フロッピー・パーソナリティー
高瀬直太編 最終話「オズの魔法使い」
「パニクっちゃって、ごめん。あたしの方は心配しないでねぇ。あたしってば、どんなに気分がヘコんでても、一晩寝れば元に戻っちゃうからさ。ってか、こんなだからなかなか反省出来ないんだってね」
泊まるつもりだったけどやっぱり帰る、と言い出した茅を玄関先で見送っている最中だ。自分の額を軽くぺシッと叩いておどけた茅の、立ち直りの早さには脱帽する。気を遣ってわざと明るく振舞っているのかもしれないが、それにしても同じことだ。
「でも、切り替えが早いってことだろ? それは茅の良いところだと思うぜ」
「えっ? あっはははっ。嬉しいこと言ってくれちゃうねぇこのこの。これで身体も男の子だったら、タカオくんにも惚れちゃうかもですよ」
シャレにならないな。
「あ、それより茅、こいつに見覚えはあるか?」
俺は思い出したように携帯を取り出して、画像の一つを茅に見せて訊ねた。
「ん~? 見たことないなぁ。だれ? ホヨの彼氏? ……あ、ひょっとしてこれ、ホヨがいつも言ってるお兄ちゃんかな?」
そう、俺が見せたのは利一の写真だ。茅が転落したとき、そこに第三者がいて、そいつが突き落としたという線はないかと考えた。もしそうなると小向も犯人の姿を間近で見たはずで、どうしてそのことを誰にも話さなかったのかという疑問が生じる。
小向を脅して口止めするくらいなら、そもそも犯人は、小向のいる前で茅を突き落とすことはしないだろう。ならば犯人は犯行を小向に見られても気にせず、しかも小向が自主的にかばう人間だということになる。
俺の知る限り、該当者は利一だけ。だから茅と利一の間に接点が無いか確認したのだが、期待した答えは得られなかった。
「パパが来たから、くわしいことは明日にでも話そ? それじゃ、おやすみぃ」
「またな。あと、人前では、俺のことは『ホヨ』で頼むぜ」
迎えに来た車に茅が乗り込んだのを確認してから、俺は小向邸に戻る。
七後はわざわざ持参した水色のパジャマに着替えて、ソファに座って待っていた。俺はその斜めに腰かける。
「帰らなくてもいいのか? 俺はお前の知ってる小向じゃないんだぜ」
「もう少し、あなたと話したいことがある。それにあなたからも、私に訊きたいことがあるはず」
確かに、事情を知った七後が味方になってくれたのは非常に心強い。知りたいこと、知らなければならないことは山ほどあるが、しかしどこから訊けばいいのやら。
「すぐには思いつけないのなら、慌てなくていい。先に私から訊ねる。……塩田という人名に心当たりは?」
俺は首を横に振った。ここに来て新人物か?
