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桜散る季節。
オフィス街にある喫茶店の窓際席に青年が一人。真新しいスーツで身を包んだ彼は黒い携帯を手にし、液晶画面と、国道を挟んで向かいにあるビルとを交互に何度も確認していた。頼んだアイスラテには全く口を付けていない。
事情を知らぬ者の目には、就職活動中の学生が時間潰しでもしているように映るかもしれない。
実際、彼が学生の身分を有していることは事実であり、ひどく時間を気にしているのも正解であり、またそのビルに用件があるのも間違いではなかった。
彼の目的は、ビルの爆破である。
青年は長野県の農家に産まれ、深い山と澄んだ川、豊かな土に親しんで育った。
小中学校では動植物の生態について書かれた本を読み漁り、高校生の時分に地球温暖化やら自然破壊やらを扱ったテレビ特番を観て大きく衝撃を受けた。
上京して大学に入り『愛・地球環境保護クラブ』の門を叩くと、人間が快適な生活を追い求めた結果として地球が死に瀕していると念入りに教え込まれた。
そして今や、物言わぬ自然を食い物にして暴利を貪る石油会社へ天罰を下すことに、何の疑問も抱かぬ男となっていた。
同志からの指示はただ一つ。所定の時刻になり次第、仕掛けておいた爆弾を起爆させよ。それ以外のことは殆ど知らされていない。それでも彼は、自分の行いが正義であると、地球を守ることに繋がるのだと信じて陶酔していた。
失敗は許されない。
「なぁるほど。その携帯電話を使って、ドッカーンってやるのね」
「……っ!」
緊張のせいで己の心音さえうるさく感じていた青年の前に、いつの間にか黒衣の女が相席していた。
いつの間にか。そう、足音も気配も無く、さもそこにいるのが当然のような態度で女は座っていたのだ。青年はいつでも逃げ出せるように、椅子を半歩分引いた。正体不明の人間と接触した際の第一優先事項は、逃走経路の確保。保護クラブの先輩からはそう教えられている。
「やぁね。そんなに怖がらないでよ」
青年は先の台詞を思い出し、警戒レベルを一段高めた。どうしてこの女は、起爆装置のことを知っているのだろう。警察に嗅ぎつけられたか、それとも他サークルからの回し者だろうか。
「あんたは、何者なんだ……?」
「私は別に、おまわりさんとか、スパイとかそんな、あなたが思っているような人間じゃないわ」
女は不適に微笑む。青年は身の危険を感じ、一も二もなく駆け出そうとした。立ち上がり踵を返す。
「そんなに急がなくってもいいじゃない。ちょっとくらい、暇つぶしに付き合ってちょうだい」
青年はその場から離れることが出来なかった。退路を阻むように、巨大な赤眼の狼が居座っていたからである。
逆らってはいけない。
どうして喫茶店の中に狼がいるのか。店員は何も感じないのか。そういった疑問をすっ飛ばして、この女に抵抗してはならないと本能が告げる。
「うん、いい子いい子」
渋々座りなおした青年は、黒衣の女にナデナデされた。心地良いような、懐かしいような、むずがゆいような気持ち。
「先に言っておくわね。実は私、きみたちに全く興味がありませぇん」
「だったらわざわざ……」
「でもね、あるところから頼まれたの。きみが何をしようとしているのか調べてくれって」
「興信所の人間か?」
「うぅん、私は探偵でもないわよ。さっきも言ったけど、ただの暇つぶし」
この女が敵か味方か判じかねていた。向こうの意図は全く読めないのに、こちらの考えはあまねく覗かれているのだ。
「まぁ、大体の察しは付くんだけどね。それでも一応、きみ自身の口から聞いておこうと思ってさ。ってなわけで、青臭い主張をガーンとお姉さんにぶつけてごらんなさいな。聞くだけ聞いてあげるから」
青年は腹を括った。何者か分からないのであれば、いっそ味方に取り込んでしまえばよいだけのことだ。
「……この地球は今、死にかけているんだ」
彼は高校時代に弁論部で鍛えた話術を活かし、語り始めた。
人類が狩猟採集生活から農耕生活に転じ、人口を増やし始めたこと。その結果生まれた貧富の差が戦争を引き起こし、技術を発展させたこと。化石燃料という有限の遺産に手を付けてから、急速に森林伐採が進んだこと。そして現在は人口増加と環境破壊に歯止めが効かなくなっていること。青年はそれらを順々に説明していった。
砂漠の拡大で引き起こされる温室効果ガスの増加と、そこから派生する海面温度の上昇や生態分布の変化、異常気象。海洋汚染による魚介類の有毒化。オゾン層が破壊されたことで地表に届く有害な太陽光。その他諸々、記憶にある限りの環境問題を淀みなくデータ混じりに解説した。
女は相槌を打ったり、大げさに頷いたり、青年のアイスラテを盗み飲みしたりしながら耳を傾けていた。
青年は久々の弁論で熱くなり、ハイに達してすらいた。
「……で、それがどうかしたの?」
自分の仕事をやり切ったと言わんばかりに青年が息を切らせたところで、女は軽く一蹴した。
「どうかって……あんたは俺の話を聞いてなかったのか!」
「ちゃんと聞いてたわよぉ。それで、何が言いたかったの?」
女はクワァっと大あくびをする。
「もういい! 時間を無駄にした!」
何を話しても無駄だった。最初からこの女は、聞く耳など持たなかったのだ。そう思い至った青年は怒りに飽かせてテーブルを叩き、席を立った。
「あらぁ? まだ帰っていいなんて言ってないわよぉ」
青年と狼の鼻同士がぶつかる。
「きみが何をしようとしてたのか、肝心のところを聞いてないもの」
青年は憤慨や恐怖以上に、困惑した。女の声が、狼からも聞こえたような気がしたからだ。
