Neetel Inside 文芸新都
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夜汽車
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 八月の風は、妙に生暖かく、私は少し吐き気がして、そして、歩き出す。それは、思った通り、妙に重い一歩だった。
 八月の風の湿り気は、私の髪を少しべたべたさせる。それが、少し嫌いだ。でも、
 八月の風の匂いは、好きだ。なんだか懐かしい。



 櫻井が死んだ。交通事故だそうだ。私はそのことを聞いたとき、本当に、なんの感情も抱かなかった。
 櫻井と私は中学の二年と三年の時に一緒のクラスだった。櫻井は少しおどおどしているところがあったので、二年の頃に少しだけいじめを受けていた。三年になると、そういったことはなかったように思う。
 私と櫻井は、一緒のクラスだった二年間の間、ほとんど口をきくことがなかった。お互いに全く接点のない女子生徒と男子生徒であったら、まあ、普通のことだろうと思う。
 ただ、私は、櫻井が三年の、そうだ、ちょうどこの時期、耳を覆いたくなるような蝉時雨の中で言った言葉が、忘れられないでいた。
 「骨って、軽いんだよ。とても。」
 彼は親戚の葬式の帰りだった。夏服を汗でびっしょりにしながら、つまらなそうな顔をして、買い物袋を片手にぶら下げた私に、言ったのだ。

     

 五年前、そういって笑った彼自身が、今度は骨になるのだ。私は、本当になんの感情も抱かない。私は彼のことを何も知らないし、ましてや、知ろうなんて思わない。
 明日に迫った葬儀に参列するために、私は礼服を用意する。無駄に家が近いために、呼ばれてしまったのだ。ほとんど着る機会のなかった礼服は、防虫剤の匂いが染みついていた。
 夏のじりじりとした太陽の中、防虫剤の匂いのする服を着ながら、汗をだくだくに流して歩く。なんだか、とてもばからしいことのように思えてしまう。
 空は小学生が原色を塗りたくったような、雲ひとつない快晴だった。そんな天気だからだろうか、私はこのまま防虫剤の匂いのする服を着て、どこか知らない街へ、遠くの街へ旅に出る、という妄想にとりつかれた。
 私はその着想にひどく魅力を感じた。想像して、顔がほころんだ。私の足は今にもかけ出しそうで、うずうずしているのだ。
 汗が額から滲んでくる。それが、つうっと頬を伝って、唇の端に流れ込んだ。すこしだけ、塩辛い味が口の中に広がる。私の汗はしょっぱいのだ。
 私の汗はしょっぱいのだ。ハハハ。そうだ。私の汗はしょっぱいし、
 骨は軽い。
 とても。
 とても。




 葬式は、陰気な連中の展覧会みたいな様相を呈していて、私はなるたけ知っている人に出会わないように、ひっそりとしていた。その作戦が功を奏してか、私は一言も会話することなくその場を切り抜けることが出来た。
 櫻井の両親。泣いてはいなかった。母親は、泣きはらしたのか、目を充血させていた。父親は、無表情を装っていた。それが、本当にわかりやすい装いかたで、本心はいますぐ肩を揺らしてすすり泣きたいのだ、ということがすぐに見て取れるような、そんな表情をしていた。
 私は、母親より、父親の方が、リアルだと思った。リアル、とはなんなのか、というのを、私はうまく説明することが出来る気がしないが、そう、思った。
 彼の父親は、誰とも話さなかった。彼の母親は、時折涙を流しそうになりながら、それでも五月蠅いくらいぺちゃくちゃとしゃべっている。時折お金の話が出るのを、ジッとしていた私は捉えていた。


 

     

