Neetel Inside 文芸新都
表紙

フロッピー・パーソナリティー
小向保世編 第5片「美月ちゃん」

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 《四冊目 242ページ》
 最近しきりに茅さんが、「あたしのことは美月って呼んでよぉ」と言ってきます。仕方ないので彼女のことは「美月ちゃん」と呼ぶことにしました。
 バレッタの一件以来、美月ちゃんは妙にわたしを気に入ったらしいです。

 《四冊目 293ページ》
 最初のうちは美月ちゃんのことを、なんて図々しい女だと思っていました。でも今では、わたしにとって大事な存在になっています。美月ちゃんと一緒にいると、由花ちゃんとはまた違った安心感があるのです。その安心感の正体が自分ではよく分かりませんでしたが、わたしと由花ちゃんが二人だけでいたとき、由花ちゃんが美月ちゃんの人柄についてこう分析して言いました。
『私が思うに、美月が誰からも好かれている要因は、その容姿と人懐っこさに加えて、もう一つある。それは、嘘を吐かないこと。悪意を以て他人を騙さないのはもちろん、自分の気持ちに対しても素直で行動力がある。その率直さの故に、例え第一印象が悪くても、すぐに大抵の人間は彼女に対して好意的になる。現に私も、美月を友人として信頼している。ちなみに、自分の気持ちに正直であることと、わがままを尽くすことは別物。美月の場合は前者。他人へのいたわりを併せ持っている……一応は』
 言われてみれば、その通りだと思います。自分も他人も偽らずに生きられるのなら、人に好かれるのも当然でしょう。でも本当に、そんな人間がいるのでしょうか。嘘の無い人間が、いるのでしょうか。
 ああ、嫌だ。自分が嘘で凝り固められた人間だからって、他人もそういうものだと思いたがるなんて。これではまるで、美月ちゃんに嫉妬しているみたいですよね?
 それにもう一つ。由花ちゃんはどうして、美月ちゃんが嘘を吐かないと分かるのでしょうか。由花ちゃんに聞いたら「あくまで私の主観的感想」と言っていました。由花ちゃんには、他人の心を読める力でもあるのでしょうか。もしそうだとしたら、わたしの嘘は、どこまで由花ちゃんに気付かれているのでしょうか。怖いです。訊きたくても、訊けません。

 《四冊目 320ページ》
 放課後、由花ちゃんと美月ちゃんと三人で話をしていたら、クラスの男の子に勝手にニックネームを付けようという話題になりました。もちろん美月ちゃんの発案です。
 高瀬くんの名前を考える段になって、わたしは思わず、こう言ってしまいました。
『菩薩』
 美月ちゃんは「それいい! それ採用!」と、大笑いしながら机の角を叩いていました。由花ちゃんは冷静に「高瀬の行動は多くの場合が利他的で、自己の身を省みない。その意味で、とても的確なネーミングだと思う」と頷きました。

 《四冊目 364ページ》
 体育の着替え中、五組の子が一人、「高瀬くんのことが好き」と明言していました。そこへ美月ちゃんが「だいじょぶ。当たってくだけろって言うじゃん」と、半ば無責任に背中を押そうとしていました。
 わたしは美月ちゃんのことは嫌いではありません。友達として好きです。でもたまに、彼女の何気ない言葉に、イラッとさせられます。
 さらに突然、大きな耳鳴りがしました。その女の子と美月ちゃんの話している内容が、電波の悪いラジオみたいに途切れて聞こえます。この時点では何が起こっていたのか分からなかったのですが、今なら理解出来ます。きっとあの二人、というよりその場にいた皆は、その子の恋の応援やアドバイスでもしていたのでしょう。
 もしそれがうまくいったら、わたしの恋が破れることになります。だからわたしは、無意識のうちに、その声から耳を閉ざしていたのだと思います。なんて馬鹿なわたし。聞かなかったからと言って、事実が無かったことにはならないのに。

 《四冊目 371ページ》
 例の、高瀬くんを好きだという女の子が、玉砕しました。完全にフラれたと言っていました。でもよくよく話を訊くと、その子のアプローチが回りくどくて、高瀬くんには愛の告白だと受け取ってすらもらえなかったようです。
 でもわたしは、その子の想いが高瀬くんに伝わっていなかったことは話しませんでした。そんなことを言って、その子がもう一度高瀬くんにはっきり告白なんかしたら困るもの。
 嫌だ、嫌だ。自分の心がどんどん醜くなっています。
 自分が昔、なりたくないと思っていた嫌な女に、今、なってしまっている。
 そしてきっと、由花ちゃんが美月ちゃんについて「嘘を吐かない」と言ったのは、美月ちゃんはそういう計算や打算をせずに生きられる人間だということでしょう。

