蟲籠 -deity world-
幸福の舞台は汚されて
「……ここ、ですか?」
「ええ、そうよ」
ものの五分ほどでたどり着いたのは、店先に色鮮やかなケースをいくつも積んでいる、といっても酒瓶を入れるケースだが、それがいくつも積み重なっている酒店。もはや本来の意味を失いかけ、随分と埃がたまっている看板には、『五条酒店』と力強く筆で書かれていた。商店街の一角、隣や向かいにある八百屋などと比べてもさほど違和感を覚えないほど、目的地は同化していた。
しかし、それが酒店としての機能を殆ど果たしていないことはすぐに分かった。
まずあの酒屋独特の匂いもとい酒臭さが殆どしないのは、静馬の経験上ではありえない。それほど人生経験を積んでいるわけでもないがきっとそうだ。あと、妙に客が少ない。周りの魚屋などは結構賑わっているのだが、この店では閑古鳥が寂しく鳴いている。酒屋といえば店先で店主と客が飲み交わしているというイメージが静馬にはあったが、そのイメージは早くも崩れ落ちた。
「いつもながら、静かですね……」
「ふふ。主な仕事はこっちではないからね」
柚樹の疑念に、雪村は楽しげに笑う。静馬も同時になるほどと相槌を打って、仰向く。よく見ると、その淡いブルーの看板は年季が入っていそうにも拘らず、まるで新品同様にも見えた。
静馬がぼんやりとその看板を眺めていると、急に奥のほうから僅かに人の声が聞こえた。
「えーと、はい、お客さんですか?」
声に気付いた雪村は、店の奥を覗いてにっこりと微笑んだ。
「普通のお客、じゃないけどね」
「……ってことは、雪村さんですか?」
次第に大きくなる感嘆の声と共に現れたのは、まだ二十代にも見える、どこか落ち着いた雰囲気が感じられる男だった。
男は、雪村の姿を確認した途端、安堵の表情を浮かべて会釈した。
「あぁ、お待ちしておりました。立ち話もなんですから、中へどうぞ」
「ええ。さ、静馬君も」
「は、はい」
すると、物珍しそうに静馬のことを眺めていた男の顔が、ぱっと明るくなった。
「……あ。もしかして彼が、この間言ってた静馬君ですか?」
「ふふ、一般人をここに連れて来ることなんてあるかしら?」
「ま、それを言えばどうしようもないんですけどね」
感心したように肯く男は、表情に温かな笑顔を浮かべて、中へ手招きした。
「積もる話もあるだろうから、とにかくゆっくりしていくといいよ。そんなに、ゆっくりとはしていられないだろうけど」
「あ、はい」
その言葉に、静馬は一瞬驚いた。そして、すぐに現在の状況を思い出して、察知した。
「(……そんなにのんびりしてはいられない、か)」
そう。静馬は今、遊びでここまで来ているわけではない。
「静馬さん? 早く行きましょうよ!」
諭すような柚樹の言葉に促され、静馬は決して期待とはいえない意識を抱きつつ、店の中へ足を進めた。
†
店の狭い通路を少し抜けた先。その奥は、男――五條正博と名乗る男の家に繋がっていた。酒店とは打って変わって雰囲気が変わり、代わりに表札もない古めいた一軒家が姿を呈した。店と家の間隔はそこまでなく、静馬の長くはない足でも、大股でそれぞれの敷地へと移動することが出来た。
「酒店の方は相変わらずだけど、こっちはちゃんと掃除してますからね、どうぞどうぞ」
滑らかな口調で五條は喋る。その言葉には緊張感のない感触があるが、見方にもよれば淡々とした他人行儀な声にも聞こえた。
「それで? 今日はあの子はいないの?」
慣れた調子で足を進めていく雪村は、同様にさながらいつも通り、という風に訊ねた。
「えぇ。きっとまた、"蟲狩り"でもしているんだと思います」
蟲狩り。
そのよく分からない言葉に、静馬はすかさず反応した。大抵"蟲"というワードが付くと<インセクター>関係のことだということは把握しているのだが、それでもふとした瞬間に耳にすると、若干だが体が震えた。
「蟲狩り?……って何ですか、それ」
相手構わず投げかけた問いには、傍でメモ帳を覗き込んでいた柚樹が答えた。
「あ、えっとですね。発生した虫の力を削減するために行うことなんですよー」
「削減?」
隣で雪村が、ふふ、と笑い、継いで話し始めた。
