚とするどい痛みが舌に走った。忘れていたのが憎らしい。この鋏はふつうじゃない、諸刃なのだ。舌を浅く切って血が出てしまったみたいだった。痛い――怖い。
 朱鷺菜が酷薄な笑みを浮かべた。
 あの可愛らしい唇がこんなふうに曲がるなんて、想像もしなかった。
「おつむの足りない男だな。へたに動くべきじゃない、当たり前のことだぞ。それともなにか、おまえには自虐の気でもあるのか?」
「おまえ……こんな、ことして……」
「うるさい」
 ぐい、とより深く鋏が差し込まれる。
 心身ともにどんどん追いつめられ、なにも言えなくなる。
 指先の動きがこんなにも恐ろしいと思ったことなんて、今までただの一度もなかった。彼女が人差し指と親指を合わせるだけで、いとも簡単に紙のように頬は裂け、『口裂けなんたら』――なんて新たな都市伝説が誕生してしまうのだから。
 さきほどまでの怒りが、誰かからの借り物だったみたいに感じる。茎也は、意にそぐわないかたちで無理やりクールダウンさせられてしまっていた。
 ごくり、と漫画やアニメなら唾でも飲み込みたいところだが、それもできない。喉元が動けば、その拍子に奥を傷つけてしまう恐れがあるからだ。
 今どき歯医者だって、こんな乱暴に施術したりしない。目の前の女は、人格の分裂うんぬんを語る以前にどこか頭がおかしいんじゃないのか? こんな人間、この太平の世にいていいのだろうか、いや、いいはずがない――というか反語を持ち出すまでもなく、まさに“剣呑”すぎる。
「嶋原茎也」
 なんの脈絡もなしに、朱鷺菜が何度も重ねて呼んだ。
「茎也。茎也。茎也。茎也。茎也」
「なんで……俺の、なまえを……」
 このトキナに名乗った覚えはない。
「別に。あの子の頭の中を探れば、おまえの面白味のない名前なんていくらでも出てくる」
 つまり、そういうこと。
 季菜は自らの意識しか知ることはできないが、朱鷺菜は彼女の意識をのぞくことができるというわけか――いささか不平等なメカニズムの気がするけれど。
「のぞき見は、感心しないな」
「関心もないが」朱鷺菜はそう切ってからつまらなそうにつづけた。「最近あの子の自慰の回数が増えていてな、迷惑してる」
「ぶは」
 ふつうに口を切った。
 痛みをこらえつつ、茎也は聞いた。
「な、なんなんだよ……それ」
「冗談だ」
 しれっと答えた朱鷺菜に、最低限のジョークの作法というものを教えてやりたくなった茎也だったが、ここでくどくど説教を垂れようものなら、またぞろ「うるさい」とピンチに追い込まれること請負なので断念する。生殺与奪の権は、完全に握られているのだ。
 と、彼女はつづけて言った。「といったものの、まったくの虚言というわけでもない。あの子は昔に比べて、よく心が熱を持つようになった。それはやはり、おまえに恋をしているからだろうか」
「……ああ、見ていてわからないか?」
「あいにく、私は夜行性でな。あまり知らない――が、好いているのは本当らしいな」
 朱鷺菜はふっと息を吐いて、そこでようやく鋏が口から引き抜かれた。空っぽになり開閉が自由化されると、かえって違和感を覚えてしまう。嫌なことに茎也の口としては、従来の随意性よりも、今のありえない不自由さのほうが密度の濃い時間だったらしい。
 それでも、ここで安心してはいけない、油断などもってのほかだ。なぜなら彼女はついさっき、なんのためらいもなく人体に刃を刺し入れたのだから。しゃきん、と朱鷺菜は鋏を重ねて戻す――その音だけでフラッシュバックしてしまうような光景を確かに見てしまったのだから、彼女に対する警戒は絶対的に必要なのかもしれない。
「どうやら、やはり、あの子と私はあいいれないみたいだ」朱鷺菜が平たく言う。
「……よくわからないが」
 切ってしまった口腔内に指を入れて具合を確かめつつ、ついでに朱鷺菜からさりげなく距離をとりつつ、茎也がぐったりした声で返すと――「嶋原茎也」と、彼女は鋭い眼差しで彼を射抜き、人差し指をぴんと立てて宣告した。

「私は、おまえが嫌いだ」

 その言葉は、夜の閑寂もあいまって、しかと茎也の耳に突き刺さった。

     

      (十三)


