Neetel Inside ニートノベル
表紙

蟲籠 -deity world-
序曲の幕は開かれて

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 日に日に暑さは増していく。春もその面影をとっくに隠して、まさに今、夏真っ盛り。焼けたアスファルトの上を、右往左往と人が行き交いする。服装も半袖が大部分を締めるようになった。
 蒸されるような熱気に包まれ、道行く人々は思い思いの表情ですれ違う。
 暑さにやられたと見える表情。氷菓子を咥えて幸せそうな表情。ここで気付くのは、人はやはり色々な表情を持っているということだった。
 笑えないって言う人も絶対に笑うことは出来る。もう泣きたいって言う人も絶対に泣くことは出来る。
 それでは何故、人は思い通りの表情が出来ないのか?



 静馬は人通りを眺めながら、そんな事を考えていた。
 あれからもう、随分と時間は経つ。当時の記憶はもう大分消化され、自分が置かれている状況も解りかけてきた。「当時」といっても……つい二、三週間前のこと。
 自分がいたはずの学校が無くなった。住んでいたはずのアパートも焼け落ち、居場所も無くなった。そして極めつけは、"蟲"。
 詳細と、それを退治する組織と言うものはまだよく分からなかった。その組織と言うのは…




「静馬さん、お茶入りましたよ」




 今静馬を呼んだのは、「組織」の一員らしい木下柚樹という名の少女。肩辺りまでの髪を、ヘアゴムで小さく後ろにまとめている。
 彼女は年齢的には静馬の一つ下、高校一年生に当たる。それでも静馬同様に学校は行っていないのだという。恐らく彼女も何かしら事件に遭い、それで今ここにいるのだと解釈をした。
 静馬はそっと微笑んで、肯いた。



「ありがとう、すぐ行くよ」
「はい! 今日のお茶は美味しいですよ!」



 柚樹はそう伝えるとあわただしく奥へと戻っていった。彼女は高校一年生にしては、異様に小さいようにも見える。しかし、静馬もそのような女子は幾度か見てきたので、そこまで気に留めなかった。
 静馬は視線を窓の外へ戻した。
 人の群れは相変わらずで、視界を行ったり来たりしている。同じ格好をした人間はほぼ一人としていない。それの全てが日本のファッションへの興味を伺わせた。
 静馬は怪訝そうに顔をしかめ、立ち上がった。自分もこの間までは、ここに見える人塊の一部に過ぎなかった。だけど、今はまるで違う。
 その人塊から鉈で断ち切られたような、何か足りないところの存在。"蟲"という名の鉈に落とされた。
 静馬は改めてその認識をすると、店の奥へ歩いていった。


 『雑貨屋 アトランジェ』の奥には小さな部屋がある。丸いテーブルとその周辺に雑に置かれた丸椅子が六つほど。壁際には古びたアンティークな本棚やらクローゼットやらが敷き詰めてあった。よく見ると本棚は神話系統の本が大半だった。ここの家主の情趣が手に取るようにして解る。
 静馬の向かう先は、それのもう少し奥。若干床の高さが上がり、畳が敷かれた少し広めの空間。広さは見たところで、六メートル四方といったところだった。そのせっかくの広さもたくさんの本棚や古時計に阻まれ、気持ち狭くなっていた。
 そこでは一足早く、髭を生やした男が声を唸らせていた。と、言うより、全身を唸らせていた。

「これは本当に良いお茶だ…。香りといい、味といい、最高級にふさわしい……」
「あの……」
「うわぁ! ……あ、海部津君か。吃驚したよ」

 驚いたのはむしろ静馬の方だった。
 彼は瀬川祐一。一応この雑貨屋を営み、兼家主らしい。といっても店の経営は殆どのようで、店主らしい姿は今のところ見ていない。
 家主なのにも拘らず朝に弱く、別の場所から来る柚樹よりも姿を見せるのは遅かった。髪もぼさぼさで手入れをしているようには見えない。長さもまちまちな部分があるところ、自分で切ったのだろう。服は決まって同じような格好で、昔よき日本といった古風な服装だった。着物風…なのだろうか。それらしい上着を着ていて、下は黒の綿パンツ。時代錯誤を全身で表現しつくした格好といえる。雑貨屋の店主と言うよりは、当の本人も雑貨に見えてもおかしくない気がする。勿論彼も「組織」の一員らしい。