「いくら虫の居場所が分からないといってもね、放って置いたら蟲の被害はどんどん広がっていくの。だから、蟲が発生していると分かっているときだけ、攻撃型の<インセクター>が、蟲狩りを行うのよ」
「そう……なんですか」
静馬が納得しながら歩いていると、急に前に立っていた五條が足を止めた。
「さ、こっちです」
五條が誘導した先は、洋風の丸テーブルの周りに似た丸椅子が敷き詰められ、更にその周りを多彩な装飾が施された食器棚や本棚が囲む、酒店のイメージとはいい意味でかけ離れた空間だった。
その豪奢な部屋に人の気配はなく、入れば自然と口数が減りそうなほど静穏だった。
案の定、中に足を踏み入れた静馬は、一瞬息が止まりそうになった。
「すごい……ですね」
その言葉に五條は、少し照れくさそうに笑った。
「いやあ、つまらない趣味で……。呉下阿蒙の代物です」
「そんなことないですよ、羨ましい限りです! お茶もいっぱい持っていらっしゃるし、あと、お菓子だって高級なものばかりですし!」
羨望の眼差しを向ける柚樹に、五條は頬を緩ませて、ありがとうと頷いた。
「じゃあ、その卑下た菓子達をご紹介しようかな」
「あ、私行きますよ! 場所は大体分かりますから」
と、柚樹は先行して五條の向かおうとした方向で立ち止まった。
「そうかい? それじゃあ、頼むとしようかな」
「はい! 任せてください!」
柚樹は来客用のスリッパをパタパタと鳴らしながら、部屋から出て行った。
それを綻んで見ていた五條の表情は一切変わらなかったが、ふと静馬を見たときの眼は、この歳の男性には見得ない悟達があった。
もちろん静馬は、解けかけていた緊張感をもう一度結び直す。
「それじゃあ事のあらましを説明しましょうか」
その瞬間、突如にして雪村の顔が曇った。それに相乗して、静馬の緊張も張り詰める。
五條は、目にかかった黒髪をいじりながら語り始める。
「まず今回の"蟲"だけど、まだ特定は出来ていません。エリカ君が調査を進めてくれているけれど、まだ大掛かりな"蟲"は一つも見つかっていないんです。どんな程度の"蟲"でも、エリカ君の手にかかれば大体は潜伏場所が捕捉できるので、今回もその手で調査を進めているんですが……なかなか、特定できないようですね」
「エリカ君?」
静馬の漏らした言葉に、雪村が答える。
「さっき言ってた、"蟲狩り"をしてる女の子よ。静馬君よりも、少し年上の」
「あぁ……そうなんですか」
静馬の言葉の含意をどう捉えたのか、五条は少し改まったように再度口を開いた。
「それで雪村さんたちの力を借りたいと思って、急遽来ていただいたんです。僕が知っている<インセクター>のなかでも、なかんずく雪村さんのチームは強力で心強いですしね」
五條はにこりと微笑んだまま、静かに、右手の拳を握り締めたように見えた。席の関係で静馬には見えていたが、それからは五條の柔らかな語らいとは相反して、何か強い、復讐心にも似た感情が読み取れた。特にその言葉の一節、『インセクター』には。静馬はすぐに、何度か深く瞬きをして、情操を整えた。
何を言っているんだ、僕は。まだ会ったばかりの人のことなんて何一つ分かるはずがないだろう。
述懐の後自らの考えを改め、静馬の心はほぼ無心に近い状態で、話は続いた。
受け答えて言葉を発したのは、先刻より幾分剣呑な表情に変わっていた、雪村。
「それはそうとしてもね、こちらには一つ問題があるの」
「? 何か、違う"蟲"でも発生したのですか?」
表情を変えず尋ねる五條に、雪村は抑揚なく答弁した。
「瀬川君が、いない」
その雪村の一言に、その温かだった男の顔に戦慄が走った。まるで瞑っているように細かった目が、見開かれる。静馬は既知の事実だったが、そのことよりもむしろ五條の反応に驚いた。
「祐一が……? どうして、こんな一大事に?」
「分からない。だけど、この地方に来ていることだけはなんとなしに分かる。彼の"蟲"の気配がする」
「気配、ですか」
静馬はその気配というものが以前からよく分からず、ここでも首を傾げたが、なぜか、本当にこの辺りに瀬川がいるということには確信が持てた。もちろんその気配たらうんたらが理解できているとは到底思えない。静馬は自分がまだ、未熟な<インセクター>であるということを自覚していたからだ。