 授乳以来ね。
 貴方が私の乳房を求めたのは。
 へその緒以来ね。
 貴方が私と繋がったのは。

                   ◇

 夢かどうかを確かめるには頬をつねればいい――間々時々そう言われ、すでにその方法は世間で一定の地位を築き上げているけれど、それはリアルな痛みを判断材料にしようという意図があるわけで、つまり歯を抜くなり腹を切るなりしてもかまわない――というのは極論以前の暴論だが、口腔内の切り傷が本物か否かぐらいなら十分現実的だと言える。
 ようするになにが言いたいのかというと――夢じゃなかった。
(……いや、あんなもの悪夢でも遠慮したい)
 茎也は、日用品の補填のため、国道沿いのドラックストアへ自転車を転がしつつ、かすかに蜃気楼が揺らめく道の先に意識の破片をむかわせながら思う。
 ――昨夜。
 あのあと、朱鷺菜は茎也を置き捨てるようにして、すたすたと旧花川公園を去ってしまったのである。後ろ姿だけ見ると季菜と瓜二つなので、ふられたような気分になった。彼女は茎也のことを嫌いだと言ったから、事実といえば事実なのだろうけれど。
 とはいえ、茎也はこんなときにかぎって物わかりがいいふうにはなれなかった。こちらから激昂したり、彼女に恫喝されたりで、うやむやになってしまった数々の疑問がいまだに胸の奥で燻りつづけている――しかし、季菜の真実を知ることに恐れがないわけではけっしてなく、ふたつの意思が矛盾しながら心の片隅で浮沈している有様だ。
 今日は日曜日だから、アクションがあるとすれば明日だろうが。
 と。
(……ん?)
 茎也はブレーキをかけた。そこは河川を横断する橋の上で、そこから川沿いに整備された遊歩道が見晴らせるのだが――そこにぽつんと立っている人影が、注意を引いた。
 そこは、連続通り魔殺人事件の二件目の犯行現場だった。
 人影は献花の一束をそっと捧げたところだった。それを見るかぎり、被害者の親族や縁故のある人物の線が濃いとは思う――けれど、なにか違うような気がした。ゆえあって、八年前から茎也は死を悼む人の機微に敏感になっていた。
 その感覚に手を引かれ、自転車を停めて沿道に下りた茎也は、その人――女性だ――の背中に近づく。後ろに誰かがいることには気づいていたのだろう、黙祷を終えたあと、彼女は彼のほうを振り返った。「こんにちは」と落ち着いた声で言う。
「……こんにちは」茎也も軽く会釈して返す。
 四十路のあたりだろうか、女性のやわらかな表情には、未亡人のような一種の諦観じみた思いがたゆたっていた。それが、それこそが彼女の魅力とも言えた。
「貴方は、石井(いしい)さんのご家族の方ですか?」と、訊ねてくる。
 石井とは、被害者のひとりであるサラリーマンのことだ。ここの欄干に、まるで紐のように人体に不可能なかたちで括りつけられて殺されていたらしい。
「いや、そうじゃないんですけど……ただ」
「ただ?」
 茎也は考える。今、女性は『石井さんのご家族の方ですか?』と言った。顔見知りならある程度は知っているはずのことでもあるし、となると、彼女は石井の縁者じゃないということになる――被害者側の人間ではなくなる。
「ただ、あなたの後ろ姿が、変に気になって……どこか」
「どこかほかの人とは違う?」
 先を読んで、寂しそうに女性は笑った。
「貴方もどこか違いますね。お名前は?」
「嶋原茎也です。あの、あなたは」
「ええ」
 そう一息切ってから、坂崎千鶴(さかざきちずる)と女性は名乗った。
 坂崎――先日ニュースに出てきたばかりの苗字。
“Arrow”こと坂崎亜郎(あろう)の名を、茎也は知っていた――ヒネリもメッセージもない駄洒落だが、なんてことはない、はじめから真名をさらしていたのだ。
 ちなみに彼は現在、茎也の通報のおかげで一命を取りとめたものの、すでに容疑者として名が挙がっていたらしく、回復を待たずに逮捕されている。
「私は、先日逮捕された坂崎亜郎の母です」
 それだけ。
 それだけのこと――だけど。
 鬼子を産み落とした女は言う。
「貴方は不思議ですね。まるで私たちのことを知っているような、亜郎のことを知っているような、そんな気がします……いえ、ごめんなさい。殺人犯とその母親となんて、関わり合いになりたくないですよね、忘れてください」
「いや……」実際のところ、茎也は坂崎亜郎とずいぶんと密接な関係にあるのだが、自分の恋人があなたの息子さんの喉を掻っ切りました、なんて口が裂けても言えないに決まっている。いや、とある少女のせいで少しは切れているけれど。「それより、あなたはこうやって事件現場を回っているんですか?」
 そう聞くと、坂崎千鶴は小さく笑った。
「ええ……でも、ひどい言い草ですが、今日ここにいたのが貴方で良かったと思ってしまいます。先日の河本さんのところではご家族の方と鉢合わせしてしまい、大変でしたから」
 顔を殴られ、塩を撒かれ、地面を這いつくばらせられた。オブラートに包み込まれてもなお、その情景は生々しく茎也の目に浮かんだ。
「あんな仕打ち、当然なんですけどね。本当は殺されても、文句は言えません」
「そんなことは」――ない、とは言えなかった。殺された五人の無念さと遺族の憤嘆を思えば、とてもじゃないけれど、場をとり繕うだけの安い科白は口からでまかせだ。
 するとそんな茎也の様子を見て、「貴方は不思議ですね」と再び呟いて、それからあさっての方向をむいた。「嶋原さん……これからは、すべてて私の独白です。人殺しの親の、言いわけじみた独り言です。ですから、貴方は聞く必要はないですし、ここにいる“だけ”のことに飽きたのなら、途中で立ち去ってもらってもかまいません」
 茎也は動かなかった。それが答えだった。
「――あの子になにかが欠けていることは知っていました」
 坂崎亜郎に存在していなかったのは、授けられていなかったのは、良心だった。その空洞の正体に彼女が思い至ったかどうかは不明にしても、息子のどこかに欠陥があることには気づいていたらしい。
「昔から人を傷つけてばかりで、ひとりになってばかりでした。そんなあの子の異常を、私たちの周りの人々は『家庭の歪みが原因だろう』って、異口同音に言ってきました。私自身そう思っていたので、責任を強く感じましたけど」
「……?」
「あの子は、亜郎は、父なし子なんです」
 坂崎千鶴はそう告白した。
 それは――どういう。
「父親は、わかりません。私を襲った男たちの誰かが、あの子の父親です。父親候補が多すぎて、誰の子かなんてわからないんです……ただ、唯一わかっているのは、あの子が白人とのハーフだということ……」
(だからあんなに色白だったのか――だけど)
 起源さえ、歪。
 和姦じゃない――強姦。それも多人数による蹂躙(じゅうりん)。
 しかしその声には、遠い過去に起きた事件の糾弾でもなければ、怨嗟の響きすら含まれていなかった。ただ、お腹を痛めた息子の生まれを懐かしんでいるかのような声だった。
「その事件以来、私は自宅に引きこもってしまいました。もっと言えば、自室にでしょうか。なにもない部屋でしたけど、そこが逆によかったのかもしれません。窓の外が怖くて、とても怖くて――ふと下を見て、たまたま上を見上げた男性と目が合ったときは、今度こそ殺されると本気で思いました。だって、死んでしまうって何度言ってもあの人たちは聞き入れてはくれなかったから。私には、もうどんな異性の顔もあの男たちの顔にしか見えなかったのです。その日からカーテンはぜんぶ閉めきって、ガムテープで隙間なく貼り合わせました。そんな状態でしたから、母や父には迷惑ばかりかけたと思います……ああ、とりわけ父には大変悲しい思いをさせました。私は父に、男性として怯えてしまったのですから。目の前で娘に金切り声を上げてヒステリーを起こされる父は、いったいどんな気持ちだったんでしょうね」
 そこまで言ってから、彼女は呼気をわずかに途切れさせた。
「……そんなある日、気づいたんです――自分が、妊娠していることに」
 妊娠させられてしまったことに。
「私は部屋の中をのたうち回って、ぐちゃぐちゃにしました。その事実に、私は押し潰されそうでした。いや……本当は押し潰されてしまっていたのかもしれません。私は憎みました。お腹の子を、私を犯した男たちを。これ以上ないっていうくらいに憎みました。怪しげなオカルトにも手を出しました。母は、気休めにでもなればと思ったんでしょう。その手の胡散臭い本を買ってきてもらって、一日中変な言葉を呟いたりして、すべてを呪いました。でも、そんなものに効果はないですよね――だから私は、ひとりっきりの自室で手術をすることにしたんです。ベッドの中央に座り込み、一番厚くて重たい辞書を両手で持って、自分のお腹を何度も何度も殴りつけました。ない腕力を振り絞って。そのときの私は、きっと気が違ってしまっていたんでしょうね。どれだけ苦しくても、痛みすら麻痺してしまっても、涙と嘔吐を繰り返しながら、私はお腹の子を殺そうとしました」
