蟲籠 -deity world-
絶望の後の光
宗太を除く全てが階下で一番広い部屋、リビングに着いた時。
静馬の考えた最悪の予想は、あやうく一歩手前で立ち止まっていた。
「……まったく、油断も隙もないな、《女王蜂》」
「わたしとはなしあいでかいけつできるとでもおもっていたのか? ごじょうまさひろ」
「ま、そう考えてはいなかったけどね」
そこには、どこから出したのかも分からない、刀身の長いサバイバルナイフを振り回す高原と、間一髪でそれをかわしたらしい五条の姿が確認できた。
高原の顔には、冷徹な殺人鬼の表情。
五條の顔には、手持ち無沙汰の子どもに手を焼くかのような表情。
一進一退の攻防をしてるとは言いがたい、それでいてどこか殺伐とした空気を感じる間合いは、見かけは間違いなく高原が作り出しているものだった。
「五條さん! 大丈夫ですか!?」
「ああ、心配は要らない。それよりも、静馬君」
「え……? あ、はい」
名指しされた静馬は、思わず言いよどむ。
「上での会話、聞いていたよ。どうやら君は、理解したみたいだね。……いや、ここに来る前から既に理解はしていたといってもいいかな。その推理が間違っていないと言うことが、何らかの形によって証明されたと言うわけだ」
「はい……、その通りです」
その静馬の答えに五條はほころび、高原のほうに目線を遣る。
「ということだ。《女王蜂》は、どうするのかな?」
「なにをわけのわからないことを……」
「君を消す方法を、こちらの静馬君が思いついたって訳だ」
五條の言葉を聞くと、高原は嘲笑する。
「なにをいうかとおもえば、またそんなことかしら。いいかげんもううんざりよ。きくみみなんて、もたないわ」
「そんな事言わずに、聞くだけ聞いてみたらどうかな?」
「ふん、まあいいわ。どうせいみないだろうけど」
「……それじゃあ、静馬君。それと……和也君。あとは頼んだよ」
「あ……はい」
それを聞くと、五條は何歩か下がる。
次いで、静馬と和也が一歩踏み出し、顔面が狂気に満ちた高原の前に、屹立する。
「こんにちは、高原さん」
「あいさつなんてどうでもいい、なにものなのよ、あんた」
「……何者なんでしょうかね。僕にも分かりません」
「………………」
訝しげに静馬を見つめる、高原。
そんな事は気にも留めずに、静馬は言葉を紡ぐ。
「あなたに、すこし聞きたいことがあります。いいですよね?」
「かってにすれば?」
「ありがとうございます。それじゃあ、一つ目です」
静馬はそういうと、和也のほうを一瞥する。
「あなたは、和也君のことをどう思っていますか?」
「…………は? あんた、なにいってんの?」
「答えてください。あなたは、和也君に対して、どのような感情を持っていますか?」
「そんなこといえるわけないじゃない。ふざけるのもたいがいにしなさいよ。あんたなんて、わたしのひとふりでかんたんにしんでしまうんだから」
「ははは。それじゃ、二つ目です」
そう笑って答えると、静馬はひどく冷酷な表情を浮かべて、一言。
「……"あなたが今欲しいものは、何ですか?"」
「…………!?」
静馬の質問に、高原は表情を歪ませる。
「これだけは、答えてください。その後に、僕を殺しても構いません。ここにいる人全員を殺しても構いません。ただ、答えてください」
その言葉を聞いていた五條は、心中で述懐する。
(そうか……。静馬君の能力が、ようやく分かった。やはり、静馬君。君は<インセクター>にとって欠かすことの出来ない存在になりそうだ)
言葉には出さずに頷き、五條はそのまま様子を窺った。
「ほしいもの…………」
「そう、欲しい物です。綺麗なアクセサリーでも、永遠の財宝でも構いません。ただ、今現在あなたが望んでいるもの。第一に手にしたいと思っているものを正直に言って下さい」
「………………」
高原は押し黙る。さっきまでの狂気が嘘だったかのように、それどころか少し哀しい表情を浮かべて、高原は言葉を失くす。
(高原が……欲しい、物?)