五條は髪を雑に掻きあげ、くぐもった嘆息を漏らした。
「こちらにいるならいいんですが、居場所が分からないとなると少々厄介ですね」
「……どういうこと?」
緊張の張り詰める中、雪村の問いに五條は変わり素振りなく答える。
「実はですね。今回の"蟲"、祐一と少々重なる部分があるんです」
「え、瀬川さんと重なるって、どういうことですか?」
静馬の意識せず強張った声に、場を暗くしないようになのか、五條は少し表情を和らげる。
「あぁ、それはね……」
「あの男は昔、"蟲"によって重度の傷害を持った。そして今回出没した"蟲"は、その時のものとほぼ同じ種族。そういうことでしょ」
「え? うわっ!」
五條を遮って言い募ったのは、いつの間にか静馬の背後に立っていた影だった。それは胸ほどの高さのストレートヘアをいじりながら、驚天動地している静馬をきっと睨みつけた。
静馬がようやくのところで視認した姿は、自分より少し背の低い少女。
「何よ、うわって。失礼と思わないの」
「あ、いや、その……」
「ゴチャゴチャ五月蝿い。いいからどいて」
そう言うと、その少し黒がかった赤髪の持ち主は、静馬の座っている椅子を乱暴に蹴飛ばした。相乗して座っていた静馬も吹き飛ばされ、静馬は壁に軽く頭をぶつけた。その力は、あの外見の少女のものとしては、ありえないほど凄まじいものだった。
「あったたたたた……」
「はっ、男の癖に、その程度で痛がってるの。弱々しい」
もう一発くれてやろうかといわんばかりの眼光に、五條が溜め息混じりに仲裁する。
「エリカ君、お客さんだよ。乱暴はやめてくれないかな?」
その少女――エリカはふんと鼻を鳴らし、目線を五条へ遣った。
「だって、五條さんなかなか"蟲狩り"させてくんないじゃん。ちょっとストレス溜まり気味なんだよねー、私」
「あのね、そうじゃなくて……」
五條の叱責気味な言葉の途中で、少女は若干改まって言葉を返す。
「はいはい、わかってますよ、報告でしょ?」
少女は静馬を一瞥すると、静馬の座っていた椅子を起こし、今度は自らがそれに腰を下ろした。同時に、妙に不釣合いな黒のスカートがふわりと揺れる。
「見つからなかった、当然よ」
その毅然とした言葉に、雪村もさして期待はしていなかったように肯いた。
「やはり、地道に探っていく必要があるわね……」
「私、そういうの専門外だからね。雪村さん、あとはよろしくです」
それだけ告げて立ち上がり、少女は家の奥へと姿を消していった。しばらくして、バタバタと階段を駆け上がる音がうっすらと聞こえた。
「ごめんね静馬君。エリカ君、最近活動してない上に思うように収穫がなかったようだから」
宥める五條の声に、静馬は謙遜気味に息を合わせた。
「いえ、当然といえば当然でしょうし……っと」
遅れて静馬もようやく立ち上がり、少女の座っていた、もとい自分が座って椅子に再び座った。そしてその時に、状況が把握できずお菓子の籠を持ったまま困り顔をしているの柚樹に気付いて、静馬は優しく微笑んだ。それに安心したのか、柚樹も綻んでテーブルに駆け寄り、籠をその上に置いた。
見ると、視線の先の五條の顔は、前の穏やかな雰囲気に戻っていた。
「とりあえず、祐一のいないことには何も始まりませんからね。今日は、泊まっていって下さい」
「ええ、最初からそうさせてもらうつもりよ」
徐に雪村は立ち上がり、傍に置いていたトートバッグを小脇に挟んだ。
「ちょっと、夜まで出てくるわね。瀬川君の居場所も探さないといけないし。静馬君は、柚樹ちゃんと居てもらえるかな?」
「あ、はい。いいですよ」
「じゃ、よろしくね」
そう言い残して、雪村は足早に部屋を出て、玄関の戸を開けて家から去っていった。
「さて、情報がないことには何も出来ませんからね。僕たちサポート組はお菓子でも食べましょう」
冗談っぽく五條は言うと、柚樹の持って来た籠の中から適当に一つつまみ出し、口の中へ頬張った。柚樹、はというと、既にいくつかお菓子は目の前に置いて、舌鼓を打っている真っ最中だった。
静馬は苦笑して、現状とのギャップ差ゆえに焦りと安堵が輪唱する。
「大丈夫、なのかな……」