 でも――と彼女は呟いた。
「私には、無理でした」
 誰が許さなかったのだろう。誰が許してあげられなかったのだろう。
「いつしか正気を失って、そのままならよかったのに、それでも私は戻ってきて、ふと服をめくってお腹を見ると、そこは痣だらけでした。果物が腐ったみたいにおかしな色になっていて、手で触ると――痛かった」
 彼女はそれを思い出すかのように、手のひらを腹部に持っていった。
「気がつくと、私は辞書を開いていたんです。頭なんて全然回っていないのに、それが偶然だったのか、無意識だったのかわかりませんけど。『い』の次は『の』で……そこで私は、私には無理だったんです。目に入った文字は――」
 ――命、でした。
「おかしいですよね。その説明を見たとたん、私の両の目からは信じられないくらいの涙があふれてとまらなかったんです。『もっとも大切なもの』だなんて、なにで調べても、誰に聞いても返ってきそうな答えなのに。私は涙を流しつづけました。顔も辞書もくちゃくちゃになって、私は泣きました。泣きながら――ああ、そうなんだなって。私のもっとも大切なものは、お腹の子のもっとも大切なものと一緒なんだって、思ったんです」
 なんて、皮肉。
 彼女は優しくて。
 彼女は――優しすぎた。
 命の重みを知りすぎて――息子は、命の重みを知りえなかった。
 もしかしたら、坂崎亜郎が受けとるべきだった良心は、受精して子宮に着床し胎内にいるあいだに、根こそぎこの人に奪われてしまったのではないだろうか、なんて――ありもしない現象を思い浮かべて茎也はすぐに振り払う。
「泣き腫らした目で産むと言った私を見て、さぞかしショックだったんでしょうね。母は泣き崩れてしまって、父は今まで見たこともないような顔をしていました。そのあとは、何度も堕ろすように諭されましたが、私の意志は頑固なものでした。お腹も大きくなって、いよいよ後戻りができないころになると、家族は私を見限ったようでした。ふたりは私のお腹を、お腹の子を、悪魔を見るような目で見ました。近所の方々よりもひどいくらいで、私は少し笑ってしまったのを覚えています」
 笑ってしまった、と言う女の目は寂しそうだった。
「もしかしたら私は、亜郎を産むことで悲劇に負けていないことを証明したかったのかもしれません。まあ、そんな強い人間とも思いませんけど。結局、私は実家を離れて、ひとりであの子を産みました……ああ、いいえ、ひとりではありませんでした。数少ない友人に手伝ってもらいました。人を呪わば穴二つなんてよく言いますけど、男の子だと知ったときには、なにかの呪いなんじゃないかって疑心に駆られました。でも、生まれた赤ちゃんの顔を見ると、そんなのはどこかに飛んでいってしまったんです。とても微笑ましくて、とても可愛らしかった。誰の血がわけられているのかは知らないけれど、私の赤ちゃんだったんです。そうそう、あの子の亜郎という名前は、その友人がつけてくれました。彼女と私は、高校時代の弓道部の仲間でしたから。こんな子には堅苦しい名前じゃなくて、とびきりかっこいい名前がいいだろうって。弓矢なんて素敵でしょう?」
 あの男は――誇らしげに、その名前を使っていたのだった。
「それからは、働きながら必死にあの子を育てました。つい先日まで小娘だった私には育児が地獄のようにしか思えなくて、何度も自棄になりかけました。泣いて私を求めるあの子に、暴言を吐きつづけたこともあります。小学校に上がる年になると、どこから漏れ出てきたのか私たちの噂が立ちましたが――それでも私は頑張れました。亜郎の無垢な寝顔を見ながら、添い寝におちる時間が好きだった。授業参観もろくにいけなくて、たまにいけると居心地は大変悪かったですし、担任の先生が強面の男の人だったんですね。私はまあ、過去が過去ですから、家庭訪問のときなんかは、とても怖くてびくびくしていましたけど、となりに亜郎がいると思うと不思議と安心しました。……でも反面、あの子は学校でずいぶんと悲しい思いをしているようでした。ですから、きっと、あの子はそのときに壊れてしまったんだと思います。あの子は変なふうになって、よく笑うようになって、めったに笑わなくなりました。亜郎はどこでも、そう、かわいそうな笑みを浮かべていたんです。見ていてとても辛かった」
 坂崎亜郎の病気は、そのときすでに発症していたみたいだった。
 茎也は目を閉じる。最後に彼が見せた表情――その一瞬だけ、彼は呪縛から解き放たれたように思えた。思いたかった。
「そんなあの子でも」と、震える声がする。「私といるときは、すごく自然に笑ってくれたんです。嬉しそうに、おふくろって私のことを呼んでくれたんです。かないませんでした。私は、産んでよかったって、この子があの青痣の下で死ななくてよかったって、心の底から思えたんです。あの子には、人としてのなにかが欠けてはいたけれど……愛情はちゃんと握りしめて生まれてきてくれたと思うから――私のことを、愛してくれていたと思うから」
 坂崎千鶴は、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
 今までの自分たちに思いを馳せて、これからの自分たちを予期して。
 落下した雫は欄干から滑り落ちていき、河川の一滴となる。想いは、大きすぎる流れの中に飲み込まれていく。
 茎也は思う――この母子は、確かに互いを愛していた。
 きっと、恋人以上に夫婦以上に。
 にもかかわらず、坂崎亜郎は惨劇の口火を切ってしまった。
 必要だったのは、自分の行為が母親にどんな苦境をもたらすかと振り返る心で――だがそれは良心の領分だった。もとより良心を持ち合わせていなかった彼は、母を愛することができても顧みることはできなかった。愛(かな)しは哀(かな)しにならなかった。
「…………」
 茎也はなにも言うまいと決めていた。
 だって――これは独り言で、ひとりの女性が思い出をそっと掬い上げたかっただけだ。あいづちだけでも口をはさめば、他者の声が介入してしまえば、それは会話になってしまうから、坂崎千鶴の想いを受け止めなければならなくなってしまうから――その想いは、他人が背負うには重すぎる。だから、彼女は茎也に背負わせまいとしたのだろう。
 でも。
 茎也にはそれができなかった。彼女たちのすべてを汲みとったとしても、なお自分には言わなければならないことがある――そう感じた。
「……どんなに、愛していたとしても」
 茎也の声を聞くと、坂崎千鶴はわずかに目を細めて振りむいた。
 ごめんなさいと謝るように――背負わせて、ごめんなさい。
「あなたの息子が犯したのは、殺人だ。奪ったのは、五人分の命だ。坂崎亜郎は、その罪と一生をともにしなければならない。あなたは、そばで支えることはできても、肩代わりすることはできない。それは、彼だけで贖うべきものなんです」
 いわく――殺人は不可逆的だ。
 彼女は頷いたのだろうか、一寸なにかを噛みしめるように顔を下げてから、茎也のほうをまっすぐに見すえて言った。「はい。私にも、その覚悟はできています。私には私の、あの子にはあの子の罪がある。あなたにはあなたのね。私は、ただ亜郎の運命を見守ることしかできないと思います」
 それがたとえ、死をもって償わなければならないものだとしても。
 両者とも言葉にはしなかったけれど。
「嶋原さん」坂崎千鶴は言った。涙の痕が、彼女の顔に薄く線を残していた。
「……なんですか」
「貴方は立派ですね。若いのに、正しいことを言います」
 そう唇を緩める声には、揶揄じみたニュアンスは微塵も感じられなかった。茎也は照れくさいというよりも、心苦しい感じがして「そんな、全然」と返すのが精一杯だった。
「正しくて……だからこそ、危なっかしい」
 正しいことは危ない――そう言った。
(危なっかしい? 俺が?)
 わからなくなる。
 少し、この女性がわからなくなる。
 鬼子を産み落とした女。
 かつて――狂った女。
「貴方、そのぐらいの年になると、好きな子とかはいるのでしょう?」
 まっさきに季菜の顔が浮かぶ。
「まあ……います」
「そう。なら、手放さないようにしてくださいね。大事な人なんですから」
 茎也はその言葉に、ほの暗く意味深長なものを感じた。そうして黙っていると「では、ありがとうございました。さようなら」と坂崎千鶴は添えて、川上のほうに歩きはじめた。またほかの犯行現場に赴くのだろうか、と考えるあいだにも、彼女の背中は熱気の中にかすんで、揺らめきながら見えなくなってしまった。それはさながら、出かけに見た蜃気楼のように。
 ――そのあと、茎也がはっと我に返ったのは、最近はよく女の人に置き去りにされるな、とぼんやりと思ったときだった。