 《四冊目 372ページ》
 もし高瀬くんが、例の女の子からの告白を正面から受け止めていたら、どうしていたのだろうと考えずにいられませんでした。ぐるぐると考えて、考えて、考えたところでどうにもならない。わたしにはどうしようもないという結論に至ります。
 わたしは、高瀬くんへの想いを胸に秘めて、誰にも明かさないと決めたのですから。誰が高瀬くんを好きになってもいい。高瀬くんが誰を好きになってもいい。そのはずです。それ以外に、正しい解答はありません。
 あれ? だとしたら、どうしてわたしは、昨日の彼女を助けてあげなかったのでしょうか? 矛盾しています。
 ああ、そうか。そうですね。わたしはもう、心の醜い嫌な女になっているんですよね。
 高瀬くん、ごめんなさい。こんなわたしが好きになって、ごめんなさい。

 《四冊目 400ページ》
 授業中、隣の席の子が消しゴムを落としたので、拾ってあげました。受け取った彼女は「ありがとう」と微笑んでくれました。
 死にたくなりました。
 なんてことのない謝辞、深い意味など無い、日常のひとコマに過ぎない出来事なのに、わたしは胸を鷲掴まれたような心地になったのです。
(止めてください。わたしは人から感謝されるような人間じゃないのです。そんな資格など無いのです。わたしのことなんか気にかけないで、無視してください)
 そう叫びたくなりました。涙が溢れないよう堪えるのに必死でした。
 このままでは、心を保つことすらままならない。まともに生きていくことさえ難しい。抜け出せない。どうしてこんな深みに落ちてしまったのか、自問を繰り返しているのです。

 《四冊目 469ページ》
 最近、青い目の白猫を見かけません。せっかく仲良くなれたのに、どうしたのでしょうか。
 動物は自分の死期を悟ると、人知れず姿を消すと聞きます。本当かどうかは分かりませんが、あの猫がもう若くはなかったのは事実です。

 《四冊目 522ページ》
 美月ちゃんは、名前は月だけど、中身はまるで太陽みたい。いつでもクラスの輪の中心にいて、笑顔を振りまいている。わたしは今や、彼女に憧れを抱いているのです。こういう女の子になりたいと。自分の気持ちに正直な女の子になりたいと。
 本当に、美月ちゃんと一緒にいることは、とても楽しくて嬉しいです。わたしや由花ちゃんだけでは行かないような場所に連れて行ってくれました。携帯電話のメールをチェックするのが苦にならなくなりました。由花ちゃんと二人で、美月ちゃんに勉強を教えたこともあります。高瀬くんとも、お話できるようになりました。カラオケに行って、音外れな歌をうたって美月ちゃんに笑われたのも、いい思い出です。今年の夏は、三人で海にでも行こうかと計画を立て始めました。
 嘘ではありません。美月ちゃんと遊ぶのは、本当に、本当に、楽しいのです。太陽みたいな彼女の傍で、わたしは彼女と友達になれて良かったと、心の底から思うのです。嘘ではありません。
 だけど、でも、一方で、それだけでは済まされないわたしもいることを自覚してしまいます。太陽の強い光は、必ず影を作ります。草を枯らします。近付く者の、蝋の翼を融かすのです。
 美月ちゃんの、いつでも正直で裏表ない態度に、胸をえぐられることがあります。これは別に、美月ちゃんがわたしの欠点を歯に衣着せない言い方で嘲ったとか、馬鹿にしたとか、そういうことではありません。何物も恐れずに自分の感情を表に出せる彼女が、眩しいのです。眩しくて、直視出来なくなるのです。わたしは「こむかいやすよ」だから。虚偽に根ざした人間だから。美月ちゃんがわたしを「ホヨ」と呼ぶ度に、自分のやましさを見透かされるような、メッキを剥がされるような、そんな気持ちになるのです。前はこれほど嫌な感じはしなかったのに、きっと、近付き過ぎたからでしょう。
 「こむかいやすよ」が、どうして美月ちゃんみたいになりたいと思うことを許されるのでしょうか。他人に慣れてはいけなかった。他人と距離を置いて、ひっそりと暮らす。そのための「やすよ」だったのに。
 今にしてようやく思います。わたしはなんて愚かなことを真剣にやってきたのか。「こむかいほよ」だって、立派な名前じゃないですか。どこも、おかしいところなんて無かった。分別の付かない幼稚園児ならいざ知らず、小学校高学年生が、そんな程度で女の子をいじめたりするでしょうか。もしそうなっても、笑いたい人間には笑わせておけばよかったのです。わたしが気にしなければ、お兄ちゃんが誰かを傷付けることもないのですから。
 それが分かっても、今さら「こむかいやすよ」を止められない。どうしてこんな事になってしまったのでしょう。わたしの下らない臆病さから、身を守るために吐いた一つの嘘。六年近くも続けてようやく、その無意味さを知るなんて。