 そもそも静馬が今日ここにいる理由は、その「組織」について教えてもらえるということだった。
 朝早くに来たが相変わらず家主は目覚めておらず、代わりに柚樹がせわしなく働いていた。本棚にたまった埃を払ったり、木製の机を丁寧に水拭きしたり。まさに、非の打ち所がなかった。
 恐らく彼女がいなければ、ここはすぐに汚れの巣窟と化してしまうに違いない。静馬の脳裏をそんな考えが過る。そして少し会釈して、瀬川と対になるように座った。

「雪村さんは、まだ来てないんですか?」
「そうだよ。来てないというよりも、調べ物をして遅れるのが近いかな」

 雪村は、いつもこの雑貨屋にいるメンバーの一人。メンバーといっても、雪村を含めてこの四人しかいないのだけれど。
 雪村…本名雪村時枝は瀬川曰く、ここの「組織」の情報収集担当みたいなものだと言っている。ここ、と言う単語が気になってしょうがなかった。雪村は不思議な人だった。もう少し詳しく言えば、神出鬼没だ。いつの間にか隣にいるということも、この二三週間で少なくとも十回はあった。そして何も変わった様子もなしに話すのだから、逆に怖い。……しかし残りの二人が話すことには、「非常に頼りになる存在」らしい。
 静馬も、実際にそう思いたかった。


 やがて柚樹も二人の元へ来て、瀬川の近くにちょこんと座った。
 そして、瀬川が一息ついて話を始めた。






 …………………
 ………………………………………





「何から説明していいか解らないな……」
 瀬川が頭をぼりぼりと掻きながら苦笑する。柚樹の目線はずっと静馬の方に向いている。
「とりあえず、僕たちのことについてからかな」
「はい、お願いします」
 そういうと瀬川は肘を突いて手を組んだ。
「僕たちは、海部津君も見た"蟲"を退治している組織だっていうことは教えたよね? ……だということは、今日はそこから先の話になるね」
 静馬が肯くと、瀬川は軽く首を鳴らした。

「僕たちの組織は、一つの本部から各地に支部が派遣される仕組みになっている。僕らの場合は、その支部の一つに当たるんだ。組織の名前は特にないけど、僕を含める一部は『ライオット』と呼んでいる」
「ライオット……。暴動、ですか?」
「そうだよ。さすが海部津君、博学才穎だね」
「からかわないで下さい」
 静馬は顔をしかめて、口をへの字に曲げた。
「あはは、ごめんごめん。……その名前だけど、この『ライオット』の訳の"暴動"が持つ本当の意味は、まだ誰も知らない。暴動、と一言で言ってもそれが何を指すのかは解らない。僕は勝手に『"蟲"に対する暴動』と捉えているけどね」
「はぁ…」
「まぁ詳しいことは後にして、まずは僕たちの目的について説明するとしよう」
 そのままの姿勢で、瀬川はゆっくりと語りだした。

「実は僕たちも海部津君のように"蟲"の被害者の一人なんだ」
「そうなんですか?」
「うん。話では、"蟲"の被害に遭った一部の人間は、その脅威に対抗できるだけの力を手に入れるといわれているんだ。僕たちはそんな能力を持った者を、<インセクター>と呼んでいる。僕も柚樹ちゃんも、<インセクター>なんだ。……まぁ、力を手にすることが出来るのはほんの一握りなんだけどね」
 瀬川はほんの一握りと言った。嘘だ。
「ということは、僕もそうなる可能性があるってことですか?」
「厳密に言うとそうなるかな。限りなく低い確率だけどね」
 瀬川はその顔に微笑みを浮かべる。その奥には若干戸惑いの表情が伺える。そんな気がした。
「とりあえず、海部津君の能力の有無が分かるまで一緒に行動してもらうことになるけど、いいかな?」
「はい、いいですよ」
 すると柚樹は嬉しそうな顔をした。何が嬉しかったのかは、この時はまだ分からない。少し間をおいて、瀬川が辟易の表情で笑う。
「えっと、実は僕自身もまだ歴が浅くてね。説明できることはこれくらいなんだ」
 瀬川はそう言って、また苦笑する。
「あとは、雪村さんにでも聞けば分かるかな。彼女の方が経験は深いし」
 その一連の瀬川の言葉を聞いて、静馬は確信した。
 やはりだ。前から、少し違和感があるとは思っていた。
 ……あの"蟲"と対峙していたときの瀬川と、今の瀬川。明らかな相違点が、そこにはある。
 それでも、静馬はそのことを瀬川に投げかけようとはしなかった。きっと、いずれ分かることだろうから。
「それじゃあ、雪村さんが戻るまで暫くあるだろうから、この場所を軽く案内しようか」
 その今更感溢れる瀬川の言葉に、静間が浮かべるのは茫然の表情。
「え? まだ他にも、場所があるんですか?」
「そうだよ。まだ教えていない場所があってね」