「誰だ? その名前はどこから出てきたんだ?」
「私も知らない。保世が学校で倒れた日。保健室でうわ言のように何かを呟いていた。その中で私や美月、お兄さんや高瀬に混じって、塩田の名が挙がっていた」
俺の高瀬直太としての記憶が途切れてから、小向として目覚める間のことか。また何か重要そうな証言が出てきたな。だがここで難しく考えても進展はしなさそうだ。それより、さっきから俺が気になっていたことを訊こう。
「改めて確認するが、やっぱり七後は、茅が階段から落ちたのは、小向が突き飛ばしたからだと思っているのか?」
「状況証拠からすれば、十中八九」
きっぱりと言い切られた。しかし俺は食い下がる。
「それでも、動機が無いだろ。分からない。小向が茅を傷付ける理由が見当たらないんだ。だから、納得出来ない。別の誰かがやったってことはないか? 例えば利一」
「保世のお兄さんは、女を殴らない。それにアリバイこそ不明だけど、現場環境を考えれば可能性はとても低い」
即答された。俺は何も言い返せず、拳に力を込める。
「……高瀬、ものの動機には他人が知らなくてもいいことだってある。突発的に起きたことなら尚更。美月が言った通り、美月に全面的な非があるかもしれないのだし。それに私は、保世を追及したいわけではない。見守るだけ」
七後の言いたいことも分からないではない。だがそれでも「何故」が頭から離れない。どうして小向が、もしくは利一が、茅を攻撃する必要があったのか。あの日、あの階段の踊り場で、何があったのか。
……ん? あれ、ちょっと待て。
「七後。お前、さっき何て言ったんだ?」
「他人が知らなくていい動機もある、と」
「その前、俺のことを呼んだろ?」
「高瀬。タカオという安直な偽名を名乗っていたけど、あなたは高瀬直太。違う?」
疑問形で訊ねながらも、その声には確信に近いものが感じられる。そこまでバレていたのか。まあいいさ。七後には隠しても無意味だろうし、ここで誤魔化しても時間の無駄だ。
「なんで分かった? 訓練の賜物か? 特殊技能か?」
「どちらも違う」
七後は少しだけ口角を上げて、首を小さく横に振った。
「女の勘」
「勘かよ!」
「声の抑揚、身振り、発言の内容などから総合的に判断。決定打となったのは、美月に語ったスカートの件。おもい飴を配ったあのとき、教室にいたのは三人。あなたが保世でないとすれば、消去法で残るは高瀬。……あとは、希望的観測」
何もかもお見通しってわけか。感服する。だがそれなら、逆に確かめたいことがある。
「だったら、あっちの高瀬直太はどうだ? お前から見て、高瀬直太の中身は高瀬直太だと思うか?」
こいつの鑑定眼はどう判断するだろうか。七後は数秒間、宙を眺めてから、また俺に向き直った。
「言動にも、足音にも、違和感は無かった」
「七後から見ても、そうか。やっぱり、俺が二人いることになるんだな。そんなことってあり得るのかよ。いや、あり得たからこうなってるんだろうけどさ……」
「人間の身体をコンピューターに置き換えた場合、人格や記憶といったデータがコピー&ペーストされたとしても不思議ではない」
「どう考えても不思議だろ! 人間は機械じゃねえ! 生きてるんだ! そんな簡単に心が消えてたまるかよ!」
「分かっている。あくまでも例え。現状を、理解可能な範囲で把握するための、苦肉の案。……高瀬、痛い」
「あ、す、すまん。そうだよな。七後にだって、分からないことはあるよな。また、取り乱した」
俺はいつの間にか掴んでいた七後の肩から手を離し、頭を抱えた。そして幾度となく浮かんだ悩みを漏らす。
「これから、どうすればいい?」
「高瀬は、最終的にはどうあるべきだと思う?」
「決まってる。元に戻したい。このまま小向がいなくなったままってわけにはいかないだろ」
「それであなたが消える結果になっても?」
七後の言葉には、いつもに増して真剣味があった。……俺が消えることになっても?
「そう。あなたの人格が発現したことと、保世の人格が表に出なくなったことに関連があるのなら、保世が元に戻ることによってあなたが消える可能性は高い」
頭の中で整理する。今は小向の身体に俺がいて、小向の人格がどこにも無くなっている。高瀬直太の身体には高瀬直太の人格が別に存在している。もし小向が戻った場合、トータルで見れば身体は二つで、人格は三つだ。どれか一つが淘汰されるとすれば、俺が妥当か。
俺が……消える?
今日、昼寝をしたときに見た夢が思い起こされた。深い海に呑まれるように、溶けて、いなくなって、誰の目にも映らなくなる?