 休日に思いがけない出来事をはさんでしまったとはいえ、地球の自転が周期を改定するほどの事件ではないわけで、つつがなく月曜日はやってきた。
 昼の休み時間――珍しく、というかはじめて季菜のほうから教室に訪れてきて、茎也は少々びっくりした。しかし、ここまできた理由はやはり金曜日のことでしかなく、また彼女のどこか張りつめたような表情を見て、彼はすっと気持ちを入れ替えた。
「季菜、どうしたんだ?」第一にとぼけることを選択する自分にあきれて、同時にやはり心の準備が不十分なことを自覚しつつ、茎也は言った。
 しかし、季菜はさっそく本題に入るつもりらしい。「こっちにきて」と、彼のカッターシャツの一部をつまんで歩きはじめた。無言で廊下を進んでいく。
 生徒棟の裏まで引っぱってくると、季菜は今さら恥ずかしがるように手を離して、茎也とむき合った。そして苦しそうに、しぼんだ花を思わせる声で告げた。
「今日、帰り道は私についてきて」
「……それは」
「うん」
 ――私の家に、招待するから。

     

      (十四)

 
 なかなか空をずり落ちていかない夏の太陽に横から照らされて、ふたつの影が重なりながら歩いている。学校を出てから、茎也と季菜はほとんど口をきいていない。ただ、どちらからともなく沈黙を求めているだけだ。
 だが、茎也はふと気づく。
 あの線を越えた。
 帰途の路上にいつのまにか生まれていた不可視の線引き。ふたりがいつも別れる、別れることを義務づけられていた、意思表示の少ない季菜側より茎也に突きつけられていた唯一の境界線――それを、越えた。
 だからだろうか、季菜がようやく口を開いた。
「茎也くんは……私の変なところ、知ってるんだよね」
 いきなり核心に触れる。
「ああ、知ってる」
「あの夜のことは聞いたよ」
 誰に? とは聞くまでもなかった。朱鷺菜が教えたのだろう。
「どんなことを」
「私が、例の殺人鬼に襲われたところを、“あの人”が助けてくれたって」
「そうか……」
 茎也は、間を利用して思案する――なるほど、ふたりのあいだにはなにかしらの意思疎通の方法があるみたいだ。筆談あたりだろうか。
「それ以外には? なにか言ってなかったか?」
「ううん……なにも」
 茎也は苦々しい感情をもてあました。
(あいつ、なんて女なんだ)
 朱鷺菜は、自分があの事件の片棒を担いでいる、というかほとんどひとりで担いでいることを伏せているみたいである。茎也のあずかり知らない話ではあるが、季菜も意識が入れ代わる直前のことをよく覚えていないようだ。肝心なことを教えないなんて、保身的とも言えるが、どこまで自分勝手なやつなんだ。
「……あんなろう」
「え?」
「あー、いや。別の話だ」
「? うん」季菜は無垢な顔を見せる。
 しかし、彼女だってなにも知らないわけじゃない。知っているはずなのだ――狂人を前にして生き残ったという事実が指す、もうひとりの自分の所業を。それは、ずっと瞳の底面ににじんでいる憂いの念を見ればすぐにわかることだった。
 彼女は恐れている。朱鷺菜によって、ふたりの関係にひびが刻まれてしまうことを、亀裂に足をとられてしまうことを――けれど茎也にしてみれば、それは杞憂だと笑い飛ばしたかった。現実、顔の筋肉はぴくりとも動かなかったが、それでもそう思った。
 なぜなら、季菜と朱鷺菜は完全に別個の存在。
 偶然にも同じからだに入ってしまっただけで、本来なら生まれる星すら違うような対照的なふたり――だから、たとえ朱鷺菜が鋏を振るったとしても、それは茎也の手を優しく握り返してくれた季菜の手なのだ。
 それでも、もし季菜が不安にとらわれて、それを言葉にできないのなら、態度で示す心積もりだった。茎也は彼女の手をとり、優しく包み込む。すると小さく戸惑いながらも、きゅっと握り返してきた。彼はもう一度、強く手をとり直す。ちょっと苦しかったのかもしれない。こんどは指先が喘ぐように動いただけだった。
(……それにしても)
 どうしても考えざるをえなくなるのは――朱鷺菜。
 血液温度は、きっと液体窒素なみに冷たい――赤い眼の少女。
 茎也は、あの夜の恐怖を脳裏に再放映しながら溜息をついた。人格は違えど、自分の手が恋人の口を穿ったことを知ったら、季菜はどんな顔をするのだろう。
「あの……あと、ごめんなさい。茎也くんのお口……まだ痛む?」
「こんな顔するのか」思わず言っていた。
 口のことに関していえば、いまだにぶつくさと女々しく文句を吐きたい心の湿り具合なのだが、それで季菜を相手どったところで詮ない話である。茎也は諦めて、朱鷺菜が聞いている――彼女は季菜の意識を傍受できるらしい――と思うとひやひやしたが、負けてばかりではおれず、とりあえず虚勢を張ってみた。「まあ、いいさ。たいしたもんじゃなかったからな」
「そうなんだ……よかった。私からも、だめだよって言っておいたからね」
「あ、ああ」
 そんな忠告以下のお叱りで朱鷺菜が神妙になるとは思えなかったが、季菜の柔和な顔が見れただけでもよしとした。ここ数日は色々とありすぎて、彼岸と此岸をいったりきたりしていたような気がしていたから、久しぶりに感じる。
「季菜はあいつのことをどれだけ知っているんだ?」流れのまま、茎也は聞いた。
「……ううん、全然。名前が同じ読みで、朱鷺っていう字をあてることしか」少し遠くを見るように言った。「顔も知らないの……って、あはは。やっぱり同じなのかな」
 いや、まったく違う。雰囲気が正反対だ。
「でも……私を守ってくれたことは確かだから、いい人なのかもしれないね」
「そうか」と、茎也は頷いておいた。
 思いっきり否定したいし、仮に百歩譲っても、納得はまだまだできないけれど――そうこうしているうちに、かなり町の外れにきたみたいだった。感覚的には東の方角だろうか。ここまでくると片田舎という肩書きの最たるもので、家屋はあっても倒壊寸前で、道路と表現するのもためらわれるような小道しかなく、草木が繁茂しており――そして。
 山が――ある。
 その名は、記憶にあるかぎりでは夷越山だ。
(東の山……暮東、か)
「茎也くん。こっちだよ」
 季菜を包む空気が変わった気がした。彼女は家屋のあいだに立てつけられた木の戸を開き、慣れたふうにからだを滑り込ませる。家に招待してくれるのではなかったのかと思ったが、彼女の歩みに迷いは見受けられなかった。ざわつく胸を押さえつつ、あとを追う。
 獣道があるらしく、そこからふたりは夷越山に這入った。
 なあ、どこにいくんだ? そう聞きたかったが、茎也の口から言葉は出てこなかった。まだなにも言わないで、と季菜の背中が言っているような気がした。
 そうして黙々と淡々と山道を上っていくと、突然――暗幕みたいに世界を覆っていた森が左右に開けた。広がるのは、浅葱色の海だった。中腹あたりだろうか、ぽっかりと空いた平らな草原があるのだ。たまたまこうなっていただけなのか、それとも、人為的につくられたものなのか、茎也は考えたが――答えは後者だと思った。
 そこに苔むした屋敷があったからだ。
「茎也くん」
 知らぬ間に横にならんでいた季菜が、透明な瞳にそれを映しながら、
「あれが、私のお家」
 寂しいところでしょう、と言った。


 ぎし、と板張りの床が軋む。「ただいま帰りました」と季菜が呟く。
 不退院家の内部は採光性が最悪で、ひどく物静かだった。木造建築ならではの、人里離れた僻陬(へきすう)なりの、澄んだ空気に満たされている。生活感がないとでも評すればいいのだろうか――とはいえ、インテリアのためにわざと整然とさせているのではなく、本当に人が住んでいないみたいだった。
 茎也は、季菜から少しあいだを空けて足を運びながら思う。
(正直言って、ここに住むのはないな……)
 息づくものがなにもない。そう感じた。
 ザザ、と。季菜がふすまを開けて、ある一室に入った。
 つづいて入ると、そこは季菜の部屋であるらしかった。
 漆喰の壁の八畳ほどの和室には、装飾品と呼べるものはないに等しかった。女子高生として必要最低限なもの――机、箪笥、鏡台――が置いてあるだけだ。しかし全体的に徹底的に古色蒼然としており、異なる時代に迷い込んだかのような錯覚に落ちかけたが、鴨居にかけてある紺色のブレザーとチェックのラインが入ったプリーツスカートが、平成の世に茎也を引き上げてくれた。
「茎也くんが初めてだよ」
 視線を季菜に移す。「なにが?」
「家族以外の人を、私の部屋に入れるの」
「へえ、そりゃ光栄だ」
「どういたしまして」
 季菜はくすくすと笑いながら、天井の裸電球を点灯させた。いちおう電気は通っているみたいだが、薄暗さが改善される様子はない――と、彼女がもじもじと制服のリボンに指をかけながら見上げていた。言外のメッセージを感じる。
「……?」
 疑問を顔に映すと、リボンをおもむろに解いてから言った。
「あの、茎也くん、ごめんなさい。私、その、着替えたいから……」