そう言いつつも、腹の虫とその右手だけは正直だった。
†
「はい、もしもし。……あ、美紀? どうかしたの?」
『う、うん。実はちょっと相談したいことがあって……』
「ふーん。何なの? 言ってみてよ」
和也が家を飛び出す少し前。部活を終えた高原は、友人の倉野美紀からかかってきた電話に舌を回していた。
淡いピンク色の壁紙が覆う部屋の隅。ベッドの上で寝転がり、キーホルダーストラップのたくさん付いた携帯を右往左往させながら、高原はいつもより長い一日を堪能していた。
高原の所属するテニス部は県の指定した強化部で、土日休日が部活で一日丸々つぶれるなどといったことは当たり前のことだった。
そんな中いきなり発生した、怪事件のための部活停止期間。暫くの間状況が把握できなかったが、その事実を知るやいなや高原は飛ぶようにして家へと帰りついた。
家に帰ってからは部屋に閉じこもって、普段見ないテレビ番組を見たり、転校してしまった友達やらと話したり、昼寝なんかしてみたり。部活とは別の意味で充実した時間を高原は十二分に満喫した。
そんな最中にかかってきた、友人からの電話。友人からの電話ほど高原にとって嬉しいものはなかった。例えその内容がどんなに醜悪であろうと、親しい人の声を聞くことが。親しい人と時間を共有することが。高原は、この上なく大好きだった。
その会話の相手倉野は、何か妙に焦ったような口調で、高原の思索のうちには一つの答えがあった。
『実はね。ちょっと、いいづらいんだけど……』
「分かってるよ! 好きな人が出来て、告白したいとか思ってるんでしょ!?」
『え……何で分かったの?』
「そりゃあ分かるよ! 電話の相手の女の子が少し緊張したような声でさながら少し期待を持っているような高揚し具合……まさしく恋だ!」
と、まるで事前に恋愛マニュアルでも叩き込んだように高原は流暢に諳んじた。勢いに押され、倉野も少し相好をくずした。
『あはは、唯ちゃんには敵わないね……』
「でしょー? で、だれ、相手は? だれだれだれ?」
『そ、そんなに急かさないでよー』
からかうように、高原は倉野を制した。高原は今日この出来事がブログのネタになると予想し、できるだけ情報を掴んでおきたいと考えた。
その結果、ここまで真相を問い詰めているに限る。
『えーっとね……』
焦らすつもりはないと知っても、くぐもる倉野が待ちきれなかった。
一体誰なのかな?隣のクラスの男子かな?それともまさか先生とか!?
様々な妄想を積み立てた高原だった。しかし――
『和也くん。辻本和也くん』
一瞬にして、高原の中にあった"何か"が崩れ落ちた。
少なくともそれは、先刻積み上げた妄想の欠片ではなくて。
「……え?」
『もう、二度も言わせないでよ……和也くん』
「うそ……本当なの?」
『う、うん』
「冗談とか、そういうのじゃなくて?」
『そうだよ? ま、まさか、和也くんって既に彼女さんが……』
「あっ……」
思わず動揺の声が漏れてしまったが、慌てて取り繕う。
「まさか! 和也なんかに彼女が居るわけないじゃん!」
『そ、そうなんだ? ……良かった』
安堵の声を漏らす向こうの倉野と異なって、高原の額には嫌な汗が流れつつあった。
「う、うん。で、いつ告白するの?」
『えっとね。明日の、午前中くらい。公園で』
「はぁー、なるほどね。まぁ、大丈夫だと思うよ! あいつフリーだし、美紀可愛いし。心配しないで!」
『ほ、本当?』
「ホントホント! あ、ちょっとお客さん来た! じゃ、またね~」
『あ、うん、またね』
その返事を聞いて、高原は即座に電話を切った。それだけでは物足らず、携帯の電源までをも切ってしまった。
もちろん、客など訪ねて来るはずがない。来たとしても、自分が出ることは一切ない。母親がいつも応対するのでまかせっきりになっている。そういう事実を倉野が知らなかったので何とか誤魔化せたが、それでもかなり限界だった。
「嘘でしょ……」
携帯を乱暴に放り投げて、高原は臙脂色の毛布に包まった。ただでさえ暑く、額や腕から汗が滴り落ちたが、それでも毛布に包まるでもしないと抑えられなかった。
嘘だ。嘘に決まってる。今日はきっと、エイプリルフールか何かなんだ。