「高瀬、私はあなたの決断に従う。保世がここにいないことはもちろん憂慮するべきことだけど、あなたがここにこうして存在しているのもまた考慮するべき事実。高瀬が二人いても、真贋を決め付けて差別するつもりはない」
震える俺の手を、七後がそっと握ってくれた。
「私があなたに、保世の救済を強制することは、あなたを処刑台へ連れて行くにも等しい。あなたがこのまま、小向保世として生活することを選択しても、またはあなた自身として生き続けても、私は責めない。その結果、保世が二度とこの世に現れることがなくなっても、私は恨まない。もしそのことであなたを軽蔑する人間がいたなら、私はその人間と戦って説き伏せる」
七後が俺にくれたのは、許可だ。俺が異質な存在、イレギュラーだと知った上で、決断を委ねた。
本来ここにいるべきでない俺の存在を、認めた。認めてくれた。これがどれだけ嬉しいことか、どれだけ救いになったか、あっちの高瀬直太には到底分からないだろう。
「俺は、ここにいていいんだな?」
七後は首を縦に振った。
「俺は、消えなくてもいいんだな?」
七後は二度、首を縦に振った。
「そうか……ありがとう、七後。気付いてくれて、ありがとうな。辛かったんだ。自分の存在を隠しているのが、辛かった。俺を認めてくれて、本当にありがとう」
手の震えは止まった。目眩は消えたし、胸の痛みも、吐き気も、完全に無くなった。身体も軽い。俺がこれから為すべきことを定めたから、身体もそれに従ったのだろう。
「でも、だからこそ、俺は小向を元に戻したい。確かに成功したら、俺は消えちまうかもしれないさ。だが小向は、消えてしまった。小向こそ、ここにいるべきなのに、だ」
俺は七後の手を握り返した。
「だから七後、頼む! 何でもいい。俺に情報をくれ。どんな小さいことでもいい。小向がいなくなった原因に繋がるヒントが見付かるかもしれないんだ!」
「何故、そこまで出来る?」
「何故って、友達を助けるのに理由がいるか? どうしても理由が欲しければ、強いて言うならば、俺だからだ。俺が誰だか、そして俺についてお前が何と言ったか、忘れたのか?」
「……高瀬?」
「そうだ。俺は《菩薩》の高瀬直太だぞ!」
七後は珍しく驚いた顔をした。そしてすぐ平時の表情に戻った。そこで真顔になられると、逆にこっちが照れくさい。
「高瀬、自分で言うと格好悪い」
「うるせえ、分かってるよ」
「でも、あなたの胸の内は伝わった」
七後は目を開いて俺を見つめ返してきた。その瞳の鋭さには風呂場で見た攻撃性ではなく、こいつなりに決めた信念が溢れている。
「そこまで言う高瀬になら、あれを見る資格があると思う。私には無いけど、あなたになら」
「あれってのは?」
「保世は以前、日記を書いていると漏らしたことがある。もし最近のことまで書かれたものを発見出来れば、保世の心象と、保世に起こった事態について最も確実な情報が得られる。私が何を言っても、あくまで憶測の域を出ないのだから」
「でも、そんなの探しても見付からなかったぞ? 家の外に保管でもしてるのか?」
「隠し場所として考え得るのは、当人しか知らない場所。もしくは、当人にしか手の届かない場所。それでいて、毎日書くことや管理保守の面から、保世にとって身近な場所。そこまで言えば、きっと心当たりはあるはず」
いつもは長く考える時間が必要な俺だが、今回はすぐにピンときた。
「部屋の机に、錠付きの引き出しがあった!」
「そう。まだあるとしたら、そこに」
「だけど鍵はどこにも無かった。見付けてたら既に開けてるぞ。……まさか、お前の特殊技能でどうにかなるとか?」
「可能」
ピッキングまで出来るのか!
