見ず知らずの他人の為に、自らの命を削る。争論するまでも無く、その姿は美しい。――北海道、赤十字血液センター。札幌西区に位置する血液センターであり、春子は今、そこにいた。市の表彰を受けた三日後の事である。
『他人の為に命を配る』の第一歩とでも言いますか、この献血という行為は春子の夢に非常にマッチしていた。「およよ……、立ちくらみが。何故なら今日、私は献血に行ってきたのだからして」なんて、一度は言ってみたいセリフじゃあありませんか。
「滴草さん、滴草春子さーん」
女の看護士が、春子の名前を呼び上げる。フロアには順番を待つ供血者が数人おり、彼らは皆思い思いに過ごしている。
「滴草さんは今回が初めての献血ですので、血液の比重を調べる際に血液型の検査も行います」
健康診断には足しげく通う春子が何故今まで献血に来なかったのかと問われれば、それは単に家の近くに血液センターが無かったからというだけの話だ。春子の家から西区まで来るのは少し骨が折れる。
献血を行う場合、事前に医師による問診、血圧測定や心拍数測定などが行われるが、まあ献血自体は五分程度で終わってしまうようなものだ。だから、春子の期待とは裏腹に何事も無く事は進むかに思えた。のだが――。
「何ミリリットル献血いたしますか? 200か400かで選んでいただけますが」
来た。献血について予め下調べをしてきた春子は、この二択を問われる事を知っていた。200か400。そりゃ、春子は400を選ぶに決まっている。
「えー……と、じゃあ400mlで」
ただし、体重が50kgに満たない者は400mlを選択する事が出来ない。それは勿論供血者の健康面を考慮しての規定であるが、とは言え体重は自己申告制で、本来44kgしか無い春子は、この事を見越して問診票には52kgと記載しておいたのだった。
この場合、医師が「痩せ過ぎている」と判断した場合にのみその場で体重測定が行われるが、幸か不幸か春子は52kgという申告を受け入れられ、晴れて400ml供血する事となった。
(44kgしか無いのに規約に違反して400ml輸血……! これはいける!!)
かつてない期待に胸を膨らませ、春子は輸血台へと腰掛けた。
十分後。まあ……、予想に違っているのか予想通りなのか。春子は輸血直後にも関わらずピンピンし、それどころか水分補給さえ本来の量ほどは必要としないという驚異的な結果を辿った。
「え~……。何コレ、献血したらもっと具合悪くなるんじゃないの!?」
春子は例によって肩を落とし、『献血』の体たらくさを恨めしく思いながら血液センターを後にしたのでした。その後、春子が供血していったBombay型の血液(100万人に1人)が北海道赤十字血液センターの家宝となった事など、知る由も無く――。
○
――ところで。家から遠いという理由でこれまで献血に来る機会の無かった春子が、何故今日に限って西区まで足を運んだのかと言いますと。
春子は自転車に跨り、ペダルを漕ぐ。
北海道赤十字血液センターのすぐ近くにある病院。そこには春子の父、明雄が癌手術の為に入院しているのです。早期の癌で心配は要らないのですが、今日は本などの雑貨を届ける為に春子が使いに出されたのでした。献血はそのついでです。
(……502か)
病院に着いた春子は、紙袋を右手にエレベーターへと乗り込んだ。大きな病院で複雑な院内に春子は少し迷ったが、途中看護士に道順を尋ね父の病室を目指した。
(それにしても羨ましいな~、癌になんてなっちゃって。私の運転手として健康診断についてきただけのクセにさあ)
五階を目指す四角い箱の中で、ちぇー、と春子は舌打ちした。絶対、自分の方が闘病生活を有意義に過ごしてみせるのにとさえ思っていた。
ゴウン……、大仰な音を立ててエレベーターが止まった。それを降りると、父の病室はもう目の前だ。
「失礼しまー……す」
他の患者に気を遣ってか、春子は小声で断りを入れてから個室では無い病室に足を踏み入れた。
窓は開いていて、心地の良い風が吹き込んでいた。
(……どっか出歩いてんのかな)
父の姿は見えなかった。仕方ない、とりあえず荷物を置いて探しに行こうと病室を後にしようとした、その時。風に吹かれ、患者と患者の間を塞ぐカーテンがなびく。その隙間から、春子は偶然中を覗き込んでしまった。
そして、春子は目が合った。