☆☆☆
『臨死桜花 作:顎男』
「いやいや無理だって。いくら私の健脚を持ってしてもこの谷を飛び越えるのは無理無理無理」
私の前にはぽっかりと崖が口を開けていた。
底は川になっている。かすかにざァ……ざァ……と水のせせらぎが聞こえてくる。
それほど急流ではないようで、川面は鏡のように空と桜を反射している。
――桜?
そこで私は遅ればせながら、崖の両岸に満開の桜の木がどこどこまでも、地平線の向こうまでも続いていることに気がついた。
「やべぇ。これは国宝レベル。うっわーキレイだなあ」
少し冷たい風が吹くと、花びらがはらはらと舞い落ちる。
ステップを踏むようにジグザグに川へと落ちていくそれらに、私はうっとりと見とれていた。
「この世のものとは思えないってこういう時に使うんだね」
(そうだよ――)
え? と私は辺りを見回した。
誰もいない。どこどこまでも桜の木が続いているだけだ。
桃色の世界。
(こっちこっち――)
まさか、と思って崖から下を四つんばいになって見下ろすと、一隻の小舟が浮いており、その船頭らしき小柄な人が手を振っていた。思わず私も振り返す。
(いまそっちにいくよ――)
「嘘ォ……」
なんと私の眼下で、川面がぐんぐんと上がってきて、船頭が少年であること、その顔色が病的なまでに青白いことまで分かるようになった。
「自然のエレベーターじゃん。なんてエコなの」
とうとう私の立つ地面まで水位を上げた川と、それに合わせて登ってきた舟を見て私は呆然とした。
船頭の少年はにっこりと微笑んだ。
私も笑い返したつもりだけど、きっと引きつったカエルみたいな顔になっていただろう。
「やあ、こんにちは。迎えに来たよ」と船頭。
「ども。――迎えって?」
小学五年生にして求婚されるとは私もビックリである。
「違うよ」と船頭は、口にしていない私の心を読み取った。
「お迎えに……ってことさ」
あ、そうだった。
私、死んだんだった。
「三途の川があまりにも綺麗で驚かせちゃったかな」と船頭はまるで自分が褒められたかのように照れていた。
「うん、綺麗だったのは認める、けど。
あたし、死にたくない」
「みんなそう言うんだよ――」と船頭は、作り物のように微動だにしない笑顔を浮かべた。
「でも、仕方ない。死んでしまったんだから。
それに、向こうは綺麗だよ。見てごらん。あの桜の中に飛び込めるなんて、現世じゃ体験できないだろう」
「ねえ、絶対にあたしを連れてくつもり?」
船頭は、ぐいっと顔を私の鼻先に近づけた。視界一杯が船頭の顔で埋め尽くされる。
「もちろん。それが僕の仕事だ」
「どうしても?」
「どうしても」
「じゃあ、仕方ない」
私は、くるっと回転して、エイヤっと船頭の首に上段蹴りを叩き込んだ。
不意を突かれた船頭はもんどりうって小舟から川へ転がり落ち、ばしゃばしゃと水しぶきを上げている。
「私を好きにしようなんざ、十年早いんだぜ、ベイベ」
私の健脚を持ってすれば、崖を飛び越えることはできなくとも、三途の川の船頭をぶちのめして現世へ帰るぐらい余裕なのである。
後に弟にこの話をしてやると、
「そういや姉ちゃんが落ちて死にかけた木って、桜の木だったね」
と言った。その晩、トイレに行けなかった。
★★★