フロッピー・パーソナリティー
高瀬直太編 第8話「あぶらかだぶら」
気が付いたら外はとっぷり暮れていた。俺はどうやら寝てしまっていたらしい。椅子で眠ると背中が痛い。館内には蛍の光が流れている。
念のため時間を見るべく携帯を取り出すと、メールが六件も入っていた。しかもそれは全部利一からだ。内容は、小向の所在を確認したり身を案じたりするようなものばかり。ああ、暗くなる前に帰れとかなんとか言っていたな。よく見ると電話の着信履歴も沢山残っていた。妹を心配するのは分かるが、正直俺にはうっとうしい限り。っていうか俺、マナーモードとはいえ着信があっても気付かなかったとは、よほど深く眠っていたんだな。
ともあれ、あんまり利一をやきもきさせるのもわるいか。早く帰ってやろう。いずれにせよ今の俺の寝床は小向邸しかないわけだしな。だが、ちょっと寄り道もしていきたい。
図書館から見れば、高瀬直太の家と小向邸は大体同じ方向にある。ついでだから近くまで来たが……たった二日帰ってなかっただけで、こうも懐かしく見えるとは思わなかった。
俺が数日前まで何の意識も無く跨いでいた敷居が、今では高い存在になっていた。表札には紛れもなく《高瀬》の文字がある。本来の俺が帰るべき場所。しかし現時点で、俺がここに戻れる見込みは限りなく低い。この身体、小向にとって高瀬家は他人の家だ。
目を閉じてみる。目蓋の裏に、俺が十七年間暮らしていた家の中の様子が浮かび上がった。あんまり勉強のためには使っていなかった学習机。手垢が染み込んだ階段の手すり。親父の下らない冗談に、お袋の手料理。……やばいな。胸に込み上げてくるものがある。
「ちくしょう。こんなホームシック気味になるんだったら、ここに来るべきじゃなかったぜ」
わざと独りで軽口を叩いてみた。戻れるなら戻りたい。それに消息不明の小向だって、俺と同じく自分の家には帰っていないはずだ。
願わくは、全てを元通りに。小向の、そして俺の生活を元に戻す。そのためには俺が、この理不尽状況に陥った真相を突き止めなければならない。まるで探偵小説の主人公みたいな物言いだが、こうやって少しでもテンションを上げていかないと、この先やっていける自信が無いのだ。ゴールが目に見えない以上、モチベーションの維持は重要だからな。
さらに気合を入れるべく、俺は自分の頬を軽く二回叩いた。
「よし、充填完了!」
もう一度独り言を漏らしてから、決意新たに歩き出す。
今後の身の振り方を考えることに没頭して、うっかり通った街灯の少ない道。後ろから足音が近付いてきて、自分が何者かに付け狙われていると分かったときには既に遅かった。危機が迫る速さは一瞬だ。迫っている危険に気付いたときは、それに直面しているときだ。そんな簡単で当たり前のことを、俺は今日始めて実感した。
突然何者かに口を塞がれ、腕を掴まれた。相手の顔はよく見えないが、体格からして男だろう。辺りが暗い上に、男はショッカーみたいな覆面までしている。振り払おうにも力が足りない。抵抗すればするほど相手も力を強くするから、男の指が俺の手首に食い込んで痛い。空いた方の腕を振り回しても、ろくな打撃にはならない。ちくしょう、一対一なのにこれかよ。男と女って、こんなに筋力差があるものなのか?
三日前のお袋の言葉を思い出した。夜道を一人で歩いている若い女性が乱暴される。犯人はまだ捕まっていない。じゃあ、こいつがそうか? ……いや、愚問だな。こいつが例の暴行魔かどうかは問題じゃない。こいつが今まさに俺を襲おうとしている事実が問題なんだ。
冗談じゃねえ! 童貞捨てる前に、処女を奪われて堪るか!