 静馬はこの数週間でこの雑貨屋の色々なところを案内してもらった。少し奥に入ったところにあるのは備え付けのキッチンと、今まさにいる軽い談義のための場所。その隅の方にある扉の先に広がる、短めの通路に近い廊下。それでも廊下があることで、建造物の大体の広さが掌握できた。廊下の途中には、トイレ、勝手口とあって、更に奥まで行くと目に映るのは一つの扉。その扉にはどこか洋風の装飾が施されており、この場所において一際目立つ存在感を放っていた。よくよく考えれば、そこはまだ足を踏み入れていない場所だった。
「じゃあ今日は、そこに案内してくれるんですか?」
「そういうことだね。じゃあ僕は用事があるから、柚樹ちゃんに任せてもいいかな?」
「……あ、はい! まかせてください!」
 柚樹は話についていけてなかったのか、少し遅れて元気のいい返事を返す。それを聞くと瀬川は表情を緩め、場を後にした。
 がらがらと表の戸の音がすると、二人の空間に沈黙が訪れた。すぐに、破られるが。
「はい、じゃあこっちです静馬さん!」
 柚樹の声に促され、静馬もその重い腰を上げた。



         †
 


 ほぼ同時刻。静馬の住む場所からは少し離れた、田舎に限りなく近い郊外。
 世の中から切り離されたように、きわめて流行というものに疎い場所。地図上でいえば一応「町」ではあるのだが、一番高い建物が学校である以上「村」といっても充分すぎる町。動植物すらも気後れしているのだろうか。五月に差し掛かる頃になっても、桜の花びらは爛漫と咲き誇り、その花弁を満面に散らす。季節遅れの鶯の声を聞き、蛙までもがようやく冬眠から目覚めそうなものだった。

「はぁ……」

 麗らかな陽射しとは裏腹に、和也は惰眠をむさぼっていた。どうしようもない日常が、嫌になる。このかろうじて人里と呼べるような個所で一生を過ごさなければならないと思うと、憤りで頭が張り巡らされる。その度に、和也は人知れず悪道を繰り返す。そうでもしなければ気が晴れない。同時にそうすることでしか満足できない自分がやるせなくて落胆し、繰り返し懊悩した。以前まではそれは数えるほどに過ぎなかったが、今となってはもはや日常茶飯事、日課とも言えた。
 辻本和也は代々受け継がれてきた農家の息子で、将来であると平行して、和也の先の運命もそれは握っていた。農家に生まれたからには農家になる以外他はない。もしここを出たとして、都会で暮らしていくのは偏狭地で育った子どもからすると、親殺しよりも難しいこと。和也はこの束縛から逃れたいと思いつつも、その事実を認めざるを得ない状況下に置かれ、葛藤の膜が次第に心を覆いかぶさっていった。くだらないことで悩む自身がまた情けなくて、また悪道を繰り返す。いつしか、それが和也の日常となっていた。
 傍観していたグラウンドから目を放すと、すぐ横には人影があった。

「どうした? また、なんか悩んでるのか?」

 声をかけたのは、嘗てからの級友の宗太だった。気持ち短めの無造作へアーと、いつも首に下げているペンダントが目印。宗太は昔から活発な割には心配性で、ことあるごとに切迫し、その深刻さゆえに逆に心配されるのが落ちだった。和也はいつものように机に顔を伏して、不機嫌そうに言いのける。