和也は言葉にせずに、ここぞとばかりの思索をめぐらした。
高原が今、欲しがっているもの。
(テニスのラケット? そうかもしれない。だけど、そんな事をここで口にしたところで、それが何だと言わざるを得ない。なら、海部津という奴が言っていた、綺麗なアクセサリー? 確かに、高原は最近アクセサリーが欲しいと強請ってくることがあった。そうかもしれない。……待てよ。今の高原なら、「お前ら全員の死」とでもいいかねない。そんな大きな賭けをこの少年に託してもいいのか? 何なんだ、高原の望む物って。他には確か、服が欲しいとか言ってたな。一緒に買いに行こうって誘われたが、その時は倉野がいたから受け流したんだっけか。だとしたら、映画のチケットとかか。そういえば、あいつ一緒に映画に行きたいとか言ってたよな。あと、海にも行きたいとか言ってたな。他にも遊園地とか……
……待て。これじゃただ俺が高原のことを思い出してるだけじゃないか。今はこんなこと考えてる余裕はないんだ。つか何で、こうも高原のことばっか思い出せるんだ? これじゃまるで、高原の欲しがっているものが……)
「かずや」
「…………え?」
声を上げたのは静馬ではなく、ほぼ同時に同じ事を考えていた、和也。
静馬は和也を見やり、そしてすぐに高原のほうへ視線を戻した。
「それが、答えですね?」
「……そうよ」
高原は右手に強く握り締めていたナイフを放し、それが床を穿った。
「わたしがほしいのは……かずや」
「高原……」
驚きとは違う、なにか言葉では現せない感情に襲われて、和也はそれしか言えなかった。
「あたりまえじゃない……!! あたりまえじゃない……!! わたしが、かずやをほしがることなんて!! そうよ、わたしはかずやがほしいのよ!!!」
静馬は、何も言わずに、同じく少し悲しい目で高原を見つめる。
ややあって、高原はすごむようにしていた口調を、だんだん弱めていった。
同時に、それまで機械調だった喋りが、少し人間らしくなったようにも見えた。
「和也が欲しくないなら、一体私は何を欲しがるって言うの……。私は和也といられるなら、どんな痛い目を見てもいい。どんなに苦しい思いをしたっていい。例えそれが身を滅ぼすことになったとしても、絶対に」
次第に、高原の目から、涙が伝う。
その声が、しゃっくり混じりの嗚咽に変わってくる。
「私、和也に認めてもらいたくて……。少しでいいから一緒にいたいって言って欲しくて。そのためなら、なんでもしていいと思ってた。和也を振り向かせるためなら、人だって殺しても構わないと思ってた。何年も、前からずっと。……それで、この"蟲"と出会った。
初め私は自分が怖かった。平気で人を殺すことに、慣れてしまう自分が。だけど、次第にそれも責め苦にはならなくなっていった。だけどそれは、私自身の破滅の瞬間でもあったの。――――それからというものの、私は人を殺すことに快感さえ覚えるようになってしまった。自分は悪くない、悪い子じゃないっていいながらも、それに頼らざるを得なくなった。麻薬か何かにとり憑かれたように、ひたすら人を殺し続けた。それでも心のどこかで言い訳して――――、殺した人のことを、"おともだち"だって、言い始めた…………。
もう、何のために人を殺しているのかも、分からなくなった。もう二度と、その目的なんて思い出せないと思ってた。そんな時に、美紀が和也に告白するって聞いて……思い出してしまった。もしかしたら、あのまま忘れていた方が良かったかもしれない。いや、きっとそうよ。でなければ、美紀だって傷つけてしまうことはなかった。こんな風に身体を乗っ取ることなんてすることもなかった。それなのに、思い出してしまった……。
私は、和也が欲しい。どんなに辛い復讐を被ったっていい。私は……和也が欲しい」
高原は大粒の涙を流しながら、えぐえぐと吐露した。
静馬は、限りなく無心に近い表情で、和也に語りかける。
「和也さん」
「……………………」
答えずに頷き、和也は高原に歩み寄る。
それに気付いた高原は顔を上げ、和也の顔を振り仰いだ。
その目は、同じように涙で溢れていた。
和也はそっと、高原の肩に手を置く。
「今更償うことなんて出来ないかもしれない。だけど、知らなかっただけじゃ済まされない。俺は、何でこんなことをしていたんだろうか。どうして今まで、見て見ぬふりなんてしていたんだろう……」