可能な限り抗うべく、俺は自分の口を塞いでいる手に噛み付いた。痛がって手を離した男にざまーみろと思ったのも束の間、平手で頬を打ち倒された。おまけに腹をグーで二、三回殴られる。火花が見えて視界がぼやけた。さらに、胃液が逆流して口の中が苦い。こいつ、容許無しか? それとも、手加減してこの扱いか? いや、暴行魔に紳士的な扱いを要求しても無意味だな。
助けを呼ぼうとしても、情けないことに声が出ない。自分に対して振るわれた剥き出しの暴力、圧倒的な力の差を前にして心も身体も萎縮してしまう。さっきのボディーブローの効果もあって、足腰にも力が入らない。
男に半ば引き摺られながら、やや現実逃避的に思う。
俺には覚悟が足りなかったんじゃないだろうか。俺は小向の心を探すことを念頭に置いて動いてきた。俺と小向の置かれている状況が異常なのであれば、正常に戻そうとするのは当然だからな。だがもし小向の心が元に戻ったとき、身体に深い傷でもあったら、名誉に取れない汚れが付いていたら、俺は小向にどう申し開きすればいい? 小向として生活することを決心した以上、俺にはこいつの身体を守る義務と責任があったんだ。それなのに、細心の注意を払うことをしなかった。最大の配慮が出来なかった。女が独りで夜道を歩くのは危ないなんて誰でも分かることだったのに。ましてや俺は、最近物騒なことが起こっているって知っていたはずだろう!
男の荒い息が耳に届いて、我に返る。目の前には、車……? こんなものに連れ込まれたら完全にアウトだ。自分の不甲斐無さを嘆いている場合じゃない! 今こそ俺よ、男を見せろ! レイプ魔の暴力なんかに屈してなるものか! 振り絞れ! 何を? 知恵と勇気と気合と根性とその他諸々を!
「あ、あ……あぶらかだぶら! すったもんだのとっぴんしゃん!」
自分でも驚くほどの大声が出た。さっきまでの俺とは大違いだ。堰を切ったようとはまさにこんな感じだろう。違うか? しかも叫ぶと同時に全身の緊張が解け、平時以上の反応速度が戻った。さらに、敢えて訳の分からない文句を口走ることで相手の隙を誘うのにも成功。一瞬のチャンスを使って体勢を整え、男の鼻っ面を目かけて腕を振るう。
残念ながらこの大振り攻撃は外れたが、効果が無かったわけじゃない。戦う意思を見せることが重要だ。これで相手が諦める可能性が1%でも上がるのなら、意義はある。
「誰かあぁあ、助けてえぇぇえ!」
もちろんいつまでも正面切って戦えるわけでもない。だが誰かの協力が加われば、状況を打開出来る可能性が一気に高まる。パッと見で周りに民家は少ないが、望みを託そう。
男が少し後ずさりしているのが分かる。このまま続けるか、手を引くか、おそらく迷っているのだろう。これでいい。少しでも多く時間を稼ぐ。そうすればそれだけ、相手にとって都合が悪くなるはずだ。
ゴヌッ
……何だ? いきなりどうしたんだ? いきなり変な音がしたかと思ったら、目の前の男が呻き始めたぞ?
ズガッ
もう一度鈍い音。男は片手で頭を押さえ、膝を突いて地面に這いつくばっている。……そうか、誰かが助けに来てくれたのか。
「やあ保世、危ないところだったね」
穏やかな声と共に暗闇の中から現れたのは利一だ。よく見ると利一は右手に……短い棒みたいな物を持っている。
ゴギッ
「だから暗くなる前に帰りなさいって言ったじゃないか」
利一の台詞と台詞の間に、鈍器で男を殴打する音が自然に挟まれる。何だ、この違和感?
いや、違和感が無いことにこそ違和感を覚える。利一が棒で男の頭を殴る動作が自然過ぎるんだ。どういうわけか、妹を助けるために敵意を持って攻撃しているようには見えない。利一にとってそれが特別な行為であるとは感じられない。例えばドアの鍵を開けるように、例えば自販機に百円玉を入れるように、一切の躊躇いも迷いも無く利一は腕を振るった。
「これからは暗い道を一人で歩いていたらダメだよ。分かったかい?」
ボグッ
まただ。利一は男の前髪を掴み、こめかみを棒の先端で突きながらも、俺を視線で捉えている。しかも今気付いた、もう一つの違和感。俺に対して注意を促す利一の言葉の調子があまりにも穏やかだ。自分の妹が乱暴されそうになったまさにこの現場で、まるで道で転んで泣いている子供に向かって母親が「だから走っちゃダメって言ったじゃない」と諭すように語りかけている。
「……保世、聞いているかい?」
「あ、う、うん」
突然顔を近付けられ、思わす適当に返事をしてしまった。利一は相変わらず左手で男の髪を掴んでいる。そこで俺は奴が右手に持っている物が何なのかも知った。棒の先がくの字に折れ曲がっていて、二つに割れている。……バールだ。日本語で言う金テコ。日曜大工で釘を打ったり抜いたりするときに使うあれだ。何だってこいつはこんな物を持っている? いや確かにホームセンターとかで簡単に買えるだろうし、家に置いてあってもなんら不思議じゃないのは分かるぜ。
だが何故、今それを持っているんだ? どうして帰りの遅くなった妹を探すのにバールが必要?
