【うずまき猫と僕の恋】
それは簡単でペラペラな僕の、仕方がない僕の恋の話だ。
僕は、とんでもなく人を好きになっていて、自分ではどうしようもない深みにはまっていて、情けなくて、哀しくて、だけど、限りなくドキドキする。
あの子がそっと頬づえついて、窓を見上げていると、僕はその先に何かすごくいいものがあるような気がして、一緒に空を見上げ、あの子がそっと溜息をつくと、僕は一緒になってさびしい気持ちになる。
心のスイッチは、いつだって過敏にあの子に反応していて、そんな自分に苛立って、だけど、心地よくて、僕の脳みそは溶けて、どこにも行きつかないやりきれない気持ちになってしまうんだ。
しかし、ある時、ふと、クマが冬眠中、隠しておいたオヤツを思い出すみたいにけだるく、しかしはっきりと思い出す。
僕が僕でなくなってしまっている事をだ。
僕はふらふらと、それでも彼女の事を思いながら、放課後の夕暮れの中住宅街を抜けながら家に帰ろうとした。
マンションのエレベーターが目の前で行き過ぎるのを見て、仕方がなく階段の方へ足を向けた。
「やあ」と猫は云った。猫は階段の中腹に僕を見つめていた。
僕は猫のしっぽを踏みつけないように、端によって階段を一段上った。
「無視すんなや」猫は僕の足にまとわりつくようにしっぽを絡めた。
いよいよ僕は、頭がおかしくなったと思いながら、家の薬箱に頭痛薬があったかを考えた。
「お前、猫を無視すると呪われるぜ。猫の呪いは結構、陰湿だから気をつけろよな」甲高い声だけれどもドスの利いたムカつく感じの声をあげ、
しっぽで僕の足をはたいた。
さてさて。僕は恋する善良な高校生であって、猫に呪われる筋合いはないけれどもなんだか、このくそ猫は僕に呪いをかけるとかのたまわっておられる訳で、僕はわざとらしくひとつ、ため息をつくと笑顔でそこにしゃがんだ。
「なんだい君は? 僕んちは見ての通りマンションに住んでいて、極めて洋風なんだよ。和室もない。だからな、三味線のために君の首をキュッと締めるわけにはいかないんだぜ。そこらへんの住宅事情をわかってほしいな」
僕は非常にやさしい声で猫の頭を撫でようとしたら、このくそ猫は前足でそれを払った。
「てめえ、言葉に気をつけろや。ニキビ面して三味線とか恐ろしい事ぬかすんでねえぞ。マーキングがてら、てめえの足にションベンもらしちまう所だったじゃねえか!」
ふてぶてしい態度で猫は、さらに前足で僕を威嚇した。
「あーわかったわかった。お前、腹へってんだろ。ちょっとまってろよ。
家にもどればな・・・」
猫の顔を少しほころんだ。
「玉ねぎあまってたからくれてやるよ」
猫の前足が僕のアゴから顔面に飛んできた。猫パンチである。
「わしを殺す気か!」
なかなかのジャンプ力である。猫パンチというよりも、輪島のカエル飛びさながらのアッパーカットであった。僕の唇の端からかすかに血の味がした。
「おいおい、猫君。君はこんなマンションの階段になんていないで世界を目指せよ。ちょっと行ったところにジムがあるからさ。そしてまっ白に燃え尽きちまえ」
猫は一瞬、褒められたと思ってニコニコしたが、すぐに向き直った。
「わしゃ、黒猫じゃ!」
おいおい、突っ込むところがちがうだろと、僕は思ったが黙っていた。
猫のおつむには難し過ぎたようだ。猫は何も話さない僕をじっと見た。
猫は確かに黒猫であったが、尻尾の先と左足だけ少し茶色かかっていた。
目は猫特有の縦長で、何かを切り裂くような視線であった。
僕はなんだか、面白くなってきたけれども、しゃべる猫って云うのは、やっぱり気持ちが悪い事を再認識し、黙って立ちあがって階段を登りはじめた。
「おい」猫は横にくっついてきた。僕は無視した。
「おい」もう一度背中に声をかけられた。僕は振り向かなかった。
猫は追ってくるのをやめた。僕は進める足をはやめた。そろそろ僕の
家がある階に到着する。
「おい。君の大好きなあの子。君の世界からいなくなるぜ」
猫は吐き捨てるように、本当に、つまらなさそうに、彼が捕まえたドブネズミに話しかけるように、言葉を階段の隙間に投げ捨てるように、静かに沈み込ませた。