和也はそっと、高原の身体に腕を回す。
「和也……」
「照れ隠しなんかじゃない、鈍臭かったわけでもない。そういう可能性があると考えていながらも、俺は矮小なプライドで、そんなことは絶対にありえないなんて、勝手に決め付けてた。いつだってそうだ。高原……、いや、唯が俺に何か強請った時も。一緒に海や映画館に行こうって誘ってくれたときも。俺は何かと怠惰や取って付けた理由でそれを断った。
俺はとんでもない馬鹿だ。幼馴染のお前に何一つ、やってやれたことなんてなかった。それなのに、俺は唯が一人立ちしなきゃならねえとか言って、何かと唯を俺の周りから離そうとしてた。何をしてやったわけでもないのによ。大馬鹿だぜ、俺は。……知ってるか? 唯」
「……なに?」
「誰かが言った名言ってやつに、こういう言葉があるんだ。『大切なものほど近くでは良く見えず、遠くになったとき始めてそれが大切だったと分かる』ってやつな。俺、この言葉を正直馬鹿にしてたんだ。親だって、一人立ちしてしまえばそんなに必要とは思わなくなる。金だって、一度金のない世界に行っちまったら、大切だなんか思わなくなるんじゃないかって。
……だけど、それは間違いだって、ようやく分かった。大切なものって、金とか、そんなんじゃないんだよな。そんなんじゃねえ……何か。例えば…………、人だ。
人の温もりとか、信頼関係とか。よく切っても切れねえ腐れ縁だって馬鹿にしてたけどよ、それは金なんかじゃ買えない、命の次くらいに大切なものだったんだな。こんなに近くで接していても分からなかった。そして今、その大切さが心の底から理解できた。唯がここまでして伝えようとしていた想いに、俺はようやく気付くことが出来た。
どうして……、どうして今まで、気付けなかったんだ……。
こんなにも温かくてかけがえのない、大切なものに……」
「和也……」
それ以上、和也の口から言葉がこぼれることはなかった。
和也は高原の肩に顔をうずめ、泣き続ける。
高原も、和也に身体を預け、涙を流し続けた。
それはまるで、つい先刻まで繰り返されていた殺戮が嘘だったかと忘れられるように。
実に人間らしい、姿だった。
暫時、二人分の鳴き声がくぐもった後。
「海部津、さん」
「……はい」
和也の口調の豹変振りに静馬は一瞬戸惑ったが、答える。
「俺達は……二人で一つです。もう何も、思い残すことはありません。宗太に、宜しく伝えておいて下さい。良い形で、俺はいなくなったと」
「はい……もちろんです」
「ありがとうございます」
和也はその顔に、久しぶりに笑顔らしい笑顔を浮かべて、意を伝える。
「俺達のことは、任せます。このまま忘れてしまわないうちに、俺達を殺すなり、何なりとしてください。そうじゃないと、また忘れてしまいそうで、怖いんです」
「……わかりました」
そう言うと、静馬は目元に涙を浮かべながらも、それを溢さないように、呟き始めた。
『大丈夫。もう二度と、忘れることはありません。あなたたちは、ようやくなるべき形になったんですから。……あなたたちは、もう何も考える必要はありません。ただ僕の為すままに、安らかに眠るだけで、いいんです。それは、幸せなことなんです。
《さあ、元いた場所へ、お帰り》』
その瞬間。
和也と唯の二人を、白く、柔らかい光が包み込んだ。
神の手の内に還るように、二人を大きく、優しく包み込んだ。
そのなかで二人は、深く、深く抱きしめあった。
これまで増やしてきた罪は償えないけど、その分一緒にいればいい。
償えない罪があるのなら、それを打ち負かすだけの時間を共に過ごしていけばいい。
ようやく出会えた、和也と唯の、二人。
運命的でも、奇跡的に出会ったわけでもない。
ただ――――見過ごしていただけ。
何よりも大切で、失うことの出来ない、大切な存在を。
光は段々と、小さくなる。
一段とそれは目映くなって、次第に薄くなり、消えてゆくようだった。
――――その最後、静馬は小さな声が聞こえた気がした。
聞き間違いだったかは分からないが、小さく呟くような声。
それは何よりも、優しい言葉。
普段交わしているにも拘らず、初めて優しいと気付かされた、温かい言葉。
「ただいま、唯」
「おかえり、和也」
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