「別に。たいしたことじゃねえ」
「本当か? 何かあったら、相談しろよ」
「あぁ」

 ひとまず安堵したように見える宗太を見送ると、和也は更に機嫌を悪くし、茶髪を乱雑にかきむしった。別に、悩みがなかったわけではない。また、友人に話すことが出来るような悩みでもない。おそらく宗太ならば真剣に相談に乗ってくれるだろうが、それが逆に嫌だったのでしようとは思わない。和也は明日の日程を確認しようと、首から上だけを後ろへ向かせる。
 丁度いい具合に黒板の前に生徒が立っていて、和也の席からは全くといっていいほど文字が見えなかった。僅かに「英語」の文字が読み取れたが、他は何も見えず、障害物は以前とそこに立ち尽くしている。立ち尽くす、というより黒板の前で話し込んでいる。……よく見れば、白いチョークで黒板に何か書いているようだった。女子生徒が二人、黒板を前にして何かを書いている。ブラックボード・ガールズ・トークとでもいうのだろうか。口頭で話すのであれば別に書く必要はないだろうに。
 和也は諦めの顔を浮かべると、横にかけてあった鞄を背負い立ち上がった。と、その時。

「和也? ちょっと待って、今帰る準備するから」

 後ろから、柔らかな高い声がした。和也はすぐにそれが誰なのか分かった。というよりも、最初から声をかけられることは分かっていた。

「あー、いいって高原。お前今日部活だろ?」
「そうだけど、途中まで一緒に行けるじゃん」
「あのなぁ……」

 和也は呆れ半分の溜め息をつく。彼女は幼馴染の高原唯で、宗太より昔からの付き合いだ。付き合いと平たく言っても、なにも彼氏彼女の関係と言うわけではない。やりとりからするとまるでそれに見えなくもないが、幼馴染所以の言葉だった。実際この高校では幼稚園ごろからずっと同じ学校と言う生徒が多く、男子女子関係なく名前で呼び合うのがもはや日常。その点からしてもこの地域の子どもが都会に出て行くこととなると、他人に語弊を招くようなことがあるかもしれない。
 ……だといっても、高原は少々和也にべったりな部分があった。彼氏と言うよりは、兄としての感情を抱いているのが近いかもしれない。それが時々ある程度なら別に何も構わないけれど、高原はほぼ毎日こんな調子なので、和也は若干参っていた。最近男子の友達からも「高原と付き合ってるんじゃないのか?」と聞かれるまでになったほどだ。
「別に俺はお前と付き合ってるわけじゃないんだからさ、別々だっていいだろ」
「え-、でも……」
 はっきりしない高原の返事に、和也は少し憤慨した。
「ほら、さっさと部活行けって」
「うー、んじゃあね、ばいばい」
 軽く子どもじみた挨拶をして、和也は高原を見送った。いつもこれくらいあっさりしてくれればいいのにと、和也は思った。普段の調子ならば、十分くらい粘るのが当然だった。そのせいで高原が部活に遅れるのが色々と申し訳ないので、和也がそのことを言うと、高原は幾分か抑えるようにはなった。それでも、毎日ああやって聞いてくるのだが。
 和也は改めて立ち上がると、教室を後にした。廊下では、ロッカーの上に座った宗太が待っている。和也はそれを確認すると、小さく笑った。
「さ、帰ろうぜ和也」
「あぁ」
 宗太はにっと笑うと、ひょいと飛び降りて和也に並んだ。外ではうっすらと、雨雲が立ち込めていた。