もうすぐ夏も終わりになる。それは、私の集中を削ぐヒグラシの鳴き声が示している。この時期は、妙に心がはやる。家から、飛び出したくなる。ジッとしていられないのだ。だって、夏が終わるんだ。夏が終わるのだというのに、どこの世界にジッとしていられる奴がいるんだ。私は意味もなく上を見上げる。狭い、天井だ。
 私はぼんやりと、葬儀が進行するのを眺めていた。坊主の読経がはじまる。私はこの経の一部分をいたく気に入っていた。抜け毛、抜け毛、と、聞こえる部分があるのだ。小学校三年生の頃に発見した。それ以来、この部分を聞くと笑いがこみ上げてきて、どうしようもなくなる。笑ってはいけない雰囲気なので、なおさらだ。
 だが、今日はその部分を発見することが出来なかった。何かに駆られるようなヒグラシの鳴き声が、ずっと私の頭の中を占めて、何も考えることが出来ないのだ。気づけば、経は終わっていて、私は少しがっかりした。
 坊主が退散すると、近所の若い男連中が四人出てきて、めいめいに棺の棒を担いだ。私たちは彼らを先頭にして、とぼとぼと歩く。建物から出ると、蝉の鳴き声が、いっそうまして私の頭に響いてくる。軽い頭痛を呼ぶその音は、中学生の、あの、夏を思い出させる。
「骨って軽いんだよ、とても」
 それは、きれいな声だったように覚えている。あるいは美化されているのかも知れない。それは、私が彼のことを好きであった、などというロマンチックな話ではない。わたしは、彼のことを何も知らないし、知ろうとも思わない。逃げ出してよいというのだったら、今すぐにでも私はこの葬儀を飛び出して、どこかの原っぱで、寝そべっていよう。
 一言もしゃべったことのなかった男子が、私に伝えようとしたのだ。骨が軽いと言うことを。その事実を。その事実は、何ら思想的な背景を持たない。死生観の問題などでは全くない。彼が言いたかったのは、骨は、軽い。そのこと。そして、彼は軽く笑うのだ。
「骨って軽いんだよ、とても」



 じりじりとした暑さは周りの風景をにじませ、私たちの足は自然と重くなる。遠景が、歪んで見える。視界のほとんどが緑に染まる、舗装もされていない土手を、私たちは行く。少し離れたところに、それほど大きくはない川が流れていて、小さな子供たちが水遊びをしている。光のしずくが反射する。目が、痛む。一体、私は光に弱いのだ。目を細めながら歩いていると、周りの景色がすべて一体化してしまって、ひとつの色に見える。緑色だ。私は妙に明るい緑の中を、何も分からずに行進しているのだ。なんだか可笑しかった。
 光は痛いが、嫌いじゃない。星とか、とても好きだ。このあたりは天文台が置かれるくらいに星がよく見える。見えすぎるくらいだ。夜になると、気持ちが悪くなるくらいにおびただしい量の星が、空を埋め尽くす。じっと見ていると、なんだか、生き物のような気がしてきてしまい、目を背けたくなる。だが、私は目を背けない。じっと、それに耐える。そうすると、だんだんと神経が麻痺してきて、脳味噌が直接夜空につながっている、そんな錯覚に埋没していく。ふわりと風。地面を覆う、草いきれの匂い。
 二キロメートルほどは歩いただろうか。ペースをあわせての徒歩であったから、途方もなく疲れてしまった。参列者は皆、汗をびっしょりにして、手で扇いでいるものもいた。そうすると、どこからともなく、業者がやってきて、彼を灰にしてしまう準備を整える。彼は眠ったままでその準備が終わるのを待っているのだ。どこの大臣だ。私は思う。自分で、燃えに行ったら良いんだ。自分で準備した火の中に、突っ込む。頭が、うまく回転しない。
 どこからか、蝉時雨に紛れて、すすり泣く声が聞こえる。彼の母親だ。私は、彼女も一緒に火の中に入ったら良いんじゃないか、と思う。背中を蹴飛ばしてやろうか。どこの大臣だ。
 蝉時雨、すすり泣く声。私の頭は、どうしようもなく空っぽだ。いっそ、すがすがしい。空は、青いし。
 こんな青空の中で、今から焼かれに行く彼の気が知れなかった。そんな狭苦しい棺から出てきて、こうやってぼんやりとしていればいい。そして、骨が軽い、とか、言ってればいいじゃないか。それで、何となく笑えばいいじゃないか。
 そんな私の反論もむなしく、彼の棺はごうごうと燃える火の中に突っ込まれていった。なんか、お祭りみたいな雰囲気だ。蝉時雨の中、彼の母親のすすり泣く声が、龍笛みたいに、祭り囃子にアクセントを加えるのだ。パチパチと、火のはぜる音が、リズムをとっていた。
 時間は蕩々と過ぎていった。みんな何を話すでもなく、ジッと炎に見入っていた。実際、炎の揺らめく様は、見ていて飽きない。人を引きつけるのだ。だからだ。彼は私が止めるのを聞くまでもなく、火の中に入っていったのだろう。

     