 《四冊目 578ページ》
 まだ大丈夫かもしれない。わたしの名前のことや、お兄ちゃんのことや、塩田くんのことを詳しく話そう。由花ちゃんや、美月ちゃん、そして高瀬くんに。そしてもし受け入れてくれたら、そのときこそ、わたしは「こむかいほよ」に戻ろう。はっきりと、好きな男の子に自分の気持ちを伝えられる女の子になろう。今からでも、遅くないかもしれない。
 そんなことを一学期の途中から幾度となく考えては、実行に移せないまま、夏休みも八月に突入してしまいました。何度も打ち明けようと挑戦しましたが、その度に、何者かの視線を感じて言葉が出なくなるのです。その何者かの正体は分かりません。
 おそらく、そこには実在しない幻覚でしょう。でもお兄ちゃんとはまた違います。お兄ちゃんは今までいつでも、遠くからじっと見詰める感じでした。でもその何者かは学校にいるとき、美月ちゃんや由花ちゃんと一緒にいるとき等に限って、わたしの三歩ほど後ろにくっついて現れるのです。どんな姿をしているか、確認することさえ出来ません。振り返ってもそこには何も見えません。でもその視線は、じりじりと罪の意識を焼き付けていきます。わたしには、幸せになる資格など無いのだと。幸せを求めようとするわたしを、見張っているのでしょう。

 今日は前からの約束通り、三人で海に行きました。美月ちゃんのビキニ、きれいだったな。由花ちゃんのセパレート、かわいかったな。だけどわたしは、美月ちゃんと選んだスカイブルーのワンピースを着て、照りつける太陽の下、冷たい海に足を浸して、二人との会話に笑いながら頷いていても、胸の内では罪悪感をくすぶらせていました。
 ああ、わたしにとって笑顔とは、仮面なのです。

 《五冊目 77ページ》
 今日は一段と耳鳴りがうるさくて、日常会話もうまく出来ませんでした。目眩が頻繁に起きて、廊下を人とぶつからずに歩くのも一苦労でした。全身が重くて、体育を休みました。
 分かっています。聞こえないのは、聞きたくないから。見えないのは、見たくないから。認めたくないからです。まさか、もしかして、ひょっとしたら。そんな些細な憶測が事実ではないと思いたいがためにこの身体は、他人の声を遮断するのでしょう。視界を濁らせるのでしょう。
 もしかしたら、美月ちゃんは、高瀬くんのことが好きなのかもしれない。会話の中で高瀬くんの名前がよく出てくるし、ふとしたときに高瀬くんの肩や肘に少し触ってもいる。そして何より、高瀬くんを見るときの、あの、猫みたいな目。うまく言えないけれど、そんな気がするのです。女の勘とでも言うのでしょうか。

 《五冊目 104ページ》
 朝が怖い。
 夜が怖い。
 他人が怖い。
 自分が怖い。
 由花ちゃんも、高瀬くんも、美月ちゃんも、大好きです。だけど距離を縮めるにつれ、自分の後ろ暗さが分かってしまうのです。光に近付くほど、影が大きくなるように。眩しすぎて、目を開けられないのです。それでいて、近付くことを止められません。わたしは嘘吐きで、ふしだらで、嫉妬深い女です。
 わたしは多くの矛盾を抱えながら、今日まで生き長らえてきました。だけど、もう、限界です。
 今日、家に帰ってから、血を吐きました。量は少なかったので、今のところは問題ないでしょう。ただ、時間の問題だと思います。このまま何も変えようとしなければ、きっと手遅れになります。

 《五冊目 106ページ》
 ようやく気付きました。わたしに必要だったのは、勇気です。
高瀬くんに想いを伝える勇気。わたしはもう、お兄ちゃんとしか喋れなかった小学生ではありません。自分の意志で好きになった男の子に、伝える言葉はあります。
 お兄ちゃんに立ち向かう勇気。お兄ちゃんが高瀬くんを傷付けようとしたら、身体を張ってでも止めます。もしかしたらわたしが殴られるかもしれませんが、この胸の痛みに比べれば、何を恐れることがありますか。
 由花ちゃんや美月ちゃんに打ち明ける勇気。塩田くんのときと違って、わたしには友達がいます。一時期は由花ちゃんとお兄ちゃんが裏で繋がっているのではないかと疑ったこともあるけれど、そんなものは可能性が限りなく低い、わたしの被害妄想です。信じます。美月ちゃんとは恋敵になるかもしれないけれど、相手が美月ちゃんだからこそ、正々堂々としたいのです。
 この結論へ辿り着くまでに、六年以上もの時間がかかりました。
 出来ることなら、もう一度「こむかいほよ」に戻って、素直に笑いたい。

       

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