「それじゃ、帰ろうか」
利一は何事も無かったかのような、今朝「おはよう」と挨拶したときと全く同じ笑顔を俺に向けてきた。右手にバール、左手に男を掴んだままだ。
そして俺はというと、短い間に肉体的にも精神的にも多くの衝撃を受けたせいか、頭の中がごちゃごちゃになっている。ただただ車を背にして立ち尽くしていた。
「保世、どうしたんだい? さあ、帰ろう」
「え……あ、ぅ……」
「…………? ああ、これ?」
利一は俺の視線の先にある男を軽々と引き上げた。間近で見ると、男の頭からは血が漏れている。ただ瞬きをしているだけで、もう抵抗する気配が無い。しかし利一はバールの柄を構え、殺虫剤で弱ったゴキブリにでも対するような口振りで言い放った。
「うん、まだ生きている。潰さないとね」
背筋が凍るとは使い古された陳腐な表現だが、そうとしか言いようのない感覚が俺を襲う。
瞬間の後に、利一は男の目を突き刺そうとした。男が反射的に身をよじったから、眉間に当たるだけで済んだが、奴は攻撃を加え続ける。今や相手が反撃しようともしていないのは明らかだし、ましてこれ以上俺に何も出来ないのは分かりきっているのに、執拗に、執拗に、何度も、何度も、何度も……。
いや、ぼーっと見ている場合か、俺! 俺、ぼーっと見ている場合か! 利一は明らかにやり過ぎだ。過剰防衛だ。いくら相手が相手だからって、そこまでしていいはずないだろ! 足の震えを止めろ! 声を出せ!
俺は自分に渇を入れ、利一の右腕を取って、男との間に割って入った。
「保世?」
「こ、これ以上、殴ったら、この人、死んじゃう、よ」
「うん、そうだね」
そんな当然のことは知っていると言わんばかりの調子で、利一はバールを持っている腕を振り上げようとした。それを動かせないように俺が力を込めると、奴は表情を変えずに首をかしげた。
「保世、どかないと危ないよ」
利一の言葉は、まるで日曜大工で金槌を振るっている父親が、近付いてきた子供に「危ないから向こうに行ってなさい」と諭すかのようだ。
ついさっきの、背筋の凍る感覚が再び襲ってきた。そしてもう頭で考えるより先に直感する。利一はきっと、何故俺が止めに入ったのかを理解出来ていない。大事な妹である小向保世を傷付けようとしたものを「潰す」ことは奴にとってごく自然なことであり、必然のことなんだ。それこそ出ている釘が危ないからと言ってバールで打ったり抜いたりするのと同じく。だから、つまり、俺がこの手を離したらこの暴行魔は死ぬ!
……ちくしょう、俺だって小向を襲った男を助けるのは気が進まないが、利一の好きにさせるわけにはいかない。「死ね」とか「殺す」とかを怒りに飽かせて口に出す奴は巷に溢れているが、実行に移す奴はまずいない。だが恐らく、利一はそれが出来る人間だ。しかもあくまで「殺す」ではなく「潰す」。そこに歯止めは効かない。
「だ、ダメだ、よ」
「…………」
制止の言葉をかけたが、利一は無言で俺の手を払った。まるで俺の声が届いていないかのようだ。
「おい、あんた何やってんだ!」
利一の攻撃が再び男を襲う寸でのところで、偶然通りかかった人間が声を荒げた。そいつはバールを持った利一を恐れず足早に近付き、怪我をしている男を引き離す。
俺は我が目を疑った。そこにいたのは高瀬直太だ。
「どういう事情があるか知らんが、そこまでにしとけよ。退かないなら警察呼ぶぜ。……小向?」
ガッ
高瀬直太はしばし利一と睨み合ってから、俺がいることに気付いて目を向けた。その瞬時に利一は、攻撃目標を変更。俺が注意を促す言葉を発するより先に、高瀬直太は不意を突かれて目蓋に重い一撃を食らった。反射的に俺も目を瞑ってしまう。
「てめえ、いきなり何しやがる!」
堪らずよろめき、左目を押さえながらも、高瀬直太は踏ん張って気迫を見せる。対して利一は眉一つ動かさない。
「きみは誰? この男の仲間かい?」
「俺は通りすがりの高校生だよ。っていうか、そういう確認は殴る前にやれ! 目が潰れたらどうするつもりだ!」