 応接間に退散してから、長くは経っていなかった。
 囲炉裏は冷えて、あいもかわらず静けさが蔓延っており、ひとりになるとよりいっそう深く感じられる――が、それにしても静かすぎではないだろうか? 掛け値なしに無音だ。季菜は家の人という言葉をときおり使っていたから、誰かがかまってくれるはずだと思っていたのだが、その気配はここに入ってからただの一度もない。たまたま留守中なだけか、それとも、季菜にも付き合っている男子を家族にあまり見せたくないという思春期的なうれしはずかし心理が働いていたりするのだろうか――なんて、つれづれなる思考と戯れていたけれど。
(うわっ)
 ふすまの隙間に、うっすらと人の輪郭が浮かんでいるのを発見して、茎也は肩を跳ね上げた。少し間をはさんで、ひとりの女性が入ってくる。後ろ手にふすまを閉めた。
 彼女は紫根(しこん)色の着物をまとっていた。おくみは左前で、首元もしっかりと合わせており、着慣れている印象を受ける――しかし、頭のほうはといえば結い上げもせず適当なもので、くせのある髪をボブカットにして首のつけ根まで遊ばせていた。
「……こんにちは?」
 女性が、最小限の動作で茎也を見て言った。気だるそうな声だ。
 茎也はゆっくりと息を吸って、「こんにちは」と返した。その声は、動揺の余波を受けてわずかに震えていた。だが、常人なら悲鳴を上げていたかもしれないこの場面で、その程度で踏みとどまることができたのには、やはり、一度見た“慣れ”があったに違いない。
 女性の目は――赤かった。
 朱鷺菜と同様に。
 家の人。
 血縁――血の、繋がり。
 それでも髪の色は東洋人の黒だった。トキナについては、まだ疑問が残りそうだが――そういった分析をしているあいだも沈黙は流れていくわけで、とりもあえず茎也は慣習にしたがって自己紹介をすることにした。母親にしては年若すぎる気がするが、相手がどんなつづきあいでも礼儀は大切だ。
「えっと、季菜さんとお付き合いさせて頂いております――」
「嶋原茎也くんでしょう? 話は聞いているわ」
 話――どこまでの話だろう。
「私は四辻(よつじ)。不退院四辻」
 四ツ辻。
 妖の往路。
 魔の復路。
 茎也は言った。「四辻さんは、季菜さんの……」
「あの子のことは季菜でいいわ。そう呼び合っているんでしょ」
「はい……その、季菜のお母さんですか?」
 すると、四辻はわざとらしく顔をしかめた。「私ってそんな年に見える?」
 茎也はいちおう非礼を詫びつつ、改めて関係を訊ねた。
 彼女は、一度笑うように肩を震わせてから答える。
「そうね……養母ってところかしら」
 養母――ということは。
「なら、季菜の両親は」
「死んだわ。母は光を奪われたまま。父は精神を病んで自殺」
 それはどういった経緯で、とはつづけられなかった。ショックだった。
 季菜の両親が死んでしまっていること。自分と同じように、孤独の浅瀬に足を濡らして歩いていたこと。それに追い討ちをかけるみたいに訪れる、いわれのない悪意にさらされて、あんな無感情な顔のまますごしてきたということ――そのすべてが、ショックだった。
「まあもともと、季菜は複雑な子だったのよ。複雑なものは複雑なまま変われないのね。絡まっちゃってるんだもの。ばかは死ななきゃ治らないのと同じかしら」
 四辻はそう憫笑をもらした。あるいは、その響きは嘲笑だったのかもしれない。たもとで口元を押さえて、また肩を震わせるのだ。茎也の目がぴくりと彼女をとらえる――この人、自分を養母と位置づけておきながら、どういう物言いをしているんだ?
 と。
 正面のふすまがざりざりと開いた。老人が入ってくる。
 隠遁生活が、からだの中枢まで染み込んでいるようだった。四辻と同様に着物を着ているが、それはだらしなくよれていて、色合いもみすぼらしい。老人は茎也の前で大儀そうにあぐらをかき、そのままつぶらな瞳を彼に固定する――赤く、血を吸ったような瞳を。
「あら、烏森(かすもり)様。別に今日は出てこられなくても大丈夫だったのに」
 そう言って、四辻は烏森の脇に控えた。そして、彼の耳元でなにかをささやく。烏森はうたた寝に似た仕草で頷いて、「ヨクキタナ、嶋原茎也」と言った。
「ハジメニ云ッテオク。ワタシタチハ妖魔ノ一族ダ」

     

      (十五)


 妖魔。
 時に人と共存し、時に人に牙を剥いてきた異形の存在。
 古来より山や森には、世にも恐ろしい魔物や不思議な妖怪が棲むと言われてきた。それは、人々が多少なりともその恐怖の正体を自らのうちに置こうとしてきた歴史である――正体不明の怪奇や霊障を、自分たちの秩序を崩さない程度に認識するために、人々は風説という手法を用いてきた。かれこれこうで件(くだん)が予言した、かれこれこうで蛟(みずち)を見た……数え上げたらきりがない。それらは口伝えで広がっていった類のもの――あくまで酒の肴であり話の種であり、俗信にすぎない。
 噂は噂。
 信憑性を欠かすも満たすも人次第。
 しかし――噂の生まれるところには、確かにその根拠となる事象が存在する。
 それが、妖魔。
 烏森と四辻は自分たちをそう称した。
(……信じ、られるか?)
 こんな身も蓋もない話を。
 冷静に考えれば、こともなげに笑殺できる。妖魔なんてこの世の大部分の人は信じていないだろうし、唾を飛ばして実在を力説したところで変人扱いが関の山だ。もちろん茎也だって同じで、見たことも聞いたこともない、まったく経験したことがない――のか?
(そうなのか? 俺は本当に知らないのか……?)
 妖しげに光る人外の瞳は――すぐそこにある。
 通り“魔”殺人“鬼”を凌駕した少女は――すぐそこにいる。
 言葉の綾でも、喉のうずきは誤魔化せない。
「そ」――そんなわけが、と弱々しく反論しようとした茎也の声は、戸が引かれる音にかき消された。目をやると、季菜が手をふすまにかけたまま俯いていて――いや、違う。
 あれは季菜じゃない。
 空気が、違う。
「おまえ……朱鷺菜、か?」
 彼女は鎌首をもたげて茎也を見た。予想どおり、眼光が緋色に染まっていた。
「ご名答だ」
 茎也が出ていったあとに入れ替わったのだろう、朱鷺菜は四辻たちと同じ着物を着ていた。細かいところを指摘すれば、着物というより浴衣みたいな雰囲気で、簡単に羽織って適当に帯をしめた感じがする。彼女のからだは、起伏のあまり目立たない日本女性を想定してつくられた着物のイメージにはそぐわなかった。
(……って、なにを考えてるんだ俺は)
 彼女の着物姿が新鮮だからという理由で納得することにする――新鮮?
 ズキン、と――前回に比べたらかなり軽度のものだけど、彼の頭蓋の中に、はじめて朱鷺菜と遭遇したときと同質の痛みがよぎった。
 すると、そんな茎也をじろじろとつまらなそうに見つつ、彼女は口を開いた。「意地を張るとはえらく強腰にでたな、茎也。舌の傷はたいしたものじゃないんだろう? なら、もういっかい試してみるか?」
「……遠慮しとく」
 さきほどの季菜との会話は、やはり聞かれていたみたいだ。茎也は後悔した。
「それに、よくもなれなれしく手を握ってくれたな。いやらしいやつ。下心が丸見えだぞ」
「あれは違う。勝手なことを言うな」そこはすかさず反駁(はんばく)する。
 朱鷺菜はふんと鼻を鳴らすと、これで前説は終わりだといわんばかりに、ぴっと視線を四辻たちのほうに切った。その瞬間、なぜか茎也の頬に同じ軌道で熱が走る……いやまさか、「視線を切る」と「視線で切る」は別物だろう。
「ズイブント楽シクヤッテイルミタイダナ、朱鷺菜」烏森が言った。
「ほざくな。私はなにも楽しくない。不機嫌なくらいだ」
 冷戦状態の茎也と朱鷺菜の関係を知っているのか否か、烏森は干からびた笑い声を上げる。そして、茎也にしわくちゃの顔をむけた。
「サテ……話ノツヅキダッタナ嶋原茎也」
「いや、老人に長々と喋らせるのは忍びない」朱鷺菜が割って入る。それから、閉めきられている襖をにらみつけた。「いるんだろう? きさまに説明させてやる。もったいつけてないで這入ってこい」
 と。
 くたびれた男の忍び笑いが聞こえてきた。「いやあ、怖い怖い。きみには、どこに隠れても見つけ出されて刺されそうだな」という科白とともに襖が開く。
 茎也は目を瞠った。
「なっ、おまえ……誘木」
 誘木征嗣。
 西浦高校の教師である彼が、そこにいた――非日常の中に土足で踏み込んでくる日常の象徴は、なによりも異質なものに見えた。
 混乱しながらも、茎也は立ち上がって言った。「どうしてあんたがここにいるんだ」
「さあ? と言ってきみより上位にいるという優越感を味わいたいのだけど、どうかな」
「そんなの知るか。教えてくれ」
「ははは、素直じゃないな。大人に嫌われてしまうぞ」校舎内とはうってかわって、人を小ばかにしたような口調で言う。「小佐々木先生みたいな大人にな」
 そう言われ連鎖的に、社会科準備室の事件のあと、誘木と交わした会話のことを思い出した。あのとき、彼はだしぬけに「なにか起きなかったか」と聞いたのだ――どうしてその不自然さに気づけなかったのだろう。もしそれが、季菜ががらくたの雪崩に巻き込まれたことに対して――ではなかったら? 「なにか起きたか」ではなく「なにか起きなかったか」という自らの感覚を確かめるような言い方に意味があったのだとしたら?
 ならばそれは――季菜の秘密を知っていたのかもしれない、ということ。
「あんた、季菜のことを知っているのか?」
「ああ、少なくともぽっと出のきみよりは知っているよ」
「なら……おまえだけじゃなくて、ほかの教師たちも」
「いいや、知っているのは僕だけだ。三組の担任も、教頭も、校長だって彼女のことは頭のおかしな――いや、頭の色のおかしな生徒ぐらいにしか思ってないよ。同じ公務員でも彼らは教員。僕は監視員。実のところ根っこは別物だ。教師のふりをさせられるなんてたまったものじゃないが、まあ仕事だしね」
「監視員?」
 茎也は引っかかった単語を拾う……というか今、この男わざと言い間違えなかったか?
「それはおいおい話すことになるさ」誘木は座って、つづきを口にしようとしたが、ふいに顔を四辻にむけた。「そういえば、ここは客人に茶も出せないのか。これから口が渇く」
 彼女は誘木をひっそりと見返したが、立ち上がらなかった。そして、彼の言葉が聞こえなかったかのようにまぶたを閉じた――その数秒後、彼はいきなり囲炉裏の中の灰をつかんで彼女に振りかけた。とっさにたもとで顔をかばうが、盛大にかぶる。
「早くしろ」
 忌々しそうに言うと、四辻は立ち上がり応接間を出ていった。こほ、こほ、と咳き込む音が聞こえてきて、ようやく茎也は誘木を非難の眼差しで見ることに成功した。
「さすがにやりすぎだ」
「文句は言わせないよ。便宜を図ってやっているのは国であり、実務は僕だ」
 茎也にはやはり、彼の言うことは露ほどもわからなかったが、次の言葉を待つことしかできなかった。情報が圧倒的に不足している現状では、受身をとらざるをえない。
「面倒だけど仕事のうちだから、これからきみに不退院一族の説明をしなくちゃならない。言っておくが、これは秘密を知ってしまったきみだけに話すことだ。他言無用、口外禁止だということは肝に銘じといてくれ。もし破ったら、国家権力がフルパワーで殺しにかかるぜ」
「……了解」
 そして誘木は語りはじめる。
 それは――はるか昔に端を発し、現在にまで螺旋を描く、けっして歴史の表舞台には現われてこなかったある血脈の物語だった。