 ………………
 

 やはり何か、違和感がある。今はまだ朝の九時ほどなのだ。単にこの緑ヶ丘高校がそんな日程を設けているわけではない。こんな早くに下校するのには、ちゃんとした理由があったのだ。……それは決して、いい理由ではない。和也のクラス四十人のうちでも、約半数の十八名。学校全体では、半数近くの一〇二名。
 ……彼らは一週間前から、行方不明となっている。原因はまだ誰も分からない。保護者もそれを哀しみ嘆いて、理由もなく学校に訴えた。こういうときの親と言うものは少し共感できるものの、やはり何度もあるとうんざりしてくる。
 今日もそんな保護者の列が校内に波打っている。涙を流して泣くものもいれば、まるで生気が抜けた人形のような顔をしているものもいた。そんな保護者の対応に追われて、学校は急遽閉鎖となったのだ。
 和也はだらしなく溜め息をついて、猥雑する人の群れを避けた。所々で漂うオーデコロンの匂いが嗅覚を著しく刺激する。少し顔をしかめて、遅れる宗太を尻目に校舎の外へと足を進める。
 と、そこにあった窓から高原の姿が見えた。和也が薄目で見ると高原の方も気付いたのか、真剣な表情からすぐに笑みに変わった顔で手を振っている。和也は面倒気が溢れていたが律儀に手を振り返した。本当は表したくないはずの笑顔を浮かべて。
 ようやく昇降口まで辿りついた二人は学校指定のスリッパを脱ぐと、いつもと変わらないロッカーの扉を開けて靴を出した。少し黒ずんだ人気メーカーのスニーカーをはくと、少し滲んだ感触がして靴下のそこがじっとりと濡れる、というより湿る。昇降口には既に誰もいない。
「雨、降らなきゃいいけどな」
 横で宗太が不安げに呟く。そう、今日は学校に来る途中雨が降っていた。突然のスコールのような豪雨で、普段から鞄に折り畳み傘を入れていたのが正解だ。何とか服や髪が濡れるのは免れたが、おかげで靴だけは中まで浸透してくるほど雨水で満ちている。それを履くと何か嫌な感じがして、雨が降りそうな中でさらに空気が淀んだ。雨は元々嫌いな方ではなかったが、ここまでくるといい加減うんざりしてくる。外では若干の小雨が降っていてものの傘を差すまではなかったが、今にも本降りになりそうな勢いではある。
 和也は同意して肯くと、首を軽くひねって外に二三歩出た。
「神様は意地悪だから降らすかもな」
「おぁー、頼む。頼むから振らないでくれ雨よ」
 懇願する宗太を一瞥して和也は笑い、足早に雨の中へと駆けていった。水溜りに深く足が落ちても、お構いなし。
「あ、待ってくれよ和也!」
「雨は待ってくれないぞ」
「わかったから! ちょっと……」
 と、その時。



 誰もいなかったはずの昇降口の方から、ぺたん、と、"裸足で水の上を歩いたような音がした"。


「……?」


 思わず宗太は振り向いたが、そこにはやはり誰もいない。あるのは錆びきれた下駄箱使用のロッカーと、泥に塗れた地面だけだった。足音のようなものはしたが、それを発生させる方の人間が見当たらなかった。
 何か鳥でも糞を落としたのかな?
 宗太は少し下品な想像をして、何事もなかったかのように和也のほうに走り出した。空はいっそう暗くなって、雨模様を映し出しつつあった。
 そして……



 何度も、何度も。
 その跡には、また、"水で濡れた足の音"がした。
 何度も、何度も。
 静かに水溜りを歩き去ったような音。
 何度も、何度も。
 暫くしてその場所に……
 






 ――同じ学校の制服を着た、少女の姿を湛えて。





         †




「ここが、瀬川さんの言ってた?」
「はい!私達だけの秘密の場所です」
 柔らかい色のドアを開けた先。静馬が柚樹の後をついて行くと、奥にはまるで違う風景が連なっていた。
 先程までとは打って変わって綺麗に装飾された壁。きちんと手入れが行き届いている床。あの家主からすると、到底考えられるようなことではなかった。それもそのはず、あの扉の先に広がっていた世界はさっきまでいた世界とは別のものだった。……随分回りくどい言い方だが、要するに建物自体が変わったということだ。
 といっても部屋などは殆ど見えず、廊下の要所要所にある豪奢な絵画だけが目を引いていった。
 よく見ると、その絵はどうやら最近描かれたものらしい。丁寧に書かれた日付を見ていくと、奥に行くにつれて段階的に最近のものになっていくことが分かる。
 だが、静馬にはどうしてもそれが正常な絵とは見て取れなかった。


 人の身体の断面図が書かれた絵。
 人体の大部分が石灰化した絵。
 人の身体と思しきものから無数の触手のような手が生えている絵。


 それは全て、"人体を無作為に模倣した"ようなものばかりだった。
 静馬はもう、恐怖さえ感じることもなかった。恐怖と言う感情まで、心が追いつかなかったのだ。
 静馬は実際にこのようなものがいる現場に居合わせた。そのせいか、絵画程度では驚きさえも生まれてこない。
 そうして静馬は、既に自分が現実から遠く離れた世界にいることを実感した。軽く溜め息をつくと目線を前に戻して、他に道がないのにキョロキョロしながら進んでいく柚樹の後を追う。柚樹はときどき此方の様子を伺うようにしてチラッと振りむく。静馬はそれを見受けると笑顔を返した。また、柚樹も笑顔を返す。
 と、丁度その時、道が途切れた。……いや、無くなった。柚樹は立ち止まり、また静馬の方を振り向く。今度は静馬は困惑した。
 静馬の向いたその先に、道は無かった。正確に言うと、明らかに不自然なところに、また扉がある。今度は周りの壁や床とは違い、一般家庭に見られるような茶色いモダンな扉だった。違和感があるのは、その扉がどうも埋め込まれているようにしか見えないせいだった。
 柚樹がかわいらしいスリッパの音をさせながら扉に近づいた。

