Neetel Inside 文芸新都
表紙

滴草春子の正しい死に方
生きるか死ぬか

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 春子が持ってきた小説を読み終えても、健人の精神状態はとても穏やかなものだった。涙が頬を濡らすでもなく、自分の死に恐れるでもなく。ただ静かに本を閉じると、少しだけ深めに息をつくだけだった。
(……結局、あっという間に読んじゃったな)
 脇の棚の上に本を置き、健人は横になった。
 それにしても、予想に反してこれ程平静でいられるのは何故だろうかと、健人は自らを不思議に思う。こんな作り物を読むまでもない、自分自身がリアルだからか。親近感がありすぎて逆に現実離れして思えるのだろうか?
 時計の針は、16時12分を示していた。
 健人は本の表紙に視線を落とした。作中に、主人公が『15分以内に雨が止んだら病気が治る』という一種の賭けで自身の運命を占うシーンがある。残念ながら雨は止まなかったのだが、しかし主人公も結局命は助からなかったので、その占いは正しかったと考えられるのではないだろうか。
(一分、誰も病室に入って来なかったら病気が治る……)
 まあ、まずは簡単なところから。
 これは当然のように、スタートしてから二分近く経っても扉は開かない。無事乗り切ったようだ。
「よっし」
 健人は小さく呟いた。
 それから。三分以内に雨が降り出さなければ病気が治る。生麦生米生卵と噛まずに三回言い切れたら病気が治る。春子が持ってきた小説の著者で、女性の割合が高ければ病気が治る。など色々試したが、全て『治る』と出た。もっともどれも簡単なものばかりで、そもそもの話がこんな事で病気が治るなら誰も苦労しないと言われても仕方が無いのだが、それでもそれは健人にとって、少なくとも無意味ではなかった。
(案外、こんなのも悪くないもんだな)
 自然と、柔らかな笑みが零れる。一人きりの病室で笑っているというのが恥ずかしくてすぐに口元を引き締めようと思ったが、まあ、気にする事も無いかとそれはやめた。
(次は……) 
 何か無いかと辺りを見回すと、この行動の根源、『死ぬまで生きたい』が目に入った。
「………………」
 発行日が、上半期か下半期か。これまでで最も半分に近い確率では無いだろうか。
(今が十一月。結構人気ある本らしいけど、本って出版されてからどれぐらいで人気が出るんだろうか。出版前から注目されてれば早いんだろうけど、暫く経ってから人気が出るって場合もあるだろうし)
 可笑しな程真剣に悩んだ後、健人は下半期を選んだ。これは、もしかしたら外れるかもしれない。ごくりと息を呑み、本の一番後ろのページを開いた。
(………………)
 発行日、七月八日とある。健人は安堵のため息をついた後、思わずガッツポーズを作った。
 その時、一枚の紙切れが本の間から落ちてきた。ミスを詫びる出版社側の文書か何かとも考えたが、まさかそんなものをノートの切れ端には書かないだろう。不思議に思い、健人はそれを拾い上げた。
『病気が治りますように』
 小さなノートの切れ端に、ただ簡潔に記された一文。それがきっと、春子の思いの全て。
(だから、こんな事で病気が治るなら誰も苦労しないんだってば……)
 ――もしかしたら、本当に完治したって事も――
 春子の言葉が、健人の頭の中を支配した。何度も何度も繰り返し再生され、健人の頭を内側から叩き続ける。
 天井を見上げようとして顔を上げると、涙が頬を伝って落ちてきた。
(……もしかして。もしかしてだけど、本当に病気はもう……)
 心臓が、破裂しそうな程に激しく波打つ。
 健人は必死で胸を押さえ、掻き毟らんばかりに強く握り締める。声にならない嗚咽と共にベッドから崩れ落ち、冷えた床に倒れ込んだ。
 ……そ、そりゃそうか……。
 薄れゆく意識の中で、健人は投げ捨てるように呟いた。

 ○

「502号室でナースコールです!」
 その声で、ナースセンターに緊張が走る。
「……健人君だわ」
 婦長は慌ててナースセンターを飛び出し、健人の病室へと駆け出した。
「私も行きます!」
 婦長の後に、新米の若い看護婦が続く。
 階段をあっという間に駆け上がり、502号室の扉を開くと、床の上に転がる健人の姿が目に飛び込んできた。
「健人君!!」
 二人は健人の元へ駆け寄り、体を起こした。
「今すぐ山岸先生を呼んで来て!! それと、ご両親にも連絡を!」
「はっ、はい!」
 婦長の、怒号にも似た指示で看護婦は病室を出た。再びナースセンターに戻り、館内案内で山岸を呼び出すと平行して、もう一人の看護婦に両親への連絡を頼んだ。
「これが健人君のご両親の連絡先です。……それと、本人の強い希望で、もし何かあった場合はこの番号にも掛けてくれと……」
 そう言って差し出した紙には、電話番号が一つだけ記されていた。

       

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