 十二世紀中盤。現在の暮東と呼ばれる地域の東方の山に、光の塊が沈んでいくのを人々は目撃した――しかし、それは太陽ではなかった。
 灰鱗暁魔(かいりんぎょうま)。
 廃国蝶々(はいこくちょうちょう)。
 他、諸説。
 触れたものを一瞬で燃やしつくし、その灰を鱗粉のように舞い降らしながら飛ぶその姿は、神々しい蝶々のようだと云われ、また炎に巻かれる醜い蛾だったとも伝えられる。
 遠方で討たれかけ、余命いくばくもないと感じた灰鱗暁魔は、名もない山に不時着し、そこでひとりの僧侶に発見された。すでに女人の姿に変化していたそれは、僧侶のもつ不思議な力で癒され回復する。はじめは警戒の色を隠せなかった彼女だが、接触を重ねるうちに心を開くようになる。やがて彼女は僧侶とのあいだに子をもうけた――その嬰児(えいじ)の目は母親の血を濃く受け継ぎ、真紅に染まっていた。
「――その後、着実に系図を拡大させていった彼らは、時の天皇より“不退院”の名を賜うことになった。そして、不退院は“護国十家”に組み込まれた……ああ、護国十家というのは呼んで字のとおりさ。お上は、不退院みたいな十の“異常な家門”を国を護る貴重な存在と位置づけたんだ。実際のところは、人里離れた領地でなに不自由ない生活を送らせる代わりに、大人しくしていてくださいっていうある種の隔離政策だったと見るべきだろうな。まあ、そんな荒くれた輩ばかりじゃなかったんだけど」
「その……護国十家っていうのは、元が人じゃないやつらばかりなのか」茎也は言った。
「全員が全員というわけでもないよ。第一位の敷麻(しくま)一族は人間だし、一番の古株だった遠村(とおむら)もそうだ。反対に、石井七三一部隊の無傷堂(むしょうどう)や、雪国の桐別(きりべつ)なんかは、起源は不退院と同じ魔の類だな」
「人間なら、別にそんな枠に入る必要はないんじゃないか?」
「大アリさ。言っただろ、異常な家門だって。彼らは、必ずどこの家でも異能の力を秘めているんだ。人間なら陰陽道や祈祷術とか、妖魔なら怪異や妖術とかね。でもまあ、不退院はその中でもちょっと風変わりでね――その異能の力っていうのがないんだよ」
「ない?」
「どうして護国十家に名を連ねているのかって思うよな? それは、単純に『生物を殺すこと』に関してずばぬけて秀でているからなんだ。不退院が上位に君臨しているのは、それこそ他家の秘術や魔術と同等かそれ以上に、その力が異能の域に達していることの証明だろうね。君も片鱗を見たはずだ。坂崎亜郎を、三歩歩けば鶏頭よろしく忘れたわけじゃないだろう?」
「……まあ」
 殺害という行為。
 朱鷺菜のしかけた行為。
 あれがまだ――片鱗なのか。
「けっこう横道にそれちゃったな。話を戻すと、それから近代まで不退院はそれなりに繁栄した。しかしそうなってくると当然、政府としては目を光らせないといけなくなってくる。なにせ護国十家という異物はあくまで架空、俗信、噂であるべきだったんだから。民衆の耳にはとまっても、目にはとまっちゃいけない。そう、だから、朝廷は正式に各々の家に目つけ役として役人を派遣した。それが、僕――不退院つき誘木家の先祖さ」
「だから……監視員ってことか」
「ご明察。しかしね、盛者必衰とよく言ったものだよ。日清戦争が始まったころから、不退院をはじめとする護国十家は、名のとおり国を護るために次々と徴兵され戦地に赴いた。派兵先の兵隊には、極力情報を開示せずにね。極東の小さな島国が、なみいる強豪国と互角以上の戦いを演じられたのはなぜだと思う? 整備された軍隊や技術力の進歩だけじゃない。その裏にいる、教科書にはけっして載らない、載ってはならない彼らの活躍があったからなんだよ。西洋諸国じゃそういう連中はいなかった。近世にいたるまでで、めぼしい者は“異端”として処分されちゃったからね。……しかし史実、日本は太平洋戦争に負けた。第二次世界大戦の敗戦国となった。ちなみに確か、さっき話した遠村とかは、戦時中に全滅したんだったかな。とにかく、そのあと平和の時代が訪れ存在意義をなくし、戦死者や戦犯が続出した護国十家は衰退の一途を辿ることになる。それがたった五十年前の話だ。だけど、彼らにはもう見る影もないよ。見てみろ、不退院がいい例だ。異能を捨て、人間社会に溶け込もうとしている家だってある。そっちのほうがはるかに生きやすいからね」
 ――と、これで使命は果たしたといわんばかりに誘木は口を閉じた。四辻が淹れた緑茶を一口すすり、懐からとり出した煙草に火をつける。薄暗がりの中に赤い光が灯るが――それを朱鷺菜たちから放たれる眼光と比べてしまい、ふいにその決定的かつ絶望的な違いを強く意識させられてしまった。茎也は身震いした。
「茎也」深い静寂を破って、朱鷺菜がのぞき込んできた。「信じられないか」
「……わからない。内容は理解できる。意味も理解できる。でも、わからない」
「そうか」
 と言うと、朱鷺菜は腰を浮かせて、四つん這いでゆっくりとつめ寄ってきた。肢体をうごめかすと、それに連動して小さな肩から金紗の髪が流れ落ちる。衣擦れの音が耳朶をとろけさせようとする。なんとなく嫌な予感がして、茎也が手をついてあとずさると、彼女の艶っぽい唇の隙間から湿った吐息が笑うようにもれた。
 がたん、と茎也の背中が建具にぶつかる。
 逃げ場はなく、少女の顔だけが近づいてくる。
「……なんだよ」
「信じる信じないはお前の勝手だ。それにもともと、お前が知らなくてもいいことだったのかもしれない。しかし、これだけは覚えておけ」
 朱鷺菜は左手を持ち上げ、眼窩の入り口を探るようにして中指と薬指を自分の左目の周りに這わせた。そして――くちゃあ、と。あっかんべの要領で、その眼球をグロテスクなまでに茎也に見せつけた。目尻の裏がめくれ上がり、結膜の端で毛細血管が網を張っている様子がよくわかる。瞳孔に何層もの暗い輪が広がっているのが見えて、まるで彼女の深奥をのぞき込んでしまったかのような錯覚を覚えた。
 彼女はつづける。
「私たちの眼は、こんなにも醜く――それを、お前は知っているということを」

     

      (十六)