「ここが、デッサンルームです」
「デ、デッサン?」
 思いも寄らない言葉で、さらに静馬の頭は混乱する。デッサンといえば、人物や物体を鉛筆などで大まかに書いたりする作業のことを言う。だけど、それが何故ここにあるのか、いまいち理解できない。誰かの趣味なのか、暇つぶしなのか。他にも数え切れないほどの想像が脳裏を過った。とりあえず静馬は、扉を開けて中に入っていく柚樹を確認すると自分もあとに続いた。
 中は大体予想通りだった。少し広めの部屋で、雑貨屋と同じように壁際には棚が敷き詰められている。今度は、本棚だけ。それに取り囲まれて中央辺りには小さな白い丸テーブルと椅子があり、鉛筆のような筆記物と紙とがその上に置かれている。それ以外は色彩の整った絨毯や少し凝った模様のランプが、この部屋の印象と言うものを裏付けている。手入れは行き届いているのか、埃や塵は一つも見当たらなかった。
 静馬が軽く見回していると、柚樹が真ん中のテーブルに近づいて紙だけを取った。
「この紙に、絵を描くんです」
 というと、柚樹は誇らしげに紙を掲げて静馬の方を向き、笑った。静馬はどう応対してよいか分からず、苦笑いする。柚樹のほうに近寄ると、テーブルの上に置いてあった鉛筆を取り、まじまじと眺めた。あまり使われてないみたいで、芯がかなり尖っている。
「絵を? この鉛筆を使ってかい?」
「あー、いや、違います」 
 少し戸惑ったような返答に、静馬はもうわけが分からなくなった。
「え、じゃあどうやって……?」
「あ、そ、それはですね……」


「描くんじゃなくて、描かれるのよね」
 と、不意に後ろから声がする。とっさに振り向くと、そこには長い茶髪を後ろで束ねた、眼鏡姿の女性がいた。彼女は優しい顔をして静馬を見ると、ゆっくりと微笑んだ。
「雪村さん、帰ってたんですか?」
「えぇ」
 柚樹の質問に答えると、雪村は柚樹の手からそっと紙を取って、子どもを撫でるようにしてその紙をさする。
「これは……ただの紙じゃないの。"預言紙"とよばれる、神の余剰生産物」
「……?」
 いきなりの言葉に、静馬は当惑する。
 預言紙。その言葉が、頭の中を縦横無尽に駆け巡る。初めて聞く言葉に関わらず、静馬は何か懐かしい気がした。
「神は悪戯好きなのよね。きっと」
 雪村は光に透かすようにして紙を挙げると、そのままの視線で手を降ろした。その白い肌に淡いランプの光が濡れて、白さをいっそうと強調する。まるで芸術的な雪村の美貌に、静馬は思わず息を呑んだ。特にその方の念を抱いたわけではなかったが、自然と頬が赤くなった。視線に気付いた雪村はそっと笑って、言葉を発する。

「静馬君にとっては、最初の仕事になるのかな」
「え?」
 言葉の出ない静馬の代わりに、柚樹が返事をする。
「仕事って、まさか雪村さん……」
 急に雪村の顔が真剣のものに変わって、表情を曇らせる。静馬の顔から、困惑が消える。
 確信した。
 雪村の、その、言葉で。少し、惑ったような。



「"蟲"がどうやら、発生したみたい」



         †



 まるで朝帰りしたような光景。足早に学校を出た和也と宗太は、各々の帰路についていた。と言っても、家が近いので殆ど同じ帰り道。まばらに在る住宅の間をくぐりぬけて、二人は適当に時間を潰しながら歩いていた。宗太が冗談を言えば和也がそれに突っ込む。宗太が蛙を見つけて和也に見せようとしては、嫌いな和也は思い切り押しのける。宗太が路傍の花の名を尋ねると、律儀に和也は答える。基本的に宗太が喋りっぱなしの会話は、内容は違えど殆ど同じことの繰り返しだった。それを和也は好むわけでも拒むわけでもなく帰っていた。