「自然が傷付けられてる? そのおかげで異変が起きてる? だから、きみはどうしたいわけぇ?」
「この地球を守るんだ。そのためには、限りある資源を私欲のために掘り散らかしている奴らを裁かなきゃいけない。無関係な人を巻き込むかもしれないけど、少しの犠牲は仕方ないんだよ」
勢いで狼を突破するのは無理だと悟り、平静を欠いた青年の言葉は、本来であれば決して口外してはならない内容にまで触れていた。ちなみに、既に予定の時刻が過ぎていることなど頭の隅に追いやられている。
「そう? だったら、あそこで働いてる人を助けるために、今この場できみを殺しても構わないわよね。ちょっとの犠牲は仕方ないものね」
女はずいっと青年の目を覗き込んできた。彼女は悪戯っぽく頬を緩ませる。
「うふふ、冗談よ。言い分は理解できたわ。でもね、きみたち、何か勘違いしてるわ」
「か、勘違い?」
「地球は別に、そんなこと望んでないわよ」
女の声がわずかに低くなり、威を含んだ。
「森が無くなろうが、海が汚れようが、地球は死なない。例え『地表』から全ての生物が死に絶えても、『地球』という星は変わらず生き続けるわ」
「それは……詭弁だ。問題をすり替えようとしている」
「同じことでしょ。どんなに環境が変わったって、しぶとく生き残ったものがまた殖えるわよ」
「だからって、今ある絶妙な生態バランスを、人間の都合で勝手に変えることは許されない」
「じゃあ、私が許しちゃいます」
「何を言っているんだ? あんたにそんな権利があるのか?」
「個人的には、今の状態より、もっと熱いのがドロドロしてたときのほうが好きだったのよね。月が生まれる前の頃かな」
「質問に答えろよ」
「逆に訊くけど、きみには地球を守る権利ってものがあるの?」
「質問に質問で返すな! これは、万物の霊長として義務だ。俺たち人間は自然を、他の動植物を守らなければいけない。ここまで環境破壊を進めた責任があるんだ。母なる地球が無残に犯され続けているのを、黙って見過ごしてはいけないんだよ!」
青年が声を荒げると、女は笑った。それまでの微笑とは違い、腹を抱えて身をよじらせている。
「あ、あんまり面白いこと言わないでちょうだい」
「面白いことは言ってない。俺は本気だ」
「そうなの? だったらなおさら……」
女は笑い過ぎで目に溜まった涙を軽く拭った。
そして直後、口を開いたのは脇に構える狼だった。
「身の程をわきまえろよ、小僧」
声質は女のものと酷似していたが、威圧感が比べ物にならなかった。少しでも目を逸らせば丸呑みにされそうだと感じられた。
「私は、貴様らに心配されるほど落ちぶれてはおらぬ。守ってもらわねば生き長らえぬような脆弱な存在だと考えておる時点で論外だと言うに、あまつさえそれこそが人間の義務だと抜かすのはどの口か。元来貴様らが何をしようと関知するところではないが、その言い訳に私の名を持ち出すな。もれなく生物は、己が種のためにのみ生きてきた。貴様が守るべきは貴様ら自身だ。そのために周りを保護せねばならぬと言うなら、そうすればよい。それを地球のためだの自然のためだのと、美辞麗句を持ち出すから本質を外れるのだ。母なる地球? 苦心して貴様らを産み育てた覚えは欠片も無い。勝手に生まれ殖えただけのことだろう。破壊を進めた責任? たかだかホモサピエンス如きの所業など、シアノバクテリアの足元にも及ばぬわ。自分たちが特別な種だとでも思うておるのか。自惚れるのも大概にせい。どれだけ多く殖え、我が物顔で広くはびころうと、所詮は塵芥の一掴みに過ぎぬと知れ!」
狼に喝された青年は、しばらく呆然としていた。
もし女と狼が、青年の想像した通りの存在であるならば、『愛・地球環境保護クラブ』の名を掲げる身としては絶対に口ごたえをしてはならない。頭を垂れ、平伏すべき相手なのだ。故に、敢えて彼女らの素性について詳しく追究はするまいと判断した。
「だからって、環境問題を放っておけば、人間は自滅してしまうよ。人類は今、自分の首を絞めている状態なんだ」
「でしょうねぇ」
女はのんびりとアイスラテを飲み干す。
「じゃあどうすればいい! 人類はこのまま滅びるべきだとでも言うのか!」
「そんなこと、口が裂けても言わないわよぉ。今の生活を捨てられないってのなら、そうやって死んでいけばいいし。変わらなきゃいけないってのなら、自分を変えて生きていけばいいのよ。もしか、また別の道を探すかね。でもそれは、私が口出しすることじゃないわ」
けろりと言いたいことだけ言った女は、また大きなあくびをして席を立った。
「帰るのか?」
「そうよ。きみたちが生きようが、死のうが、殺し合おうが、どうだっていいもの。暇つぶしはおしまい」
狼を伴って店を出ようとした女は、ふと立ち止まり、小走りで青年のもとへ戻る。
「あ、そうそう。忘れるところだったわ。届け物よ。私に頼みごとをしてきたところからね。まぁ、どうしてもって言われたから」
そして彼女は、結んでいた右手を、青年の眼前で開いてみせた。
女と狼が姿を消した後、青年は彼女らの言葉を何度も反芻していた。現実の出来事だったかどうかも疑わしいが、少なくとも、アイスラテのグラスは空になっている。
「まだ、間に合うかな」
考えに考えた末、彼はポケットから白い携帯を取り出すと、震える手でボタンを押した。
「……もしもし、母ちゃん? 俺、明日そっちに帰るよ」
黒衣の女からの届け物。それは、長野の土と森の匂い。
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