 予鈴が鳴る。ふだんは退屈な授業の幕開けのはずだが、このときばかりは違っていた。なぜかと問われれば――そもそも授業などなく、カレンダーを一枚めくれば気の遠くなるような夏休みがつづいているのだ。関門である期末考査については、すでに時の流れに身を任せており、あとは終業式を無心にやりすごすだけである。少なくとも、それが茎也の例年のスタンスであり、現在実行中の作戦でもあった。
「あー、夏休みかあ。夏休みなんだよなあ」
 校長のありがたい訓示を聞くためだけに、ぞろぞろと体育館へと移動する中、加瀬がわざとらしく呟いた。茎也は、反応した場合としなかった場合の疲労感の差を瞬時に演算し、値の低いほうを選択して応答する。
「いきなりどうしたんだ?」
「海って遠いよなあ」まさに遠くを見て言う。
「今にはじまったことじゃないでしょ、加瀬のバカは」吉田が笑いながらならんできた。「おおかた、デートするやつがいないから言ってるんだよ」
「そうなのか?」茎也は聞いた。
「ちげえよ。吉田は濱口にがっかりされないようにしぼっとけ。特に腹回り」
「るっさい死ね」
 すると、体育館シューズの入った袋を振り回されている加瀬を横目に水木が言った。「デートといえば。やっぱり嶋原くんは、不退院さんとどこかいくの?」
 そっちこそやっぱりそうくるか。
「ああ……まあ、予定が合えばだけど」
「ふぅん。ま、順調ってことなんだね」
 順調――なのだろうか。
 朱鷺菜という凶悪な人格をともなっておきながら、そう言えるのだろうか。
 どうなのだろう。
 吉田の猛攻を受けきった加瀬が言ってくる。「くそ、嶋原は不退院にかまけて受験に失敗すりゃいいんだ。うう、そうだよ……夏休みなのに勉強しなきゃなんねえんだよっ」
 つまり、そういうことらしい。高校三年生であるがゆえに、遊びたいのに遊んではいられないという対の意識の板ばさみがある。ありがちといえばありがちで、この年にしか味わえないといえばそれまでだけど。しかし、その苦悩は茎也とは無縁のものだった。
 なぜなら。
「ああ、俺なら心配いらない。大学は受験しないから」
「えっ」水木が表情を変えた。「そうなの?」
「卒業したら働く」
「まじで?」と吉田に訊ねられて、奈緒希が頷いているのが見えた。彼女にはもう知らせてあるが、それは以前から決めていることだった。経済的にも、高校はともかく大学にいく余裕はとてもないし、大学生活というものにさほど憧れているわけでもない。祖父はどうにかして進学させたかったようだが、彼の亡き今は茎也に判断が任せられていた。そうして現実的に考えつづけた結果、今年の四月にはそういう結論ができていた。高卒で雇ってくれるところは限られてくるが、このからだは力仕事にむいているから、一応は望みがもてているという状況だ。
「やべえ……なんだこの敗北感。俺はどうすりゃいいんだ」
 加瀬は体育館の下駄箱で頭を抱え込む。
 すると彼をちらちらと見つつ、水木があさっての方向をむいて言った。
「どうもこうも、やるしかないんじゃないの? 勉強。な、なんなら私と一緒にする? しょうがないから加瀬の勉強みてやってもいいんだよ?」
「成績どっこいどっこいじゃねえか」
「べ……別にいいじゃないのっ。あれだよ、せっさたくましようって言ってるのっ」
「まあ、そうだけどよ。なら、田邊も誘おうぜ。あいつ文系のくせに数学得意だから」
「え、えっと、田邊くんはちょっと」
「なに? おまえ田邊のこと嫌いだっけ?」
「嫌いじゃないけどっ。嫌いじゃないけど……そのう……」
「――わかった。さてはあいつこと好きなんだな?」
「かっ、加瀬! このバカ! やっぱりバカ! バ加瀬!」
 さきほどの吉田とのデジャヴを感じつつ、茎也は整列した。やがて式がはじまり、形式的なあいさつが、意識にピットインすることなく耳を通過していく。体育館の内部は人口過密で蒸し風呂のようになっているうえに、蝉の声が絶え間なく聞こえ、思考機能を徐々に剥ぎとっていった――そしていつしか、無音状態が白くからだを包んでいた。
 静寂。
 雁と日と月と犬と鬼と。
 魘されるような、静寂。
 
 ――……夏は嫌いだ。
 特に、八年前の夏は。
 八年前の、夏から。

「茎也くん?」
 はっとして焦点をとりなおすと、奈緒希の顔があった。いつのまにか式は終わっていたらしく、あたりに生徒たちの姿はほとんどなかった。
「あ――ああ悪い。俺たちもはやく戻ろうか」
 歩き出した背中に声があたった。
「どうしたの? なんだか元気がないように見えるよ」
「ちょっと暑さにやられたんだろ」
「ううん……最近、ずっと」
 沈黙を返すことしかできなかった。平生どおりふるまっているつもりだったが、いとこの目は誤魔化せなかったみたいだ。朱鷺菜のことを考えるたびに気分が沈む。
「もしかして不退院さんのこと?」
 いとこ以前に女だからだろうか、勘がするどい。昔はもっと鈍くさかったのに。
「ん……どうだろう」
「なにかあったら私に相談してね。私は茎也くんのいとこなんだから、きっと言ってね」
 奈緒希は薄く笑った。「わかったよ」と返しつつも、茎也はどうしてか、その表情を直視することができなかった。


 期末考査の結果や通知表などをうやうやしく受けとったあとは、あっさりとホームルームは終わり、クラスは一ヵ月後まで解散――夏休みに突入した。
 茎也はそそくさと教室を出て、季菜が所属している三年三組へと足を運んだ。仲のいい男女グループが居残っているだけの教室に顔を出すと、彼らはかすかに視線を寄越したが、特に気にとめるふうでもなくまた笑い声を上げはじめた。
 人の存在は、うるさいくらいにそこにある。
 にもかかわらず――その事実からもとり残されて、季菜は窓際最後尾の席にいた。
 快晴の屋外を眺めながら、頬杖を一本ついている。窓から吹き込むそよ風が、金紗の髪を愛でるように、それでいて儚げに揺らしていた。茎也が目の前に腰かけると、それに気づいて彼女は頬杖を傾かせる。
 悪い、待たせた。彼はそう言おうとして、口を半分開けかけて――そのまま固まった。