「和也ー、この花はなんてんだ?」
「それは……シロツメクサだな。ほらあれだ、クローバーの花」
「あー! いわれてみれば葉っぱの形がそうだな!」
「だろ?」

 和也は素っ気無くもきちんと答えると、視線を花から外して空に遣る。雨は帰るうちに次第に止んで、今は全く降っていなかった。むしろこのまま晴れ出してもおかしくないくらいの回復具合だ。道端では乾燥を避けるようにして、蛙といった水棲動物が用水路の中へと避難していく様子が見えた。和也は少し笑ったが、その顔からすぐに笑みは消えた。少なくとも、宗太には気付かれないように。みつかると、いろいろと面倒くさいから。
 和也は適当に石を見繕うと、靴のつま先でそれを軽く蹴った。石は無造作に転がると、形状の関係ですぐに動きをやめた。そしてそれをまた、前へと蹴りだす。また石は転がっていく。蹴る。転がる。そういうことを繰り返した。暫く歩くうちに石が川の流れに飲み込まれると、和也は立ち止まった。それを察して、宗太も続いて止まる。

「どした? 和也」
 宗太は屈託の無い疑問の表情をすると、口元を緩ませた。和也は一瞬肩を竦ませて、なんでもないと取り繕う。宗太は安堵の顔を浮かばせると、再び前を向き直った。和也はそれをぼんやりと見ると、遅れないように横に並んで歩き出した。


 それで、和也から懐疑するような声が上がったのは、もう暫くで帰り着くと言うところだった。
「なぁ、宗太」
「うん?」
 二度目のことにも拘らず、宗太は全く変わらない表情で和也を見た。和也はそれを認めると、続けた。


「お前、怪奇現象って信じるか?」


 和也の口から出たのは、神妙な顔からしてはあっけないくらい幼稚な質問だった。それを気にしない宗太は少し考え込むようにして口元に手を当てると、顔を上げて口にした。答えは勿論、
「あんまり信じないかな、俺は」
「……そうか、わかった」
 和也はそのように帰ってくることは大体予想していた。というよりも、この問いかけはそれの確認作業に近い。何事も無かったかのように目線を元のほうに戻すと、役に立ったと言うような誇らしげな宗太の顔が横目で確認できた。
 
 そして、道が分かれて、二人は別れを告げた。
「じゃあな和也!」
「おう、またな」
 声と足音が少しずつはなれて、一人になる。途端に、和也の顔は一気に陰湿なものになる。だからといって、宗太がいたからと言うわけではない。宗太には見せたくない顔だったから、隠していたのだ。
 空の方を見上げると、電線の上に雀がまばらにとまっている。それは和也の視線に気付いたのか、突如として群れを為して飛んでいった。和也はそれを見届けて、視線をその奥の空に移した。晴れ間一つない空から、ひょうと、雨粒が和也の頬に滴り落ちて、伝う。手で軽く拭うと、はぁ、と小さく溜め息をついた。
 まだ朝の空気が漂う中で、和也は暗中に浸っている。理由は何故か分からないが、どうも朝から気分が優れない。教室にいたときに思っていたことなどではない、他の何かが明らかに和也を苦しめていた。和也は顔をゆがめると、小さく舌を打つ。理由も無いのに苦しんでいる自分が可笑しくてしょうがなく、笑ってしまいたいぐらいだったが、苦しさのためにそれさえも満足に出来ない。
 和也は苛立ちを覚えて、足音を強くして歩いた。そして、自分の家が少し見えてきた。

 ――その刹那。












 ぴちゃ、









 と、背後で、水滴が落下したような音がした。
 不審に思って和也は後ろを振り向いたが、そこには水どころか液状のものが落下した形跡さえ確認できなかった。
 見えたのは切れ切れにある小さな水溜めと、赤錆を纏ったマンホール。電柱や住宅と言った、きわめて普通の景色。

「……」

 疲れている。もしくは、ただの空耳だ。
 和也は適当に言い訳をつけると、少し足取りを速めて家の門をくぐった。
 そしてその場所から、人の気配が消える。わけもなく、人一人としていない世界にこわばった緊張が走る。
 それはよくよく考えれば、"異常"だった。


 勿論和也は疲れていたが、決して空耳ではなかった。





 後ろで音を立てていた物体は、はっきりと形を現さなかった。
 ただ……"それ"が通り過ぎた場所には小さな足跡がつけられた。
 そして、それは"和也の足取りを追うようにして連続し"……








   
 ――家の門の前で、忽然と姿を消した。







       

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