間違いなく利一は潰す気だった。何故なら奴にとって高瀬直太は、妹を傷付けようとした男をかばう邪魔者だから。
「だったらどいてくれるかな? きみがこれに味方するつもりなら、きみも潰すよ」
利一は気を失って倒れている男と高瀬直太を交互に見た。
「それは無理だな。言ったろ? どんな事情があるか知らんがそこまでだって。こりゃどう見たってやり過ぎだ。これ以上殴ったら死ぬぞ。そのくらい素人でも分かる」
高瀬直太も、気絶している男と利一を交互に見た。一触即発。このままだと高瀬直太の身まで危ない。俺は喧嘩慣れしていないから、正面から戦ったら負けるのは高瀬直太の方だ。まして利一には武器がある。
俺は覚悟を決めると、利一を横から抱きしめるようにして止めた。
「その人は、違う、よ。悪い、人じゃ、ない、から」
「そうなのかい? ならどうして、彼は僕の邪魔をするのかな?」
「そ、それは……」
この期に及んで的確な説明句が思い浮かばない。多分何を言っても無駄だからだ。俺と利一の間には、思考回路に越え難い一線がある。
いざとなると具体的な手段が考えつかずに硬直していると、横からライトを当てられた。そちらへ顔を向けると、ぺぺぺぺぺ、という気の抜けた排気音と共に一台の小さなバイクが近付いてくるのが分かった。
今度は誰だ? 普通に考えたらここでさらに顔見知りが加わる方が確率は低いが、何故かその人物が俺の知っている相手だとも直感した。そして、今日の直感はよく当る。
「これは珍しい組み合わせ。保世と保世のお兄さん。それに高瀬と……初めて見る御仁」
ヘルメットを取ってバイクから降り、この場にいる顔ぶれを一通り見定めたのは七後だ。
「やあ由花さん、きみも今帰りかい? 夜道で女の子一人は危ないよ」
利一は妹の友達に挨拶するように話しかけた。……いや、ようにも何も七後は妹の友達そのものなのだが、今この状況がさも日常の一場面であるかの如く振舞ったのだ。もちろん利一の右手には、散々男を殴った凶器が握られたままだ。
「私はおじいちゃんの代理で荷物を届けた帰り。配達先で碁を打っていたら遅くなった」
ああ、七後のおじいさんはぎっくり腰だっけ。それにしても碁とはまた渋い趣味……なんて感心している場合か! 七後もそこで普通に返すなよ!
すると高瀬直太が利一を指差しながら、七後に顔を近付けて何かを訊ねた。声が小さくてよく聞き取れない。七後はそれに大きく一回首を縦に振って答える。高瀬直太はバツが悪そうな顔になって頭を掻いた。
「保世、今は何も言わなくてもいい」
そして七後は俺にそう言うと、気絶している男の顔を屈んでじっくりと観察した。その後で車を念入りに調べてから利一に向き直る。
「大体の事情は察した。お兄さんの言い分も理解は出来る。でもこの場は私に任せて退いてほしい。あなたも、これ以上保世を面倒事に巻き込みたくはないはず」
「……そうだね。ここは由花さんの言う通りにするよ。さ、帰ろう」
七後の提案には、小向のため、というニュアンスが含まれていた。利一はそれを汲んだのだろう。そして了承するなり、俺の手首を掴んで早足で歩き始めた。俺は首だけ回して高瀬直太と七後を見ていたが、その姿はすぐに夜の闇に溶けてしまった。
「さっきの高校生は保世の知り合いかい?」
リビングに入って開口一番、利一が訊ねてきたのはこれだ。さっきの高校生、とは多分高瀬直太のことだろう。俺は無言で頷いた。
「彼とはどういう関係なのかな?」
「ど、ど、どうって……何も、ないよ。ただの……クラス、メイト」
「本当かい? 本当に『ただのクラスメイト』なんだね? 嘘ではないね?」
「嘘じゃ、ないよ」
実際にそうなのだから、それ以外に答えようがない。
「彼の名前は?」
「た、高瀬、直太……!」
言ってから失言だと気付いた。利一の目つきが昨日と同じ、梟の眼になっている。その視線の先に誰を捉えている? ……こいつは高瀬直太のことを聞いてどうするつもりだ?