「しかし、それには及ばない。鍵の隠し場所にも当たりが付いている。保世ならおそらく……」
七後はすっと立ち上がり、俺の前に廻った。
「じっとして」
七後の手がゆっくり動き、俺の前髪に触れた。そして細い指を滑らせて後ろに、赤い髪留めを優しく外す。俺が困惑していると間もなく、七後は鞄からシャーペンを取り出し、髪留めの飾り裏面にその先端を押し当てた。
すると、バネの跳ねるような音と共に、髪留めが勢いよく分かれて横にスライドした。その弾みで、中に隠されていた物が絨毯に落ちる。
「マジでか?」
「オズの魔法使い」
七後は小さな布包みを拾って俺に手渡した。
俺は二階に上がり、例の錠を開けた。カチャリと金属音がし、抵抗無く引き出しが動くようになる。まさか、あの髪留めにこんな意味があったとはな。
もしこの中に大事なものを仕舞ってあるとしたら、それが自分にとって何よりも重要で、他人の目に触れられたくないものだとしたら、鍵を常に持ち歩くのは当然のことだ。学校に没収されそうになったときには、あの細い声で立ち向かっていった。髪留めを着けて登校してもいいと認められたときの、小向の笑顔を思い出す。そうだ。今さらだが、あれは喜んでいるというよりむしろ、安心している顔だったんじゃないだろうか。
引き出しに指をかけたまま、手を止めた。俺の隣に七後はいない。「私自身の信条の問題で、保世の日記を勝手に読むことは出来ない」とのことで、一階で待機している。
つまりここから先は、俺一人の責任だ。
ドクンッ
いや、迷うな。迷いはさっき捨てたはずだ。それなのに、この胸騒ぎは何だ? まだ心の中で抵抗するものがある。
「……小向、お前か? ひょっとしてお前は、消えたんじゃなくて、中で眠っているだけなのか? ここを開けられたくなくて、暴れているのか?」
ドクンッ
また心臓が跳ねた。肯定の意思と、俺は受け取る。
「だったら、何故出てこない? 皆、お前を心配している。俺は、お前を元に戻したい。だから、お前が嫌だと言っても、お前に嫌われても、ここを開けるぞ! 開けさせろ!」
俺は決意と共に、腕を引いた。勢い余ってバサバサと動いた中身は、通帳やカード類、印鑑、そして数冊のファイルだった。このファイルがまた分厚い。一冊が百科事典並みの大きさだ。
まずは通帳を手に取った。どこにも無いと思ったら、これもここにあったのか。
「…………?」
パラパラと開いてみいると、おかしな点に目が行った。
『お名前 コムカイ ホヨ サマ』
慌てて健康保険証を掴む。被扶養者氏名欄には……。
『ふりがな こむかい ほよ』
こむかい「ほよ」? 「やすよ」じゃなくて? 学生手帳には「やすよ」と書いてあった。クラスの名簿にも。自己紹介でもあいつは「こむかいやすよ」と言っていたはずだぞ。七後はいつも「やすよ」と呼んでいたし、茅が「ホヨ」と呼んでいたのはあだ名だと分かった上でのことだ。銀行の通帳はともかく、保険証は? 公的機関が間違えている? どっちが正しいんだ? 「やすよ」か「ほよ」か? 「やすよ」のはずだよな? だって、肉親である利一は……、
『久しぶりに、一緒にお風呂に入ろうよ。保世(ほよ)』
『どうして保世(ほよ)は僕から目を逸らすのかな?』
『保世(ほよ)、食べないのかい?』
いや、言っていた。思い返せば、確かに言っていた! あいつはずっと俺を「ほよ」と呼んでいた! 家族なのに? 家族だから? どちらにしても、どうして俺はそこに違和感を覚えなかったんだ? 明らかにおかしいことなのに!
落ち着け、俺。こんなことに気を紛らわしている場合じゃない! この問題は脇に置いておこう。俺は何のためにここを開けた? 小向の日記を探すためだ。「ほよ」の謎だって、そこに書かれているかもしれない。
気を取り直して、ファイルに手を伸ばした。全部で五冊。中にはルーズリーフを丁寧に閉じてある。表紙にタイトルらしきものは無いが、一つひとつに、いつからいつまでかの日付が明記されていた。一番古いのは、六年前の八月中旬からのもの。小学五年生のときだな。風呂場で七後が言った、七後と初めて会った時期と符合する。何か関連があるのかもしれない。
俺はファイルの一冊目を開いた。