 彼が跡形もなくなるのは、随分早かった。五分かそこいらで、彼と、彼の乗った棺はその原形をとどめていなかった。いよいよだ。いよいよ、彼の言ったこと、骨って軽いんだよ、そのことを、確かめることが出来る。私の胸は期待に激しく打った。顔がほころびそうになるのを必死でこらえていた。業者がまわって、参列者にトングを渡していく。これで、彼の骨をつかめと言うのだ。私の手にも、それがまわってくる。手が震えて、取り落としそうになる。業者のおじさんは気の毒そうな顔をして、私を見た。彼の死にショックを受けているのだと思ったんだろう。それでも、何も言わずに次の人へまわっていくあたり、流石プロだと思った。危うかった。声をかけられたら、私の声は興奮に裏返ってしまっているだろうから。それは、死人を前にした反応とはいささかかけ離れているから。
 彼が燃え尽きた地点に向かって、ずらりと行列が出来ている。たくさんの人間が、それぞれの顔に、それぞれの表情を浮かべながら、ぼんやりと並んでいる。私もこの行列に並ばなくてはならない。確認しなくてはならないからだ。
 順番はなかなか回ってこない。実際は五分ぐらいで私の番になったのだろうが、私にはそれが何時間にも感じられた。その間中、ずっと、あの五年前の夏の日の光景が私の頭の中をループしていた。
 そして、ついに私の番になった。私の前は、中年の男性で、明らかに面倒くさそうな顔をしながら、ひょいっと骨を持ち上げて、すたすたとお骨を持って行った。手のひらを見る。じっとりと汗ばんでいる。私は服の裾でその汗をぬぐうと、トングを握り直して、彼が燃え尽きた先を見やる。タンパク質の焦げた、嫌な匂いが立ちこめる中、トングで燃えかすを払いのけながら骨をさがす。私は何をやっているのだろう。全く知らない人間の燃えかすをいじり倒して、骨をさがしている。腹を抱えて笑い転げたい衝動がおそってくる。いけない。集中しないと。
 ぐりぐりとやっていると、それはすぐに見つかった。すすで汚れて、それでもすぐに、骨だと分かる、その質感。私は震えるトングを不器用にその骨に向けて、意識を集中する。櫻井君ご愁傷様でした。櫻井君ご愁傷様でした。頭の中でそれを唱えながら、掴む。一度目は空振りする。櫻井君ご愁傷様でした。二度目。手に、鈍い感触が残る。何かを掴んだ感触。トングの先には不気味な灰色の骨が捕まれていた。
 目を閉じると、先ほどの炎の残りがまだ目の奥で揺らめいていた。そして、私はもう一度唱える。
 櫻井君ご愁傷様でした。
 そして、私は彼の焼身現場から逃げるように歩き出した。トングの先には、骨が挟まっている。それを落とさないように、慎重に、しかし、出来るだけ迅速に歩かねばならない。皆は今度は骨壺にお骨を収めるための行列を作っていた。私はその行列の最後尾に向かっている最中、はたと気づく。そうだ、確かめなくてはならない。
「骨って軽いんだよ、とても」
 たしかに、先ほどトングだけだったときの重さと、今の重さは区別が出来なかった。しかし、トングは無駄にごてごてしていて、かなり重いものだったので、本当に骨が軽いのか、わからなかった。行列は皆、前の人の後ろ頭だけを見つめていた。私はきょろきょろと辺りを見回す。誰も見ていなかった。私はもう一度周りの人の目を確認してから、トングの先を空いた方の手に近づける。力を緩める。ぽとり。それは、まさにぽとりと言う擬音にふさわしい落ち方であった。ぽとり、彼のお骨は私の手の中に収まったのである。
 軽い。それが、一番はじめに感じたこと。軽い。なんて軽いんだろう。そりゃあ、彼だって話したことのない同級生に口を開くだろう、というほどの軽さ。こんなに軽いものに、私は未だかつてであったことがないかも知れない。いや、それは嘘だ。でも、そのときには、本当にそう感じたのだ。
「骨って軽いんだよ、とても」
 もう、顔がほころぶのを止めることが出来なかった。私は誰にも見られないようにそっぽを向いて、ひとり、笑った。五年前の彼と同じように、笑った。
 骨って、軽い。真実だ。
 私の手の中に収まったそれは、振ると、ころり、ころり、と、えも言われぬような感触を私の手のひらにもたらした。私はそれが楽しくなって、いつまでもそうしていたいような気分になってきてしまった。それは、見ているのも楽しかった。ころり、ころり、と、何かとてつもなく大事な、とてつもなく可愛いもののように思えてくるのだった。
 だれも、見ていなかった。
 もう一度、確かめる。
 だれも、見ていなかった。
 私はそれをそっとポケットの中にしまった。

       

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