そう説得してカレンダーを食い入るように見つめたが、期待に添うような記述はどこにも見当たらなかった。
それじゃあ、悪戯電話だ。きっと、美紀も暇だったからそんな事をしたんだ。
しかし、倉野美紀というおとなしめで控えめで臆病な彼女がそんな事をすると考えるのは、馬鹿馬鹿しかった。
きっと、私に気を使ってくれたんだ。間接的に。
だって和也は私が――
「……ッ!!」
次の瞬間、高原は傍にあった赤い目覚まし時計を机の方へ投げ飛ばした。時計は机に飾ってある写真立ての群れに衝突し、保存法則にしたがって壊れ、代わりに写真立てが音を立てて割れてカーペットの上に広がった。
高原はゆっくりと膝立ちになって、床に落ちたいくつかの写真立てを覗き込んだ。
壊れて落ちたのは三つ。
一つは、小学校の修学旅行のときの写真。
一つは、地元のプールで遊んだときの写真。
一つは、女子の友達と一緒にカラオケに行ったときの写真。
どれも写っているのは同じグループで、生々しいガラスの音と裏腹に割れているのはどれも一部分だけだった。
ある一部分を中心にして、ガラスに罅が入っていた。
同じ一部分だけ。……
"倉野美紀の、ちょうど、頭の辺り"。
「……やっぱり、そうなんだ?」
魂が抜けたように、誰に言うでもなく高原は呟く。
顔面蒼白、かつてピンク色に高潮していた顔は、その面影を見失ってゆく。
「そうなんだ? みんなそうなんだ?」
薄ら笑いのようなものを浮かべながら、機械のように言葉を並べる。
眼球の焦点がはっきりせず、視界が異様にぼやける。
「きっとそうなんだ? みんなそうなんだ?」
狂ってしまった歯車のように、同じ台詞を淡々と呟く。
汗ばむ両手で、自然と顔を覆う。
「きっと――……」
瞬刻。
掠れるような声だけが漏れる部屋に、鈍い音が響いた。
ベッドと対の隅にある木製の箪笥の引き出しが、何もなしに開いた。
ぎし、と、音を立てながら徐々に引き出しが開いていく。
また一つ、また一つ。
軋みながら引き出しはその姿を露にする。
「ともだち……」
高原が呟くと、その軋みは一段と勢いを増した。
形が特に異形でないにも拘らず、ガラスを引っ掻くような音を立てながら、ゆっくりと。
その引き出しからは、腐乱臭を濃縮したかのような、この世のものとは俄に信じがたい臭いが立ちこめ、瞬く間に僅か十畳程度の部屋を異臭で溢れさせた。
やがて、引き出しが残り二センチ、一センチとなり……
万有引力の法則どおり、それは更に鈍い音を立てて床へ落下した。
同時に――
人間の指や眼や腕や頭や脚。あらゆる人間の体のパーツが、どろりと引き出しから漏れ出した。
不完全に腐食したそれらは、骨が折れて飛び出ていたり、水を吸ったように白くぶよぶよになり、既に原形をとどめていなかった。それに誘発されたか、他の引き出しも次々と声を上げて開き、同様に人体の成れの果てが重力に従って身を呈した。それは止むことなく、箪笥以外の、机の引き出しからも。ドレッサーの引き出しからも。あわよくば、クローゼットの中からも。収容できるだけの腐った人の血肉が嫌な音を立てて噴き出した。
気が付けば、部屋全体を海月とも何とも似つかないぶくぶくに膨れ上がった人間の肉が埋め尽くしていた。
「やっぱり……そうなんだよね……」
無造作に飛び散ったそれらはやがて時間を巻き戻すようにゆっくりと動き始め、しかも"元の人体と成ることなく"、まるで水揚げされたばかりの魚類のように思い思いにのた打ち回り始めた。
手が。腕が。鼻が。眼が。耳が。脚が。指が。髪が。血が。そして、肉までもが。
生きていたときの活力を取り戻したか如く躍動し、そして、高原の元へと収束した。
「ともだち……」
その中の頭と思しき部位が指や脚と不気味に癒着したまま、眼球のない暗闇で、高原を見上げた。
高原はそれをそっと拾い上げると、その頬に優しくキスをした。
「てつだってくれるよね……わたしのともだち……」
高原がゆっくりと頭部を置くと、その半壊した顔面の口に見える部分から、
げえ、
と、吐瀉物と血と肉の滑った混合物が、吐き出された。
刹那、部屋中に広がっていた全ての傀儡がその姿を消した。
そして――
高原綾も、いなくなった。