注意、警戒、危機。
心臓が速く脈打って警鐘を鳴らす。
「お、お風呂、沸いてる、よね? 入って、くる」
ここは直感に従おう。これ以上こいつに、高瀬直太のことを明らかにするわけにはいかない。この場は逃げて、何を聞かれても知らぬ存ぜぬで通そう。
「その高瀬君について詳しく聞きたいな」
しかし利一は再び俺の腕を掴み、離そうとしない。止めろ。その梟みたいな眼を向けないでくれ。
「よく、知らない」
「本当だろうね?」
「ほ、本当、だよ」
嘘だ。高瀬直太のことなら、地球上の誰より俺がよく知っている。
「どうして保世は僕から目を逸らすのかな?」
見られるわけがない。俺の目を通して、高瀬直太の全てを見透かされるような気さえするからだ。
「お、お、『お兄ちゃん』には、か、関係ない、でしょ」
「……そうか、それもそうだね……」
利一は声を低くし、ゆっくり手を離した。納得してくれたのか? ともかく俺はこの隙にリビングから駆け出る。
脱衣所で鏡を見ても、それが何を意味しているのか理解が遅れた。頬に赤い点がいくつも付いている。何かと思って手の甲で拭くと、それは伸びて広がった。よく見ると、手首にも赤い膜のようなものがベタついている。
鉄の臭い。
瞬間的に呼吸が止まった。
「な、ひっ、何だよ。うっく、これ……。ひっく、あの男の? うっ、なんで……」
答えが明らかなことを自問する。血が、跳ねたんだ。それに、利一に掴まれたから……。
「うっく、くっ、うっ、ぅむ……」
手が震えだす。しゃっくりが止まらない。しかも抑えようとして胸に手を当てるなり、腹の底から不快感が込み上げてきた。止まらない。止められない。白い陶器の洗面台に、胃の中の物をぶちまける。俺はどうしてしまったんだ? このくらいのショックで参るヤワな男じゃなかったはずだろ?
重たい頭を上げたとき、鏡に映る小向の顔と目が合った。
淀んだ瞳。
目が覚めると俺はベッドの上にいた。部屋の中は真っ暗で、カーテンの向こうからも光は届いてこない。
不思議なことに、あれからどうなったのかあまり憶えていなかった。汚れを落とすために蛇口を捻ったところまでは記憶しているのだが、その後で具体的に何をしたのやら。布団の中で動いてみると、一応パジャマに着替えてあるのが分かる。自分でも無意識のうちに、寝る前に最低限の身支度はしたらしい。
それはそれとして枕元の目覚まし時計を手に取ると、ぼんやり蛍光する針と文字盤は三時を示している。午後三時なわけはないから午前三時、まだ夜明け前だな。起きるには早過ぎる。俺はもう一眠りするべく寝返りを打った。
ガチャッ
背中越しにドアの開く音がした。何者かが部屋に入り込んでくる。何者か、なんてぼかす必要もないか。利一以外にあり得ない。
……いや、待て。ちょっと待て。午前三時に兄が妹の部屋に忍び込むなんてことが普通にあり得るのか? 俺の常識ではまずあり得ない。
あり得ない。あり得ない。あり得ない。
俺は布団を撥ねて起きた。
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
暗闇の中、利一の顔だけが携帯の液晶画面の灯りに照らされている。その携帯は俺の……じゃなくて小向の!
「な、何、してる、の?」
「ん? この中に、高瀬君の情報が入っていないかと思ってね」
これまた利一は悪びれもせず、動揺もしない。ただ正直に自分の目的を語った。
「でも、見たところ無いみたいだね。ひとまず安心したよ」
はっきりとは分からないが、利一は笑ったのだろう。断言こそ出来ないが、そんな気がする。
去り際に「おやすみ」と言って利一はドアを閉めた。一人取り残されて、改めて呆然とする。真夜中に、妹の部屋へ堂々と立ち入り、迷い無く携帯電話を盗み見る。どう考えても異常だ。普通じゃない。……いや、利一が尋常でないのは一昨日の段階で薄々感付いていた。ただ問題は……。
「……小向……」
俺は一言、この身体の名を呟いた。
小向保世。お前にとってはこれが普通だったのか? あの利一が、お前の大好きな「お兄ちゃん」なのか? 俺にはお前がよく分からない。お前の普通と俺の普通はどこまで重なっている?