「遅かったな。待ちくたびれたぞ」

 淡々と見上げる瞳は――赤色。
 季菜ではなく、朱鷺菜が学校にいた。
 ガタンとたじろいだせいで机が動く。それに反応して男女グループが振り返ってくる。茎也は朱鷺菜を背で隠すようにしつつ、小声で言い寄った。
「おい、おまえ……こんなところでなにやってるんだ」
「別に。興味本位。物見遊山。あの子が通っている“高校”というものがどんなところなのか見物しにきただけだ」視線を横に投げたまま言う。
「また、そんな勝手なことしていいのか? おまえたちは、その眼は一般人に見られたらまずいんだろう? 誘木がすっ飛んでくるぞ」
「やつが達者なのは口だけだ」朱鷺菜は細いあごをしゃくった。「それに、見てみろ」
 茎也はちらりと背後を盗み見する。そこにはやはり、永遠につづくんじゃないだろうかと思うほど、くだらない会話に興じる男女グループがいる。
「私のことなんて目もくれない。ほかの連中だってそうだ。あの子を腫れ物……ひょっとしたらいないものとして扱っているからな、いまさら人格のひとつやふたつ変わったくらいでなにも起きない。図らずも、あの子が築き上げてきたこの地位は便利なものだ」
「……そうだけど」
 確かにそうなのだけど、それは彼女が望んだものじゃない。不退院という属性がそれを余儀なくさせていて――目の前の少女のせいであるとも言えるのだけど。
「とりあえず人気のない場所で話そう。ここじゃどうにも気が気じゃない」
 茎也がそう言うと、わかったと言って案外すんなりと立ち上がる。密談を思い浮かべてそくざに考えられるところは、屋上へ繋がる階段の踊り場ぐらいだった。ふだんから人の往来はまずなかったし、廊下からも死角になっていた。
 そこに到着する。朱鷺菜は、きょろきょろと校舎の構造を見渡しながらついてきていた。本当に物見遊山で学校に現れたらしい。溜息をつきつつ聞いてみた。
「高校はどうだ? 楽しそうなところか?」
「思っていたよりも、静かだな」
「そりゃそうだ。明日からは夏休みだし、みんなさっさと帰ったんだろ」
「ああ……そういえば、そんな時期もあるのか。長いこと意識の淵に沈み込んでいると、外のことがめっきりわからなくなるな」
 外界との隔絶――存在自体が認められない。
 そういうことを言うときは少なからず感傷的になりそうなものだが、筆ではねたみたいにまなじりが綺麗に流れた目には、一筋の揺らぎも観測されなかった。
(しかし……やっぱり)
 彼女は、今まで遭遇した局面がすべて薄暗かったからかよくわからなかったけれども、明るい場所で改めて見てみると、当たり前のことながら季菜に酷似していた――似ているということは、どこかが決定的に違うということかもしれないが。
(いやいや、というか全然違うだろう)
 彼女は、短気で、恣意的で、不遜で、不敵で、魔的だ。
 季菜はその反対である。
「なんだ茎也。私の顔は見世物じゃないぞ」口を尖らせてきた。
「そうにらむなよ」
「ふん……まあいい。ところでさっきは物見遊山と言ったが、せっかくだから思いついた」
「なにを?」
「おまえを試す」
 試す? どういうことだろう。あの夜のような拷問系は勘弁してもらいたいけれど。
「あの子にふさわしい男かどうか見定めてやる。だから、今日は一日付き合え」
 おまえは姑か! と茎也は叫びそうになった。
「ばかを言うな。俺はいやだぞ」
「心配するな。あの子に記憶は一切残らないし、はたからは嶋原茎也と不退院季菜という正規の恋仲にしか見えまい。社会的にもお前は安全だと思うのだが?」
「それはまあ……ってそういう意味じゃない」
「どういう意味?」
「俺はおまえの玩具(おもちゃ)じゃないってことだ」
「大人の玩具ってことか?」
「あの夜といいどうしてそっちにいく!」
「屋敷にはこけしがあるぞ。あれは便利だ」
「やめてくれ!」
「四辻が教えてくれた」
「冗談だろ?」
「冗談だ」
 朱鷺菜は急停止するように言い、ふうと息を吐いた。本格的にジョーク講座を開かなければならない、と減速しきれなかった感情をもてあましながら茎也は思う。
「とはいっても、試すというのは本当だ」彼女はつづけた。「どうせそのうち、あの子を『てごめ』にしようなどと目論んでいるのだろう? そうはさせない。あの子の貞操の危機は私の貞操の危機でもあるからな。いざとなったら入れ代わって、鋏で切り落としてやる」
 なにを、とは聞けない。聞きたくない。恐ろしすぎる。
「……鋏はもう勘弁してくれ。本当に怖かったんだ」
 本音だった――いまだに、旧花川公園での事件は想起するだけでも寒気がする。血や痛みからはじまり、そこから遡行するように坂崎亜郎のことを、朱鷺菜が鋏をためらいなく振るった光景を思い出してしまうのだ。今だって平気なふりをしているが、正直対峙するのは怖い。
「臆病なんだな」
「茶化すなよ」そう言いつつも茎也には、坂崎亜郎からふと連想することがあった。「そういえば、肩の傷は大丈夫なのか? あの男につけられた……」
「それなら問題はない。私たちはな、人に比べれば傷の治りはめっぽう早いんだ……なんなら見てみるか?」
「は?」
 言うが早いか、朱鷺菜はなにくわぬ顔でブラウスのボタンを半分ほど外すと、左肩をはだけさせた……確かに、切り裂かれたはずの雪肌はすでにうっすらと痕が見える程度にまで治癒しているけれど――そんなことはすぐに意識から離脱してしまった。
「……?」
 朱鷺菜のほうはといえば、放心している茎也を見て不思議そうに小首をかしげる。無表情に、ともすればあどけない表情で、金紗の髪を揺らした。
 当該状況を説明するならば――服を脱ぐということは、肉体的精神的社会的防御を解除するというわけで。すると自動的に下着のひもとか、その下にあるふくらみが見えるというわけで。つまり彼女の肢体の五分の一相当を目睹(もくと)したというわけで――それは、嶋原茎也という青少年を撹乱させるには十分すぎる代物だったわけで。
「おっ、おい! ばか!」
 はだけたブラウスをつかんで、すばやく彼女の肩にかぶせた。そして思う――彼女は心のバランスが悪いと、成熟がふぞろいだと。まるで不器用な粘土細工か、壊れた天秤のようなそれは、特殊な精神構造を思えばやむかたなしと言えるのかもしれなかったが、そもそも、成熟などという言葉はあてはまらないのかもしれなかった。
「ばかとはなんだ。せっかく見せてやろうとしたのに」朱鷺菜が不満げに見上げてくる。すると身長差がある以上、どうしてもやわらかな部分が垣間見えてしまう。
「いや、いいんだ。もうわかったから、はやく隠せ」
「――なにを隠すのかしら?」
 とがめるような声が聞こえ、茎也は振り返った。階下に小佐々木典子の姿があった。
「不退院さんと嶋原くん。屋上は入れないわよ。そこでなにしてるの?」
「ああっ、いや」茎也はとっさに朱鷺菜の前に出る。彼女のあられもない姿を見られたら、あらぬ誤解を招いてしまうというのもあるが、最大の目的は――朱鷺菜の存在を知られないようにすることだった。朱色の瞳を見られた場合、なにが起こるかわからない。「ちょっと話をしていただけで……」
「ふぅん。本当? 不退院さん」
 茎也が背後に反応を求めると、「ほんとうです」ととんでもない裏声で言った。ひどい猿真似だった。彼は絶望の淵に立たされかけたが、小佐々木は、納得したのかどうかは不明だったけれど、「不純異性交遊は校則で禁止されてるわよ」と嫌味たっぷりに残して去っていってしまった。……ちなみに、季菜と付き合いはじめたという噂が流れ出してから、茎也は彼女と同等の扱いを受けるようになっている。敵の味方は敵というわけだ。
 一息ついて朱鷺菜にむき直ると、すでにもとどおりになっていた。なにか急にばからしくなって、茎也は口元から幸せを逃がしながら聞いた。「で、どうするつもりなんだ?」
「なにを?」
「俺はどこに付き合えばいいんだって話だよ」
 あくまで合理的かつ理性的な思考にもとづく判断だった――たった数分足らずのやりとりでこの疲労度なのである。ごねつづけても首を絞めるだけだと思った。それに、おそらくの話ではあるが、さすがの彼女でも街中で白昼堂々と鋏を振り回したりはしないだろう。護国十家の規律は浸透しているはずだ。
「そうか」彼女は特に意外なふうでもなく言った。「決まりだな。覚悟しておけよ」
「ぞっとしないな」冗談めかして言ってから、階段を下りようとする朱鷺菜の背にむかってつづける。「しかしなんというか、おまえはそれでいいのか?」
「いいのかって」
「俺のこと嫌いなんだろ? 宣言したじゃないか」
「…………」彼女は立ち止まって、それに答えないかたちで言った。「おまえはあの子のことをどう思うことにしたんだ? 化け物か? 人か? 今までどおりに付き合えるか?」
 季菜の顔をまぶたの裏側に描いて、すぐに思い起こすことがあった――彼女はあのとき、茎也が屋敷を辞去するのについてきて、『ごめんなさい』と震える唇で謝った。そのときはじめて、告白の際に浮かべた迷いの意味を思い知った。自分が正統な人間でないことを理解していたから、深く関わることをためらったのだ――けれどそれでも、本当は育んではならない想いを、彼女は諦めきれなかったのだろう。受けとるべきではない当たり前の幸せに、人と同じような世界に、触れたいと思ったのだろう。
 ――ほかならぬ嶋原茎也という少年と。
 そのことを思うと、彼女を責めることはできなかった。むしろ、その希望の光をつかむために、一緒に歩んでいきたいと思うようになっていた。
「今まで以上さ。季菜は季菜だ。俺の気持ちは、絶対に変わらない」
 意志を込めてそう答えると、「そうか、それならいい」と朱鷺菜はほんの少しだけ笑ったように見えたけれど、すぐに底冷えするような眼差しで言った。
「嫌いだよ。おまえのことが大っ嫌いだ」
「……へいへい。結構なこった」
 彼女は階段を下りていく。茎也はあとにつづきながら、幾重にも響く蝉の声を聞いた。殺人的な暑さに呼応するかのように、けたたましく鳴いている。
 今年の夏は、一九八九年から――八年ぶりに最高気温記録を更新する見込みらしい。

       

表紙

池戸葉若 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha